第三節 弟子たちのつまずきと分裂
60 すると、これを聞いた弟子たちの中の多くの者が言った、「この言葉はひどい。誰がこんな言葉を聴いておられようか」。 61 イエスは、自分の弟子たちがこのことについてつぶやいているのを知り、彼らに言われた。「このことがあなたたちをつまずかせるのか。 62 それでは、人の子が前にいたところに昇っていくのを見るならば・・・・。 63 御霊こそが命を与えるものであって、肉は何の役にも立たない。わたしがあなたたちに語ってきた言葉は霊であり、命である。 64 しかし、あなたたちの中には信じない人たちがいる」。イエスは最初から、誰が信じない者たちであるか、また、誰が自分を裏切る者であるか知っておられたのである。 65 そして、こう言われた、「だからこそ、父からその人に与えられるのでなければ、わたしのもとに来ることはできないと言っておいたのだ」。
66 この時から、弟子の多くの者たちが離れ去り、もはやイエスと一緒に歩まなくなった。 67 そこでイエスは十二人に言われた、「あなたたちもまた、去って行こうとするのか」。 68 シモン・ペトロが答えて言った、「わたしたちは誰のところに行きましょうか。あなたには永遠の命の言葉があります。 69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。 70 イエスは彼らにお答えになった、「あなたたち十二人を選んだのはわたしではなかったか。ところが、あなたたちの一人は悪魔である」。 71 イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言っておられたのである。彼がイエスを裏切ることになるからである。実に、十二人の中の一人が裏切ったのである。
弟子たちのつまずき
すると、これを聞いた弟子たちの中の多くの者が言った、「この言葉はひどい。誰がこんな言葉を聴いておられようか」(六〇節)
五一節後半から五八節までが挿入であるとすると、原著において「この言葉」は、それ以前の「命のパン」についてのイエスの説話を指すことになります。たしかに、「わたしは天から降ってきた命のパンである」というような言葉は、ユダヤ人には受け入れがたい言葉です。しかし、「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む」というような挿入部分の言葉は、さらに受け入れがたい言葉となります。挿入であるとしても、編集者は原著の文脈を損なうことなく、イエスとユダヤ人との立場の違いと対比をさらに強烈にしていると言えます。この強烈な対比が、これまでイエスに従ってきた弟子たちさえもつまずかせて、多くの弟子が去ることになります。イエスは、自分の弟子たちがこのことについてつぶやいているのを知り、彼らに言われた。(六一節前半)
弟子たちはこのような思いを口に出して言ったのではないでしょうが、イエスは弟子たちの思いを見抜いて語り出されます。「イエスは知り」とあるところは、原文では「ご自分の中で認め」となっています。この福音書では、イエスは人々の心の動きを見通しておられる方として、対話や物語が進行します(二・二四〜二五参照)。「このことがあなたたちをつまずかせるのか。それでは、人の子が前にいたところに昇っていくのを見るならば・・・・」。(六一節後半〜六二節)
「人の子」は本来黙示思想の用語であり、終末時に天から現れる審判者であり救済者である超自然の人物を指します。ヨハネ福音書は、イエスをこの「人の子」が天から降ってきて地上に現れた方として描いています(一・五一、三・一三、五・二七など)。したがって、「人の子が前にいたところに昇っていく」というのはイエスの復活・昇天を指すことになります。用いられている動詞も自動詞の「昇る」《アナバイノー》であって、十字架上の死を指すのに用いられる「上げられる」(《ヒュプソー》の受動態)ではありません。ここに十字架に上げられることを読むことは無理です。
この文(六二節)は、「もしあなたたちが〜を見るならば」という条件文ですが、この条件文に対応する「〜するであろう」という帰結を示す主文がありません。この文が前節の弟子たちのつまずきに対する発言であることから、「あなたたちがつぶやくことはなくなるであろう」という意味の主文を補ってよいでしょう。ユダヤ人や弟子たちが「命のパン」に関するイエスの言葉につまずくのは、イエスが復活者であることを信じないで、地上の人間の言葉として受け止めているだけだからです。「人の子が前にいたところに昇っていくのを見る」ことによって、「命のパン」の言葉の主語が復活者であることを悟れば、「わたしは天から降ってきたパンである」という言葉が真理であることを悟り体験することになるはずです。受肉の信仰が逆方向に見た復活信仰であることについては、拙著『キリスト信仰の諸相』281頁以下の「受肉」と「人にして神」の項を参照してください。
このように理解すると、六二節は直前の「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者こそが永遠の命を持つ」という主張の弁証ではなく、その前の「わたしは天から降ってきたパンである」という告知の根拠を説明していることが分かります。このことも、五一節後半から五八節の部分が原著に後から挿入された部分であるとの主張を擁護します。「御霊こそが命を与えるものであって、肉は何の役にも立たない。わたしがあなたたちに語ってきた言葉は霊であり、命である」。(六三節)
