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第七章 イスラエルのつまずきと回復




第一節 イスラエルのつまずき

26 イスラエルのつまずき (9章30節〜10章4節)

 30 では何と言おうか。義を追求しなかった異邦人が義を得ました。すなわち信仰による義です。 31 ところが、義の律法を追求したイスラエルは律法に到達しませんでした。 32 なぜですか。信仰によらず行いによって到達することができるかのように求めたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。 33 「見よ、わたしはシオンにつまずきの石、妨げの岩を置く。これに信頼する者は恥を受けることはない」と書かれているとおりです。
10・1 兄弟たちよ、わたしは彼らのために救いを心から願い、神に祈っています。 2 わたしは彼らが神に対して熱心であることは証しします。しかし、その熱心は知識に従っていないのです。 3 神の義を理解せず、自分の義を立てることを追求して、神の義に従わなかったのです。 4 キリストは、律法の終わりであり、すべて信じる者にとって義となられたのです。

つまずきの石

 「では何と言おうか」と、パウロは議論を進めます。この句は、先行する部分を受けて、新しく議論を展開するときにパウロがいつも用いる表現です(四・一、六・一、七・七、八・三一、九・一四)。

 九・三〇〜三三はたしかに先行する段落(九・一九〜二九)のイスラエルと異邦人の対比を要約している面があるので、この部分を先行する段落の一部と解釈して区分する段落分けもありえます(岩波版青野訳)。しかし、この部分は内容的に、直後の一〇・一〜四と一体であり、イスラエルの不信仰を取り上げる次章(一〇章)の主題を提起しているので、ここでは九・三〇〜一〇・四を一つの段落として扱います(RSV、NRSV、新共同訳なども同じ)。

 パウロはこれまでに述べてきたこと、とくに直前の「この憐れみの器として、神はわたしたちをユダヤ人からだけではなく異邦人からも召された」(九・二四)を受けて、「義を追求しなかった異邦人が義を得ました。すなわち信仰による義です」(三〇節)と言います。この一文は、たんに先に述べたことを要約するだけではなく、異邦人への使徒として働いてきたパウロのこれまでの全体験が込められています。パウロの御霊の力に満ちた福音宣教によって、多くの異邦人(非ユダヤ教徒)が信仰に入り、キリストにあって神の民となり、神のいのちに生きるようになりました。それが「義」です。パウロは、生涯の働きによって見てきたこの事実を、「義を追求しなかった異邦人が義を得た」という一文に込めるのです。
 「義を追求しなかった異邦人が義を得た」というようなことは、ユダヤ教の立場から見ればありえないことです。ユダヤ教では、モーセ律法の実行だけが義に到達する唯一の道なのですから、モーセ律法の外にいる異邦人は義とは無縁であり、義を追求することもなく、義に達することはありえません。その異邦人が異邦人のままで義を得たと認めることは(ユダヤ教を絶対化するユダヤ人から見れば)ユダヤ教の否定になります。この主張がユダヤ教の否定であるとして、パウロはユダヤ人から憎まれ迫害されることになります。
 ところが、パウロは異邦人への使徒として、命がけで異邦人が異邦人のままで義とされることを主張してきました。パウロは「律法の行い」(ユダヤ教の実践)とは別の義を知っていたからです。「すなわち信仰による義です」。信仰とはもちろんキリスト信仰のことです。「信仰によって義とされる」というときの「信仰」とは、ここまでで繰り返し見てきたように、パウロの言う「キリストの信仰」、キリスト信仰のことです。人は「キリストにあって義とされる」と言うのと同じです。
 「ところが、義の律法を追求したイスラエルは律法に到達しませんでした」(三一節)。「義を追求しなかった異邦人が義を得た」のに対して、「義の律法を追求したイスラエル」は、イエス・キリストを拒否することによって、義を得るための本来の道、神から与えられた道からはずれ、「律法の(本来の目標である)義に到達することができませんでした」。
 「義の律法」とは、民を義に導くために与えられた律法です。イスラエルはモーセを通して与えられた律法を「義の律法」として尊び、これを行って義に到達するように熱烈な努力をしてきました。ところが、イスラエルは「律法に到達しませんでした」。すなわち、律法の本来の目標点である義に到達することができなかったのです。パウロがこのローマ書の第二部で描いたような、義とされた者の御霊のいのちに溢れた生き方には達しなかったのです。これは律法なしの異邦人がそのいのちに生きているのを見ているパウロには、明らかな事実でした。律法に外から拘束されて生きているユダヤ教のイスラエルには、このような内から溢れる御霊のいのちがないことは、パウロの目には明らかに見えていました。
 律法は本来人を義に導きいのちを与えるためのものです(一〇・五)。ところが、その律法を与えられ、しかもその「義の律法」を熱烈に追求したイスラエルが、律法の本来の目標である義に到達できませんでした。パウロは自ら「なぜですか」と問いかけ、「信仰によらず行いによって到達することができるかのように求めたからです」と、その理由をえぐり出してみせます(三二節前半)。
 ユダヤ教においては、律法はそれを守り行うことを要求し、それを守り行う者を義とするのです。これは自明の原理でした。律法は「行いの律法」でした。ところが、復活者キリストに出会い、キリストにあって生きるようになったパウロは、律法の本質がまったく別のものであることを理解するに至ります。すなわち、律法は「行いの律法」ではなく、「信仰の律法」であるのです。律法は本来信仰を要求し、信仰によって成就完成されるのです。
 「行いの律法」と「信仰の律法」の対比は、すでに人が義とされる道について論じた三章(二七〜二八節)で明確に語られ、四章でアブラハムの実例をあげて解説されていました。今ここで、この律法の本質についての誤解がイスラエルのつまずきの原因であることが、改めて明確にされるのです。

