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第二節 命のパンをめぐるユダヤ人との対話

18 命のパンをめぐるユダヤ人との対話(6章 41〜59節)

 41 すると、ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降ってきたパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 42 こう言った、「これはヨセフの息子イエスではないか。わたしたちは父親も母親も知っている。どうして今さら『わたしは天から降ってきた』などと言うのか」。 43 イエスは答えて彼らに言われた、「互いにつぶやくのは止めなさい。 44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださるのでなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45 預言者の書に、『かれらはみな神に教えられる者になるであろう』と書かれている。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46 神のそばにいる方以外に、父を見た者はない。その方だけが父を見たのである」。
 47 「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。信じる者は永遠の命をもっている。 48 わたしが命のパンである。 49 あなたたちの先祖は荒れ野でマナを食べたが、死んだ。 50 これは天から降ってきたパンであり、それを食べる者は死ぬことはない。 51 わたしは、天から降ってきた生けるパンである。人がこのパンを食べるならば、永遠に生きるようになる。そして、わたしが与えることになるパンとは、世の命のためのわたしの肉である」。
 52 するとユダヤ人たちは互いに激しく議論し始めて言った、「この男はどうして自分の肉をわれわれに与えて食べさせることができるのか」。 53 そこでイエスは彼らに言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。あなたたちは、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、自分たちの中に命はない。 54 わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 55 わたしの肉こそまことの食べ物であり、わたしの血こそまことの飲み物だからである。 56 わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者は、わたしの中にとどまり、わたしもその人の中にとどまる。 57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを噛みしめる者はわたしによって生きるようになる。 58 これは天から降ってきたパンであり、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを噛みしめる者は、永遠に生きるようになる」。
 59 これらのことは、イエスがカファルナウムの会堂で教えて語られたものである。

「ユダヤ人」の批判

 ここまで、パンについてイエスと対話する人たちは「群衆」と呼ばれてきましたが、ここから「ユダヤ人たち」と呼ばれるようになります(四一節)。パンについての対話は、海辺で「群衆」との間に始まりましたが(六・二四)、いつの間にか「ユダヤ人」との対話となり、それが会堂で行われたという記述になって終わります(六・五九)。ここまでの群衆はパンを求める人たちとして描かれていましたが、ここから登場する「ユダヤ人」はイエスを批判する人たちとして描かれます(四一節と五二節)。
 このように対話の相手の呼び方が変わったことに示されているように、六章の「いのちのパン」についての対話編は、その前半(二二〜四〇節)と後半(四一〜五九節)では、性格が少し違ってきています。前半では、一般の民衆に対して、すなわち世界に向かって、永遠の命を与える「いのちのパン」であるイエスを信じるようにという呼びかけが前面に出ていますが、後半では、イエスが「天から降ってきた」パンであるという主張に対するユダヤ教会堂からの激しい批判に対して反論するという面が強く出てきます。

 すると、ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降ってきたパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った、「これはヨセフの息子イエスではないか。わたしたちは父親も母親も知っている。どうして今さら『わたしは天から降ってきた』などと言うのか」。(四一〜四二節)

 前半の「群衆」もみなユダヤ人ですが、そこでは「いのちのパン」を必要とする人間としての視点から見られていたので、「群衆」と呼ばれていました。しかし後半では、イエスを「天から降ってきた」方であるとする告知に激しく反対し、そのように告白するヨハネ共同体を弾圧するユダヤ教会堂と、その会堂に代表されるユダヤ教徒という視点から見て、「ユダヤ人」と呼ばれます。ヨハネ福音書においては、「ユダヤ人」はいつもイエスに敵対し、イエスを信じる者を迫害する勢力です。
 この「ユダヤ人」たちは、イエスが「わたしは天から降ってきたパンである」と言われたので「つぶやき」始めます。この「つぶやく」は、出エジプト記や民数記で、民が荒野で不平を言ったことを描くのに度々用いられた動詞と同じです。荒野で民は、天から下ったマナの他に肉や野菜がないことに対して不平を言いました(民数記一一・四〜六)。ここでは、自分たちと同じ一人の人間であるイエスが「わたしは天から降ってきた」者であると言われることに対してつぶやきます。
 彼らは「これはヨセフの息子イエスではないか。わたしたちは父親も母親も知っている」と言います。福音はイエスを復活された方として告知し、この福音書は地上のイエスを、復活して神のもとにおられる方が「天から降ってきた」者として描いています。それに対して、父親も母親もよく知っている身近なユダヤ人たちは、あくまでその親から生まれた地上の人間としてのイエスしか見えず、イエスが復活されたことを信じないので、イエスが「天から降ってきた」方であることを信じることができず、「つまずく」のです。マルコ福音書(六・三)にも、同じようにユダヤ人がイエスに「つまずいた」記事があります。
 イエスの出自をよく知っている身近なユダヤ人たちは、「どうして今さら『わたしは天から降ってきた』などと言うのか」と迫ります。それに対してイエスは、実はヨハネ共同体は、こう答えます。

 イエスは答えて彼らに言われた、「互いにつぶやくのは止めなさい。わたしを遣わされた父が引き寄せてくださるのでなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる」。(四三〜四四節)

