第四節 新しい命令
31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われる、「今や人の子は栄光を受けた。また、神も人の子によって栄光をお受けになった。 32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐに栄光をお与えになる。
33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたたちと一緒にいる。あなたたちはわたしを探すことになる。わたしが行くところにあなたたちは来ることができないと、以前ユダヤ人たちに言ったように、今わたしはあなたたちにも言う。 34 わたしはあなたたちに新しい命令を与える。互いに愛しなさい。わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛しなさい。 35 あなたたちが互いの間に愛を保つならば、すべての人がそのことによって、あなたたちがわたしの弟子であることを知るようになる」。
36 シモン・ペトロがイエスに言う、「主よ、どこへ行かれるのですか」。イエスは答えられた、「わたしが行くところに、あなたは今はついてくることができない。しかし、後でついてくることになる」。 37 ペトロがイエスに言う、「主よ、なぜわたしは今あなたについて行くことができないのですか。わたしはあなたのために命を捨てます」。 38 イエスは答えられる、「わたしのために命を捨てるのか。アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」。
栄光の時
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われる、「今や人の子は栄光を受けた。また、神も人の子によって栄光をお受けになった」。(三一節)
ユダは出て行きました。ユダが行動を起こした以上、もう後戻りや変更はありえません。イエスの身に起こると定められていることは、起こり始めたのです。イエスがこれまで「わたしの時」と語ってこられたその時が始まったのです。このことを「今や」の一語で指し、始まった出来事の全体をすでに起こったものとして、「今や人の子は栄光を受けた」と語り出されます。ヨハネ福音書における「人の子」について詳しくは、『ヨハネ福音書講解T』118頁以下の「天から降った人の子」と「上げられる人の子」を参照してください。
「栄光を受けた」の動詞は過去形です。これから起ころうとしている十字架と復活の出来事を、イエスはすでに起こった出来事として語り、「今や人の子は栄光を受けた」と語り出されます。イエスの十字架と復活の出来事こそ、人の子が「栄光を受ける」ことであると、この福音書は繰り返し語ってきました(七・三九、一二・一六、一二・二三)。今やそのことが起こったのです。「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐに栄光をお与えになる」。(三二節)
前節ではこれからイエスの身に起こることが全体として人の子が栄光を受け、同時に神が栄光をお受けになる出来事として語られましたが、ここではそれが、人の子が神に栄光を帰すためになされる働きと、それに応えて神が人の子に栄光をお与えになる働きの二つの面に分けて語られます。人の子イエスが十字架の死に至るまで神の御旨に従うことによって神の栄光を現されたので、神はイエスを死者の中から起こし、高く上げて栄光の座につかせるであろうと語られます。これは、パウロがフィリピ書(二・六〜一一)で引用している初期のキリスト賛歌のヨハネ的表現と言えます。この節前半部の「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば」という部分を欠いている写本があります。この場合は、この部分が直前(三一節末尾)の文と同じであるので、写字生がこの部分を飛ばした可能性が高いと考えられます。底本はこの部分を括弧に入れて保持しています。
新しい命令
「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたたちと一緒にいる。あなたたちはわたしを探すことになる。わたしが行くところにあなたたちは来ることができないと、以前ユダヤ人たちに言ったように、今わたしはあなたたちにも言う」。(三三節)
イエスは弟子たちに「子たちよ」と呼びかけられます。この呼びかけは、ラビが弟子たちに呼びかけるときによく用いた呼び方です。ヨハネ文書において、福音書ではここだけですが、手紙にはよく用いられています(七回)。著者が普段集会で用いている呼びかけが、思わずここに出たのでしょうか。受難予告の原型については、拙著『マルコ福音書講解T』378頁「謎の言葉」を参照してください。
「わたしはあなたたちに新しい命令を与える。互いに愛しなさい。わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛しなさい」。(三四節)
