第三節 義とされた者の歓び
1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより神との和を得ています。 2 さらにまた、この方により、わたしたちがいま現に立っている恵みに導き入れられ、神の栄光にあずかる希望をもって歓んでいます。 3 それだけでなく、苦難の中にあっても歓んでいます。わたしたちは、苦難は忍耐を生み、 4 忍耐は練達を生み、練達は希望を生み、 5 希望は失望に終わることがないことを知っているのです。それは、わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心の中に注ぎ出されているからです。
6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったときに、時いたってわたしたち不信心な者たちのために死なれたのです。 7 正しい人のために死ぬ者はまずありません。恩人のためにであれば、あるいはあえて死を引き受ける者があるかもしれません。 8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったときに、キリストがわたしたちのために死なれたことによって、神はわたしたちに対する御自身の愛を示しておられるのです。 9 今やキリストの血によって義とされているのですから、なおさら御怒りから救われることになります。 10 敵であったときでさえ御子の死によって神と和解させていただいたのですから、和解させていただいている今は、なおさら御子のいのちによって救われることになるはずです。 11 それだけでなく、今や和解を得させてくださったわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神と結ばれて勝ち誇って歓ぶのです。
神との和
ここまでパウロは、律法とは無関係に、キリスト信仰によって義とされることを、全存在をかけて主張してきました。これは机上の議論ではなく、パウロが生涯をかけ、文字通り命をかけて宣べ伝えてきた福音の提示なのです。この「信仰による義」の提示を終えて、今やその結果を述べるところに来ました。信仰によって義とされた者は、どのような境地に来たのでしょうか。パウロは、これまでの議論を受けて、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」とまとめ、その結果をまず「わたしたちの主イエス・キリストにより神との和を得ています」と要約します(一節)。同じ理由で、マタイ五・九では、「和を創り出す者たち」とした方がよいのではないかとわたしは考えています。《シャローム》および「和」という訳語について、さらに詳しくは「マタイによる御国の福音―山上の説教講解」の中の五章九節の講解「和を創り出す者」の項を参照してください。
信仰によって義とされた結果、「わたしたちは神との和を(現に)得ている」のです。ここでパウロが言う「わたしたち」は、前章で述べた「わたしたちの主イエス・キリストを死者の中から復活させた方を信じるわたしたち」(四・二四)であり、ユダヤ人と異邦人とを問わず、「アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の模範に従う者たち」(四・一二)を指しています。ここまでパウロが議論の相手として念頭に置いていたユダヤ人(四・一の「わたしたち」を参照)は背後に退き、パウロは向きを変えて(四・二四から変わっています)、キリストを信じている仲間に語りかけます。「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより神との和を得ている」のだと、キリストに属する者の現在の立場を誇るのです。和を「得ている」という動詞を、接続法の形《エコーメン》にしている有力な写本があります。この形ですと、「神との和を持とう」という勧告の意味になります。しかし、ここは「信仰によって義とされた」結果を述べる文であり、全体の議論の流れからも、内容的にはどうしても事実を述べていると理解しなければならず、直説法《エコメン》を用いている写本(底本)に従います。