 「互いに」つぶやくのを止めよと言われています。「互いに」というのは、ユダヤ人の間に対立するグループがあって、互いに相手を非難し合っている状況が前提されています。その対立するグループとは、復活者イエスを信じ、地上の人間イエスを「天から降ってきた方」であると告白するヨハネ共同体のユダヤ人と、イエスが復活されたという告知を信ぜず、地上の人間イエスが神と等しい子であるとする告白を?神として断罪するユダヤ教会堂勢力です。
 この対立についてこの福音書は、「互いにつぶやくのは止めよ」と、どちらのグループが正しいかと議論するようなことは止めるようにと呼びかけます。復活者イエスに属する者になるのか、またはイエスに敵対する者になるのかは、ただ神の選びによるのであって、人間の議論から結論を出すことができるような問題ではないとするのです。それは一人ひとりの問題であって、帰属する集団の問題ではありません(この文で「その人」を指す代名詞はみな単数形です)。しかも、一人ひとりの判断とか決断の問題でもなく、もっぱら神の恩恵の選びによって決まります。「父が引き寄せてくださるのでなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」のです。
 この選びの信仰は、使徒パウロがユダヤ人の間に信じる者と信じない者がある(実際には信じる者は少数で、ユダヤ人全体としては信じていない)という事実を説明するのに、神の選びを根拠にして論じたローマ書九章と同じです。パウロは、「こうして、神は御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされるのです」と言っています(ローマ九・一八私訳)。
 イエスを遣わされた父(の選びと働き)によってイエスのもとに来て、イエスに属するようになった者は、イエスが終わりの日に復活させてくださると、この福音書は断言します。この福音書のイエス、すなわち復活者イエスは、すでにこの六章の「いのちのパン」の対話の前半において、繰り返しこのことを「父の意志」として宣言しておられました。
 「わたしを遣わされた方の意志は、彼がわたしに与えてくださったものすべてを、わたしが彼から去らせることなく、終わりの日に復活させることである」。(三九節)
 「わたしの父の意志は、子を見て信じる者が皆、永遠の命を持ち、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」。(四〇節)
 イエスに属する者は父が引き寄せてくださった者であることが語られた機会に、改めてイエスが御自身に属する者を終わりの日に復活させてくださることが宣言されます。

信じる者は現在すでに永遠の命を持っているという使信がヨハネ福音書の特色です。共観福音書やパウロ書簡に見られる終わりの日における死者の復活の約束は、ヨハネ福音書ではこの六章に集中して四回出てくるだけで、他にはありません。それで、この約束は後の編集者による挿入であると見られています。たしかにこの箇所では、四五節の預言書の引用は、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださるのでなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」ということの根拠づけであって、その文に自然に接続します。終わりの日の復活の約束は、やや不自然に割り込んできています。しかし、そうだからと言って、この文をテキストから取り除くことは許されません。編集過程の探求としては意味がありますが、この福音書の使信の内容を受け取るさいには、現在あるままの形で読まなければなりません。この問題は、六章の講解のまとめとして最後に取り扱うことにします。

 「預言者の書に、『かれらはみな神に教えられる者になるであろう』と書かれている。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」。(四五節)

 「かれらはみな神に教えられる者になるであろう」という預言書の言葉は、正確に一致する句は(七十人訳ギリシャ語聖書には)ありません。イザヤ書五四・一三に、これに近い表現があります。イザヤ書のこの箇所は七十人訳ギリシア語聖書では、「あなたの子らはみな神に教えられた者となり」となっています。また、「新しい契約」を預言したエレミヤ(三一・三三)は、「わたしは、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と言っています。著者は、前節の「父が引き寄せてくださる」ということを聖書で根拠づけるために、記憶から引用してこのように書いたと見られます。
 「神に教えられた者」、すなわち「父から聞いて学んだ者」は、復活者イエスに輝く神の栄光を見ます(コリントU四・六)。御霊の導きを受けている者は、御霊によって(それはわたしたちの内における父の働きです)復活者イエスに現れている「神の恩恵の事態」を理解します(コリントT二・一二)。このように「父から聞いて学んだ者」は、復活者イエスのもとに来ないではおれません。

 「神のそばにいる方以外に、父を見た者はない。その方だけが父を見たのである」。(四六節)

 ここで但し書きがつきます。「父から聞いて学んだ者」と言っても、人間は直接父のそばに座し、父を見てその声を聞くことはできません。それができるのは「神のそばにいる方」だけです。その方だけが父を見て、わたしたちに教えてくださるのです。
 このことはすでに序詩で謳われていました(一・一八)。「世に来る」とか「天から降る」前に、神と共にいました先在の「ひとり子」だけが、神を見ておられたのです。その「ひとり子」が世に来て、神の奥義を「解き明かされた」のです。わたしたちはこの方に教えられてはじめて、父を知るのです。
 ここでの論理は循環しています。父から聞いて教えられた者だけが復活者イエスのもとに来ることができると宣言した直後に、父から教えられるのは復活者イエスによらなければならないと付け加えられています。この循環の外にいる者が、この循環の中に入るにはどうすればよいのでしょうか。そこには論理的な入口はありません。身を躍らせて飛び込む飛躍しかありません。復活者イエスの中へ自分の全存在を投げ込むのです。それが信仰です。

永遠の命

 「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。信じる者は永遠の命をもっている」。(四七節)