この節の「霊と肉」の対比は、人間の内面的・精神的側面と外的・身体的側面の対比ではなく、神の霊に属する次元と人間の本性に属する次元の対立です。新約聖書で《ト・プニューマ》(定冠詞つきの霊)は普通神の霊、御霊を指します(ここもその形です)。「御霊こそが命を与える」という宣言は、実はパウロの福音の核心です。「文字は殺し、御霊は生かす」のです(コリントU三・六)。復活者キリストは「命を与える霊」です(コリントT一五・四五)。ヨハネも同じことを主張します。ところが、五一節後半から五八節までの部分の「肉」は、「体」とほぼ同じ意味で肯定的に用いられ、キリストの体を指しています。それに対して、ここや他の本体部の用例ではキリストの体を指すことは決してなく、意味が全然違います。この部分が本来の福音書の一部ではないと判断される理由となります(五一節の「わたしの肉」についての注を参照)。
「わたしがあなたたちに語ってきた言葉」という主語を説明する「霊であり、命である」という述語(霊にも命にも定冠詞はついていません)は、その言葉の属する次元と質を説明しています。すなわち、イエスが語られるものとしてこの福音書に記録されている言葉は、神の霊の働きと、その結果生まれる命という次元を語るものであって、人間的に判断される種類のものではないと主張しているのです。この福音書のイエスの言葉は、ヨハネ共同体がユダヤ人に対して語る言葉と重なっており、「わたしたちがあなたたちに語っている言葉」、すなわちこの福音書の言葉はそのような質の言葉であると主張しているのです。弟子たちが去る
「しかし、あなたたちの中には信じない人たちがいる」。イエスは最初から、誰が信じない者たちであるか、また、誰が自分を裏切る者であるか知っておられたのである。(六四節)
イエスは弟子たちに向かって、「あなたたちの中には信じない人たちがいる」と言われます。この「信じない人たち」というのは、自らイエスの弟子であると称していながら、この福音書で告知されている受肉者としてのイエスの本質を悟らず、結局イエスから離れて行く者たち(六六節)を指していると見られます。そして、こう言われた、「だからこそ、父からその人に与えられるのでなければ、わたしのもとに来ることはできないと言っておいたのだ」。(六五節)
先に(四四節で)言われた言葉が改めて引用されて、イエスから離れ去る者が出ることも神の御計画の中の出来事とされます。このことは逆に、イエスのもとに来ることができるのは、父の恩恵によるのであって、決して人間の側の理解や意志によるのではないと告白しているのです。イエスの弟子としてイエスのもとに留まり、イエスと共に歩むことができるのは、神の恩恵の選びの結果です(四四節の講解参照)。この時から、弟子の多くの者たちが離れ去り、もはやイエスと一緒に歩まなくなった。(六六節)
「この時から」というのは、直前の「わたしの肉、わたしの血」についての対話の時だけをさすのではなく、五つのパンで五千人に食べ物を与えられた出来事と、それに続く「命のパン」の対話全体(すなわち六章の出来事の全体)を指しています。パンの出来事は、イエスの宣教活動の転機となります。「この時から」の原文は「これから」です。「これ」を「この時」と理解するか(協会訳、岩波版)、「このこと」と理解して「このために」と訳すか(新改訳、新共同訳)、両方が可能です。ここではパンの出来事がイエスの宣教生涯の転機になったことを重視して、時を指すと理解します。
パンの奇蹟を見て、イエスに対する民衆の期待は高揚します。人々は「この方こそほんとうに世に来るはずのあの預言者である」と言って、イエスを王にしようとします。ところが、イエスは人々を去らせて一人で山に退かれます(六・一四〜一五)。この記事は、民衆のメシア期待とイエスの道がかけ離れていることを示していましたが、イエスがパンについて語られた言葉によって、これまでイエスにつき従ってきた弟子たちもつまずき、イエスから去っていきます。残った者は十二人だけとなります(六七〜六九節)。十二弟子の告白とその中の一人の裏切り
そこでイエスは十二人に言われた、「あなたたちもまた、去って行こうとするのか」。 (六七節)
この福音書では、ここではじめて突然「十二人」という呼称が出てきます。ヨハネ福音書にはイエスが十二人を選ばれた記事とか十二人の人名表はありません。「十二人」が登場するのは、ここ(六六〜七一節)と二〇章二四節だけです。著者は「十二人」を周知の弟子団として扱っていますが、その権威を重視することなく、むしろリストにない弟子を重視する傾向があります。これは、ヨハネ共同体が「十二使徒」を権威と仰ぐ教団主流と距離を置いた流れにあることを示唆するものと考えられます。ヨハネ共同体が「十二人」とは別の「もう一人の弟子」によって形成された共同体であることについては、「『もう一人の弟子』の物語――ヨハネ文書の成立について」を参照してください。