「わたしたちは神との和を(現に)得ている」という宣言は、重大な宣言です。ここの「和」というのは終末的な事態であるからです。「和」という訳語の背後にある《シャローム》は、聖書(旧約聖書)において神と人、人と人の交わりの究極の完成態を指す用語になっていました。《シャローム》のないイスラエルの歴史の中で、預言者たちは終わりの日に神が《シャローム》を実現してくださる希望を語り続けました(イザヤ九・五、二六・一二、五二・七、五三・五、五七・一九など多数)。今やその《シャローム》が実現したのです。「わたしたち」、すなわちキリストに属する民の中に、終末の《シャローム》の事態が到来したのです。恩恵の場
「神との和を得ている」と言ったとき、パウロは神から与えられた和解に思いを致していることは、先に述べた通りですが、「さらにまた」、この和解を得させてくださったのと同じ「わたしたちの主イエス・キリスト」によって、「わたしたちがいま現に立っている恵みに導き入れられ」たことを感謝します(二節前半)。すでに、義とされたのは「恵みによる」ことを強調していましたが(三・二四)、その「恵み、恩恵」が、ここでは「わたしたちがいま現に立っている」場として言及されます。ここで「歓んでいる」と訳した動詞《カウカオマイ》は、これまでによく出てきた「誇り」の動詞形で、本来「誇る」という意味の動詞です。この用語(名詞も動詞も含めて)はパウロ特有の用語で、新約聖書の約60回の用例の中、53回はパウロ七書簡に出てきます(原語での回数)。この用語は、パウロにおいて肯定的な用法と否定的な用法の両方に用いられています。否定的な用法というのは、神の前に人間が自分の価値とか資格を誇ることを徹底的に否定している場合です。たとえば、このローマ書ではユダヤ教徒が律法を持っていることや律法を行っていると誇っていることが徹底的に否定されています(二・一七〜二四、三・二七、四・二)。「肉の誇り」は否定されなければならないのです。それに対してこの段落では、同じ語がキリストにある者の勝利を誇る意味で肯定的に用いられています。この段落のきわめて強い積極的姿勢から見て、ここでは「誇る」は「勝ち誇る」の意味であり、「勝ち誇って歓ぶ」という気持ちを含んでいます。多くの英訳は rejoice(歓ぶ)という訳語を用いています。この私訳でも、(訳文の調子を考慮して)「勝ち誇って」という気持ちをこめた「歓ぶ」という訳語を用います。
神の栄光にあずかる希望
まず、わたしたちは「神の栄光にあずかる希望をもって歓んでいます」(二節後半)。何という壮大な希望でしょうか。「神の栄光にあずかる希望」です。このような希望に生きた民が今までにあったでしょうか。恩恵の場に生きるようになった者に現れる最初の標識がこの希望であり、この希望に基づく歓喜です。原文は「神の栄光の希望」ですが、これは神の栄光が現れることへの希望ではなく、自分が神の栄光にあずかる希望と理解すべきです。この理解は、キリストに属する者の希望を詳しく敷衍した八章(一八〜二五節)の内容からも支持されます。
「人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失って」いるのです(三・二三)。人間は自らを神とする傲慢により、神に背を向け神から離反したため、神とのつながりを失い、そのつながりがあれば保持していたはずの「神の栄光」を失ったのです。すなわち、自由、愛、誠実、平和などの神的な質(聖性)を失い、三章(一〇〜一八節)に描かれたような、まったく正反対の者になってしまいました。この失われた神の栄光の回復こそ救いの内容であり、キリストにある者は「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ形に造りかえられて」いくのです(コリントU三・一八)。キリストにある者の中に、この救いの過程はすでに御霊の働きによって始まっています。しかし、キリストにある者も、神に背く生まれながらの本性に刻印された体をもって生きているので、この過程は激しい葛藤の中に進まざるをえません。わたしたちは深いうめきをもって、この過程が完成し、わたしたちが「神の栄光にあずかる」者となることを待ち望まざるをえないのです。苦難の中で歓ぶ
