市川喜一著作集 > 第12巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解T > 第14講

第二節 神の子である現実

19 子とする御霊 (8章 12〜17節)

 12 それで、兄弟たちよ、わたしたちは肉に従って生きる責任を肉に対して負っている者ではありません。13 もし肉に従って生きるならば、あなたがたは死にます。しかし、御霊によって体の働きを殺すなら、あなたがたは生きるようになります。14 神の御霊に導かれている者はみな、神の子です。15 あなたがたは、再び恐れに陥れる奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、わたしたちは「アッバ、父よ」と叫ぶのです。16 この御霊ご自身が、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊に証ししてくださいます。17 子であるなら相続人でもあります。神の相続人であり、キリストと共に栄光にあずかるためにキリストと共に苦しむかぎり、
キリストと共同の相続人です。

御霊に従って生きる責任

 前段(とくに九〜一一節)で、命を与えるのは御霊であることを強調した後を承けて、「それで」、恵みによって御霊を受けたわたしたちは、実際の歩みにおいて、御霊に従って生きる責任を、御霊に対して(または、御霊を与えてくださる神に対して)負っている、という責任を語ろうとします。しかし、使徒はまずそれが「肉に従って生きる」責任ではないことを明らかにした上で(一二節〜一三節前半)、「しかし」という語で対照しながら、一三節後半以下で「御霊に従って」生きる責任を具体的に語ることになります。そして、責任を語ると同時に、「肉に従って生きる」ことと、「御霊に従って生きる」ことの結果を対比します。
 パウロは「兄弟たちよ」と、ローマの信徒に呼びかけます。これは、使徒が代々のキリスト者に呼びかけているのです。使徒は「わたしたちは負債を負う者である」(直訳)と切り出します。人はみな、自分を存在させている方(創造者)の「お前はどう生きたか」という問いに答える責任を負う者です。この答えなければならない立場を「責任」と言います(英語やドイツ語で「責任」という語は答えなければならない立場を意味する語です)。使徒は、この「責任を負う者」を「負債を負う者」という語で表現します。イエスも、人は神に答える責任があることを明言し(マタイ一二・三六〜三七)、また、それを決算のたとえで語っておられます(マタイ一八・二三、ルカ一六・二)。
 このように人はみな神の前に責任を負う者ですが、とくにキリスト者は御霊を賜った恩恵に対して責任を負う者です。キリスト者は恩恵によって御霊を賜っているのですから、御霊に従って生きる責任を、御霊を恩恵によって与えてくださった神に対して負っているのです。キリスト者の責任は「御霊に従って生きる」ことです。「肉に従って生きる責任を肉に対して負っている者ではありません」。「肉」というパウロの用語の内容からすると、ここで使徒が言っているのは、わたしたちは人間性を完成するために、生まれながらの人間本性に従って、その欲求を満たすために努力する責任を負う者ではない、ということになります。もし生涯そのように「肉に従って生きる」ならば、その結末は「あなたがたは死にます」、すなわち神からの永遠の断絶です。そのことはすでに五〜八節で詳しく語っていました。ここで、「肉の志向は死ですが、御霊の志向は命であり、平和です」(六節)という対比が、形を変えて繰り返されます。
 ここでは、「肉に従って生きる」と対比される「御霊に従って生きる」が、「御霊によって体の働きを殺すなら」と具体的に(体との関連で)描かれ、「あなたがたは死にます」という結果に対して、「あなたがたは生きるようになります」という結果が対比されます(一三節後半)。
 ここで注意しなければならないのは、「体の働きを殺す」という表現です。ここの「体」は、わたしたちをとりこにしている罪の容器、「罪と死の律法」の場としての体、「死の体」のことです(七・二三〜二四)。「御霊によって体の働きを殺す」というのは、御霊に従って生きることにより、体(肢体)の中に巣くう「罪」の支配を克服して生きることです。使徒は、人間の体に生来備わっている欲求(食欲や性欲など)を否定したり制限する禁欲的な生き方を求めているのではありません。そのような欲求を否定し尽くすことはできませんし、かなり抑えたとしても、それで御霊を受けたり、御霊に従う歩みができるわけではありません。
 御霊に従って歩むならば、体に巣くっている肉の欲求を満たすことはありません。この消息は、すでにガラテヤ書(五・一六〜二六)で詳しく語られていました。そこで「肉の働き」としてあげられていた「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」は、実際には「体の働き」として人生に現れてきます。このような「体の働き」を、御霊に従って歩むことにより克服していくことが求められているのです。このような生き方が、ここで「生きるようになる」と表現されます。このように「生きるようになる」とき、その人生には「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という質が現れてきます。これらは「御霊の実」なのです。