 三章二七節の「行いの《ノモス》」と「信仰の《ノモス》」は、「行いの法則」と「信仰の法則」と訳すべきではなく、「行いの律法」と「信仰の律法」と訳し、あくまで律法の本質ついて語られていると理解すべきことについては、当該箇所の講解(拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解T』110 頁以下)を参照してください。  ユダヤ教が自明の原理としている「行いの律法」が誤解であることを、パウロは「行いによるかのように」と語ることで示しています。律法は本来信仰を要求し、信仰によってはじめてその真意が開示され、信仰によって義という目標が実現するのです。その律法の本質を誤って受け取り、行いによって実現できる「かのように」考えて、その原理に従って熱心に努力したところにイスラエルのつまずきと悲劇がある、とパウロは見ています。パウロは信仰による義という福音の立場から、捕囚後ユダヤ教の路線の根本的誤りを指摘するのです。
 そして、こう言います。「彼ら(イスラエル)はつまずきの石につまずいたのです」(三二節後半)。このイスラエルのつまずきは、すでに預言者たちも見ていたことだと、聖書の言葉を引用します。「見よ、わたしはシオンにつまずきの石、妨げの岩を置く。これに信頼する者は恥を受けることはない」と書かれているとおりです(三三節)。

 この引用は、イザヤ書の二八・一六と八・一四〜一五の二箇所のテキストから、それぞれの一部ずつをとって合成した引用です。二八・一六では、神がシオンに置かれるのは「尊い隅の基礎石」であり、それに信頼する者は「慌てることはない」とされています。それに対して、八・一四〜一五では、不信仰のイスラエルにとって、主御自身が「つまずきの石、妨げの岩、仕掛け網、罠」となることを警告しています。このように相反する預言を一つに結合して、神は本来それに信頼することで救われる礎石とするためにキリストをイスラエルの中に遣わされたのであるが、そのキリストを拒否することにより、イスラエルにとってキリストが「つまずきの石」となったことの聖書預言としていることになります。このような結合をしたのはパウロであるかもしれません。しかし、石のイメージを結合点として、この二箇所にさらに詩篇一一八・二二の「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」を加えた聖書証明が、ペトロT二・六〜八とバルナバの手紙六・二〜三にも見られるので、この結合は初期の福音宣教において広く用いられていたものをパウロが利用した可能性も考えられます。