わたしたちキリストにある者は、このように「神の栄光にあずかる希望」をもって歓んでいるだけでなく、現実の歩みの中で遭遇する苦難の中にあっても歓んでいます。これが「恩恵の場」に生きる者の大きな特色です。もし苦難の中でも溢れるように歓ぶことができるとすれば、これは人生に勝利したことです。「歓ぶ」と訳している動詞《カウカオマイ》は、先の注でも述べたように、本来「誇る」という意味の動詞ですが、その誇りの対象または根拠は《エン》などの前置詞を用いた句で表現されるのが普通です(二・一七、二・二三など多数)。したがって、ここも「苦難を誇る」と訳す方が用例に忠実な訳かもしれませんが、先行する「神の栄光にあずかる希望に基づいて」歓ぶ姿と対照して、ここは「苦難の状況にあっても」歓ぶと理解します。どちらの訳を採っても、キリストにある者の姿を描く上で実質的な差はないと言えます。
パウロは、苦難の中でも歓ぶ理由を続く文で説明します。「わたしたちは、苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生み、希望は失望に終わることがないことを知っているのです」(三〜五節の一部)。「わたしたちは知っているのですから」(分詞形で先行する文の理由を説明する)というのは、知識として知っているのではありません。信仰生活の実際の体験から知っているのです。パウロは誰よりも多くの苦難を体験した上で(コリントU一一・二三〜二八)、こう言っているのです。わたしたちキリストにある者は、信仰によって歩むときさまざまの苦難に遭遇します。神に生きようとする者はこの世では苦難に遭うことは、旧約聖書以来の伝統であり、イエスもそう教えておられます。わたしたち「神の栄光にあずかる希望」という目標に向かって召された者は、その苦難の中で耐え忍ぶ忍耐を学ばされます。そして、忍耐をもって苦難に耐える体験を通して、練達を身につけていきます。練達とは、困難な事態に対処する経験を積み重ねることによって身についた知恵とか能力を指します。そして、練達を身につけることによって、どのような事態においても将来を望むことができる、希望に生きる体質が強められます。こうして苦難の中でますます強められる「神の栄光にあずかる希望」は、神の信実のゆえに、けっして失望に終わることはありません。三〜五節の原文を、ほとんどの日本語訳は四節で切って、「苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生むことを知っているからである。そして、希望は失望に終わることがない。なぜなら、わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心の中に注ぎ出されているからです」と訳しています。この訳では、「神の愛がわたしたちの心の中に注ぎ出されているからです」という理由の文は、直前の「希望は失望に終わることがない」という部分だけを根拠づけることになります。しかし、内容からして、ここの「神の愛がわたしたちの心の中に注ぎ出されているからです」という理由の文は、「苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生み、希望は失望に終わることがない」という、キリストにある者の体験の連鎖全体を根拠づけていると理解しなければならないと考えます。原文は十分そう読むことができます。RSVもそう読んでいます。日本語訳は、後ろに来る修飾句を先行する叙述全体にかけないで、直前の部分だけにかけるように訳す傾向がありますが、これはしばしば誤りになっています。ここもその一例です。もっともここは、(四節の終わりに終止符をつけている)底本の句読点がそのように読ませる原因でしょうが、この句読点は修正すべきでしょう(元の写本には句読点はありません)。
人生において味わう苦難は、しばしば不平や不満、人や世への恨みを生み、自暴自棄や刹那的な快楽追求を生み、さらに絶望を生み出し、絶望は癒されることがないという、負(マイナス)の連鎖を生み出す場合が多いようです。同じように苦難に遭遇しながら、一方では「苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生み、希望は失望に終わることがない」という祝福された体験の連鎖を生じ、一方では「苦難は不平を生み、不平は恨みを生み、恨みは絶望を生み、絶望はいやされることがない」という破滅的な連鎖を生み出すことがあります。この違いはどこから来るのでしょうか。聖霊により神の愛が注がれた