子とする御霊

 このように「御霊によって体の働きを殺して、生きるようになる」ことが、「神の御霊に導かれている」とまとめられて、「神の御霊に導かれている者はみな、神の子です」と言い直されます(一四節)。「生きるようになる」とは、「神の子として生きるようになる」ことです。そして続く箇所(一五〜三九節)で、「神の子として生きる」ことの苦難と栄光が語られることになります。
 「神の御霊に導かれている者はみな」の「みな」は、「〜するかぎりの者はだれでも」の意味です。御霊に導かれて生きるかぎり、民族や宗教・教会の所属を問わず、誰でも神の子であるのです。どの人種・民族の者でも、どの宗教の者でも、どの教会に所属していても、また、いかなる教会にも所属していなくても、そういう状況とはいっさい無関係に、人間は神の御霊に導かれ、御霊によって生きている限り、だれでも神の子なのです。
 「誰それの子」という表現は、命の同質性を表しています。「神の子」は、神と同質の命に生きる人間です。「サタンの子」とか「悪魔の子」は、悪魔と同じ質の命に生きる者です。神の命そのものである御霊を受け、その御霊を自分の命として生きる者が「神の子」です。どのような立派な宗教(それがキリスト教であっても)を奉じていても、どのような正統を誇る教会に所属していても、神の御霊によって生きているという実質がなければ、その人は神の子ではありません。
 ここでもキリスト者は、「キリストにある」ことによって御霊を受けていることが前提されています。正確に言うと、「キリストにある」場において、キリスト者は神の御霊の働きを受けて生きているのです。それが「神の御霊に導かれている」という現実です。その「キリストにある」場において、わたしたちは「恐れに陥れる奴隷の霊」ではなく、「子とする御霊」を受けたのです(一五節前半)。奴隷は恐れによって主人に服従しています。従わなければ処罰されるからです。この「恐れに陥れる奴隷の霊」という表現を用いるとき、パウロは律法に下にいるユダヤ教徒を考えていると思われます。律法は、その条項に従うことを要求し、従わない者を断罪して死を課すからです。ユダヤ教徒は、断罪への恐れから律法の要求に従うことを必死に追求することになります。このようなユダヤ教の在り方を、パウロはすでに「奴隷」の身分の女にたとえて語っていました(ガラテヤ四・二一〜三一)。律法(ユダヤ教)とキリストの福音は、その実質を構成する霊の質が違うのです。

 ところでパウロは、「恐れに陥れる奴隷の霊を受けたのではなく」という文に「再び」という語を入れています。語の位置から、この翻訳では(他の邦訳と同じく)「再び恐れに陥れる奴隷の霊を受けた」と訳していますが、「恐れに陥れる奴隷の霊を再び受けた」と訳すことも可能です。「奴隷の霊を再び受けた」というのは、以前ユダヤ教徒として奴隷の霊を受けていたが、キリストを信じて受けた霊も「また」奴隷の霊であった、ということになります。「再び恐れに陥れる奴隷の霊」というのは、せっかくキリストを信じて律法の恐れから解放されたのに、再び処罰を恐れさせるような奴隷に逆戻りさせる霊という意味になります。両者とも結局、あなたたちが受けた霊は「恐れに陥れる奴隷の霊」ではなく、子としての全面的な信頼で生きる者にする霊、すなわち「子とする霊」であることを強調しています。そのことがすぐ次節で表現されます。