知識に従っていない熱心

 パウロはイスラエルのつまずきを決して突き放して見ているのではありません。自分の心の奥底にある深い悲しみと痛みとしているのです。パウロは、第三部の冒頭(九・一〜五)で吐露した不信仰のイスラエルに対する切なる思いを繰り返して言います。「兄弟たちよ、わたしは彼らのために救いを心から願い、神に祈っています」(一〇章一節)。
 そして、イスラエルがつまずいたことについて、彼らに対する深い思いを込めて重大な発言をします。「わたしは彼らが神に対して熱心であることは証しします。しかし、その熱心は知識に従っていないのです」(二節)。
 パウロはたしかに「彼らは神の熱心を持っている」(直訳)ことは認めます。この場合の「神の熱心」とは神に対する熱心、具体的には神の律法を順守する熱心を指します。「熱心」はパウロの時代のユダヤ教の合言葉でした。当時のユダヤ教各派は、律法順守の熱心さを競っていました。パウロも回心前ユダヤ教徒であったときには、時代の律法順守の熱気の中で、「先祖からの伝承(それが律法の具体的内容となります)を守るのに人一倍熱心でした」(ガラテヤ一・一四)と言っています。
 しかし、その「熱心」が「知識に従っていない」ときには重大な結果を招きます。熱心であればあるほど結果は重大です。その典型的な実例が「熱心党」《ゼーロータイ》です。熱心党は、イエスやパウロの時代のユダヤ教の一派で、もともとファリサイ派の中の過激な傾向の者たちが、律法への熱心を標語にして起こした運動でした。律法を厳格に実行するために、ローマ人という異教徒の支配をくつがえし、異教徒の支配に妥協するユダヤ教指導者を除こうとし、そのためには武力を用いることも辞さないという、一種のユダヤ教原理主義過激派でした。彼らの運動がイスラエルの民に広く浸透して、ついにローマに対する戦争を始めることになり、その結果エルサレムの陥落、神殿の崩壊、ユダヤ人のパレスチナからの追放という悲惨な結果に至ります。
 パウロの場合も、彼の律法への熱心がイエスを信じる者たちを迫害させることになります(フィリピ三・六)。パウロは、律法への熱心が自分をますます強く神に敵対させたことを、身をもって体験しました。彼は「知識に従っていない」熱心がいかに危険であるかを、深く思い知らされたのです。
 「知識」《エピグノーシス》とは、単なる物事を知る知識ではなく、本質を把握する認識のことです。「深い知識」(協会訳)、「正しい認識」(新共同訳)と訳してもよいかもしれません。律法とは何かという律法の本質を認識することなく、ただ律法を守ればよいとして熱心に励むことは、かえって神から遠ざかり、神に敵対する結果になるのです。すでにパウロは、律法とは本来「信仰の律法」であるのに、彼らがそれを「行いの律法」と受け取った誤解を指摘していました(九・三二)。
 ここで義についても、彼らが「知識に従っていない」ことが指摘されます。彼らは「神の義を理解せず、自分の義を立てることを追求して、神の義に従わなかったのです」(三節)。パウロが理解した「神の義」とは、神の前に通用する義とか、神に受け入れられる人間の資格(たしかに旧約聖書にはこういう意味の用法もあります)という意味ではなく、神から出る義、神が御自身の義を与えて人を義とされる働きを指します。イスラエルは「神の義」を前者の意味だけに理解し、後者の意味を理解しませんでした。その結果、「自分の義を立てることを追求して」、律法を順守することを熱心に励むことになります。
 「神の義」は、本来神の要求を満たし得ない人間に、神が御自身の義を与えることですから、無資格の者に対する神の恩恵の働きです。イスラエルは、自分が律法を行ったことを神に受け入れられるための資格として主張し、神が恩恵によって提供された義、キリストにおいて与えられている義を拒否したのです。恩恵を受け取ることは自分の資格を否定することになるからです。

律法の終わり

 彼らがイエス・キリストを拒否した事実は、「神の義に従わなかった」ことを意味します。「キリストは、律法の終わりであり、すべて信じる者にとって義となられた」(四節)からです。これは、神がそうされたのです。この四節の言葉は、キリストを拒否したことが「神の義に従わなかった」(三節)ことになる理由を説明しています(四節は理由を示す小辞《ガル》で始まっています)。キリストの出現は律法の終わりを意味するのに、イスラエルはこの義の新しい道であるキリストを拒否して、律法を行うことによって義とされる古い道に固執したのです。

 「律法の終わり」の原語は「律法の《テロス》」です。《テロス》は本来終わり( end )という意味ですが、目標とか完成( goal )という意味もあります。キリストの出現によって、モーセ律法によって神と民との関係が形成される時代は終わったのだというパウロの主張(ガラテヤ書)からすれば、「律法の終わり」と理解すべきであると考えられます。しかし、キリストは律法を成就完成するために来られたという面を重視する立場(マタイ五・一七)から、「律法の目標」(新共同訳)とか「律法の成就」(New Jerusalem Bible)と理解する訳もあります。英語訳聖書はほとんどみな goal ではなく end を用いています。プロテスタント側は「終わり」と理解し、カトリックは「目標・成就」と理解する傾向があるようです。新共同訳はカトリックの理解に沿ったのでしょう。文語訳と協会訳は(また岩波版青野訳も)「終わり」としています。

