第三節 個人的な挨拶
1 わたしたちの姉妹フェベを紹介します。 この人はケンクレアイの集会の奉仕者です。 2 どうか、主にあって聖徒たちにふさわしく彼女を迎え入れ、彼女があなたがたの助けを必要とするときには、どんなことでも助けてあげてください。彼女自身多くの人の援助者となり、とくにわたしの援助者となってくれた人ですから。
3 キリスト・イエスにあってわたしの協力者であるプリスカとアキラによろしく伝えてください。4 この二人は、わたしの命のために自分たちの首を差し出してくれたのです。この二人には、わたしだけでなく、異邦人のすべての集会が感謝しています。 5 また、二人の家に集まる集会にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく伝えてください。彼はキリストに捧げられたアジア州の初穂です。 6 あなたがたのために一方ならず苦労したマリアによろしく伝えてください。 7 わたしの同国人であり同囚の仲間であったアンドロニコとユニアによろしく伝えてください。二人は使徒たちの中で際だっており、わたしよりも先にキリストにある者となった人たちです。 8 主にあってわたしの愛するアンプリアトによろしく伝えてください。 9 キリストにあるわたしの同労者ウルバノと、わたしの愛するスタキスによろしく伝えてください。 10 キリストにあって熟達したアペレによろしく伝えてください。アリストブロの家の者たちによろしく伝えてください。 11 同胞のヘロディオンによろしく伝えてください。ナルキソの家の中で主にある者たちによろしく伝えてください。 12 主にあって労しているトリファイナとトリフォサによろしく伝えてください。主にあって多く労した、愛するペルシスによろしく伝えてください。 13 主にあって選ばれたルフォスと彼の母によろしく伝えてください。彼の母はわたしの母でもあるのです。 14 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく伝えてください。 15 フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖徒たち一同によろしく伝えてください。 16 お互いに聖なる口づけをもって挨拶をかわしなさい。すべてのキリストの集会からあなたがたに挨拶を送ります。
一六章の問題
一六章(あるいはその一部)は、別の手紙がローマ書本体に付け加えられたものではないかという問題が提起され、いまだに議論が続います。その主張の主要な根拠は、写本上のものと内容上のものがあります。フェベの紹介状
「わたしたちの姉妹フェベを紹介します。 この人はケンクレアイの集会の奉仕者です」。(一節)
一〜二節はフェベの紹介状です。一六章がローマ集会あての挨拶であるとすれば、フェベはこの手紙をローマに携えていった使者である可能性があります。そうだとすると、この女性は、後に世界を変えることになる重要な文書をその身に携えて旅したことになります。フェベだけでなく、以下の人名に奴隷または解放奴隷の身分ではないかと推察される人が多く出てきます。この奴隷または解放奴隷の身分については、この時代のローマの奴隷制を解説したフィレモン書講解の「ローマの奴隷制」(拙著『パウロによるキリストの福音V』303頁以下)を参照してください。
フェベは「ケンクレアイの集会《エクレーシア》の奉仕者」であると紹介されています。ケンクレアイはコリントの南東、サロン湾に臨むコリントの外港で、東方に向かう船の出港地です。パウロはここからエルサレムに向かい、またエフェソなど東方からコリントに来るときに立ち寄ることになります。「どうか、主にあって聖徒たちにふさわしく彼女を迎え入れ、彼女があなたがたの助けを必要とするときには、どんなことでも助けてあげてください。彼女自身多くの人の援助者となり、とくにわたしの援助者となってくれた人ですから」。(二節)
パウロはフェベについて、宛先の集会に「彼女があなたがたの助けを必要とするときには、どんなことでも助けてあげてください」と頼んでいます。このような依頼は、まだ訪れたことのないローマの集会よりも、長年共に過ごして親しいエフェソの集会にふさわしいとも考えられますが、ローマ集会あてと見ることも不可能ではありません。プリスカとアキラ
「キリスト・イエスにあってわたしの協力者であるプリスカとアキラによろしく伝えてください」。
(三節)
パウロがエフェソにいた時期(53〜55年)の最後に、アルテミス神殿にかかわる騒乱が起こっています(使徒一九章)。この騒乱のためにパウロが投獄されたと考えられます。判決は確認できませんが、追放処分になった可能性はあります。そうすると、同じくエフェソでパウロと並んで指導的な立場にいたプリスカとアキラ夫妻も追放され、ローマに移住していた可能性が考えられます。
