第三章 信仰による義
第一節 律法と無関係の神の義
21 しかし今や、律法とは無関係に、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が現されています。 22 すなわち、イエス・キリスト信仰による神の義であり、すべて信じる者に与えられるのです。 そこには何の差別もないからです。 23 人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っており、 24 ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされるのです。 25 神はこのキリストを、信実によって、その血による贖いの場としてお立てになったのです。それは、これまでになされた諸々の罪を免責してこられたために、御自身の義を示すためでした。 26 その免責は神の忍耐によるものでしたが、ついに今この時に、自ら義であり、かつイエス信仰の者を義とする者となるために、御自身の義を示されたのです。
27 では、誇りはどこにあるのですか。誇りは排除されてしまっています。どのような律法によるのですか。行いの律法によるのですか。そうではありません。信仰の律法によるのです。 28 わたしたちは、人が義とされるのは、律法の行いとは無関係に、信仰によると判断するからです。 29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。たしかに、異邦人の神でもあります。 30 神は唯一である以上、神は割礼の者たちを信仰によって義とし、無割礼の者たちをも信仰によって義とされるのです。 31 では、わたしたちは信仰によって律法を無効にするのでしょうか。決してそうではありません。むしろ、律法を確立するのです。
しかし今や
「しかし今や!」、この一句を蝶番(ちょうつがい)として舞台は転換します。これまで舞台の上では、罪の支配の下にある人間すべてに神の怒りが注がれていることが描かれてきました。「しかし今や」舞台は変わり、神の義という光が現れて舞台を照らし出します。神の救済史(人間救済の物語)は新しい段階に入ったのです。「しかし今や、キリストは眠った者たちの初穂として、死者たちの中から起こされた(復活された)のです」。(コリントI一五・二〇 私訳)
キリストの復活こそ、新しいアイオーンの到来を告知する出来事なのです。終わりの日に、神に属する義人たちが死者の中から復活して、神の栄光にあずかるようになることが、黙示思想における希望の重要な中身でした。イエスが復活してキリストとして立てられたとき、その「死者の復活」という終末の出来事がイエスの身に起こったのです。キリストは「初穂として」復活されたのです。終わりの日に復活する神の民をその一身に含んで、民を代表して復活されたのです。この出来事によって「来るべきアイオーン」が到来したのです。正確に言うと、旧いままの「この現在のアイオーン」のただ中に、新しいアイオーン、終末そのものが突入してきたのです。ユダヤ教の黙示文書が描いたような「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」というような宇宙的破局ではなく、キリストの復活が「来るべきアイオーン」の到来を告知するのです。その出来事を、パウロは「しかし今や」の一句で告知するのです。キリストの復活がアイオーンの転換を告知する出来事であることについては、拙著『パウロによるキリストの福音U』271頁「第三節 初穂キリスト」を参照してください。
神の義が現れた
コリント書簡では、死者の復活を否定する者たちを論駁するために、キリストの復活が終わりの日に復活する者たちの「初穂として」の復活であることが強調されていました。しかし、ローマ書では違う視点から、新しいアイオーンをもたらすキリストの出来事が見られています。すなわち、キリストの十字架・復活の出来事が「救いに至らせる神の力」としての「神の義」の現れであると告知されるのです。キリストが来られるまでの旧いアイオーンでは神の義は隠されていました。「しかし今や、神の義が現れた」のです。律法とは無関係に