 「キリストは律法の終わりである」とは、実に重大な宣言です。ユダヤ教に聖書理解の根本的な変革を迫る発言です。パウロは、ダマスコ体験とそれ以後の御霊によるキリスト体験によって、「キリストは律法の終わりである」ことを深く認識するにいたりました。それで、キリストを信じながらもなお律法順守を要求する(すなわち「キリストは律法の終わりである」事実を認めない)者たちの批判に対して、パウロはすでにガラテヤ書(とくにその本体部分というべき二・一五〜四・七)で反論し、律法とは何かという問題を詳しく論じています。
 パウロによれば、律法は「約束されたあの子孫(キリスト)が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもの」であり、民を「キリストのもとへ導く養育係」であるから、キリストが現れた今は養育係の役割は終わり、わたしたちは「もはや養育係の下にはいない」のです。ローマ書では、その議論の全体をこの「キリストは律法の終わりである」という一句に込めているのです。
 ところで、四節の文には動詞がありません。「キリストは、律法の終わり、義へ、すべて信じる者に」という句が並んでいるだけです。後半部分は、「すべて信じる者に義をもたらす」(新共同訳)という意味にも理解できますが、むしろ信じる者にとってキリストご自身が義となられたと理解する方が適切でしょう。「になる」という動詞を補って、「キリストは、律法の終わりとなり、すべて信じる者にとっての義となられた」と理解することができます。
 そして、キリストをそのような「律法の終わり、すべて信じる者にとっての義」とされたのは、神の恩恵の御業です。「すべて」は全員という数の問題ではなく、信じる者(原文は単数形)は「誰であっても」の意味です。いっさい資格は問わないことを含意しています。律法の下にあるユダヤ人であろうが、律法の外にいる異邦人であろうが関係なく、信じる者、すなわち恩恵を恩恵として受け取り、神の恩恵としてのキリストを受け入れる者には、キリスト御自身がその人の義となってくださるのです。そのさい、もはや律法は関係がありません。キリストは、すべて信じる者の義となることによって、「律法の終わり」となられたのです。
 人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、恩恵を恩恵として受け取る信仰、具体的にはキリスト信仰によるのだという主張が、パウロの福音の核心です。その原理はすでに第一部(とくに三章後半)で提示されましたが、パウロはその福音の核心をこの第三部で、律法に固執するイスラエルと律法を持たない異邦人を対比して、改めて提示します。こうして、次の段落で「律法による義」と「信仰による義」が、改めて別の視点で対比されて語られることになります。

27 信仰による義 (10章 5〜13節)

 5 モーセは律法による義について、「この戒めを行う者は、この戒めによって生きるであろう」と書いています。 6 ところが、信仰による義はこう言っています。「あなたは心の中で『だれが天に昇るであろうか』と言ってはならない」。それはキリストを引き降ろすことです。 7 また、「『だれが陰府に下るであろうか』と言ってはならない」。それはキリストを死者の中から引き上げることです。 8 では何と言っていますか。「御言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」。これがわたしたちの宣べ伝えている信仰の言葉です。 9 すなわち、あなたの口で主イエスを言い表し、あなたの心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら、救われるからです。 10 人は心に信じて義とされ、口で言い表して救われるのです。 11 聖書もこう言っています。「だれでも彼を信じる者は恥を受けることはない」。 12 ユダヤ人とギリシャ人の区別はない。同じ主がすべての人の主であり、御自分を呼び求めるすべての者に恵み豊かであるからです。 13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」からです。

信仰の言葉

 パウロは自分が宣べ伝える「信仰による義」を、とくにユダヤ人に理解してもらいたいのです。それで、ユダヤ人が自明のこととしている「律法による義」と対比して「信仰による義」を論証するために、聖書を引用します。ユダヤ人との論争では、聖書が論拠となります。
 まずパウロは「律法による義」について、「モーセは書いています」と言って、レビ記一八章五節の「この戒めを行う者は、この戒めによって生きるであろう」という言葉を引用します(五節)。ユダヤ教では、モーセ五書の文はすべてモーセが書いたものとされているのです。