このように苦難の中でも勝ち誇って歓ぶことができるのは「神の愛がわたしたちの心の中に注ぎ出されている」結果ですが、これは「わたしたちに与えられている聖霊によって」起こる体験なのです。ローマ書では、ここではじめて「聖霊」が言及されます。パウロがこれまでに書いた書簡において、あれほど繰り返し触れ、福音の中心主題として重視してきた聖霊の働きが、ローマ書ではここでやっと現れるのはやや奇異な感じがしますが、これはローマ書全体の構成から見て理解できます。四章までの第一部では、救いへの神の力が働く場への入口を論じるだけですので、その救いの力の本体である聖霊について言及することはありませんでした。キリストにおける神の救済の働きを語る第二部の頂点である八章に来て、聖霊の現実を詳しく展開することになるのです。そして今、第二部を要約して先取りする位置にあるこの段落(この点については後述)で、八章で詳しく語ることになる聖霊の働きに一言触れないではおれないのです。八章は聖霊により体験する神の愛の勝利を高らかに歌い上げていますが、それを先取りする形で、聖霊によって注がれる神の愛が、苦難に勝利する力としてここで言及されるのです。五節の「神の愛」は、わたしたちが神を愛する愛か、神がわたしたちを愛してくださる愛かが議論されてきました。「神の愛がわたしたちの心において注ぎ出されている」(直訳)という表現からも、アウグスティヌス以来「わたしたちが神を愛する愛」と理解する主張も根強く続いています。しかし、パウロにおいては「神の愛」という句が「人が神を愛する愛」という意味で用いられている例は他にはなく、通例「神がわたしたちを愛してくださる愛」という意味で用いられている(八・三九、コリントU一三・一三)ことから、そして何よりも後続する箇所(六〜八節)で明らかに「彼の愛」という表現で「神がわたしたちを愛してくださる愛」が語られていることから、ここの「神の愛」は「神がわたしたちを愛してくださる愛」であると理解しなければなりません(コリントU五・一四の「キリストの愛」も同じ)。なお、動詞が「注ぎ込まれている」ではなく「注ぎ出されている」というのは、神の愛の担い手である聖霊が愛の源泉である神から発出することに注目した表現であると考えられます。
初期の福音宣教においては、信じた者たちは様々な形で聖霊の力強い働きを体験しました。復活されたイエスを啓示し、迫害の中でイエスを主《キュリオス》と告白させ、病人をいやすなどの力ある業をなし、預言や異言を語るなど様々な形で、信徒たちは聖霊の働きを体験してきました。その中で、聖霊を愛の霊として、すなわち聖霊の本質を愛《アガペー》をもたらす霊として、もっとも明確に自覚し語ったのはパウロです。パウロは、聖霊の様々な働きの中で《アガペー》を最高の道としています(コリントT一二〜一四章)。それは、パウロがダマスコ途上で聖霊を受けて復活者イエスに遭遇した体験において、イエスが「わたしを愛し、わたしのために身を献げた神の子」(ガラテヤ二・二〇)であるのを知ったからです。パウロは聖霊体験において、敵対する自分のために死なれた神の子イエスを知ったのです。そこに「神の愛」を見たのです。パウロは自分の体験から、聖霊による愛を語るとき、同時に「敵のために死ぬ愛」に触れないではおれないのです。こうして、「わたしたちの心の中に注ぎ出された神の愛」は、すぐに続く箇所(六〜八節)で、罪人のために死なれたキリストの姿によって具体的に示されることになります。神の愛の啓示としてのキリストの死
パウロはダマスコ途上で復活された栄光の主イエスに遭遇したとき、その栄光の主が自分のために死なれたことを何らかの形で啓示され、その愛に迫られ、捕らえられたのだと、わたしは信じています。言い換えれば、パウロは聖霊によって栄光の復活者イエスを啓示されたとき、その方から「わたしはあなたのために死んだ」という根元的な言葉を聴いたのだと、わたしは信じています。「わたしは信じています」というのは、パウロ書簡にはそのような直接の発言はなく、パウロはキリストの死の意義を語るときはいつも「キリストはわたしたちのために死なれた」とか「すべての人のために死なれた」と語っていますが(たとえばコリントU五・一四〜一五)、その複数形の「わたしたちのために」の背後には、「わたしのために」という個人的な体験があると、わたしは理解しているということです。二回目の「まだ」をこの「時に従って」にかけて、「まだその時に、すなわち、わたしたちが不信心な者であったまだその時に」と理解する説もありますが、「時にしたがって」という句を「その時において」と理解するのは困難ですので、この説はとりません。