 ここでヨハネ共同体は改めて、アーメンを繰り返す荘重な形で、復活者イエスの言葉を世に告知します。それは、論争相手のユダヤ教会堂に対するヨハネ共同体の宣言です。「信じる者は永遠の命をもっている」という告知は、ヨハネ福音書の中心に位置する告知です。「もっている」は現在形です。信じる者は現在すでに「永遠の命」を持ち、その命に生きているという告知が、この福音書の最大の特色です。
 ユダヤ教では「永遠の命」は将来のことでした。来るべき神の国に入り、そこで生きる命が「永遠の命」でした。その時に永遠の命を「受け継ぐ」には今どうすればよいかが、敬虔なユダヤ教徒にとって最大の真剣な問いでした(マルコ一〇・一七参照)。
 ユダヤ教では、終わりの日に永遠の命を受け継ぐのは、この世で神の律法を順守する者であるという原理は自明のことでした。それに対してイエスは、義とされて神の国を受け継ぐ者、すなわち永遠の命を受け継ぐ者は、律法を順守したことを根拠にする者ではなく、律法順守の点では落第とされ「罪人」とされるが、父の無条件の恩恵を砕けた心で受け入れる「貧しい者」であるとされました。これはユダヤ教の原理を覆す宣言ですから、イエスはユダヤ教を代表する最高法院から死刑の判決を受けることになります。
 パウロも、義とされ救いにあずかるのは、ユダヤ教律法の順守は条件ではなく、ただ復活者イエス・キリストを信じて受け入れ、復活者キリストと共に生きるキリスト信仰によるという福音を、異邦人に宣べ伝えました。その中で、救いの根拠を律法の順守ではなく信仰であるとしただけでなく、その救いは将来のことだけではなく、キリストにあって賜る聖霊により現在すでに体験しているという面を強調しました。
 ヨハネ福音書は、この救いの現在性を中心の使信として、「信じる者は永遠の命をもっている」と宣言します。ヨハネ福音書においては、「永遠の命」はもはや将来神の国が到来するときに与えられる命ではなく、今現在信じる者が生きる命となります。この現在性を中心に据えるために、どうしても将来のこと、終末の事態と受け取られやすい(黙示思想でよく用いられる用語である)「神の支配」とか「神の国」という表現は避けられて、「いのち」という用語が中心に来ることになります。
 ヨハネ福音書は、生まれながらの人間が自然に生きている「いのち《ビオス》」とは別の、「上から」与えられる新しい種類の命を「永遠の命《ゾーエー》」と呼び、その命をこの世に告知するために書かれた福音書です。「永遠の命」の「永遠の」は、いつまでも続いて無くならないという時間的な意味ではなく、また(ユダヤ教のように)将来の永遠の世界(来世)で与えられる命という意味でもなく、人間が現在生きる命のことですが、それが生まれながらの自然のいのち《ビオス》とは別の種類の命であることを示しています。その命を指すときには、この福音書はいつも《ゾーエー》という語を用います。「永遠の」をつけて「永遠の《ゾーエー》」と言うときも多くありますが、「永遠の」をつけないで《ゾーエー》だけでこの別種の命を指すこともさらに多くあります。
 こうして、ヨハネ福音書は「永遠の命」を巡る対話編であり、「いのちの書」という性格の福音書になっています。すでに三章の「ニコデモとの対話」において、この《ゾーエー》がどのようにして生まれるのかが語られていました。この六章では、このいのち《ゾーエー》を養う糧「いのちのパン」を主題として、この《ゾーエー》の質がさらに詳しく展開されることになります。

信じる者

 この福音書が世界に告知する福音は、律法を行う者、修行を積む者、悟りを開いた者などではなく、「信じる者」が永遠の命を得るということです。他に何の条件もありません。もちろん、この福音書が「信じる者」というとき、それは「イエスを信じる者」を指しています。この福音書のイエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(六・三五)と言っておられます。この「わたしを信じる者」が、「わたしを」が当然のこととして省略され、「信じる者」と言われます。これは、パウロが「キリストの信仰」をただ「信仰」と呼ぶことが多いのと同じです。
 ところで、この福音書が「わたしを信じる」とか「神が遣わされた者を信じる」と言う時の「を信じる」は、英語のintoに相当する前置詞《エイス》を伴っています。英語で表現すれば believe into him というような表現です。この表現は、イエスを神の子キリストと信じて、この方に自分の存在を投げ込み委ねるというような意味合いを示しています。パウロが《エン・クリストー》(キリストにあって)と表現している現実(信じてキリストと結ばれて生きている現実)をヨハネはこのように表現するのです(六・二九の講解を参照)。
 「信じる者」がこのような内容であることが分かると、この福音書が言う「信じる者は永遠の命をもっている」という告知は、パウロが告知する「信仰によって義とされる」という福音と同じであることが分かります。パウロはなお「義とされる」というようなユダヤ教の背景が強い用語を用いていますが、ヨハネは「命を得る」という一般の異邦世界の人々に親しみ深い表現で語ります。

食べると死ぬことがない生けるパン

 「わたしが命のパンである」。(四八節)

 イエスはすでに、パンを求める群衆に「わたしが命のパンである」と宣言しておられます(六・三五、その意義についてはその節の講解を参照)。ここで改めて、そのパンがどのような性質のパンであるかが、マナと比べて語り出されます。あなたたちユダヤ人は先祖が荒野で天から下ってきたマナを食べたことを誇りとして語り伝えているが、マナではなく「わたしが」命のパンである、すなわち復活者イエスこそ命のパンであると宣言され、続いてマナとの違いが明らかにされます。

 「あなたたちの先祖は荒れ野でマナを食べたが、死んだ」。(四九節)

 モーセの書に記されているように、ユダヤ人の先祖たち、すなわちモーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、天から下った不思議な食べ物「マナ」を食べて、荒野の四十年を生き延びました。しかし、その食べ物「マナ」は生まれながらの自然の命《ビオス》を養う食べ物であって、いくら奇跡的な食べ物で養われても、その自然の命は結局は死ななければなりません。事実、マナを食べたイスラエルの民は荒野で死に絶えました。
 それに対して、このパンを食べる者は死ぬことはないと宣言されます。

 「これは天から降ってきたパンであり、それを食べる者は死ぬことはない」。(五〇節)

 「これ」は、「わたしが命のパンである」と宣言される「わたし」、すなわち復活者イエスを指します。この方こそ「天から降ってきたパン」であり、このパンを食べる者は「死ぬことはない」のです。それは、このパンを食べる者とは復活者イエスの中に自分を投げ込み、復活者イエスと共に生きる者であるからです。復活者イエスと共に生きる命、上から賜った御霊の命《ゾーエー》には死はありません。復活者イエスはすでに死に打ち勝っておられ、永遠に生きておられるからです。この命は死なない命ですから、「永遠の命」と呼ばれます。人間が生まれながらに生きている自然の命《ビオス》は死にますが、キリストにあって御霊により賜る上からの命《ゾーエー》は死にません。
 そしてさらに、「死なない」ことが、続いて「永遠に生きる」という表現で繰り返されます。

 「わたしは、天から降ってきた生けるパンである。人がこのパンを食べるならば、永遠に生きるようになる」。(五一節前半)