 五節の引用文は、「それ(複数形)を行う者は、それ(複数形)によって生きるであろう」となっています。パウロが引用しているレビ記一八・五では、「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」となっていて、「これら」と「それ」は「わたしの掟と法」を指すことは明らかですので、引用文は「戒め」という名詞を補って訳しています。

 この聖書の言葉は、「律法による義」の原理をこの上なく明瞭に宣言しています。ユダヤ人であれば、これこそユダヤ教の核心であると、双手をあげて賛意を表することができます。パウロは「律法による義」の原理が聖書に宣言されていることを認めた上で、「ところが、信仰による義はこう言っています」と言って、同じ聖書が「信仰による義」という別の原理を語っていることを指し示します。では、同じ聖書が語っている二つの対立する原理をどう受けとめればよいのかは後で取り上げることにして、まずパウロが「信仰による義」を論証するために引用する聖書の箇所を見ましょう。
 パウロが「信仰による義はこう言っています」(六節前半)と言って引用するのは申命記三〇章一一〜一四節です。この段落は本来、モーセ律法はけっして実行困難な戒めではなく、行うのに易しい戒めであることを強調する段落です。申命記はこう言っています。

 「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」。(申命記三〇・一一〜一四)

 パウロは、この段落の結論である「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にある」という部分を「信仰による義」の論拠とするために、この段落に福音の視点からの解釈を加え、かなり大幅に変更して引用します。
 申命記ではモーセ律法が人間の能力を超える実行困難な戒めであることを嘆く必要はないとする箇所、「それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない」という部分を、「あなたは心の中で『だれが天に昇るであろうか』と言ってはならない」と、「それを行う」という部分を略し簡潔な形にして引用し、それに「それはキリストを引き降ろすことです」と福音の立場からの解釈を付け加えます(六節後半)。
 パウロは、人間が自分の力で律法を行うことで義に達しようとするのは、自分で天に昇ろうとすることであり、わたしたちのために死んで天に上げられ、いま天にいますキリストの贖いのわざが必要でないとすること、キリストを普通の人間の一人とすること、すなわちキリストを天から引き降ろすことを意味するのだと解説します。
 さらに、申命記の「海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない」という部分を、「『だれが陰府に下るであろうか』と言ってはならない」と、やはり「行う」という部分を省略し簡潔にした形で引用し、「それはキリストを死者の中から引き上げることです」という解説を加えます(七節)。

 パウロはこの部分を引用するさい、申命記では「海のかなた」とあるのを《アビュス》(底なしの淵)という語に変えて引用しています。「海」を「天」に対する混沌の下界《アビュス》と見る見方は、詩篇一〇七・二六の並行表現もあって、当時のラビたちの間では普通であったようです。この語は死者たちの世界(陰府)をも意味するので、次の死者の中からの復活と関連づけやすいので用いたと見られます。

 自分が陰府に下って生と死の奥義を見極めなければ真実の命に達することができないとすることは、すでに死者の中から復活して、ご自身に合わせられる者を義とされるキリストを不要であるとすること、すなわち自分の働きでキリストの復活と同じ結果を得ようとすることであり、自分でキリストを死者の中から引き上げることを意味することになります。

 「それはキリストを引き降ろすことです」と「それはキリストを死者の中から引き上げることです」および「これがわたしたちの宣べ伝えている信仰の言葉です」(八節後半)という解説の部分はみな、《トゥート・エスティン》(英語では that is または that means )という解釈文を導入する定型句で始まっており、挿入文の性格をもっています。それで、RSVがしているように、この部分を括弧に入れて読むとパウロの議論の流れがはっきりするように感じられます。

 このように解説した上で、「では何と言っていますか」と言って、この申命記の段落が結論としている言葉を引用します。そのさい、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」という申命記のテキストの「それを行うことができる」という部分を削って、「御言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」(八節前半)という形で引用し、「これがわたしたちの宣べ伝えている信仰の言葉です」(八節後半)という解説を加えます。
 申命記がモーセ律法について語った結論を、パウロは自分たちが宣べ伝えている福音の言葉に適用するのです。福音の言葉は、それを行うように与えられたものでなく、信じるように与えられた言葉、すなわち「信仰の言葉」ですが、その言葉は(律法の言葉が聴く者の近くにあるように)聴く者の近く、すなわち口と心にあると結論します。
 このパウロの引用は、たんに簡潔な形にして引用したというのとは次元が違います。これは、批判者からはテキストの改変であると非難されても仕方がないような引用の仕方です。本来モーセ律法が行うのに易しい戒めであることを強調する聖書の言葉から「それを行うことができる」という部分を削除して、「これがわたしたちの宣べ伝えている信仰の言葉です」と、自分たちが宣べ伝えている福音の言葉の性格を描く文として引用するのは、たしかに聖書の転用です。しかし、この一見強引な転用は、聖書の曲解ではなく、福音の立場と視点から聖書の言葉を解釈する結果です。そのことは、続く九節が理由を示す文となっていることから分かります(九節は理由を示す接続詞《ホティ》で始まっています)。

