第八章 世の光イエス
―― ヨハネ福音書 八章 ――
第一節 世の光としての復活者イエス
[ 7・53 人々はおのおの自分の家に帰って行った。 8・1 イエスはオリーブ山に行かれた。 2 朝早く、再び神殿境内に来られると、民がみなイエスのもとにやって来たので、イエスは座って彼らを教えられた。 3 そこへ、律法学者たちとファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、 4 イエスに言う、「先生、この女は姦通行為をしている現場で捕らえられました。 5 モーセは律法の中で、このような女たちは石打にするように、わたしたちに命じました。そこで、あなたは何と言われますか」。 6 彼らはイエスを試みて、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスは低くかがんで、指で地面に何かを書いておられた。 7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こし、彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」。 8 そして、再びかがみこんで、地面に書き続けられた。 9 これを聞いた者たちは、年長の者から始まって、一人また一人と立ち去り、イエスひとりと、真ん中にいた女だけが残った。 10 イエスは身を起こして、女に言われた、「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」。 11 彼女は言った、「主よ、誰もいません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう道を誤らないように」。]
七章五三節〜八章一一節の段落について
底本では、この段落は[ ]に入れられています。すなわち、原本にはなくて後で挿入された可能性が高い部分として扱われています。最大の理由は、初期の有力な写本はほとんどこの部分を欠いているからです。とくに東方では、一二世紀までこの段落を扱ったギリシア教父はいません。また、この部分を入れた写本でも、ルカ二一・三八の後ろなど、様々な位置に置かれています。
さらに、用語もヨハネが他では用いていない単語が多く出てきます。「オリーブ山」も、ヨハネ福音書に出てくるのはここだけです。「律法学者」は、共観福音書で用いられる回数はきわめて多いが、ヨハネ福音書ではここだけです。二節の「民」の原語は《ホ・ラオス》ですが、この語は普通神との契約関係にあるイスラエルを指すのに用いられます。共観福音書ではよく用いられていますが、ヨハネ福音書では「一人が民の代わりに死ぬ」ことを求めた大祭司カイアファの言葉(一一・五〇、一八・一四)以外では用いられていません。ヨハネはいつも「群衆」《オクロス》を用いています。ギリシア語の文体も、ヨハネとは異なり、むしろルカに近い文体です。内容も、罪人(とくに女性)の友としてのイエスの強調はルカ的であると言えます。この挿話が写本に現れるのは比較的後期になりますが、この伝承そのものは古いもので、二世紀初頭の教父にも知られていたとされています。
死を求める律法
人々はおのおの自分の家に帰って行った。イエスはオリーブ山に行かれた。朝早く、再び神殿境内に来られると、民がみなイエスのもとにやって来たので、イエスは座って彼らを教えられた。(七・五三〜八・二)
人々は皆おのおの自分の家に、すなわち日常の生活の場に帰って行きますが、イエスはひとり神との交わりの中で祈るためにオリーヴ山に行かれます。イエスは、エルサレム滞在中はオリーヴ山のどこかを祈りの場としておられたのでしょう(ゲッセマネの園はオリーヴ山の麓にあります)。そこへ、律法学者たちとファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言う、「先生、この女は姦通行為をしている現場で捕らえられました」。(三〜四節)
イエスが神殿境内で教えておられるとき、律法学者たちとファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、このような場合についてのイエスの意見を尋ねます。「モーセは律法の中で、このような女たちは石打にするように、わたしたちに命じました。そこで、あなたは何と言われますか」。 (五節)
モーセ律法は姦通に対して死刑を定めています(レビ記二〇・一〇)。とくに申命記二二章二二節の規定は、姦通の現場で捕らえられた者の処刑を求めています。死刑の方法は罪の種類によって異なっていました。《トーラー》に明文はありませんが、ラビたちの伝統では、姦通は石打の刑に処せられました。ファリサイ派では、口伝律法も成文律法と同じくモーセの命令とされていたので、律法学者たちは「モーセは律法の中で、このような女たちは石打にするように、わたしたちに命じました」と言っています。彼らはイエスを試みて、訴える口実を得るために、こう言ったのである。(六節前半)