ヘレニズム世界では、他人のために死ぬことは高く評価されていました。しかし、弱い者、社会で評価されていない者のために死ぬようなことは考えられませんでした。「正しい人のために死ぬ者はまずありません」(七節前半)。ある人が道徳的に、また社会的に正しい人だから、その人のために死ぬというようなことは、まずあり得ないことでした。せいぜい「恩人のためにであれば、あるいはあえて死を引き受ける者があるかもしれません」と言える程度です(七節後半)。七節の解釈は様々あって争われていますが、いずれにしても七節は、八節と一〇節で語られる「罪人」とか「敵」のためにキリストが死なれたという事実が人間の行為としてはありえないことを際だたせ、そこに人間の愛と質が異なる神の愛が現れていることを強調するために挿入されたと見られます。七節で「恩人」と訳した語は、原語では《アガトス》(善い)という形容詞に定冠詞をつけて名詞として用いられています。ここでは二格であるので男性形と中性形が同じになり、どちらであるかが争われています。単独で理解すれば、中性名詞として「善のために死ぬ」、すなわち何か最高善と考えられている目標の実現のために命を投げ出すという意味にも理解できます。しかしここの文脈では、先行する「正しい人」と、後続する「罪人」とか「敵」との並行関係から男性名詞と理解するのが適切であると考えられます。ただ「善い人」とか「善人」では、「正しい人」との差がはっきりせず、正しい人のためには死ぬ者はないが、善い人のためであれば死ぬ者もありうるという文の意味が理解困難になります。もともと《アガトス》はギリシャ思想でも至高善を意味しますが、ユダヤ教においてもこのギリシャ語は神の述語として用いられ、それを受けて新約聖書でも「神だけが《アガトス》である」と言われています(マルコ一〇・一八)。それで、神のように無条件絶対に善をなす人、すなわち慈愛恩恵を施す人という意味で、あえて「恩人」と訳してみました。この日本語は、自分のためにそのような恩恵を与えてくれる人を指すことが多いので、その人のためならば死ぬこともあえて引き受けるという意味が理解しやすくなると考えます。しかし、一般的な文としては「慈愛の人」と意訳した方が適切かもしれません。
このように人間界の現実を描いた後、パウロはそれと対比して神の愛の比類のない質を述べます。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったときに、キリストがわたしたちのために死なれたことによって、神はわたしたちに対する御自身の愛を示しておられるのです」(八節)。義認と和解
パウロは最後にもう一度「義とされている」ことの結果をまとめます。最初(一節)にこれまでの議論を「信仰によって義とされた」とまとめましたが、ここでは「今やキリストの血によって義とされているので」と要約します(九節前半)。これは、直前の六節から八節でキリストの十字架上の死が神の愛の啓示であることを語ったので、まさにそのキリストの十字架の死がわたしたちが義とされるための根拠であると、改めて指し示すのです。「和解する」(動詞)と「和解」(名詞)の用例は、新約聖書ではパウロ文書だけに見られます(計一三回)。「和解する」(動詞)は、人間関係について用いられている例が一例だけありますが(コリントT七・一一の妻が別れた夫と和解する場合)、他の五例(ローマ五・一〇の二回、コリントU五章の一八、一九、二〇節)はみな神と人との関係について用いられています。「和解」(名詞)の用例は四回あり(ローマ五・一一、一一・一五、コリントU五・一八、五・一九)、みな神と人との関係についてです。このようなパウロ書簡に見られる「和解」の用例は、「パウロの名による書簡」に(わずかに違った形の語で)受け継がれ、福音提示において中心的な位置を占めるようになっています(コロサイ一・二〇、一・二二、エフェソ二・一六)。なお、マタイ五・二五と使徒一二・二〇で、日本語訳では「和解」という語が用いられていますが、そのギリシア語原語はパウロ文書の用語とは別のギリシア語です。