 九節文頭の《ホティ》は、「信仰の言葉」の内容を導く接続詞(that)と理解することもできますが、前節の「御言葉はあなたの近くにある」を理由づける 「・・・・だからです」 (because)の意味に理解するほうが適切であると見られます。

 「すなわち、あなたの口で主イエスを言い表し、あなたの心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら、救われるからです」(九節)。これがキリスト信仰の基本的な信仰告白です。この立場から見ると、申命記の三〇章一一〜一四節の段落は、わたしたちを救う信仰の言葉が、はるかに遠いところではなく、わたしたちの口と心というもっとも近いところにあることを予告する言葉になります。パウロは、申命記のテキストによって福音を根拠づけるのではなく、福音によって申命記のテキストを解釈しているのです。パウロが聖書を引用して議論するときは、いつも福音の立場から解釈して用いていることは、これまでに見てきた通りです。
 このように、「この戒めを行う者は、この戒めによって生きるであろう」というユダヤ教の根本原理に対して、福音の立場から理解された聖書の言葉を突きつけて、パウロはユダヤ人に「信仰の言葉」を受け入れるように迫るのです。

主イエスを言い表す

 ところで、ここでパウロが用いている福音の基本的な信仰告白の内容を見ておきましょう。この「口で主イエスを言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら、救われる」という信仰告白の定式は、新約聖書(とくにもっとも初期の文書であるパウロ書簡)に引用されている他の信仰告白定式(たとえばコリントT一五・三〜五、ローマ一・二〜四など)に比べると、その表現と内容から、いっそう古い形であると見られます。
 「神がイエスを死者たちの中から起こした」という表現は、「イエスは起こされた」とか「イエスは復活した」という表現よりも古い形であり、九節の文は洗礼にさいしての最初期の信仰告白の定式を用いているのではないかと見る研究者が多くいます。そうだとすれば、他の信仰告白定式(コリントT一五・三〜五、ローマ一・二〜四など)や賛歌(フィリピ二・六〜一一)に比べると、ダビデの子孫であるとか、十字架の死の意義、あるいは先在というような内容が何も含まれていないことが注目されます。
 福音のもっとも素朴で根源的な告知の内容は、十字架につけられたイエスを神は復活させて、キリスト(メシア)または主《キュリオス》とされたということです。この形は、ペンテコステの日のペトロの福音宣教の中に、ルカが書きとどめています(使徒二・三二、三六)。この復活によってイエスは主《キュリオス》とされたという告知が、どの福音告知の定式にも含まれる基本的な内容です。それに応答する信仰告白のもっとも単純な形は「イエスは主《キュリオス》である」という告白です(コリントT一二・三)。パウロはここで、このもっとも基本的な信仰告白定式を用いていると言えます。
 《キュリオス》という語は、フィリピ二・六〜一一のキリスト賛歌が示しているように、「天上のもの、地上の者、地下のものすべて」がその前にひざまずく、「あらゆる名にまさる名」です。それは《コスモクラトール》、すなわち宇宙の全存在を支配する者の称号です。異教世界で「キリスト」という語が、神から油を注がれた救済者(メシア)という本来の意味内容を失い、「イエス・キリスト」が一人の人の固有名詞のようになったとき、この方が世界の主《キュリオス》であることを言い表すために、「《キュリオス・イエスース・クリストス》(主イエス・キリスト)」という言い方がされるようになり、それが信仰告白の要約となりました。
 十字架につけられて殺されたイエスが復活者キリストであることを体験し、その方を《キュリオス》と告白することは、聖霊の働きによります。イエスが十字架につけられたとき、失望落胆して逃亡した弟子たちが、このイエスをメシア・キリストとして、また《キュリオス》として大胆に宣べ伝えるようになったのは、彼らが聖霊によって復活されたイエスに出会う体験をしたからです。多くの人が彼らの告知を聞いて信じ、イエスを《キュリオス》と告白するようになったのも、聖霊の働きによります。わたしたちは聖霊によって「《キュリオス・イエスース》」と告白するのです(コリントT一二・三)。