パウロは先にこの二人をエフェソに残してエルサレムに向かいました。二人をエフェソに残したのは、自分がエフェソに来て活動する計画であるので、その道備えをするためでした。同じように、ローマをイスパニア伝道の拠点としたいパウロが、自分のローマ訪問に先立って、この二人にローマに移住して、パウロの働きのための環境づくりを依頼したことも十分考えられます。「この二人は、わたしの命のために自分たちの首を差し出してくれたのです。この二人には、わたしだけでなく、異邦人のすべての集会が感謝しています」。(四節)
パウロはこの二人について、「この二人は、わたしの命のために自分たちの首を差し出してくれた」と言っています。これは、パウロの命を救うために自分たちの命を危険にさらしたという意味です。おそらくエフェソでパウロが経験した危急の場面で起こった出来事で、このようなことがあったのでしょう。パウロがその事件を具体的に語らないで、このような一般的な表現に止めているのは、それが脱獄というような非合法の行為であったので、表に出すことを避けたからである可能性もあります。先にフィリピ書の講解で見たように、パウロはエフェソで投獄されたと見られます。この事件について、パウロの生涯と使徒としての活動を小説風に描いているウォルター・ワンゲリンの「小説聖書」の第三巻「使徒行伝」は、その中でエフェソの騒乱で投獄されたパウロを、プリスカが自分をパウロの身代わりにして、パウロを脱獄させる場面があります。これは小説ですが、著者は神学者でもあり、その物語の骨格は最近のパウロ研究の成果を堅実に用いていることがうかがわれます。このような出来事は実際にはありそうではありませんが、その可能性も否定しきれません。もしそれが事実であれば、キリスト教徒がローマの法律や秩序を破る者でないことを示したいルカが、このような非合法な脱獄を含むエフェソでの入獄について語ることを避けたこともうなずけます。
この二人は、「異邦人の使徒」パウロを助けることによって異邦人への福音の宣教に貢献していただけでなく、自らもユダヤ人でありながら、パウロと同じくユダヤ教律法から自由な福音を唱えて、異邦人信徒たちを指導し励ましていたので、異邦人のすべての集会が二人を高く評価し、感謝していたことがうかがわれます。「また、二人の家に集まる集会にもよろしく伝えてください」。(五節前半)
初期においては、《エクレーシア》は個人の家に集まっていました(フィレモン二、コロサイ四・一五参照)。ローマにおいても、この時期には一つの「ローマ教会」というようなものは存在せず、以下の講解に見るように、個々の信徒の家に集まる集会《エクレーシア》や、特定の立場の人たちのグループが散在していたと考えられます。それで、パウロはこの手紙の前置きのところで、宛先として「ローマにある《エクレーシア》(単数形)」という表現ではなく、「ローマ在住の神の愛される方々、召された聖徒たち一同に」という形を用いています(一・七)。パウロの友人たち
「わたしの愛するエパイネトによろしく伝えてください。彼はキリストに捧げられたアジア州の初穂です」。(五節後半)
以下に、パウロは多くの知人・友人の名をあげて挨拶を送ります。また訪れたことのないローマにこれほど多くの知人・友人がいることは不自然であるというのが「エフェソ説」の根拠になっていますが、これも子細に検討すると、パウロがローマにこのような友人をもっていたことはありうることと考えられますので、ローマ説も十分成り立つと考えられます。「あなたがたのために一方ならず苦労したマリアによろしく伝えてください」。(六節)
ここの「マリア」は、ここに出てくるだけで、詳しいことは分かりません。おそらくユダヤ人女性で、エフェソまたはローマでの福音宣教に大きな働きをした女性であると考えられます。「わたしの同国人であり同囚の仲間であったアンドロニコとユニアによろしく伝えてください。二人は使徒たちの中で際だっており、わたしよりも先にキリストにある者となった人たちです」。(七節)
「同国人」とは、パウロと同じユダヤ人であるということです。「同囚の仲間」とは、パウロが投獄されたとき一緒に投獄された仲間を意味します。ところで、ローマ書執筆時には、カイサリアやローマでの「同囚の仲間」はありえないので、エフェソでの「同囚の仲間」となり、ここも「エフェソ説」の根拠とされるところです。「ローマ説」では、アンドロニコとユニアは出獄後ローマに移住したことになります。「主にあってわたしの愛するアンプリアトによろしく伝えてください」。(八節)