ところで、この「神の義が現れた」の前に重要な説明の句がついています。パウロは(原文の順序では)「しかし今や」と新しいアイオーンの到来を告げる角笛を吹き鳴らした直後に、「律法とは無関係に」という句を置き、その後に「神の義が現れた」という主題を述べる文を続けます。パウロにとっては、キリストによって始まった新しいアイオーンの新しさとは、神の義が「律法とは無関係に」現れたことにあるのです。今まで神の民においては律法が支配していました。義は律法を行うことによって到達されるものでした。「しかし今や」律法の支配は終わり、まったく別の原理による「神の義」が支配する時代に入ったのです。キリストは律法の終わりとなられたのです。「律法とは無関係に」と訳した句《コーリス・ノムゥ》は、「律法とは別に」とか「律法なしに」とか「律法の外で」という訳も可能です。この句は、文法的には「現れた」を説明する副詞句と理解するのが順当ですが、内容的には「神の義」という名詞を説明する形容詞句として、「律法とは無関係の(律法の外での)神の義」と理解してもよいでしょう。パウロが宣べ伝えた「割礼なしの福音」(ガラテヤ書)の神学的内容が、「律法とは無関係の(律法なしの)神の義」としてローマ書で展開されていると見られます。
この「律法とは無関係に」という新しいアイオーンの原理をユダヤ教徒に納得させるために、パウロはこの書簡を書いていると言ってもよいのではないかと思います。「律法とは無関係に」ということがユダヤ教徒にとっていかに衝撃的な発言であるかは、「律法」という語を《トーラー》というユダヤ教徒の用語に戻してみると、ある程度理解できるのではないかと思われます(《トーラー》については「用語解説」の「律法」の項を参照)。ユダヤ教徒にとって、自分たちの神が《トーラー》と無関係に人を義とされるとか救われるという宣言は、とても受け入れることができないものです。ユダヤ教徒にとって、《トーラー》こそ自分たちと神とを結びつけるすべてであるからです。《トーラー》はユダヤ教と呼ばれる神聖な宗教そのものです。それと無関係に神と人間の関係が成り立つとは考えられません。この発言の衝撃は、キリスト教徒が「キリスト教と無関係に神の救いが現れた」という宣言を聴いたときの衝撃から想像してみることができます。律法と預言者に立証されて
パウロはこのローマ書で、人を救う力としての神の義が「律法とは無関係に」現れたことを(とくにユダヤ教徒に対して)論証しようとしているのですが、ガラテヤ書の場合と異なり、その執筆の事情から律法の積極的な意義に触れることが多くなっています(執筆事情については本書第一章「福音書としてのローマ書」を参照)。ここでも「神の義が現れた」ことについて、「律法とは無関係に」と言いながら同時に、「律法と預言者によって立証されて」と続けます。これからの講解で見ていくことになりますが、パウロは「律法とは無関係の神の義」を立証するのに、当然のように「律法と預言者」を論拠として議論を進めます(この事実にもパウロがユダヤ教徒を念頭においてこの書簡を書いていることが示されています)。律法学者たちは自分の主張を聖書を論拠として立証するときは「律法」(モーセ五書)と「預言者」の両方から引用するのを常としました(当時、正典としての権威を持っていたのは、この二つだったからです)。これはパウロも本書簡でしていることです。この習慣が「立証されて」の場合に「律法と預言者」という表現を用いさせたと考えられます。
《トーラー》自身が「《トーラー》と無関係の神の義」を立証しているというのです。この一見矛盾した論法は、わたしたちに「宗教」の存在意義を考える重要なヒントを与えています。《トーラー》はユダヤ教という宗教そのものであり、ユダヤ教は代表的な「宗教」であるからです。「宗教」は、その本質に徹すれば、「宗教と無関係の救済」を立証するという主張をしていることになります。キリスト信仰による神の義
では、「律法とは無関係の神の義」とはどういう「神の義」でしょうか。パウロはそれを、すぐ後に続く同格名詞で説明します。それは「すなわち、イエス・キリスト信仰による神の義」であるのです(二二節)。パウロの表現を直訳すると、「イエス・キリストの信仰による神の義」となります。この「イエス・キリストの信仰」はふつう「イエス・キリストを信じる信仰」(協会訳、新改訳)とか「イエス・キリストを信じること」(新共同訳)、「イエス・キリストへの信仰」(岩波版青野訳)と訳されています。わたしはこれを「イエス・キリスト信仰」と訳しています。この訳には説明が必要です。「イエス・キリスト信仰」と訳した句は、原語では「イエス・キリストの《ピスティス》」です。《ピスティス》は本来誠実、忠実、真実を意味する語ですが、新約聖書では宗教的な「信仰」の意味で用いられています。この句における「イエス・キリストの」という属格は、ふつう対格的用法と理解して「イエス・キリストを信じる信仰」とか「イエス・キリストへの信仰」と訳されています。