 「生けるパン」は、パン自身が生きていることを意味しています。イエスは復活者として永遠に生きておられ、そのような方として、ご自身に結びつく者に永遠の命をお与えになるのです。「このパンを食べる」者は、永遠に生きておられる復活者イエスと結び合わされ、復活者イエスと共に生きるのですから、「永遠に生きるようになる」のです。
 こうして、前段でイエスがなされた「わたしが命のパンである」という宣言(三五節)が引き起こしたユダヤ人からの抗議と非難(四一〜四二節)に対して、ヨハネ共同体は改めて復活者イエスこそ永遠の命であることを告白し、反論します(四三〜五一節)。
 その反論の最後に加えられた言葉(五一節後半)が、ユダヤ人の間にさらに激しい議論や批判を引き起こし、その批判に対してヨハネ共同体が行う反論が、「いのちのパン」に関する対話の最後のまとまり(五二〜五八節)を形成します。

人の子の肉を食べる

 「そして、わたしが与えることになるパンとは、世の命のためのわたしの肉である」。(五一節後半)

 最後に、イエスが「いのちのパン」として世にいのちを与えるのは、どのようにしてなされるのかが語り出されます。それは「わたしの肉」を与えることによってなされるのです。そして、この「わたしの肉」を与えることによって命《ゾーエー》を与えるという宣言が、ユダヤ人の間にさらに激しい議論と批判を引き起こします。

 するとユダヤ人たちは互いに激しく議論し始めて言った、「この男はどうして自分の肉をわれわれに与えて食べさせることができるのか」。(五二節)

 イエスが「わたしが与えることになるパン」と言われたときの動詞「与える」は未来形です。これは、この対話の時から見て将来に起こる十字架の出来事を指しています。「わたしが与えることになるパンとは、わたしの肉である」とは、十字架にイエスがその身体を引き渡して(献げて)苦しみをお受けになることを指しています。その十字架の出来事こそ、「世に命を与えるために」イエスが引き受けられた苦しみであり、それによってイエスは世に命《ゾーエー》をお与えになるのです。

この福音書の他の箇所ではあまり用いられない「肉」という語と、「噛む」という特別な動詞(五四節の注を参照)を用いたこの箇所(五一節後半〜五八節)は、他の箇所の「肉」の用例と整合しないこともあって(一・一三、三・六、六・六三、八・一五と比較せよ)、後の編集者による挿入であると、多くの研究者が見ています。その場合編集者は、最後の晩餐でイエスがパンを渡して、「これはわたしの体である」と言われたことを念頭に置いて、六章の命のパンについての対話を聖餐に結びつけようとしたと見られています。この箇所(五一節後半〜五八節)はヨハネ共同体の聖餐儀礼の用語が強く反映していると見られます。なお、そこで体《ソーマ》ではなく、肉《サルクス》が用いられているのは、より原初的な伝承を用いているからであると考えられます。イエスが用いられたアラム語《ビスラ》またはヘブライ語《バーサール》は、肉と(生きた)体の両方を意味します。七十人訳ギリシャ語聖書はこれを《サルクス》(肉)と訳しています。それがヘレニズム世界での伝承の過程で、より広範な意味を担いうる《ソーマ》(体)に移り、パウロや共観福音書ではもっぱら《ソーマ》(体)が用いられるようになります。その移行には「霊と肉」の対立という神学的な思想が影響した可能性も考えられます(六・六三参照)。聖餐のパンをキリストの「肉」《サルクス》と呼ぶ古い伝承は、アンティオキアのイグナティオス書簡(107年)にも見られます。

 ユダヤ人は「十字架の言葉」につまずくのです。すなわち、ナザレ人イエスの十字架上の死は、復活者キリストがわたしたちの罪のために死なれた死であって、そのキリストの死によってわたしたちは「あがない」を得て救われるのである、という福音の告知に反発します。彼らはイエスが復活者キリストであると信じないので、一人の人間の死が永遠の命を与える出来事となることはあり得ないとして、この福音を拒否するのです。
 先にユダヤ人は、イエスが「天から降った方」であるという主張につまずきました(四一〜四二節)。これはイエス復活の告知に対する反発です。ヨハネ共同体はイエスを復活された方として告知するので、地上のイエスは「天から降った方」として描かれることになります。それに対してユダヤ人はイエス復活の告知を信じないので、イエスをその両親をよく知っている一人の地上の人間としてしか見られないのです。
 ここ(五一〜五二節)では、ユダヤ人はイエスの十字架についての福音の告知に反発します。そして、この二つの反発は、実は一つのことです。根っこは一つで、それはイエスを復活者キリストとして受け入れない不信仰です。イエスの復活を信じないとき、イエスが「天から降った方」、すなわち神と共にいました方の受肉であるという主張はとうてい受け入れることはできません。また、復活を否定して、イエスを地上の一人の人間であるとする以上、その方の十字架の刑死をすべての人の救済の出来事であるという告知は受け入れることができないのは当然です。
 このユダヤ人の不信仰に対して、ヨハネ共同体は自分たちの信仰告白を、荘重なアーメン句を用いたイエスの言葉の形で突きつけます。以下は、説得のための議論ではなく、ヨハネ共同体の体験の証言であり、真理の宣言です。

 そこでイエスは彼らに言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。あなたたちは、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、自分たちの中に命はない」。(五三節)