「アンプリアト」は、名前から見て、おそらく奴隷または解放奴隷の身分の人であろうと考えられます。それ以外のことは分かりません。 「キリストにあるわたしの同労者ウルバノと、わたしの愛するスタキスによろしく伝えてください」。
(九節)
「キリストにあって熟達したアペレによろしく伝えてください。アリストブロの家の者たちによろしく伝えてください」。(一〇節)
「アペレ」は、ここに出てくるだけで、詳しいことは分かりません。「同胞のヘロディオンによろしく伝えてください。ナルキソの家の中で主にある者たちによろしく伝えてください」。(一一節)
「同胞のヘロディオン」も、名前から見て、おそらくヘロデの宮廷に所属していたユダヤ人の奴隷または解放奴隷の身分の人物でしょう。「主にあって労しているトリファイナとトリフォサによろしく伝えてください。主にあって多く労した、愛するペルシスによろしく伝えてください」。(一二節)
「トリファイナとトリフォサ」は、両方とも女性名です。名前から見て、おそらく奴隷または解放奴隷の身分の女性であったと見られます。「ペルシス」も女性名です。名前から見て、おそらく奴隷または解放奴隷の身分の女性でしょう。身分の低い女性たちが、「主にあって多く労した」と言われており、初期の宣教活動がこのような女性たちによって担われていたことがうかがえます。「主にあって選ばれたルフォスと彼の母によろしく伝えてください。彼の母はわたしの母でもあるのです」。(一三節)
「ルフォス」は、名前からすると自由人であると考えられます。マルコ福音書一五・二一に、イエスに代わって十字架を背負ったクレネ人シモンに、アレキサンドロとルフォスのいう名の息子がいることが伝えられています。マルコ福音書のルフォスと本節のルフォスが同一人物かどうかが問題になりますが、確定はできません。先にあげたウォルター・ワンゲリンの「小説聖書」の第三巻「使徒行伝」は、このルフォスをマルコ福音書のルフォスと同一視して、パウロがパレスチナでルフォスの家に滞在して、母親から世話になり、また父親のシモンからイエスの十字架刑の模様を詳しく聞いたという場面を描いています。
「アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく伝えてください」。(一四節)
「ヘルメス」は、名前から見て、おそらく奴隷または解放奴隷の身分の男性です。まとめて上げられた五名の名の後に、「彼らと一緒にいるすべての兄弟たち」という句が続いているところから、彼らは一つの「家の集会」または何らかの男性結社のメンバーであったのかもしれません。最後にあげられている「ヘルマス」は、ローマで成立したとされる「ヘルマスの牧者」との関係が視野に入ってきますが、同書の成立は二世紀半ばと見られるので、ここのヘルマスが著者であることは、年代的にありえないことになります。
「フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖徒たち一同によろしく伝えてください」。(一五節)
「フィロロゴとユリア」はおそらく夫妻でしょう。ユリア(女性名)とネレウスは、名前から見て、おそらく奴隷または解放奴隷の身分であると見られます。このグループの後に「彼らと一緒にいるすべての聖徒たちに」という句が続いていることから、彼らは一つの「家の集会」のメンバーである可能性があります。「お互いに聖なる口づけをもって挨拶をかわしなさい。すべてのキリストの集会からあなたがたに挨拶を送ります」。(一六節)
初期には、キリストにある者たちは「主の晩餐」に集まるときなど、お互いに兄弟姉妹として、抱擁と口づけで、お互いに赦し受け入れている心を表しました(テサロニケT五・二六、コリントT一六・二〇、コリントU一三・一二、ペテロT五・一四参照)。使徒はローマの集会も同じように、「聖なる口づけをもって挨拶をかわす」ことで、主にある一致を現すように期待します。初期の集会の身分構成
この個人的な挨拶の段落(三〜一六節)の人名について 最初に見たように、このような多数の知人は、まだ訪れたことのないローマより、長年働いたエフェソがふさわしいと見て(他にも理由がありますが)、一六章エフェソ説が主張されることになります。しかし、パウロ書簡の結びの挨拶で、このように多数の個人名があげられるのは異例です。また、パウロは自分をよく知っている集会に挨拶を送るとき、その中の特定の個人名をあげることはありません。それだけに、これをよく知られているエフェソあての手紙とするより、知られていないローマの集会に対して、自分と関わりのある限りの知人の名をあげて、ローマにおける自分の立場を補強しようとしていると見ることもできます。