現代語訳ではこれが大多数です。しかし、少数ながら、これを主格的用法として「イエス・キリストがもつ誠実、真実」とか「イエス・キリストを通して顕れた神の信実」(バルト)と理解すべきであるという主張があり、論争されています。しかし、これは語句の文法上の形から決定できることではなく、パウロの実際の用法全体から理解すべきことです。これまでのパウロ書簡の講解で見てきたように、パウロが「信仰」と言うとき、それはイエス・キリストを信じ、主と言い表すこと(キリストを対象とする信仰)から始まるにはちがいないのですが、霊なる主イエス・キリストとの交わりに生きる人間の在り方全体を指しています。それで、「イエス・キリストの」という属格も、そのような「イエス・キリストとの関わりにおける」という総体的な内容と理解すべきであると考えられます。それで、わたしはパウロ書簡の翻訳では、《ピスティス・クリストゥ》を、名詞を二つ並べる「キリスト信仰」という表現で訳し、キリストとの交わりに生きる人間の在り方全体を指すことにしています。この「キリスト信仰」の内容は、この講解全体(むしろパウロ書簡全体の講解)で語らなければならない事柄ですので、ここでは訳語の説明にとどめます。英訳の faith in Jesus Christ は、「イエス・キリストへの信仰」の意味にも、「イエス・キリストにあっての信仰」、すなわち「イエス・キリストとの交わりにおける信仰」という意味にも理解できます。訳者は前者の意味で使っていると考えられますが、後者の意味に理解すれば、わたしの「キリスト信仰」という訳に近いと思います。
イエス・キリストを復活された主《キュリオス》と告白し(一〇・九)、この方に自分の全存在を委ねて生きる者、すなわち「信じる者」にはすべて誰にも与えられる「神の義」なのです。信仰という名詞は、直ちに「信じる」という全存在をかけた在り方を指す動詞で説明されなければならないのです。一人ひとりの「信じる」という在り方抜きでは、信仰という事柄が客観的に問題にされることはありえません。二二節前半は、「すべて信じる者へのイエス・キリスト信仰による神の義」という長い名詞句の形で、前節の「律法とは無関係の神の義」を説明しています。「与えられる」という動詞はありませんが、分かりやすくするために補って訳しています。二四節の「神の恵みにより、無代価で義とされる」という内容からすると、「すべて信じる者に賜るのです」と訳した方が正確かもしれません。
差別はない
新しいアイオーンに現された「キリスト信仰による神の義」、すなわち、すべて信じる者には誰にでも与えられる「人を義とする(救う)神の働き」は、人間の側の条件とか状況と無関係に与えられます。「そこには何の差別もない」のです。信じる者が、男であろうが女であろうが、自由人であろうが奴隷であろうが、肌の色がどうであろうが、どの民族に属する者であろうが、「何の差別もない」です。しかし、ここでパウロが「何の差別もない」と言うとき、パウロはとくにユダヤ人と異邦人、すなわちユダヤ教徒と異教徒との間に何の差別もないことを言いたいのです。恩恵によって義とされる
「何の差別もない」ことを理由づける文は、二四節の終わりまで続いています(二三節と二四節は一つの文です)。「人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っており、 ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされるのです」(二三〜二四節)から、「何の差別もない」のです。「ただ」という語句は原文にはありませんが、二三節に含まれている意味を明らかにするために補っています。二四節は「義とされて」という分詞形で始まっており、二三節との接続が不自然であり、文章の構造がここで崩れています。おそらくこれは、パウロがここで初期の教団に広く伝承されていた信仰告白文か賛歌の一部を引用している結果であるとされています(ケーゼマン)。
ここで「義とされる」という重要な表現が出てきます。「義」とか「義とする」は、ユダヤ教で神と人との関わりを語るときに中心的な位置を占める用語です。もともと法廷用語である「義とする」という動詞は、裁きの場で神が人を、神との関係において正しい者(義なる者)と判決して扱われることを指しています。裁くのは神であり、人は裁かれる立場ですから、人について用いられるときは必ず受動態で「義とされる」という形で出てきます。人は義とされて初めて神との正常な関わりに入っていくことができるのですから、「義とされる」ことは、「救いに至らせる神の力」が働く場に入る入口になるのです。「義とされる」ことが救いではなく、 神の栄光を回復する救いの過程に入る入口となるのです。キリスト・イエスにある贖いによって