 同じことが「わたしの肉、わたしの血」と言われている次の五四節との並行関係から、ここの「人の子」はイエスご自身を指していることは明らかです。「人の子」とは本来終末的・超越的な審判者・救済者を指しますが、ヨハネ福音書はイエスを「天から降った」すなわち「受肉した」復活者であるとし、イエスを地上に下った「人の子」とします(一・五一、三・一三〜一五、五・二七〜二八など)。したがって、「人の子の肉」、「わたしの肉」は人間イエスの身体的・物質的な肉ではなく、復活者にして受肉者であるイエスの全存在を指すことになります(六・二七、六・六三)。
 「人の子の肉を食べなければ、命はない」という言葉だけで十分衝撃的ですが、さらに「その血を飲まなければ、命はない」とショッキングな言葉が続きます。「その血を飲む」という言葉は、「肉を食べる」と一対となって、復活者にして受肉者であるイエスの全存在を自分の中に受け入れることを指しています。
 パンについての対話の中に突然「血を飲む」ことが入ってくるのは、この箇所がパンとぶどう酒が一対となって構成される聖餐儀礼を念頭において語られているからであると考えられます。しかし、「血を飲む」ことは律法によって堅く禁じられていること(レビ記一七・一〇以下)であるので、この表現はユダヤ人には強烈なショックを与えることになります。
 ここまでは、「わたしは、天から降ってきた生けるパンである。人がこのパンを食べるならば、永遠に生きるようになる」(五一節前半)と言われてきました。この「パンを食べる」ということが、ここで「肉を食べ、血を飲む」という形に言い直されていることになります。これは、イエスを「天から降ってきた方」と信じることは、十字架の上に肉を裂き血を流して死なれたイエスを受け入れ、その方と一体になることであると言っているのです。「肉を食べ、血を飲む」とは、十字架されたキリスト・イエスを全存在をもって受け入れ、その方と合わせられることです。
 イエスは十字架の死に引き渡される日の前夜、弟子たちと最後の食事をされたとき、パンを取って祝福し、裂いて弟子たちに渡し、「これはわたしの体である」と言われました。また、杯を祝福し、弟子たちに回して、「これはわたしの血である」と言われました(マルコ一四・二二〜二五)。ヨハネ共同体もこの「最後の晩餐」の伝承は受け継いでいるはずです。ヨハネ福音書は、この「最後の晩餐」の伝承を、このようにイエスの「肉を食べ、血を飲む」者が命《ゾーエー》を得るという形で、福音の告知とするのです。

ヨハネ共同体が「最後の晩餐」の伝承に従って「主の食卓」(聖餐儀礼)を行っていたかどうかの問題、また、この箇所をはじめサクラメント(聖礼典)に関係すると見られている箇所の意義については、後でまとめて「ヨハネ福音書とサクラメント」の項で取り扱います。

 十字架された復活者キリストに自分の全存在を投げ入れ、その方の十字架の死に合わせられて自分が死に、復活者と共に新しい自分が生き始めるのでなければ、「永遠の命」はない。その他には「永遠の命」に至るいかなる道もない。どのような難行苦行も、ユダヤ教律法の厳しい順守も、どのような宗教的・道徳的価値も、人間に「命」《ゾーエー》を与えることはできない。命《ゾーエー》を与えるのは、十字架につけられた復活者イエス・キリストだけである。これが、ヨハネ福音書が世に向かって、とくにユダヤ教会堂に向かってする宣言です。
 そして、この告白・宣言が、少しずつ表現を変えて繰り返されます。

 「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしはその人を終わりの日に復活させる」。(五四節)

 前節で「人の子の肉を食べ、その血を飲む」と言われたことが、ここで「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む」と、少しだけ違った形で表現されます。前節の「人の子」がここでは「わたし」になっていて、「人の子」がイエスの自称であることが確認されます。また、「肉を食べる」が「肉を噛みしめる」というこの福音書独自の表現で語られます。

「噛みしめ」と訳した動詞は、普通「食べる」と訳されていますが、ここの動詞は五三節までの「食べる」とは違う動詞が用いられており、原意は「咬む、、かじる、噛む」です。この動詞はマタイ二四・三八に出てくる以外は、ヨハネ福音書だけで用いられています(5回)。ヨハネ一三・一八では、裏切るユダについて、イエスの仲間であることを示すのに、「わたしのパンをかじる者」という形で用いられています。他の4回はみなこの段落(六・五四〜五八)に集中しています。「肉」という表現に合わせて、「かじる、噛む」という動詞が用いられたのでしょう。

 しかしこの節は、否定の形で語られていた前節を肯定の形で言い直しただけの繰り返しではなく、人の子の肉を食べその血を飲む者は現在すでに永遠の命を持つという宣言に、「わたしはその人を終わ2. りの日に復活させる」という重要な約束が加えられています。「復活させる」という動詞は未来形です。復活者イエスは、終わりの日に御自分に属する者を復活させてくださるという約束は、すでにこの六章で三回語られていました(三九節、四〇節、四四節)。信じる者は現在すでに永遠の命を持っているという使信を中心に据えているヨハネ福音書に、このような終わりの日の復活の約束が(この六章だけに)加えられていることは、この福音書の理解にとって重要な問題を投げかけているだけでなく、キリストの福音の理解そのものにとっても重要な意義をもっています。この問題は六章の終わりに、この章のまとめとして別に取り上げます(「補論―永遠の命と死者の復活」参照)。

 「わたしの肉こそまことの食べ物であり、わたしの血こそまことの飲み物だからである」。(五五節)

 先に、モーセが天から与えたとされるマナではなく、天から降ってきた方(人の子)であるイエスこそ「本物のパン」であることが宣言されていました(三二〜三三節)。そして、その「本物のパン」を食べるとは、イエスを信じること、すなわち、復活者イエスに自分を投げ込むことであると語られていました(三五節)。この段落(五二〜五八節)では、「パンを食べる」ことが「肉を噛みしめ、血を飲む」と言い直されていますが、これはたんに表現を変えただけではなく、ここに見たように、「十字架につけられた」復活者キリストを信じることが永遠の命、まことの命《ゾーエー》であることを主張しているのです。
 「わたしの肉、わたしの血」で指し示されている「十字架につけられたキリスト」こそ、それを食べる者(信じる者)に永遠の命を与える「まことの食べ物、まことの飲物」なのです。ここで用いられている「まことの」は、著者特愛の「真理」《アレーセイア》という語の形容詞形で、象徴や影に対して本体であることを指しています。マナを食べたという不思議な体験も、それにあずかる者に命を与えるとされる諸々の宗教的祭儀も、それを行えば命に至るとされる戒律も、すべて本物を指し示す象徴であり、本体を予告する影にすぎません。「十字架につけられたキリスト」こそ、それを信じる者、その中に自分を投げ入れる者に現実に永遠の命を与える霊的リアリティー、本体なのです。