これまでの伝道活動で知り合った人たちが、ローマに移住している可能性は十分にあります。とくにユダヤ人は54年の追放令廃止後に多く移住したと考えられます。17 兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。あなたがたが学んだ教えに反して、分裂やつまずきをひき起こす人たちを警戒し、そのような人たちから遠ざかりなさい。 18 このような人たちは、わたしたちの主キリストに仕えているのではなく、自分の腹に仕えているのです。そして、甘い言葉やへつらいの言葉で純真な人々の心を欺いているのです。 19 あなたがたの従順は皆に知られており、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。それでもなお、わたしはあなたがたが善にはさとく、悪には染まないでいてほしいのです。 20 平和の神が速やかにサタンをあなたがたの足の下に打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
最後の警告
使徒は、友人たちへの挨拶を書き終えて、いよいよ手紙を書き終えようとするとき、やや唐突に偽りの教えを持ち込む者を警戒するようにという警告を入れます。これまで心にかかりながら明言してなかった心配事を、最後に書かないではおれなかったのでしょう。この警告が宛先の友人たちへの挨拶と同行者からの挨拶の間に割り込んでいるという不自然な位置と、他のパウロ書簡にはあまり見られない用語と表現があることから、この部分は後の挿入であると見る研究者もあります。また、エフェソに送られた小書簡の一部であるとする立場もあります(ケーゼマン)。この種の警告を手紙に最後に書き加えるパウロの習慣(ガラテヤ六・一二以下、コリントT一六・二二)があることから、また用語も決定的な根拠にはならないことから、本来のローマ書の一部と見てよいでしょう。
「兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。あなたがたが学んだ教えに反して、分裂やつまずきをひき起こす人たちを警戒し、そのような人たちから遠ざかりなさい」。(一七節)「このような人たちは、わたしたちの主キリストに仕えているのではなく、自分の腹に仕えているのです。そして、甘い言葉やへつらいの言葉で純真な人々の心を欺いているのです」。(一八節)
パウロは、少し前に書いたフィリピ書で、「自分の腹を神としている」人たちが、「十字架に敵対して歩み、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない」と書いています(フィリピ三・一八〜一九)。「自分の腹を神としている」とか「自分の腹に仕える」というのは、ユダヤ教の食事規定を順守することを至上の価値とすることだとする解釈もありますが、フィリピ書の表現からすると、自分のこの世的な欲望を満たすことを目的にして宗教活動をすることと理解するのが順当でしょう。「あなたがたの従順は皆に知られており、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。それでもなお、わたしはあなたがたが善にはさとく、悪には染まないでいてほしいのです」。(一九節)
パウロは、伝えられた教えに「心から従う」ことが救いだとしています(六・一七)。パウロにおいては、このような意味での「従順」が「信仰」とほとんど同じ意味で用いられています。パウロは、すべての異邦人を「信仰の従順」に導くために働いていると言っています(一・五)。パウロの「従順」の用法について、とくに「服従」との違いについては、フィリピ書二章一二節の講解(『パウロによるキリストの福音V』233頁以下)を参照してください。
ローマの兄弟たちがこの意味の「従順」において評判を得ていることをパウロは賞賛しますが、それでもなお、そのような「純真な人々」が「善にはさとく、悪には染まない」でいるように願います。この場合の善とか悪は倫理的なものではなく、「善」は福音の真理であり、「悪」は偽りの教えを指しています。善に対しては「知恵深く」、悪には「混じらないで、純粋な姿で」いてほしいという言い方は、「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」(マタイ一〇・一六)というイエスの語録を思い起こさせます。「平和の神が速やかにサタンをあなたがたの足の下に打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」。(二〇節)