神が恩恵によって人に義という賜物を与えるのは、「キリスト・イエスにある贖いによって」である、と(原文では後に)続きます。そして、この「キリスト・イエス」を説明するために、「神はこのキリストを、信実によって、その血による贖いの場としてお立てになったのです」(二五節前半)という文が、(関係代名詞によって結ばれて)続きます。したがって、「キリスト・イエスにある贖いによって」という句は、それに続く二五節前半の文と一体として理解しなければなりません。二二節後半の「何の差別もない」から二六節にかけての文は、実に複雑な構造をした一つの文章です。このような破格(文法上の不適合)を伴う複雑な構成は、パウロが自分が語りたい事柄を、当時のユダヤ人キリスト教団が形成した伝承を用い、そこに自分の主張を示す表現を組み入れて語った結果であると考えられます。それは、パウロが他ではほとんど用いることがないユダヤ人キリスト教的な用語や表現が多く出てくることや、文章の不自然な構成からも分かります。どの部分が「ユダヤ人キリスト教団が形成した伝承」であるかは争われていますが、二四節から二五節の部分がそうであることは、ほぼ確実と見られます。この伝承は、一・二〜四の福音伝承と共に、エルサレムかアンティオキアで形成され、ローマの人たちにもすでに伝えられていたもので、パウロも異邦人世界への宣教においてこの伝承を用いたと見られます。
ここで、義とされるのは「贖いによる」あるいは「贖いを通して」とされています。では「贖い」とは何でしょうか。内容に入る前に、用語をすこし調べておきましょう。どの民族にも「あがなう」という考え方はあるようで、日本語では「あがなう」には二つの漢字があって、別の意味を表しています。「贖う」は金品を代償として出して罪をまぬかれる、つぐないをするという意味で、「購う」は買い求めるの意味です(広辞苑)。両方とも貨幣を表す「貝」扁がついていて、金を支払うことが共通です。ここで問題になっているのは、もちろん「贖う」ほうです。この二つの「贖い」は別の概念であり、ヘブライ語旧約聖書ではまったく別の語で表されており、その区別はギリシア語訳旧約聖書でも保持されています。英訳聖書では、解放の意味は redeem / redemption 、 贖罪の意味は atone / atonement と区別しています。日本語訳旧約聖書では両方とも同じ「贖う」とか「贖い」という語で訳されているため、概念に混乱を生じているようです。解放の意味では、「人(または資産など)を贖う」と用いられ、贖罪の意味では「罪を贖う」と用いられます。
新約聖書では、キリストの十字架と復活の出来事によって両方の意味の「贖い」が実現したとして、それを《アポリュトローシス》というギリシア語で指しています。この語はもともと解放を意味する語ですが、新約聖書では、キリストの血によって祭儀的な「贖罪」が成し遂げられ、復活者キリストの命によって死の支配からの「解放」が実現したとされ、両方の意味を実現する神の働きを指しています。こうして新約聖書の《アポリュトローシス》は「救い」とほぼ同じ意味で使われるようになっています。日本語訳ではこの《アポリュトローシス》を「贖い」と訳しているわけです。パウロ書簡では、「贖い」《アポリュトローシス》はローマ書(ここと八・二三)とコリントI(一・三〇)の三箇所に出てくるだけです。パウロはこの語を、ここに見られるようにユダヤ人キリスト教の伝承を引用する場合以外は、ほとんど用いていないことが注目されます。すなわち、異邦人に自分の言葉で福音を語るときに、このユダヤ教的な用語をほとんど使っていないようです。ところが、「パウロの名による書簡」になると、罪の赦しという意味の「贖い」が救済論の中心的な位置を占めるようになってきます(コロサイ一・一四、エフェソ一・七、一・一四、四・三〇)。この傾向はさらに発展し、後のキリスト教史(とくに西方キリスト教)では「贖い」(贖罪論)が救済論の大きな主題となり、中心を占めるようになります。