このようにモーセ律法の規定を引用した上で、「そこで、あなたは何と言われますか」と、イエスの意見を求めます。原文では「あなたは」が強調されています。普段罪人の友と称しているイエスが、この明白に死刑を求める律法にどう対処するか、モーセ律法に対するイエスの態度を試みているのです。もしイエスが女を処罰しないで赦してやるような発言をされたら、明白な律法違反を教唆する言動として訴えることができます。律法に背くように民を扇動する異端教師には死刑が科せられました。低くかがむイエス
イエスは低くかがんで、指で地面に何かを書いておられた(六節後半)。
イエスは彼らの質問に答えないで、低くかがんで、指で地面に何かを書き始められます。イエスが何を書いておられたのかは分かりません。イエスが何を書いておられたかについては、石を投げようとする人たちの罪を書き連ねておられたとか、幾百もの想像がなされましたが、それを詮索することは無益でしょう。その女の罪だけを見て、自分を見ようとしない人たちに、イエスは自分を見る時間を与えておられると見てよいでしょう。イエスの不思議な行動を見て驚き、人々はしばらく女から目を離し、イエスの背中を見つめたことでしょう。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こし、彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」。そして、再びかがみこんで、地面に書き続けられた。(七〜八節)
自分の実相を見ることができず、他人の罪だけを咎める人間の執拗な問いかけに対して、イエスは身を起こし、「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」と言われます。これが「低くかがんで指で地面に何かを書いておられた」イエスの行動の意味であったわけです。その行動の意味するところを明白な言葉で語りだされたのです。これを聞いた者たちは、年長の者から始まって、一人また一人と立ち去り、イエスひとりと、真ん中にいた女だけが残った。(九節)
イエスの問いかけを受けて、女に石を投げようとした人々は自分を見つめ直します。誰が罪のない者として、すなわち神の立場に立って女を断罪することができるでしょうか。イエスの問いは、石を投げようとした人々に、自分は神ではなく、この女と同じ立場の人間であることを自覚させます。イエスは低くかがんだままです。イエスは居丈高に彼らの高慢を叱責するのではなく、彼らの良心が彼らの内で語りかけるのに委ねられます。すると、彼らは「年長の者から始まって、一人また一人と立ち去り」、イエスとその女だけが残ります。イエスは身を起こして、女に言われた、「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」。彼女は言った、「主よ、誰もいません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。 これからはもう道を誤らないように」。(一〇〜一一節)
イエスがおられなければ、姦通の現場で捕らえられた女は、ユダヤ教律法で有罪とされて石打刑で処刑されたことでしょう。しかし、イエスがおられるところでは恩恵が支配します。イエスがおられるところ、すなわち恩恵の場では、人間はみな等しく神の絶対恩恵によって赦されて存在しているものであることを自覚します。その場では、人が人を罪に定めることはありません。この恩恵の場を体現する方として、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言われます。罪を覆う恩恵
この挿話は感動的です。たしかに、この物語は(先に見たように)ヨハネ福音書に後から挿入された物語かもしれませんが、恩恵の支配を説かれたイエスの姿を実に感動的に伝えています。イエスはここでは恩恵の支配を言葉で説かれるのではなく、身をもって示しておられます。女の側にかがみ込んで地面に何かを書いておられるイエスは、その行動によって女を身をもってかばっておられるのです。群衆がその女に石を投げるならば、そばでかがみ込んでいるイエスに当たることは避けられないでしょう。女に石を投げることは、イエスに石を投げることになります。イエスは律法を守れない女と同じ立場に身を置き、その女と一つになって、違反者に対する律法の裁きを受ける場に留まられます。そして、この聖なる人イエスに石を投げることができず、群衆が一人また一人と立ち去った後、ただ一人裁くことができるイエス御自身が、「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されます。