「アッバ、父よ」

 キリストの福音が与える霊は、このような「恐れに陥れる奴隷の霊」ではなく、「子とする御霊」です。そして、「この御霊によって、わたしたちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです」(一五節後半)。わたしたちがキリストにあって受けた霊は「子とする霊」、あるいは「子たる身分を授ける霊」(協会訳)ですから、この霊に導かれているキリスト者は、神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけ、祈ることができるのです。
 ここで「叫ぶ」という動詞が用いられています。初期のキリスト者の集会で、「アッバ!」は祈りの時の呼びかけの言葉としてだけでなく、御霊に感動して叫ぶ歓呼の叫びでもあったようです。「アーメン」、「ハレルヤ」、「マラナタ」などように、聖霊に満たされた集会で叫ばれるヘブライ語またはアラム語の歓呼の一つであったと見られます(コリントT一二・三参照)。なお、「叫ぶ」の主語は、ここでは御霊によって「わたしたちが」叫ぶのに対して、ガラテヤ書四・六では「御子の霊」がそう叫ぶとされています。内なる御霊が「御子の霊」として「アッバ、父よ」と叫ばれるので、その御霊によって子とされた「わたしたち」も「アッバ、父よ」と叫ぶことになります。
 ここで「アッバ、父よ」と、アラム語の「アッバ」とギリシア語の「父よ」が並べられていることが注目されます。これは初期のギリシア語を用いる共同体で、「アッバ」というアラム語が用いられていたことを示しています。その「アッバ」というアラム語の意味を解説するために、「父よ」というギリシア語が添えられていることになります。これは、イエスが常に祈りのときに用いておられた「アッバ!」という神への呼びかけの言葉が、重要な伝承として伝えられ、ギリシア語を用いる共同体でも、アラム語のまま用いられるようになっていたからです。主イエス御自身が命がけで用いられた尊い語を、どうして他の語に変えることができるでしょうか。この事実は、福音書伝承の中にも見られます(マルコ一四・三六)。
 イエスは弟子たちに祈りを教えるとき、「アッバ!」と祈れと教えられました。このことを伝えるルカ一一・二は、ギリシア語で「父よ」になっていますが、アラム語で弟子たちに語っておられたイエスは、「アッバ」というアラム語を用いられたはずです。イエスは、御自分が子として父への完全な交わりと信頼に生きておられる境地に入るように、弟子たちを招いておられるのです。しかし、この境地は地上のイエスに従っていた時期の弟子たちは入っていくことができませんでした。イエスの言葉は伝えることができました。それが「主の祈り」の伝承です。しかし、イエスが神を「アッバ!」と呼んで、親しい交わりに生きておられた境地は、弟子たちはイエスの復活後、聖霊を受けて初めて入ることができたのです。わたしたちは、「子とする御霊」によって初めて、現実に神の子となり、「アッバ、父よ」と全身全霊を父に投入して生きるようになります。
 神は、キリストにあって御霊を与え、その御霊によりわたしたちを子とすることによって、わたしたちの父となっておられます。わたしたちが「子とする御霊」によって「アッバ、父よ」と叫び祈る現実に入っていなければ、神は父であるというイエスの福音の使信は空しい言葉になってしまいます。「この子とする御霊によって、わたしたちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです」というパウロの言葉は、パウロ個人の体験ではなく、神を父と宣べ伝えられたイエスの使信を、御霊によって全存在をもって受け止め、その現実に生きていたキリスト者共同体の告白です。

御霊の証

 わたしたちが「アッバ、父よ」と叫び、そう呼びかけて父に祈っている姿は、わたしたちの内に「子とする御霊」が働いておられることの現れですが、このように外に現れた現象だけでなく、わたしたちが神の子であることを、この御霊ご自身が、わたしたちの奥底深く「わたしたちの霊に」直接に証言してくださるのです。パウロは、「この御霊ご自身が、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊に証ししてくださいます」(一六節)と語ります。

 ここに用いられている「証しする」という動詞は、《シュン》(共に)という接頭辞を伴っているので、「わたしたちの霊と共に証ししてくださる」という訳がしばしば見られます(すべての邦訳がこの意味に理解しています)。しかし、《シュン》はこの場合強調の接頭辞であり(バウアー)、この動詞が「〜と一緒に証しする」という場合は、「わたしたちの霊」の前に改めて《シュン》(一緒に)という前置詞が普通は用いられるので、この動詞の直後にくる与格の「わたしたちの霊」は、「わたしたちの霊に(対して)」証しすると理解しなければならないと考えます(ヴルガータやルター訳、さらに現代ではケーゼマンやウィルケンスはこう理解しています)。この動詞が新約聖書に用いられているのは、こことローマ二・一五、九・一の三カ所だけですが、九・一も「わたしと共に証しする」ではなく、「わたしに証しする」と理解されます(協会訳)。さらに、ここでの「わたしたちの霊」は、ガラテヤ四章六節の並行箇所からすると、「わたしたちの心《カルディア》」とほぼ同じ意味で用いられていると見られるので、ここの「わたしたちの霊」を証しをする主体と見ることは適切ではありません。

 ここは、《プニューマ》という語が、同一の節で神の御霊とわたしたちの霊の両方を指して用いられている数少ない例の一つです。ただし、ここでの「わたしたちの霊」は、ガラテヤ四章六節の並行箇所からすると、「わたしたちの心《カルディア》」とほぼ同じ意味で用いられていると見られます。パウロは、御霊の働きを語る流れの中で、神の御霊を指すのに《ト・プニューマ》を強調して「御霊ご自身」という形で用いていますが、それと対比して、ほぼ「わたしたちの心」とか「わたしたちの内面」というぐらいの意味で、「わたしたちの霊《プニューマ》」を用いたと見られます。このような《プニューマ》の用法は、当時のギリシア語としては普通です。
 このように、御霊は外に現れる姿においても、内なる確信においても、わたしたちが神の子である実質を形成してくださいます。わたしたちは、キリストにおいて賜る御霊によって神の子としての生涯を歩むことができるのです。わたしは、イエスの「山上の説教」は神の子としてのイエスが父への完全な信頼と交わりを告白された大文章だと理解していますが、わたしたちがそのような境地に生きることができるのは、ここでパウロが言っているように、「子とする御霊」によります。すなわち、イエスの「山上の説教」の世界に入っていくための鍵は、「子とする霊」を受けることであると言えます。