信じる者がそれによって義とされる「贖い」は、「キリスト・イエスにある贖い」です。すなわち、神がキリスト・イエスにおいて成し遂げてくださった、罪を拭い清め、罪の支配から解放する働きです。ここではとくに罪を拭い清めるという意味が強いことは、この「キリスト・イエスにある贖い」が、直後に続く「神はこのキリストをその血による贖いの場としてお立てになったのです」という、きわめて祭儀的な色彩の濃いユダヤ教的伝承文で説明されていることからも分かります。「贖いの場」と訳した原語《ヒラステーリオン》は、七十人訳ギリシャ語聖書では例外なく、神殿至聖所に置かれている契約の箱のふたを指すヘブライ語《カッポレート》の訳語として用いられています。年に一度大祭司が至聖所に入って、その黄金の板で造られたふた《カッポレート》に犠牲の血を注いで、民の罪のために贖いをするのです(レビ記一六章)。それでレビ記では「贖罪所」とか「恵みの座」と訳されています。ところが最近、この語の原意を超えて「罪のための供え物」と理解する傾向が強くなっていますが(口語訳、新共同訳、岩波版青野訳)、この伝承断片がユダヤ人キリスト教徒の中で成立したことを考えると、オリゲネス以来伝統的に理解されてきたように(現代ではEKKのウルケンス、NTDのシュトゥールマッハー)、《カッポレート》の原意を保持するのが適切であると考えられます。なお、この語は新約聖書ではこことヘブル書九・五だけで用いられていますが、ヘブル書では明らかに供え物ではなく場所を指しています。《ヒラステーリオン》を「贖いの場」と理解すると、イエス・キリストがその血を自分自身に注ぐことになるという反論は、現代の論理による思考であって、古代の象徴的な思考(あるいはユダヤ教の予型論的思考)では不条理ではなく、そのような思考は各所に見られます(たとえばヘブル書九・一以下)。
神は今や、神殿至聖所の契約の箱のふたである「贖いの場」ではなく、十字架されたキリストを「贖いの場」として、そこで神の贖いの業が成し遂げられ、そこに神が現れ、そこから神が語られる場としてお立てになった(世界に公示された)のです。今や、神が世界の罪を贖ってその聖なる臨在を現される場は、エルサレム神殿の幕によって隠された至聖所の中にあるのではなく、「十字架されたキリスト」なのです。繰り返し強調してきましたように、キリストとは復活者の称号です。キリストは復活者として、その中に神の《エゴー・エイミ》という自己啓示が起こっているのです。その復活者キリストは、「わたしたちの罪のために死んだ」という「十字架につけられたままの姿で」(ガラテヤ三・一)、世界に宣べ伝えられ、御霊によってわたしたちの内に現れてくださっています。このような「十字架につけられたままの姿の復活者キリスト」こそ、罪が贖われて神との交わりが回復する場なのです。原文では、「《ピスティス》によって」という句が「贖いの場」と「その血による」との間に入ってきて、二五節の構文を破っています。「その血による」は明らかに「贖いの場」を説明する句ですが、間に入ってきたこの句は後ろの「血」に関連させて、「その血に対する信仰によって」と理解することも、前の「贖いの場」に関連させて、「信仰によって受けるべき」と意訳することも無理です。この句は、パウロが伝承に無理に挿入したものとしか理解できません(この点では多くの注解者は一致しています)。そうだとすると、パウロは「このキリストを神は贖いの場としてお立てになった」とまで語ったところで、それが神の信実による約束の成就の出来事であること(一五・八参照)に触れざるをえない思いになり、この句を入れ、再び伝承の文を続けたと推察することになります。このような理解では、《ピスティス》は「信仰」ではなく、「信実」とか「真実」と訳さなければならないことになります。この《ピスティス》が「神の信実」であることは、この句を「神がお立てになった」という動詞を修飾する(挿入された)副詞句であると理解する以上、当然です。
パウロは福音を異邦人に宣べ伝えるにさいしては、この福音の核心部をここに用いられているようなユダヤ教の祭儀的な用語を使わないで表現しています。たとえば、コリントの異邦人たちに語るときは、「神はキリストの中におられて、世を御自分と和解させてくださった」(コリントU五・一九私訳)と言っています。パウロは異邦人に語るときは、「贖い」とか「義とされる」というユダヤ教的術語をあまり用いないで、ヘレニズム世界で親しまれている「和解」という用語で同じことを語っています(この点については、五・九〜一〇の講解で詳しく触れる予定です)。神の義の証示