ここには、父の恩恵が人間の罪を包み込み、乗り越えている現実が、見事に物語られています。12 さて、イエスは再び彼らに語って言われた、「わたしが世の光である。わたしに従ってくる者は闇の中を歩むことなく、命の光を持つであろう」。 13 するとファリサイ派の者たちがイエスに言った、「お前は自分自身のことを証ししている。お前の証しは真実ではない」。 14 イエスは答えて彼らに言われた、「たとえわたしが自分自身について証しをしているとしても、わたしの証しは真実である。わたしは自分がどこから来たか、またどこへ行くのかを知っているからである。あなたたちはわたしがどこから来たのか、またどこへ行くのかを知らない。 15 あなたたちは肉によって判断しているが、わたしはだれをも判断しない。 16 しかし、もしわたしが判断するとすれば、わたしの判断は真実である。わたしは一人いるのではなく、わたしとわたしを遣わした父とがいるのだからである。 17 あなたたちの律法にも、二人の人間の証しは真実であると書かれている。 18 わたしがわたし自身について証しをする者であり、わたしを遣わされた父もわたしについて証しをされるのである」。19 そこで彼らはイエスに言った、「お前の父はどこにいるのか」。イエスはお答えになった、「あなたたちはわたしを知らず、またわたしの父をも知らない。もしあなたたちがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知ったであろうに」。 20 イエスはこれらの言葉を、神殿の境内で教えておられたとき、さいせん箱の傍で語られた。しかし、だれもイエスを捕らえる者はなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
世の光
さて、イエスは再び彼らに語って言われた、「わたしが世の光である。わたしに従ってくる者は闇の中を歩むことなく、命の光を持つであろう」。(一二節)
前の姦淫の女の段落(七・五三〜八・一一)を挿入として飛ばして読むと、この節は七章五二節に続くことになります。ただし、七章四五〜五二節はイエスがおられない別場面(議員たちの相談)であるので、イエスの行動としては、七章三七〜四四節の「祭りの最終日である大祭の日」の出来事の続きとなります。したがって、「再び彼らに」は七章三七節の呼びかけに続いて、さらに「再び群衆に」呼びかけられたことになります。この水と光という象徴を用いた二つの呼びかけ(七・三七と八・一二)は、「水と光の祭り」と呼ばれる仮庵祭(七・三七の注を参照)にふさわしい光景となります。この形の自己啓示の文については、319頁の特注「ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》」の項を参照してください。
ヨハネ福音書は、光と命の領域と闇と死の領域という、まったく別の原理によって構成される二つの領域を前提にして救済を語っています(これがヨハネの「二元論」と呼ばれる語り方です)。「世」《コスモス》は闇と死の領域に属し、自分の中に光も命も持たない領域です。光の領域から来た方(イエス)だけが、この闇に属する《コスモス》に光をもたらすのです。他の誰でもなく、またどの事柄(悟りなど)でもなく、イエス(復活者であるイエス)だけが《コスモス》にとっての光です。光の象徴は序詩(一・一〜一八)以来繰り返し用いられてきましたが(三・一九〜二一など)、ここでイエスご自身の自己啓示の宣言として明確に語り出されることになります。光と闇の二元論はクムランの死海文書にも強く表れています。ヨハネ福音書の光と闇の二元論は(洗礼者ヨハネを通して)クムランのエッセネ派共同体の影響が推定されます。
「わたしが〜である」というイエスの自己啓示には、それを信じる者に対する救済の約束が続くのが普通です(たとえば六・三五)。その「わたしを信じる者」が、ここでは「わたしに従ってくる者」という表現で語られ、その人は「闇の中を歩むことなく、命の光を持つであろう」と救済が約束されます。二人の証し
するとファリサイ派の者たちがイエスに言った、「お前は自分自身のことを証ししている。お前の証しは真実ではない」(一三節)
イエスに敵対する勢力が、ここでは「ユダヤ人」よりも具体的に、「ファリサイ派の者たち」と名を上げられています。彼らは、人が自分自身について立てる証言は信用できないというユダヤ教の原則によって、イエスの自己啓示の宣言を、信用できない自己証言として退けます。イエスは答えて彼らに言われた、「たとえわたしが自分自身について証しをしているとしても、わたしの証しは真実である。わたしは自分がどこから来たか、またどこへ行くのかを知っているからである。あなたたちはわたしがどこから来たのか、またどこへ行くのかを知らない」。(一四節)