三二節では《アレーシノス》という形容詞、五五節では《アレーセース》という形容詞が用いられています。両方とも《アレーセイア》(真理)の形容詞形です。辞書によりますと、前者《アレーシノス》は「まがいものや不完全なものではなく本物である」という意味、後者《アレーセース》は「事実に即して真である、偽っていない」という意味です。この翻訳では、前者を「本物の」、後者を「まことの」と訳しています。

 「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者は、わたしの中にとどまり、わたしもその人の中にとどまる」。(五六節)

 「とどまる」はこの福音書特愛の動詞です。パウロが「わたしはキリストの中に、キリストはわたしの中に生きる」と言った霊の次元の消息を、ヨハネは「その人はわたしの中にとどまり、わたしもその人の中にとどまる」と表現します。この「わたし」は復活者イエス・キリストです。パウロにおいても、このような境地は「十字架につけられたキリスト」に合わせられて自分が死んだ場で実現する境地でした。その「十字架につけられたキリスト」に合わせられた姿を、ヨハネは「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者」という表現で指し示すのです。この節の境地は、パウロの「キリストにあって」自分が死に、復活者キリストが自分の中に生きておられるという告白と同じです。

 「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを噛みしめる者はわたしによって生きるようになる」。(五七節)

 万物の創造者である父こそあらゆる種類の命の源泉であり、当然この福音書が語る「永遠の命」《ゾーエー》の源泉でもあります。そのことが「生ける父」と表現されています。イエスはその父から遣わされた方として、父からの命を受けて、父と同じ命に生きておられます。ここの「わたし」は復活者イエス・キリストです。「わたしが生きている」の「生きている」は現在形です。復活者イエス・キリストが現在生きておられる命こそ、すでに死に打ち勝った「永遠の命」です。そして、「わたしを噛みしめる者」、すなわち「十字架につけられたキリスト」に合わせられる者は、この復活者キリストによって「生きるようになる」のです。
 この「生きるようになる」は未来形です。その未来形は、現在から始まり「永遠」を目指す未来形です。死にも妨げられないで続く未来形です。その意味で、キリストにあって始まった命は死者の復活を望み見て生きる命です。そのような希望を本質とする命であることが、この未来形にこめられています。
 そう言えば、使徒パウロもキリストにある者が「生きる」ことについては未来形を用いていたことが思い起こされます。たとえば、キリストにある者は、キリストの死に合わせられて死ぬことにより罪の支配から解放され、復活者キリストと共に生きるようになる消息を詳しく語る段落(ローマ六・一〜一四)で、パウロは「もしキリストと共に死んだのであれば、キリストと共に生きるようになることをわたしたちは信じています」(ローマ六・八私訳)と言っています。この文で、「死んだ」は過去形ですが、「生きるようになる」は未来形です。パウロにおいても、キリストにあって始まった新しい命は未来に向かっているのです。その命は現在始まっており、死者の復活を目指して未来に向かっています。このように、ヨハネ福音書もパウロの路線の延長上にあることが分かります。
 この未来形は、信じる者は現在すでに永遠の命を持っているとするこの福音書の基本的主張と矛盾しません。現在キリストにあって与えられている命が、未来を志向せざるをえない質のものであることを示しているのです。

 「これは天から降ってきたパンであり、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを噛みしめる者は、永遠に生きるようになる」。(五八節)

 「わたしの肉こそまことの食べ物、わたしの血こそまことの飲み物」と言って、「十字架につけられた復活者キリスト」こそ永遠の命を与えるまことの命の糧であることを証言したこの段落(五二節以下)は、最後に「これは天から降ってきたパンである」と言い直して、先の「いのちのパン」の段落(二二〜四〇節)と結びつけ、二つの段落を一つの使信にまとめます。その結果、本来「肉を噛みしめる」という形で用いられていた動詞が、パンについてもそのまま用いられ、「パンを噛みしめる」という形になっています。
 先の段落では、イエスは復活者キリストが地上に現れた姿であるのだから(これが「受肉」の信仰です)、イエスこそ「天から降ってきた方」であり、そのような方として「世に命を与える者、神のパン、本物のパン」であることが主張されていました(三二〜三三節)。それが、この段落でその復活者キリストが「十字架につけられたキリスト」であることが明らかにされて、改めてその「十字架につけられたキリスト」こそが「天から降ってきたパン」であるとされ、「このパンを噛みしめる者(食べる者)は、永遠に生きるようになる」と宣言されます。
 先の段落でも、マナではなく、イエスこそ「天からのパン」であることが語られていましたが(三〇〜三五節)、ここで改めてマナとの対比が取り上げられ、先に語られていたマナとの対比(四七節〜五一節後半)が要約されて繰り返されます。マナを食べた先祖たちは「死んでしまった」が、「このパンを噛みしめる者は、永遠に生きるようになる」と宣言されます。ここで、この「永遠に」は、この傍点部分の対比が示しているように、この命が死を乗り越える質の命であることを指しています。そして、この死を乗り越える質が、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」という約束の言葉として表現されるのです。この終わりの日の復活の約束は、ヨハネ福音書にふさわしくないものではなく、「永遠の命」の必然的な一面です(「補論―永遠の命と死者の復活」参照)。

 これらのことは、イエスがカファルナウムの会堂で教えて語られたものである。(五九節)