続いて、神が今この時に、信じる者を義とするため、贖いの場としてキリストをお立てになったことの目的(意図)が示されます。「それは、これまでになされた諸々の罪を免責してこられたために、御自身の義を示すためでした」(二五節後半)。「免責」は法廷用語で、刑の免除を意味します。それは罪の「赦し」、すなわち無罪判決ではありません。有罪だけれども、刑の執行は免除するのです。執行猶予というところです。御自分の民イスラエルは契約に背き、イスラエル以外の諸国民も偶像礼拝の中で退廃していて、神の前に有罪ですが、神は忍耐して処罰を実行することを控えてこられたのです(二六節最初の「神の忍耐によって」は二五節の「免責」を説明しています)。このように忍耐をもって免責し、正しい裁きを執行されなかったので、「今この時に御自身の義を示すために」キリストを贖いの場としてお立てになったのです。「免責」《パレシス》の用例はここだけです。罪の「赦し」には、新約聖書では別の語《アフェシス》が用いられます。ところで、 神がキリストを贖いの場としてお立てになったのは「御自身の義を示すため」であることを語る二五節後半から二六節にかけての文の構造も複雑です。二六節最初の「神の忍耐によって」の句は二五節の「免責」を説明しているので二五節に含ませて理解する必要があります。すなわち、二五節は「神は、これまでになされた諸々の罪を神の忍耐をもって免責してこられたために、ご自身の義を示すために、キリストを・・・・贖いの場としてお立てになった」となります。「免責」の前に《ディア》という前置詞がありますが、ここでは「によって」という意味、すなわち、神はこれまで罪過を免責することによって御自身の義を示された(新共同訳、岩波版青野訳)というのではなく(罪過の免責が神の義の証示になることはありません)、これまでの罪過を免責されたことで必要になった「ゆえに」、と理解しなければなりません。なお、二五節の「罪」が複数形であることを明示するために「諸々の罪」と訳しました。この複数形での用例は、この部分がユダヤ人キリスト教の伝承断片であることを示しています。 二六節で、二五節の「御自身の義を示すために」という句が、「ついに今この時に」という句を添えて繰り返され、その内容が詳しく説明されていますが、この繰り返し以下の部分は元の伝承に含まれるのか、パウロが加えたものかは争われています。パウロが加えた部分である可能性が高いと見られます。
「これまでになされた諸々の罪」は明白で、有罪は確かであるのに、神がその処罰を猶予されたのは、「神の忍耐によるものでした」。その免責は人間的な忍耐ではできないこと、神だけがもちうる忍耐、神にふさわしい忍耐によってなされたのでした。ところが、「ついに今この時に」、この新しいアイオーンを導入するにあたって(二一節の「しかし今や」を参照)、神はキリストを贖いの場として立てることによって「御自身の義を示された」のです。そして、伝承が「御自身の義を示された」とだけ語っているところを、パウロはさらに正確にその内容を展開してみせます。すなわち、「自ら義であり、かつイエス信仰の者を義とする者となるため」です(二六節)。ローマ書の主題?
今回取り上げた一段(三章二一〜二六節)は、しばしばロマ書全体の「テーゼ」(主題)を提示する中心部であるとされます。しかし、ユダヤ人の罪を指摘する先行部分(二・一〜三・二〇)や、義がユダヤ人だけがもつ律法によるものでないことを論証する後続部分(三・二七〜四・二五)が長大で、パウロ独特の思想や表現に満ちているのに比べると、この一段は、パウロの中心主題を述べる段落にしては、あまりにも短く、パウロの独自性が希薄です。この段落では、パウロはすでに流布している信仰告白や賛歌の伝承断片を多く引用して、自分の主張を表現しているために、文章も錯綜したものになっています。たしかに、二一〜二二節や二六節はパウロの特色をよく示していますが、二四〜二五節は(僅かの挿入を別にして)ほとんど伝承の引用であると見られます。そこにはパウロが他ではほとんど用いない用語や思想が見られます。このように、この段落はパウロの主張で囲みながら、全体としては、パウロ以前のユダヤ人キリスト教の福音伝承を示しているものと見られます。パウロは、この書簡のおもな読者と想定しているローマのユダヤ人キリスト教徒に対しては、彼らが熟知している共通の伝承を用い、それを自分の主張にふさわしい形で用いるだけで十分とし、このような簡潔な形で、キリストによる新しい救済の時の到来について語ったと考えられます。そして、その前後に彼独自の詳しい説明をつけて、自分の「信仰による義」の主張をユダヤ人に対して展開することになるのです。信仰の律法によって