五章三一節では、自己証言は信用できないとするユダヤ教の原則を認めて、(ヨハネ共同体は)別の証人(洗礼者ヨハネ、父、聖書)の証言を指し示しました(五・三二〜四〇)。しかし、ここではもはやユダヤ教の原則を顧みることなく、イエスが自分の出てきた所と行き先を知っているという別の根拠に立って、イエスの自己啓示が真実であることを主張します。「あなたたちは肉によって判断しているが、わたしはだれをも判断しない」。(一五節)
ここに用いられている動詞《クリノー》は、「分ける、判断する、裁く」などの意味をもつ動詞です。ここでは法廷での判決を問題にしているのではなく、証言にたいする態度を問題にしているので、「判断する」と訳しています。なお、この箇所が、「わたしは誰をも裁かない(罪に定めない)」と理解されて、姦通の女のエピソードがこの段落の前に入れられた可能性があります。
「しかし、もしわたしが判断するとすれば、わたしの判断は真実である。わたしは一人いるのではなく、わたしとわたしを遣わした父とがいるのだからである」。(一六節)
ファリサイ派の人たちは、イエスが自分について証言しているので、その証言は真実でないと批判しました(一三節)。それは「肉によって判断している」からだと、彼らの批判の基準を反駁(一五節)した上で、改めてイエスが自分についてなされる証言が真実であることが、「わたしは一人いるのではなく、わたしとわたしを遣わした父とがいるのだから」という理由を根拠にして主張されます。「あなたたちの律法にも、二人の人間の証しは真実であると書かれている。わたしがわたし自身について証しをする者であり、わたしを遣わされた父もわたしについて証しをされるのである」。(一七〜一八節)
そのさい、「二人の人間の証しは真実である」という原則は、「あなたたちの律法にも書かれている」ように、相手も認めざるをえない原則です。それは、申命記一九章一五節を指していますが、聖書の箇所が「あなたたちの」律法と表現されていることが注目されます。ヨハネ共同体はファリサイ派に指導されるユダヤ教会堂と対峙しており、自分たちの主張が相手の立場から見ても正しいことを論証しようとしているのです。そこで彼らはイエスに言った、「お前の父はどこにいるのか」。イエスはお答えになった、「あなたたちはわたしを知らず、またわたしの父をも知らない。もしあなたたちがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知ったであろうに」。(一九節)
その主張に対して彼らは「お前と一緒に証言するという、お前の父はどこにいるのか」と反論します。イエスの敵対者たちは、イエスの言葉を「肉によって(人間的な次元で)判断して」、イエスの傍に肉親の父親がいないことを問題にしています。ここにも、イエスの言葉の霊的な次元と、それを理解できない相手の地上的次元の行き違いという、この福音書の対話の特徴が出ています。ヨハネ共同体がユダヤ人に向かって、「あなたたちは父を知らない」と断定する激しい批判については、五章三七節についての講解(本書201頁)を参照。
イエスを知らない(理解できない)から父を知らないし、父を知らないからイエスを理解できないという循環と、イエスを知ることによって父を知り、父を知るゆえにイエスを理解するという循環の間には、人間の論理では越えることができない淵が横たわっています。その淵を越えるのは信仰の飛躍だけです。その飛躍は、聖霊の働きとして信じる者の内に起こる出来事です。イエスはこれらの言葉を、神殿の境内で教えておられたとき、さいせん箱の傍で語られた。しかし、だれもイエスを捕らえる者はなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。(二〇節)
著者ヨハネは、長い対話の最後に場所を特定して、その対話が実際に行われたという印象を強める傾向があります(六・五九参照)。ここでは「さいせん箱の傍で語られた」と、場所が特定されます。新共同訳と岩波版は「宝物殿」と訳していますが、原語はマルコ一二章四一と四三節の「さいせん箱」と同じ語であるので、協会訳のように「さいせん箱」と訳しておきます。前置詞は《エン》が用いられていますが、この場合はさいせん箱が置いてある区域を指すと理解します。
「これらの言葉」、すなわちイエスが仮庵祭で群衆に向かって語られた言葉と、批判者たちにお答えになった言葉は、イエスが自分を神と等しい者としているという訴えをするのに十分でしたが(五・一八参照)、この仮庵祭の時には誰もイエスを捕らえる者はありませんでした。著者はそれを「イエスの時がまだ来ていなかったからである」と説明します。この福音書では、イエスの生涯は、イエスが父から与えられた使命を果たすことになる決定的な出来事が起こる時、すなわち十字架と復活の出来事が起こる「イエスの時」に向かって進んでいきます。父が定められたその時が来るまでは、人間は誰も手を出すことができません。