 この「いのちのパン」についての対話は、対岸から舟に乗ってカファルナウムまでイエスを探しに来た群衆との対話として描かれていました(二四〜二五節)。それで湖岸で行われた対話のような印象を与えますが、最後にこの対話が「カファルナウムの会堂で」行われたものであるとの説明が加えられています。これはおそらく、対話の後半(四一〜五八節)で、対話の対象が「群衆」から「ユダヤ人」に変わったことの結果であると考えられます。すなわち、この対話(とくに後半の対話)は、ユダヤ教会堂勢力に対するヨハネ共同体の弁証として書かれたので、イエスの言葉は会堂に集まるユダヤ人たちに向けられたものとされたのでしょう。誰に向かって語られたにせよ、この六章の「いのちのパン」についての証言は、ヨハネ共同体の福音そのものであることに変わりはありません。

補論―ヨハネ福音書とサクラメント

解釈の二方向

 この段落の後半部(五一節後半〜五八節)では、イエスの「肉を食べ、血を飲む」ことが永遠の命であるという主張がなされていました(五四節参照)。「わたしの肉、わたしの血」とか「肉を食べ、血を飲む」という表現は明らかに聖餐伝承を響かせていますので、ここでヨハネ福音書が聖餐をどのように取り扱っているかを、ひいてはバプテスマを含むサクラメント(聖礼典)をどのように扱っているかをまとめておきましょう。
 ヨハネ福音書を他の三福音書と並べて較べると、最後の夜のことを語るところで、「最後の晩餐」の記事がないという事実に驚きます。ヨハネ福音書も、最後の夜にイエスが弟子たちと一緒に食事をされたことは伝えています(一三・二、一三・二三)。しかし、共観福音書が伝えているような「最後の晩餐」の記事(マルコ一四・二二〜二五とその並行箇所)はなく、代わりにイエスが弟子たちの足を洗われたことを伝える記事と、その後にイエスが語られた長い訣別の説話が置かれています。
 ヨハネ共同体が聖餐伝承を知らないことは考えられません。この福音書に登場する無名の「イエスが愛された弟子」は、最後の夜の食事の席にいたのです(一三・二三)。この弟子がヨハネ福音書の著者であるかどうかは別としても、ヨハネ共同体はこの弟子からイエスに関わる伝承を受け継いだことは確かです(二一・二四)。それだけに、聖餐の制定記事がないことは驚きであり、知っていながら書かなかったとすると、そこに特別の意図とか意味があると考えざるをえません。
 ヨハネ共同体がパンとぶどう酒を用いる聖餐儀礼を行っていたかどうかについては、行っていたとすることも、行っていなかったとすることも、ヨハネ文書(福音書と手紙)には直接的で明白な証拠はありません。それはヨハネ文書の解釈によらなければなりません。バプテスマを授けていたかどうかの問題についても同様です。
 ヨハネ福音書がサクラメントをどう扱っているかについて、研究者の解釈は大別すると二つの傾向があります。一方では、ヨハネ福音書は象徴的な形ではあるがサクラメントに言及している箇所は多くあり、ヨハネ福音書はサクラメントを推進または擁護しているという解釈です。他方、ヨハネ福音書はサクラメントに反対であるか、反対とまで行かなくても無関心であるという解釈です。もっとも、実際の注解においては中間的な立場を取る場合が多いようです。
 現代の教会はほとんどすべて聖餐と洗礼をサクラメントとして扱っています。すなわち、それにあずかることによってキリストへの所属が確認され、救いが保証される、神によって定められた聖なる儀礼として扱っています。このような教会の立場に立つ限り、そしてヨハネ福音書を正典として受け入れる限り、何らかの程度においてこの福音書がサクラメントを擁護していると解釈せざるをえません。カトリック系の研究者が擁護派であるのは当然ですが、プロテスタント系の学者にも擁護派が多くいます。しかし、学術的な視点からヨハネ福音書だけに即して解釈する研究者には、擁護派だけでなく反対派も含まれることになります(ここで擁護派とか反対派というのは、その研究者自身がサクラメントを擁護するとか反対するという意味ではなく、ヨハネ福音書がサクラメントを擁護しているとか反対していると解釈するという意味です)。

バプテスマ

 いま教会的な立場を離れて、この福音書を成立の状況において理解しようとすると、どうなるでしょうか。まず、ヨハネ福音書には「バプテスマを授けよ」という明白な命令がないので、ヨハネ共同体はバプテスマを行っていなかったという議論は成り立ちません。それはマルコ福音書にもルカ福音書にもありませんから、明白な命令を伝えているマタイの共同体以外はバプテスマを行っていなかったことになり、事実と反します。初期の福音宣教においては広く、バプテスマによってイエス・キリストへの信仰告白がなされていました。パウロも、自分自身は例外的にしかバプテスマを授けなかったとしていますが、バプテスマがその頃のキリスト信徒の通例の体験であったことを前提にして語っています。
 自分たちが行っていない水のバプテスマを比喩として、あるいはそれと対照して聖霊のバプテスマを強調することは不自然ですから、ヨハネ共同体はバプテスマを行っていたと推察する方が妥当だと考えます。ヨハネ共同体は最初、洗礼者ヨハネの弟子たちの中でイエスを信じた者たちによって始まりましたので、水のバプテスマの意義と重要性はよく理解しているはずです。イエスご自身がバプテスマを授ける活動をされていた事実を伝えるのもヨハネ福音書だけです。
 ヨハネ共同体がバプテスマを行っていたとしても、この福音書は水によるバプテスマと聖霊によるバプテスマの区別を鮮明にして、洗礼者ヨハネが水のバプテスマを授けたのに対して、復活者イエスは聖霊によるバプテスマを授ける方であることを強調していることは、一章(とくに三二〜三四節)で見た通りです。ヨハネ福音書はバプテスマという儀礼的行為を象徴として用いて、聖霊を受けるという霊的次元の体験を指し示し、そこに入るように招いていることは明白です。パウロが「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです」(ガラテヤ六・一五)と言ったように、ヨハネ福音書は「水のバプテスマの有無は問題ではなく、大切なのは御霊によって上からの新しい命を受けることです」と言っていると理解してよいでしょう。