シモン・ペトロが答えて言った、「わたしたちは誰のところに行きましょうか。あなたには永遠の命の言葉があります。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。(六八〜六九節)
ヨハネ共同体においても、ペトロが「十二人」を代表する使徒であることは、知られていたようです。「あなたたちもまた、去って行こうとするのか」というイエスの問いかけに、ペトロは十二人を代表して、「わたしたちはあなたから去って誰のところに行きましょうか。そんなことはできません」と言って、去ることができない理由をイエスに対する信仰告白の形で述べます。イエスは彼らにお答えになった、「あなたたち十二人を選んだのはわたしではなかったか。ところが、あなたたちの一人は悪魔である」。(七〇節)
「十二人」の権威は、イエスが直接彼らを弟子に選ばれたという事実にあるとされていました。ところが、まさにその中の一人がイエスを裏切ったのですから、イエスが選ばれたという事実が直ちに権威の源になるのではないことが分かります。権威はあくまで、現実に復活者イエスに忠実に従っているかどうかにかかっています。その点では「十二人」以外にも忠実な弟子はいるのであって、「十二人」が唯一の権威ではないと、この節は暗に示唆していることも考えられます。イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言っておられたのである。彼がイエスを裏切ることになるからである。実に、十二人の中の一人が裏切ったのである。(七一節)
ユダがシモンの子であることを述べるのはヨハネだけで、共観福音書では「イスカリオテのユダ」と呼ばれています。「イスカリオテ」の意味については議論が続いており、決着していません。大別すると、「シカリ」(短刀)から出た語で、ユダが「シカリ派」とも呼ばれる熱心党の出身であるという見方と、ユダの出身地を示す地名であるという見方があります。地名と見る場合も、それがどこであるかについては見解が分かれています。「カリオテ出身の」を、ヨシュア記(一五・二五)に出てくる「ケリヨト」(ユダ族に割り当てられた地)として、ユダをユダヤ地方出身とする説、また、シケム近くのアスカル出身とする説、さらに、これを元にあるアラム語表現から「町の出身」として、ユダをエルサレム出身者と見る説などがあります。いずれにしても、「十二人」の中でユダだけがガリラヤの出身ではないことになります。なお、「偽り者」とか「引き渡す者」というアラム語をそのままギリシア語で音訳した語であるという説もありますが、ヨハネ福音書のここの記述では、「イスカリオテの」は(格の形から)ユダにはかからず父親のシモンを説明しているので無理です。また、父親の説明であるので、出身地を指すと見るのが自然だと言えます。編集者による挿入 ?
第六章には、「信じる者は永遠の命を持っている」というこの福音書の中心の使信に、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」という終末的な約束が付け加えられている場合が、四回も繰り返されていました(三九節、四〇節、四四節、五四節)。ヨハネ福音書は全体として、イエスを信じる者は現在すでに永遠の命を持っているという事実を強調し、永遠の命を「来るべき世」でのこととしたユダヤ教黙示思想を克服するだけでなく、なお黙示思想的な枠組みを強く残していて、永遠の命を将来のこととしている周囲の主流のキリスト教と対抗しています。それで、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」という終末的な約束は、この福音書本来の部分に属するものではなく、周囲の主流の教団に協調するために後で編集者が付け加えた挿入であると見る注解者が多くいます。ヨハネ福音書の成立過程は複雑で、数次の編集を経ていることは事実ですから、この部分が原著にはなく後で編集者によって加えられた可能性は否定できません。死者の復活の希望がキリストの福音の本質(それがなければ福音が福音でなくなる内容)であることについては、拙著『パウロによるキリストの福音U』の第六章「死者の復活」を参照してください。
復活に至る命
問題は、たとえそれが編集者による挿入であるとしても、正典として受け入れられて伝えられた現形のヨハネ福音書をわたしたちがどのように受け取るかです。たとえこの終わりの日の復活の約束が後で編集者によって原著に挿入されたものであっても、ヨハネ福音書の言う「永遠の命」には、復活に至らざるをえない質の命という面があることは、この福音書自身が示しています。それは、イエスがラザロを生き返らせたことを伝える十一章の記事です。そのことを理解すれば、この約束が外から(本来のヨハネ福音書に異質な内容が)付け加えられた挿入ではなく、ヨハネ共同体自身の中にある復活信仰の表明として、内的必然をもって加えられた約束であること、すなわちヨハネ福音書の本来の一部として受け取ることができます。永遠の命と死者の復活の関係については、拙著『神の信に生きる』の第W部「永遠の命への道」補講一「永遠の命と復活」(183頁)を参照してください。この「復活に至る命」の項は、その一部を要約して引用しています。