 「山上の説教」の受け止め方については、拙著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』を参照してください。

キリストと共同の相続人

 子という身分は、親の資産を相続する資格を意味します。神の子であることは、神の資産、すなわち神の栄光を相続する立場にあることを意味します。「子とする御霊」によって神の子とされたことを語ったパウロは、自然に、キリスト者は神の栄光を受け継ぐ者であるという主題に入っていきます。「子であるなら相続人でもあります。神の相続人であり、キリストと共に栄光にあずかるためにキリストと共に苦しむかぎり、キリストと共同の相続人です」(一七節)。
 ここで用いられている「相続」という用語は、世間で子が親の資産を受け継ぐことを指すのにも用いられている普通の語ですが、新約聖書では旧約聖書の伝統を受け継いで、終わりの日に神の民が約束されていた栄光を受け継ぐことを指すのに用いられています。旧約聖書では、イスラエルの民が約束の地カナンに入ったとき、各部族がそれぞれ定住する土地を得ましたが、その土地が「相続分」と呼ばれました。各部族は神が約束された土地を「相続した」のです。このイスラエルの各部族が土地を得たことを予型として、新約聖書は神が約束された栄光を受け継ぐことを「地を受け継ぐ(相続する)」と表現しました。

 この表現については拙著『マタイによる御国の福音』79頁マタイ五・五の「幸いの言葉」講解を参照してください。

 パウロも、このイスラエルの土地相続を予型として、神の子が神の栄光を受け継ぐことを「相続」という用語で語ります。キリスト者は神の子である以上「神の相続人」であると言うとき、「神の相続人」とは神の栄光を受け継ぐことを指しています。そのことは、すぐ後で「(キリストと共に)栄光にあずかる」ことが「(キリストと共同の)相続人」と表現されていることからも明らかです。終わりの日に神の栄光にあずかる者となることは、福音において救済の重要な一面です。パウロも、現実の人間について「人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っており」(三・二三)と語り、キリストによる救いについて、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、・・・・神の栄光にあずかる希望をもって歓んでいます」(五・一〜二)と語っています。
 「神の栄光にあずかる」ことが救いの完成です。それは終わりの日の出来事ですから、必然的に将来に待ち望む「希望」となります。キリストにあって救われることは現在の出来事ですが、それは必然的に希望という一面を含むことになります。「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、・・・・神の栄光にあずかる希望をもって歓んでいます」ということになります。「神の栄光にあずかる希望」とは、何という壮大な希望でしょうか。人間にとってこれ以上の希望はありません。この希望に生きるわたしたちの姿は次の段落(一八〜二五節)で詳しく語られることになりますが、ここでは、「キリストと共同の相続人」として神の栄光にあずかるのであることが強調されます。
 キリストはすでに神の栄光にあずかっておられます。キリストは死者の中から復活して、もはや朽ちることのない霊体をもって、神との完全な交わりの中に生きておられます。わたしたちはキリストに合わせられている者として、キリストの栄光が現れる終わりの日に、死者の中からの復活にあずかり、朽ちることのない霊体を与えられて、キリストと一緒に神の栄光の中に生きるようになるのです。これが「キリストと共同の相続人として、神の栄光にあずかる」ことです。これは、パウロがコリント書簡(T一五章)で「初穂」という用語を用いて語っていたことと同じです。パウロが「神の栄光にあずかる」と言うとき、死者の中からの復活にあずかることを指しているのです。そのことは次の段落からも明らかです。
 しかし、ここで重要な限定がつきます。わたしたちは、「キリストと共に栄光にあずかるためにキリストと共に苦しむかぎり」、キリストと共同の相続人なのです。「栄光にあずかる」のは将来のことですが、「キリストと共に苦しむ」は現在のことです。動詞「苦しむ」は現在形です。この世では、十字架につけられたキリストに合わせられて生きる者は、キリストが世から受けた苦難を身に受けて生きなければなりません。キリストの苦しみを共にしている姿に、キリストに合わせられている実質があります。キリストと共に苦しむとき、キリストと栄光を共にするようになるという希望が確かなものになります。ここでパウロは、自分の体験を語っています。たしかに、苦難は栄光にあずかることの根拠とか条件ではありません。しかし、キリストと共にする苦難こそ、キリストと共に受け継ぐ栄光の希望を身に付いた確かなものにします。この「現在の苦しみと将来の栄光」の対照が、次の段落(一八〜二五節)の主題となります。

 パウロが自分の体験から、苦難の中でこそ復活の希望が確かなものになるという消息を語っていることについては、拙著『パウロによるキリストの福音V』88頁の「復活信仰の具体相」を参照してください。