 このコリントT一二・三とここのローマ書の箇所は、「イエスは《キュリオス》である」という形で訳すことも可能です(事実RSVや新共同訳を始め多くの翻訳はそう訳しています)。しかし、語順からすると「主であるイエス」と理解して「主イエス」と訳す方が自然ですし、内容からも「イエスは主であると言い表す」と命題を言い表すかのように理解するより、「主イエスを言い表す」とする方が、主であるイエスに自分の全存在を投げ入れる(実存的な)姿勢を表現することになると考えます。

 このように信仰告白の定式を比べますと、使徒たちと彼らの福音告知を聞いた者たちの復活信仰(すなわち《キュリオス》イエスの告白)は、十字架の死の贖罪的意義の理解よりも先にあり、聖霊の働きによる直接的で根源的なものであることが分かります。現在でもなお神学者の間には、復活信仰(イエスが復活されたという信仰)の成立について、弟子たちがイエスの刑死の意義を聖書に導かれて悟るに至った結果であるとする見方が行われていますが、これは聖霊の働きを実際に体験していない学者の書斎の中の思想だと言わざるをえません。
 イエスの十字架上の死が「わたしたちの罪のため」であり(コリントT一五・三)、神が「その血による贖いの場としてお立てになった」(ローマ三・二五)出来事だという理解は、イエスが復活者キリストであり《キュリオス》であるからこそ成立しうるのです。その逆ではありません。もし十字架の死の贖罪的意義の理解が復活信仰を成立させるとしたら、もっとも初期の福音の定式に十字架の意義が触れられていない事実は理解困難ですし、またパウロの回心は説明できません。パウロは、イエスの刑死を当然とし、イエスを信じる者たちを迫害するためにダマスコに急いでいたとき、突如として復活者イエスに遭遇し、回心するのです。パウロはイエスの十字架の意義を理解したから回心したのではありません。そのイエスの十字架上の死が自分のため、また世界のための贖罪死であることは、その後の聖霊に導かれた祈りの結果です。
 一方、キリストの死が贖罪の死であるという事実があるから、この福音を聞いて信じる者が無資格のまま無条件で聖霊を受けることができるのも真理です(ガラテヤ三・一〜六)。十字架の死による贖罪・イエスの復活・聖霊の授与はキリストの出来事として一体です。そして、福音を信じてキリストに合わせられた者が聖霊によって体験する十字架の贖罪と復活の希望は一体です。こうして、十字架・復活・聖霊は、キリストにおいてもわたしたちにおいても一体の現実なのです。

信仰告白の基本

 このように、「人は心に信じて義とされ、口で言い表して救われるのです」(一〇節)。パウロはここまで信仰によって義とされる、あるいは救われることを論じてきましたが、ここで最初期の信仰告白定式を引用することで、その「信仰」とは「心に信じ口で言い表す」ことだと解説します。信仰が「心に信じる」ことであるのは当然といえば当然ですが、そこに「口で言い表す」が加えられることによって、信仰は全人的な行為であることが表明されています。人間を内面と外面に分けて、内面では信じているが、それを口で外に言い表さないというのは信仰ではありません。内面の在り方(心の姿)が口で外に言い表されてはじめて、それがその人の社会における(他の人間との関係における)在り方を決定します。その人間の具体的な在り方が現れるのです。信仰とは、体をもって自己を表現する具体的な人間の全人的な行為です(具体とは体を具(そな)えたという意味です)。
 口で「言い表す」《ホモロゲオー》ことの重要性は、福音書においてもイエスご自身の言葉として伝えられています。イエスはこう言っておられます。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者(《ホモロゲオー》する者)は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す(《ホモロゲオー》する)。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」(ルカ一二・八〜九)。
 キリスト教の歴史では、「口で言い表す」ことは「告白」という用語で語られることになります。口で言い表すのは言葉によります。それで、信仰告白の言葉(それは「信条」とも呼ばれます)が重視され、キリスト教の全歴史を通じて信仰告白の言葉(信条)をめぐって激しい議論が続いてきました。その議論をたどることはここではできませんが、すべての信仰告白はこの「イエスは《キュリオス》である」という告白から出発していることを、ここで確認しておきましょう。