世を去ろうとしている親が残して行く子供たちに遺言するように、弟子たちを後に残して世を去ろうとしておられるイエスは、残される弟子たちが守るべき「新しい命令」をお与えになります。「命令」というと強圧的な感じを与えますが、ここでは親の「いいつけ」というくらいの意味です。「命令」と訳した《エントレー》という語は、「戒め」とか「掟」とも訳されています。しかし、この語は父から派遣されるさいの「定め」とか「命令」(一〇・一八、一二・四九〜五〇)、イエスの居所を知る者は通報せよとの祭司長たちの「命令」(一一・五七)にも用いられているので、「戒め・掟」はあまり適切でないようです。この用語は、ヨハネ福音書では13〜15章に5回出てくるだけですが、ヨハネの第一の手紙では10回用いられています。
この命令は「新しい命令」と言われています。それが「新しい」のは、これまでユダヤ人として(弟子たちはみなユダヤ人です)聞いてきた「昔の人の教え」とか「先祖たちの言い伝え」などと違う、新しい時代をもたらされた復活者イエスの命令だという意味です。マタイはそれを、「昔の人たちはこう命じられている。しかし、わたしは言う」という形で表現しました。ヨハネはそれを「新しい命令」と直裁に表現します。「あなたたちが互いの間に愛を保つならば、すべての人がそのことによって、あなたたちがわたしの弟子であることを知るようになる」。(三五節)
イエスの愛のような無条件絶対の愛によって形成される共同体が、イエスの弟子の共同体、すなわち「イエスの民」です。この民を識別するための標識は、この絶対愛だけです。他に何も求められていないことが意義深いです。普通宗教的な共同体は、何らかの祭儀に共に与ることによって識別されます。たとえば、キリスト教会は洗礼を受け聖餐に与っている人たちの共同体だとされます。しかし、洗礼を受け聖餐に与っている人たちが、お互いの間にこのような質の愛を保っていないならば、それは復活者イエスに属する民ではないということになります。逆に、洗礼とか聖餐というような祭儀に与っていなくても、極端な場合他の宗教祭儀に与っている人々でも、もしもその間にこの質の愛が保持されている場合があれば、その人たちはイエスの弟子であると言えることになります。そうなると、イエスの弟子の共同体は、もはや宗教的な祭儀共同体(教会とか教団)ではなく、新しい人間性に生きる者たちの幅広い(諸宗教を横断する)交わり(コイノニア)ということになります。三六節のペトロの質問は三三節に自然に続きます。それでその間に「新しい命令」(三四〜三五節)を入れたのは、後の編集者ではないかという推定がなされています。たしかにこの部分は、内容だけでなく用語と文体において「ヨハネの第一の手紙」に類似しています。ヨハネ福音書が複雑な編集過程を経て成立していることを考慮しますと、第一の手紙の著者が挿入したという推定も可能です。しかし、編集者は福音書の著者と同じ信仰と思想の枠の中にいるはずですから、たとえ別人でも現形の福音書を著者の使信として受け取ることができます。
人間の決意の無力
シモン・ペトロがイエスに言う、「主よ、どこへ行かれるのですか」。イエスは答えられた、「わたしが行くところに、あなたは今はついてくることができない。しかし、後でついてくることになる」。(三六節)
イエスが「子たちよ」と呼びかけ、去って行くことを語られたので、驚いたシモン・ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と訊ねます。この場面での「主よ」は、「子たちよ」という師の呼びかけに対する弟子の師への呼びかけです。ペトロの質問「どこへ行かれるのですか」のラテン語訳が「クオ・ヴァディス」です。ネロの迫害の時、ローマを去ろうとしたペトロにキリストが現れ、「主よ、どこへ行かれるのですか」というペトロの問いに、キリストが「お前が見捨てるので、わたしがローマへ行く」と答えられたので、ペトロはローマに引き返して殉教した、という物語が伝えられています。ノーベル文学賞を受けたシエンキヴィッチのこの題名の小説が、ハリウッドのスペクタクル映画「クオ・ヴァディス」となり、このラテン語が有名になりました。
イエスはペトロに、「わたしが行くところに、あなたは今はついてくることができない」と言われます。先のユダヤ人に対する言葉(三三節)では「来ることができない」と言われていましたが、ここでは弟子として「従う」という意味で、「ついてくる」という別の動詞が用いられています。まだ聖霊を受けていない今は、自分の決意とか力では、イエスが行かれるところに従って行くことはできません。そのことが続く対話で明らかにされます。ペトロがイエスに言う、「主よ、なぜわたしは今あなたについて行くことができないのですか。わたしはあなたのために命を捨てます」。(三七節)
ペトロは、イエスが「わたしが行くところに、あなたは今はついてくることができない」と言われる理由が分かりません。自分は師のために命を捨てる覚悟をしているのに、どうして師が行かれるところについて行くことができないのか、分かりません。これだけの決意があれば、どんなことでもできるとペトロは信じています。イエスは答えられる、「わたしのために命を捨てるのか。アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」。(三八節)
ペトロが夜が明けるまでに三度もイエスを否認するというイエスの予告は、共観福音書では最後の食事を終えてゲッセマネに向かう途上でなされたことになっていますが、ヨハネ福音書では、最後の食事の席でなされたことになっています。「鶏が鳴くまでに」は、「夜が明けるまでに」の意。共観福音書に見られる「二度」は、三度の否認に合わせて劇的に構成された形であると推定され(マルコ一四・三〇に「二度」を欠く写本もあります)、ヨハネ福音書のこの形が原型であろうと考えられます。