パウロは、このローマ書以前に、すでに「和解」という用語で福音を語っていました。パウロはコリントの集会に向かってこのように書いています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。(新共同訳 コリントU五・一七〜二一)
パウロは今このローマ書をコリントで書いていますが、つい先にこのコリントの集会に向かって書き送った手紙の中で、パウロ自身がこう言っているのです。したがって、この箇所は、「和解」についてきわめて簡潔に語っているローマ書の箇所(五・一〇〜一一)を理解する上で、もっとも重要な参照箇所になります。また、「和解」に関して語られているのは、新約聖書ではこの二箇所だけですから、この機会にこの二箇所を比較検討して、パウロの「和解」の使信をまとめておきたいと思います。「神はキリストの中におられて、世の諸々の罪過の責任を問うことなく、世を御自分と和解させておられる」(コリントU五・一九前半の私訳)という部分は、すでにパウロ以前に、ギリシア語系ユダヤ人の福音宣教活動の中で定型化されて用いられていたのではないかと見られます。「諸々の罪過」というような複数形の使用に、パウロ以前のユダヤ人の宣教活動から出たことをうかがわせる痕跡がありますが、キリストの十字架・復活の出来事の意義を、「義とする」とか「血による贖い」というようなユダヤ教特有の用語を用いないで、「和解」という一般社会で普通に用いられている用語で語っているのは、ギリシア語系ユダヤ人の宣教活動がユダヤ人キリスト教の枠から外に出て、異邦人社会に福音を語っている状況を指し示しています。パウロも、ガラテヤ書やローマ書でユダヤ人の論敵を意識して議論するときには、「義とする」とか「贖い」というようなユダヤ教特有の用語を多く用いていますが、コリントのような異邦人の集会に向かって語るときには、この「和解」を用いた定型文をよく用いたと見られます。
キリストの死による和解
コリント書簡では、福音は「和解の言葉」と呼ばれ、キリストの使徒は「和解の務め」を委ねられた者とされています。パウロは異邦人にキリストの福音を宣べ伝えるときには、「義認」とか「血による贖い」というようなユダヤ教特有の法廷的な用語や祭儀的な用語を極力避けて、「和解」という一般的な用語を用いて福音を語ったのでしょう。その異邦人への使徒としての立場が、ローマ書において福音を義認と贖罪という用語で語ってきた直後に、同じことを「和解」という語を用いて言い直させるのです。パウロはこう言っています。「敵であったときでさえ御子の死によって神と和解させていただいたのですから、和解させていただいている今は、なおさら御子のいのちによって救われることになるはずです」。(一〇節)
パウロは「敵であったときでさえ」と言っています。これは、ダマスコ体験で自分が神に敵対してきた者であることを思い知らされたパウロの自覚から出ていると見られます。パウロは直前の箇所(六〜八節)で、キリストが弱い者、不信心な者、罪人のために死なれたことを語りました。この神との関係における人間の姿は、弱い者、不信心な者、罪人と順次に上昇し、「敵」にまで達します。その箇所で見たように、そこでもすでにそのような一般的な描写の背後に、イエスを迫害して神の敵であったという自分の個人的な体験がありました。いまそれが表面に出てきます。和解は敵対関係を前提としていますが、パウロはまさに自分が神の敵であったことを誰よりも深く自覚しているのです。それだけに、彼の語る和解の福音は力がこもります。ヘレニズム期のユダヤ教にも「和解」という用語は稀に見られますが(マカバイU一・五、五・二〇、七・三三、八・二九やヨセフスなど)、みな人間の側からのイニシャティヴ(悔い改めや祈りなど)による和解です。ユダヤ教には「和解」という用語で神の救いを語ることはなかったと見られます。パウロは異邦人に福音を語るときには、ユダヤ教からではなく、ヘレニズム世界の社会生活からとられた「和解」という用語を、「義認」というユダヤ教の概念の代わりに大胆に用いたと見られます。