バプテスマにおける水と霊の関係については、三章五節の「誰でも水と霊から生まれるのでなければ、神の国に入ることはできない」という言葉が重要ですが、これについては本書113頁のこの節についての講解を参照してください。

聖餐

 聖餐については、状況はやや複雑です。今回取り扱った箇所(六・五一b〜五八)は、「わたしの肉、わたしの血」とか「肉を食べ、血を飲む」という表現に見られるように、ヨハネ共同体が聖餐伝承を熟知していることを示していますから、当然共同体は聖餐を行っていたと推察されます。それにもかかわらず、どの共観福音書にも伝えられている「制定記事」がないことが問題になります。先に見たように、著者または伝承の起源と見られる「イエスが愛された弟子」は最後の夜に行われた食事の席にいたのですから、この省略は意図的であると考えざるをえません。

ヨハネ福音書が伝える通り、最後の夜の食事の席でイエスは「これを行え」というような命令は与えられなかったとし、共観福音書の制定記事は初代教団の作為であるとするのは、さらに大きな困難を抱え込むことになりますので、ここではこの可能性は除外します。

 この箇所(六・五一b〜五八)の存在と一三章に「聖餐制定記事」がないことの関係は、以下のように説明されることがよくあります。すなわち、原著者が最後の夜の食事に制定記事を入れなかったのは行き過ぎであり不適切であると感じた後の編集者が、六章のパンについての対話の中に聖餐の意義を説くこの一段を挿入したという説明です。この解釈によると、原著者は当時聖餐が儀礼化してゆくことに抗議し、聖餐の儀礼化を克服しようとして、そもそも主イエスはそのような儀礼を行うことは命じておられないとしたのであるが、後になって聖餐を行っている周囲の諸潮流と協調するため、編集者がこの一段を挿入して、この福音書を生み出した共同体(ヨハネ共同体)も聖餐を行っていることを示し、共同体の霊的理解を強調したものとするのです。
 たしかに、「肉」《サルクス》という語の用例が他の本体部分と異なるなど、この一段が後の挿入であることを示唆する事実があり(五二節についての注記を参照)、その可能性は否定できません。しかし、編集過程を検討して原著の形を推察し、編集による部分を排除して原著の使信だけを受け取ろうとすると、原著の部分は何かについて際限のない議論が続くだけです。重要なことは、現形のヨハネ福音書が初期の信徒共同体に正典として受け入れられていた事実です。わたしたちは現形のヨハネ福音書が現在のわたしたちに何を訴えるのかを聴き取るべきです。
 この一段をヨハネ共同体が行っていた聖餐の霊的意義づけとして受け取ることはできますが、それでもなお、最後の食事の席でイエスがパンとぶどう酒の意義について語られた言葉や、聖餐を制定する命令を全然伝えていないのはなぜかという問題は残ります。この事実は何を意味するのでしょうか。

サクラメントの相対化

 NTD新約聖書注解の「ヨハネによる福音書」で、シュルツは「第四福音書記者はサクラメントに反対しなかった。むしろ洗礼と聖餐を知っていて、自明のこととして前提しているのである」とした上で、こう言っています。
 「当時おそらく既に広範囲に広まっていたと思われる祭儀上の慣例である礼拝式やサクラメントに対し本福音書記者が示すこの故意の無関心は、極めて奇異なことである。・・・・ヨハネの神学の中心をなすのは先在の救済者の下降と上昇である。人間イエスにおいて信仰者と出会うのは神に遣わされた者である。肉となったことばにおいて、人間のために救いが存在し歴史がその終わりに到達しているのである。この理由から、信仰者は救いの施設としての教会や教会の役職を、また救済史を保証するものとしての伝統や救済手段としてのサクラメントを必要としないのである。このようなものが第四福音書記者にとってすべて無意味であるのは、彼にとっては人となったことばにして神の子たる方と人間の出会いのみがすべてであるからである」(松田伊作訳、傍点筆者)。
 長く引用したのは著者シュルツの意見を紹介するためでなく、このような解釈がドイツのプロテスタント教会の標準的な新約聖書注解として受け入れられているNTD新約聖書注解シリーズで公刊されているという事実に注目していただくためです。この事実は、教会の中にあってもヨハネ福音書そのものに即して読めばこのような解釈になることを示しており、教会は「救済手段としてのサクラメントを必要としない」福音を告知するヨハネ福音書を真剣に受け取らなければならないことを要請しています。
 サクラメントに反対するのではなく、その価値と意義を認めながら、「救済手段としてのサクラメントを必要としない」とすることは、サクラメントを「相対化」することだと言えます。たしかにバプテスマと聖餐にあずかることは、霊なるキリストと出会い、キリストに結ばれて生きていくという霊的な歩みにとって有益であり、御霊が働かれる機縁として重要な意義をもっています。しかし、バプテスマと聖餐は、それにあずからなければ救いはないとか、それにあずかることが救いを保証するというような意義を担った儀礼ではありません。救いに必要であるという意義を否定することは、サクラメントの絶対化を否定するということです。その上で、サクラメントの有益性を認めるのは、サクラメントの相対化であると言えます。ヨハネ福音書はサクラメントを相対化しているのです。
 このヨハネ福音書におけるサクラメントの相対化は、パウロがユダヤ教律法に基づく儀礼を相対化したのと同じ原理によっています。すなわち、パウロは御霊のキリストとの交わりの絶対性のゆえに、割礼とか食事規定というようなユダヤ教律法儀礼を相対化しました。ヨハネ福音書は、当時すでに周囲のキリスト教運動の中で絶対化の傾向を見せていたサクラメント理解を克服しようとしていると言えるでしょう。現在のわたしたちはヨハネ福音書に、このサクラメント相対化の呼びかけを聴き取るべきであると考えます。

パウロがユダヤ教律法の儀礼を「相対化」したことについては、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解U』の第九章「強い者と弱い者」(とくに241頁の「『宗教』の相対化」の項)、および拙著『教会の外のキリスト』の終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。 ヨハネはパウロの延長線上にあると見られます。