「平和の神」という表現は、本体部分の最後にも用いられていました(一五・三三)。パウロは、外から入り込んできて「分裂やつまずきをひき起こす人たち」を、「サタンに仕える者」と呼んでいます(コリントU一一・一三〜一五)。彼らの野心の背後には、神のわざを破壊しようとするサタンの働きがあるとパウロは見ているのです。それで、二〇節前半は、外からの偽教師たちの奸計が見破られ、彼らの野望が打ち砕かれることという解釈も可能ですが、「平和の神がサタンを打ち砕く」という表象は、当時の黙示文学で、神が終末時の蛇であるサタン(創世記三・一五)を打ち砕いて、地上に最終的な平和をもたらされることを指しており、パウロもこの意味で用いていると見る方が適切であると考えられます。「速やかに」という句も、キリストの来臨による勝利の日が近いことを指していると理解できます。「わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」という祈りは、パウロの手紙では通例の結びの言葉です。それで、一七〜二〇節の警告はローマ書本体の議論の後では不自然であり、エフェソの集会にあてられたフェベの紹介状のような短い手紙に書き添えられた結びと理解するのが自然であるとして、この段落は「一六章エフェソ説」の根拠の一つとされます。
21 わたしの同労者テモテ、また、わたしの同胞であるルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。 22 この手紙を筆記したわたしテルティオが、主にあって挨拶を送ります。 23 わたしと集会全体が世話になっている家の主人ガイオがあなたがたによろしくと言っています。市の会計係のエラストと兄弟のクアルトがあなたがたによろしくと言っています。 [24 わたしたちの主イエス・キリストの恵みがあなたがた一同と共にあるように。]
パウロの同行者
最後にパウロは同行者たちからの挨拶を加えます。[25 あなたがたを堅く立てることができる方に、すなわち、わたしの福音とイエス・キリストの宣教によって、また、世々にわたって封印されてきたが、 26 今や預言の書を通して、永遠の神の命令により、すべての民を信仰の従順に至らせるために明らかにされるにいたった奥義の啓示により、あなたがたを堅く立てることができる方、 27 すなわち、唯一の知恵ある神に、イエス・キリストをとおして、栄光がとこしえにあるように。アーメン]
福音によって救う神への賛美
二五〜二七節の三節は、「あなたがたを堅く立てることができる方に、・・・・すなわち、唯一の知恵ある神に、イエス・キリストをとおして、栄光がとこしえにあるように」という頌栄文ですが、その間に修飾句が積み重ねられ、複雑な構造の一つの文章になっています。このような文体や用いられている用語から、この文はパウロのものではなく、編集あるいは写本の段階で付け加えられた部分であるとする見方もあり、議論が続いています。写本によって置かれている位置もまちまちで、この部分を欠く写本もあります。底本もこの部分は[ ]に入れていて、本来の本文に属していない部分であるとしています。しかし、その内容は前置きの一章一〜七節とかなり正確に対応していて、両者で手紙本体を囲い込み、この手紙が「パウロによるキリストの福音」の提示であることを示しています。それで、誰が書いたにせよ、「キリストの福音」を提示するこの壮大な文書の結びとして検討する価値があります。「信仰の従順」については、一章五節の講解を参照してください。また、パウロの「従順」の用法について、とくに「服従」との違いについては、フィリピ書二章一二節の講解(『パウロによるキリストの福音V』233頁以下)を参照してください。
こうして、パウロが世界に告知したキリストの福音を提示するローマ書は、「唯一の知恵ある神」への荘重な賛美で結ばれます。「知恵ある神」は珍しい表現です。神は測りがたい知恵によってすべての民の救済を計画されました(一一・三三)。そして、今やそのすべての民の救済が「キリストの福音」によって宣べ伝えられているのです。最後の頌栄は、「福音によって世界を救う神」への壮大な賛美となっています。この最後の頌栄が、前置きの一章一〜七節とかなり正確に対応していること、文体や用語さらに思想がコロサイ書とエフェソ書のものと強い親近性を示していること、パウロをほとんど唯一の使徒としていることなどから、この頌栄はパウロ書簡集がエフェソで集成されたさいに、コロサイ書やエフェソ書を生み出した人たちによって、使徒パウロの福音提示の最も重要な文書に加えられたのではないかという推察を促します。パウロ書簡集の成立事情については、拙著『パウロによるキリストの福音V』293頁以下の「第二節 パウロ書簡集とオネシモ」を参照してください。