人間は自分たちが神から離れていることを意識し、神が敵意をもって自分たちを扱うことを恐れて、宥めの供え物を捧げたりして、神と和解することを努めてきました。それは人の側からの和解です。しかし、キリストにおいては一切そのような人の側からの供え物や条件づくりは求められていません。神が一方的に和解の場を備えてくださっているのです。今やキリストにおいて成し遂げられた神による和解が、「和解の務め」を委ねられたキリストの使徒たちによって宣べ伝えられています。それが福音です。パウロは「和解の言葉」を委ねられた者として、こう言うのです。「神がわたしたちを通して勧められておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。「罪とされた」という表現は、ユダヤ教の「贖罪の献げ物」という用語が七十人訳ギリシャ語聖書では端的に「罪」と呼ばれている(レビ記四・二一など)ことを引き継いだ表現であると見られます。この箇所は、「神は罪を知らない方を贖罪の献げ物とされた」というユダヤ教的な福音の定式を、パウロがギリシア語聖書の用例に従って、異邦人向けに祭儀的な表現を避けて端的に表現したと見られます。八・三にも同じような用例が見られます。
救いの場としての和解
「御子の死によって」和解を受けている事実を明らかにした後、パウロは「和解させていただいている今は、なおさら御子のいのちによって救われることになるはずです」(一〇節後半)と続けています。ここで、「御子の死によって」起こったことと「御子のいのちによって」起こることが、「なおさら」で対照されています。御子の死によってすでに起こったことが事実ならば、「なおさら」御子のいのちによって起こることになる救いは確かであるというのです。一〇節で、パウロは御子の死による和解と復活のいのちによる救いを一組にしていますが、この組み合わせによる救済理解をもって、遡って四章二五節を見ると、そこでのパウロ独自の表現もさらに理解しやすくなります。パウロは同じことをそこでも念頭に置いていたと見られます。すなわち、「わたしたちの罪過のために渡され」は御子の死による和解を指し、「わたしたちの義のために復活された」は、復活された御子のいのちによってわたしたちが義の実質を与えられていく過程を指すことになります。この場合の「義」は六章で用いられるのと同じく、神の御心に従う生の全体を指しており、ほとんど救いと同じです。このように見ると、四章二五節は五章一〇節をユダヤ教的な用語で表現した句であると言えます。
ユダヤ人向けに「義とされる」というユダヤ教的な用語で語られた九節と、「和解」という一般的な用語で異邦人向けに語られた一〇節を比較すると、同じことを述べている並行した文型の中に、微妙な違いがあることに気づきます。それは、救いの内容を述べる部分が、九節では「御怒りから救われることになる」となっており、もっぱら終末時の審判における救いが注目されているのに対して、一〇節では「御子のいのちによって救われることになる」という形で、復活のいのちによる地上の人間の変容の過程全体が視野に入れられています。パウロは第二部で救いの現実を語るとき、終末の審判についてはほとんど触れることはなく、もっぱら聖霊による復活のいのちの働きについて語っています。この事実は、パウロがユダヤ教的な救済理解から脱して、いかに深く御霊の働きによる新しいアイオーンの現実に入っているかを示しています。勝利の凱歌
このようにキリストにあって和解を受けた者は、ただ将来の救いを確実なこととして待ち望むだけではなく、現在すでに「神と結ばれて勝ち誇って歓ぶ」のです。その勝利の歓喜が、「それだけでなく、今や和解を得させてくださったわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神と結ばれて勝ち誇って歓ぶのです」(一一節)という結びの言葉で表現されます。文頭の「それだけでなく」は、直前の未来形の「救われることになる」に対して、ただ将来の救いを確実なこととして待ち望むだけではなく、現在すでに「勝ち誇って歓んでいる」の意であると理解されます。「勝ち誇って歓ぶ」と訳した動詞は、二節と三節では「歓ぶ」としましたが(二節の注を参照)、ここでは段落の基調を示す最後の力強い歓呼であることを示すために、あえてこのように訳しました。