21 さて、イエスは再び彼らに言われた、「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すが、自分の罪の中に死ぬことになる。わたしが行くところにあなたたちは来ることができないのである」。 22 そこでユダヤ人たちは言った、「『わたしが行くところに、あなたたちは来ることができない』と彼は言っているが、自殺するのであろうか」。 23 イエスは彼らに言われた、「あなたたちは下からの者であるが、わたしは上からの者である。あなたたちはこの世からの者であるが、わたしはこの世からの者ではない。 24 それで、わたしはあなたたちに、あなたたちは自分の罪の中に死ぬであろうと言ったのだ。『わたしはある』を信じないならば、あなたたちは自分の罪の中に死ぬことになる」。 25 彼らが「いったいお前は誰か」と言ったので、イエスは彼らに言われた、「それは初めからあなたたちに話している。 26 わたしには、あなたたちについて言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしを遣わされた方は真実であり、わたしもまたその方から聞いたことを世に語るのである」。 27 彼らは、イエスが父のことを語っておられるのが分からなかった。 28 そこで、イエスは言われた、「あなたたちは人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』が分かるであろう。すなわち、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられた通りに語っていることが分かるであろう。 29 わたしを遣わされた方は、わたしと一緒にいてくださる。わたしをひとりにはされない。わたしはいつもその方の御旨に適うことを行っているからである」。
帰って行くイエス
さて、イエスは再び彼らに言われた、「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すが、自分の罪の中に死ぬことになる。わたしが行くところにあなたたちは来ることができないのである」。(二一節)
イエスはすでに七・三三で「わたしは去っていく」と述べておられます(ここと同じ動詞が用いられています)。七章と八章は仮庵祭を舞台としたひとまとまりの論争ですが、そこではイエスが「去っていく」という主題が予告の形で取り上げられています。このように繰り返される予告は、共観福音書で三回繰り返されている「受難予告」に相当します。共観福音書では、イエスの受難は「引き渡される」など「〜される」という受動態で語られますが、ヨハネ福音書では、イエスの死は「わたしは去って行く」という能動態で語られます。イエスの十字架上の死は、ヨハネ福音書ではいつもイエスが進んで御自分の命を与えられる行為として描かれます。そこでユダヤ人たちは言った、「『わたしが行くところに、あなたたちは来ることができない』と彼は言っているが、自殺するのであろうか」。(二二節)
最初の「去っていく」の予告の時も、ユダヤ人たちはその意味が理解できず、「離散のユダヤ人のところに行くのか」などと考えましたが(七・三三〜三六)、ここではその無理解はさらに進んで「自殺するのか」という疑問になっています。イエスは彼らに言われた、「あなたたちは下からの者であるが、わたしは上からの者である。あなたたちはこの世からの者であるが、わたしはこの世からの者ではない。それで、わたしはあなたたちに、あなたたちは自分の罪の中に死ぬであろうと言ったのだ。『わたしはある』を信じないならば、あなたたちは自分の罪の中に死ぬことになる」。(二三〜二四節)
この福音書は繰り返し、イエスを光と命の領域に属し、そこから来た者として、「上からの者」と呼びます(三・三一など)。それに対して、イエスを信じないユダヤ人たちは、この闇と死の領域であるこの世に属する者として「下からの者」と呼ばれます。本節では同じことが「この世からの者」と「この世からでない者」の対比で繰り返されます。イエスは「上からの者」であり、ユダヤ人たちは「下からの者」であるので、イエスが行かれる所に行くことができないという前節の事実を受けて、「それで」と、二一節の「あなたたちは自分の罪の中に死ぬであろう」という宣言を改めて繰り返します。二一節の「罪」は単数形でしたが、二四節の「罪」は(二回とも)複数形です。パウロの場合は、複数形を用いず単数形で用いることに重要な意味がありましたが、ここ(二一節と二四節)ではヨハネが意味の上の区別をしているとは思われません。ヨハネの場合も、単数形が10回、複数形が4回(ここの2回と九・三四、二〇・二三)と、単数形の用例が多いようです。ヨハネは、神が遣わされた方を信じないことを「罪」として、単数形で語ります(一五・二二〜二四、一六・八〜九)。複数形を用いている二四節でも後半の文で、イエスを信じないことが罪であるとされていることが分かります。