福音と法然

 この「人は心に信じて義とされ、口で言い表して救われるのです」という宣言の二つの項、「心に信じて義とされ」と「口で言い表して救われる」を、パウロはそれぞれ聖書を引用して根拠づけます。
 まず、「心に信じて義とされる」は、「だれでも彼を信じる者は恥を受けることはない」というイザヤ書二八章一六節を引用して確認します(一一節)。このイザヤの言葉は、先に九章三三節でも引用していましたが、ここでは「すべて」とか「だれでも」の意の《パース》が加えられています。これは、次節の「ユダヤ人とギリシャ人の区別はない」という主張を予め準備するために、パウロが加えたものとみられます。
 イザヤが「彼を信じる者は恥を受けることはない」と言っているように、「ユダヤ人とギリシャ人の区別はない」のです。区別がないのは、「同じ主がすべての人の主であり、御自分を呼び求めるすべての者に恵み豊かであるからです」(一二節)。義とされる(救われる)ことにおいて「ユダヤ人とギリシャ人の区別はない」、すなわちユダヤ教徒としてモーセ律法を行っているかどうかは無関係であると主張することが、このローマ書の大きなテーマでした。この主張が、この「人は心に信じて義とされ、口で言い表して救われるのです」という原理によって再確認されます。人は「心に信じ口で言い表して」救われるのであって、そこにモーセ律法を行っているかどうかは条件として入ってきません。
 この「区別はない」を、パウロは「同じ主がすべての人の主である」という事実によって根拠づけます。これは、三章で人が信仰によって義とされるのにユダヤ人と異邦人の区別はないと主張したとき、「実に神は唯一だからです」(三・二九〜三〇)と言って、神の唯一性によって根拠づけたのと同じです。ここでその議論が繰り返され、「同じ主」が「すべての者に」恵み深いという神の恵みの普遍性(神は人を偏り見ることなく、同じように取り扱われる)によってさらにその議論が補強されます。
 一二節の「同じ主がすべての人の主であり、御自分を呼び求めるすべての者に恵み豊かであるからです」という文は、聖書の引用ではなくパウロ自身の文ですが、パウロは聖書全体の思想をこのように理解して自分の言葉で語り出していると見られます。そして、預言者も同じように語っているではないかと、ヨエル書三章五節の「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」を引用します(一三節)。
 この引用の「主の名を呼び求める者」という表現が、「人は心に信じて義とされ、口で言い表して救われるのです」の第二項「口で言い表して救われる」を根拠づけていることになります。「呼び求める」のは口で主の名を唱え、その主に自分を投入することだからです。
 こうして、信仰とは「心に信じ口で言い表す」全人的な行為であることを示す信仰告白の文は、パウロがそれを用いると、その信仰だけで人は救われるのであって、律法の行為は無関係であるという意味を前面に出す結果となります。これは宗教史上重要な意義を持つ宣言です。たとえば、わたしたちは法然が専修念仏の主張を掲げて、浄土教を確立したこと、そしてそれがどれだけ大きな影響を日本の宗教に与えたかを知っています。法然は、戒律を守ることができない者でも、弥陀の本願を心に信じ、ひたすら口で阿弥陀仏の名号を唱えるならば、それだけで救われると説きました。この「心に信じ口で言い表して救われる」という原理は、法然よりも実に千年以上も前に新約聖書が、とくにパウロが明確に唱えていたのです。
 紀元前にインドに発生した仏教が、紀元後シャカの教えとはかなり違った性格の大乗仏教に変容し、中央アジアを経て中国に伝わる過程で浄土教を生み出します(法然はその中国浄土教、とくに善導を継承し徹底します)。その歴史的経過を具体的に跡づけることは困難ですが、福音と浄土教が(戒律の行いとは無関係に)信仰による救済という原理を同じくするという結果からすると(そして当時の頻繁な東西交流の事実からすると)、キリストの福音が大乗仏教の成立、とくに浄土教の成立に何らかの形と意味で影響したのではないかと考えることも許されると思います。この点については、将来キリスト教とか仏教という宗教の立場にとらわれない学術的な研究がなされることが期待されます。

 法然については、拙著『聖書百話』の98「口で言い表して救われる」という短文を参照してください。