パウロはここまで述べてきたこと全体を受けて、「では、誇りはどこにあるのですか」と問います(二七節)。「神の恵みにより、無代価で」義とされるのですから、人間の側にいかなる誇りを持つ余地もありません。「誇りは排除されてしまっている」のです。このことはすべての人間の誇り一般について言えることですが、ここではとくにユダヤ教徒の誇りが問題にされていると見られます。ユダヤ教徒は《トーラー》を持っていることを誇り、神に選ばれた民の特権を誇っていました(二・一七以下)。このユダヤ教徒の誇りが、「律法と無関係に現された神の義」によって、無代価で義とされることになり、完全に「排除されてしまっている」のです。二七節の「律法」の原語はみな《ノモス》です。「信仰の律法」という句が理解困難になるので、この節の《ノモス》はほとんどの翻訳で「法則」と訳されています。しかし、ユダヤ人に対する高度な宗教論争の中に、ギリシャ的な(あるいは近代的な)「法則」という理念を持ち込むことには、極度に慎重でなければならないと考えます。また、二一節から三一節までの段落全体で「律法」を問題にしている中で、ここだけを「法則」と理解することは不自然で、思想の一貫性を欠くことになります。ここまでで見てきましたように、ギリシア語を用いるユダヤ人の間で《ノモス》と言えば、それは常に《トーラー》を指し、彼らの宗教、すなわちユダヤ教の全体を意味しています。ガラテヤ書とは異なりローマ書では、パウロは「律法」、すなわちユダヤ教が神聖なものであり、霊的なものであることを認め(七・一二、七・一四)、その上で「どのような律法によって義とされるのか」、すなわちどのように理解され受け取られたユダヤ教が人を生かすのかを議論するのです。
「行いの律法(ノモス)」(「律法の行い」ではないことに注意)というのは、すべての規定の実行を要求し、その実行に対して義を約束すると理解された《トーラー》(ユダヤ教)を指しています。ファリサイ派だけでなく、当時のユダヤ人はすべて自分たちの宗教《トーラー》をこのように理解していました。このように理解された《トーラー》は明確に否定され、代わって「信仰の《トーラー》」が登場するのです。唯一の神
「神は唯一である」という信条は、ユダヤ教の根本的な信仰告白です。ユダヤ教徒は日々「シェマ」を唱えて、この信仰告白をしています。「シェマ」とは、「聴け《シェマー》」という呼びかけで始まるユダヤ教の信仰告白文です。それは、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主(ヤハウェ)は唯一の主(ヤハウェ)である」という、きわめて簡潔な文です。その後に、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」という命令ないし勧告が続きます(引用は新共同訳の申命記六・四〜五)。この信仰告白の本体をなす部分は、(ヘブライ語原文では)わずか四つの単語が並んでいるだけで、その読み方には数種類ありますが、ユダヤ教ではこれを「主(ヤハウェ)はわたしたちの神、主(ヤハウェ)は唯一である」と読んで(ユダヤ教エンサイクロペディア)、神が唯一であることを告白する文としています。ユダヤ教徒は、この「シェマー」を唱えて死ぬことを、ユダヤ教徒としての生涯を全うすることだとし、誇りとしたのです。福音による唯一神信仰の継承については、テサロニケ書簡Tの講解の中の「唯一の神」という節で詳しく触れましたので(拙著『パウロによるキリストの福音T』360頁)、それを参照してください。
イスラエルの歴史の中で預言者たちによって形成された唯一神信仰を受け継ぐことでは、ユダヤ教もキリストの福音も同じです。ところが、その継承の仕方が違うのです。ユダヤ教では、この唯一神はモーセを通して《トーラー》を与えているのであるから、この唯一神を拝する者は《トーラー》を順守しなければならないとし、《トーラー》を順守するという仕方でこの神に仕え、その救いに達しようとするのです。すなわち、ユダヤ教に改宗しなければ神の民となることはできないとするのです。それに対して、パウロが告知するキリストの福音は、神は唯一である、だから異邦人は《トーラー》を順守しなくても(ユダヤ教に改宗しなくても)この神に仕え、その救いに与ることができると主張するのです。「神は唯一である」という同じ告白から発して、ユダヤ教とパウロではまったく逆の結論を出すのです。「福音と律法」の問題
すると、ユダヤ教徒からは、それでは《トーラー》は無意味になるではないのかという反問が出てくることは避けられません。事実、パウロは《トーラー》を汚す者としてユダヤ人から迫害され、妨害されるのです。それに対して、ここでもパウロは自ら「では、わたしたちは信仰によって律法を無効にするのでしょうか」という問いを立てて、「決してそうではありません。むしろ、律法を確立するのです」と答えます(三一節)。