ここで自分の罪の中に死ぬのは、『わたしはある』を信じないからだと、その理由が明示されます。すでにイエスを信じないことが様々な表現で語られていましたが、ここで「『わたしはある』を信じない」という、この福音書にきわめて特徴的な表現で語られます。この福音書でイエスは「上からの者」とか「神から遣わされた者」と呼ばれてきましたが、ここでは神秘的な《エゴー・エイミ》という称号で呼ばれることになります。原文では《エゴー・エイミ》の前に「〜ということ」という名詞節をまとめる接続詞《ホティ》があるので、ここの《エゴー・エイミ》 (I AM )は補語が略された場合として、「わたしがそれであること」と訳されることが多いようです。しかしここでは、《エゴー・エイミ》という主語と動詞からなる文を称号としてまとめていると理解します。ここや二八節の《ホティ・エゴー・エイミ》と同じ用例が、七十人訳ギリシア語聖書のイザヤ書四三・一〇などに見られます。《エゴー・エイミ》については、後述の特注「ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》」の項を見てください。
イエスとは誰か
彼らが「いったいお前は誰か」と言ったので、イエスは彼らに言われた、「それは初めからあなたたちに話している」。(二五節)
共観福音書のイエスは「神の国」を宣べ伝えておられますが、ヨハネ福音書のイエスは「神の国」のことはほとんど語らず、もっぱら自分は誰であるかだけを語っておられます。これはイエスについてのヨハネ共同体の証言です。ヨハネ共同体は、繰り返し繰り返し、世界に向かって、とくに対立するユダヤ教団に向かって、用いることができる限りの表現を駆使して、イエスが神から遣わされた方であることを語るのです。しかもそれをイエス御自身の言葉として語ります。「わたしには、あなたたちについて言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしを遣わされた方は真実であり、わたしもまたその方から聞いたことを世に語るのである」。(二六節)
著者ヨハネとその共同体は、対立するユダヤ教団に対して反論すべきこと、その不信と誤りを指弾すべきことを多く持っています。それを、「わたしにはたくさんある」と、イエスの言葉として突きつけます。イエスを信じないユダヤ人たちは、ヨハネ共同体側からの反論と糾弾を受け付けないでしょうが、「しかし」、イエスを遣わされた方は真実であり、イエスはその方から聞いたことを世に語っておられるのですから、この反論と糾弾は真実である、と続きます。彼らは、イエスが父のことを語っておられるのが分からなかった。そこで、イエスは言われた、「あなたたちは人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』が分かるであろう。すなわち、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられた通りに語っていることが分かるであろう」。(二七〜二八節)
ヨハネ共同体のユダヤ教団に対する批判が続きます。彼らユダヤ人たちは、イエスが霊なる神を父として語っておられることが分からなかったので、「お前と一緒に証言するという(肉親の)父親はどこにいるのか」などと尋ねるのです。そのような無理解なユダヤ人に対して、イエスは「あなたたちは人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』が分かるであろう」と言われます。「わたしを遣わされた方は、わたしと一緒にいてくださる。わたしをひとりにはされない。わたしはいつもその方の御旨に適うことを行っているからである」。(二九節)
イエスとは誰であるか、すなわち《エゴー・エイミ》とはどういう存在かが、この節でさらに説明されます。本節ではイエスが父と一体であり、父がいつもイエスと一緒におられることと、イエスがいつも父の御旨を行っておられることが語られます。「わたしはある」
この仮庵祭でユダヤ人と論争されるイエスは、しばしば「わたしはある」という不思議な称号を用いて御自分を指しておられます。この表現はわたしたちには分かりにくいものですので、ここで簡単な解説をつけておきます。神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。(出エジプト記三・一四 新共同訳)
「わたしが〜である」
ところでヨハネ福音書には、「わたしが命のパンである」とか「わたしが世の光である」というような、「わたしが〜である」というイエスの自己啓示の宣言の後に、「わたしを信じる者(またはそれに相当する句)は〜するであろう」という、この啓示を受け入れる者に救済を約束する文が続く形で福音を提示する形が多く出てきます。この形で福音を提示することが、ヨハネ福音書の特色です。