なお、「神」の前に置かれている前置詞《エン》は、「キリストにあって」というときの前置詞と同じです。すなわち、新共同訳が「キリストと結ばれて」と訳しているのと同様、「神と結ばれて」と訳すことができます。「神との和解」によって「神との和」に入っているキリスト者は、「神と結ばれて」歓ぶのです。この句は、「歓ぶ」が本来他動詞ではなく自動詞であることから、「神を誇る」(この意味も可能であることについては二節の《カウカオマイ》に関する注を参照)または「神を歓ぶ」ではなく、「神と結ばれて」生きていることが根拠となって、どのような状況でも勝ち誇って歓ぶことができるというキリスト者の勝利を歓呼していると理解する方がよいと考えます。
この最後の勝利の凱歌(一一節)は、第二部の最後の段落(八・三一〜三九)に現れる勝利の凱歌を先取りしています。第二部では「キリストにあって」という場で「救いに至らせる神の力」がどのように働くのかを描いた後、最後の段落でわたしたちのために死なれた「キリストの愛」、より正確には「わたしたちの主イエス・キリストにおける神の愛」による勝利が高らかに歌い上げられます。ここ(五章)では、神の愛を示すために、わたしたちのために死なれたキリスト、敵のために死んで神との和解をもたらされたキリストによって、「神と結ばれて」生きる者の勝利が、わずか一節の短い形で凝縮されて歌い上げられます。この段落の位置づけ
この段落(五・一〜一一)はローマ書の白眉である、とわたしは思っています。この短い一段に、ローマ書の主要な主題がぎっしりと詰め込まれて現れているからです。「信仰による義」、「神との和」、「恩恵の場」、「神の栄光にあずかる希望」、「苦難の中の歓び」、「わたしたちに与えられている聖霊」、「神の愛」、「罪人のためのキリストの死」、「キリストの血による義」、「御怒りからの救い」、「和解」、「御子のいのちによる救い」というような福音の主要項目が、この短い一段に目白押しに出てきます。この一つ一つについて詳しく語るならば、パウロによるキリストの福音をすべて語ることになります。大多数のローマ書の注解や講解は、一章(一八節)から八章までを大きな一区分として扱うことでは一致しています。しかし、その大きな部分をどう区分して読むかは、意見がまちまちです。カルヴァン、バルト、シュラッター、内村などの講解は、この部分をとくに小さく区分しないで(ほぼローマ書の章分けに従って)講じています。しかし、この部分を二つとか三つに区分する場合は、どこで区分するか、研究者の意見が分かれているようです。ケーゼマン、クランフィールド(ICC)などは四章終わりで区分します。ウィルケンス(EKK)、シュトゥールマッハー(NTD)などは五章の終わりに区分を見ています。やはりローマ書の章分けに従う傾向が強いようです。五章一一節で区分する見方は珍しいことになりますが、わたしは下記の理由から、あえてこの見方をとります。
わたしは、この段落を先行する第一部に属すると見て、この段落で第一部が終わっていると見ます。内容と用語の上では、この段落は先行する第一部と、これから語ろうとしている第二部と深く重なっており、どちらかに決めることはできません。先に見たように、この段落に現れる用語は、第一部と第二部の両方の主要内容を目次のように網羅しています。ただ強いて上げれば、表現形式からすると、「わたしたちの主イエス・キリストによって」という荘重な表現形式は大きな区分を終わるとき現れるという事実(八・三九)が、五章一一節を主要区分の終わりとする見方を根拠づけます(しかし決定的ではありません)。当時の口述筆記による書簡の作成がどれくらいの速度を持ち得たかについては、その分野の専門的な知識がありませんので、確かなことはわかりません。しかし、以上のように普段の福音の説教を口述していると見ると、各部は一気に口述されたのではないかと、わたしは想像しています。各部は相当の期間を隔てて書かれたと想像することも可能ですが、一つの区分は何日もかかって休み休みに書かれたのではなく、一気に書き上げられたと見る方が自然です。文の流れも自然に続いており、途中に大きな休みが入って、思考や気分が変わってしまっていることをうかがわせるものはないようです。あくまで想像の域を出ませんが、わたしは各部がそれぞれ一気に書かれたものと見ています。