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第三節 エルサレムでの逮捕とパウロの裁判

ヤコブとの会談

 エルサレムに着いたパウロは、すぐその翌日にエルサレム教団を代表するヤコブを訪ねます。先のエルサレム会議の時と違い、この時にはペトロもヨハネもいません。ヤコブだけがエルサレム教団を取り仕切っています。この時には、エルサレム教団の「長老たち」も同席します(使徒二一・一七〜一八)。パウロの同行者たちも同席したことでしょうから、この度のパウロのヤコブ訪問は、パウロが形成した異邦人諸集会とエルサレム母教団との歴史的な出会いとなります。ところが、この重要なパウロとエルサレム教団との会談で何が起こったのか、肝心の点が分からないのです。
 今回のエルサレム訪問の目的は、パウロが異邦人の諸集会から集めた献金をエルサレム教団に手渡すことであったはずです。そのためにイスパニアに向かう計画を実行する前に、危険を覚悟してエルサレムに上ったのでした。ところがこの会談を報告する使徒言行録の記事では、献金のことが全然触れられていないのです。今回のエルサレム訪問については、(パウロがガラテヤ書で語っている)先の二回の訪問とは違い、パウロの側からの報告はありません。

今回だけでなく、ルカは使徒言行録でパウロの募金活動については全然触れません。もしルカがパウロ書簡集を知っていたらありえないことと考えられるので、この事実は(他の理由と並んで)ルカがパウロ書簡集を知らなかったことを示唆しています。ルカが著作した頃には、パウロ書簡集はまだ流布していなかったと見られます。

 「著者」(ルカ自身、またはルカが資料として用いた「旅行記」を書いた人)は、この旅の同行者としてエルサレムに来ています。「われら章句」はエルサレムまで続いています。そうすると、「著者」は同行者の一人として、この旅がエルサレム教団に献金を届けるための旅であることも、その献金がエルサレム教団に受け入れられたかどうかその結果も知っているはずです。それにもかかわらず、ルカがこの献金の成り行きに全然触れようとしないのは、意図的であると考えざるをえません。ルカはなぜ献金問題に触れようとしないのでしょうか。 

ルカが献金問題に触れていると解釈することもできる箇所が一箇所だけあります。パウロは総督フェリクスの前での弁明で、「私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかに戻って来ました」と言ったとされています(使徒二四・一七)。 新共同訳が「救援金」と訳しているのはこの解釈をとっているからですが、ここの「同胞に慈善を施す」(原文)は、「供え物を献げる」ことと並んで、外国からエルサレムに上ってくる巡礼者の普通のことだとする見方もあります。それがこの献金を指しているとするとなお、それを知っているルカがなぜ全体として献金問題に触れないのかが、いっそう問題になります。

 ルカがパウロの募金活動に全然触れないのは、ルカがこの献金活動が不成功に終わったことを知っているからだと考えられます。ルカはエルサレム教団が素直に献金を受け取れない事情を知っており、それをヤコブの提案として描いています(後述)。そのヤコブの提案を受け入れた結果、パウロは神殿での騒乱に巻き込まれ、逮捕されることになります。パウロが逮捕された後、献金がどうなったのか、ルカは触れないままです。もともと献金には触れていないのですから、これは当然です。パウロが命がけで持参した献金はどうなったのか、どこへ行ったのか分かりません。
 パウロにとって、この献金問題は終末的な神の支配におけるイスラエルと異邦人の統合を象徴する救済史的な意義を担う重要な課題であり、生命の危険を冒してでも成し遂げなければならない使命でした。ところがルカにとっては、献金問題はそれに触れることなく使徒パウロの働きを叙述することができる程度の事柄になっていました。この落差は大きいものです。この問題は「使徒言行録」の理解の問題として探求しなければなりませんが、それは別の機会に譲らなければなりません。ここではその違いを見るための一つの視点だけを取り上げておきます。それは、パウロとルカの間にはエルサレム神殿の破壊という大事件があるという事実です。パウロはこのエルサレム神殿破壊の前に、間近なキリストのパルーシアにおけるイスラエルの救済と異邦人の参加を確信しています。それに対してルカは、すでに起こったエルサレム神殿の崩壊を不信のユダヤ人に対する神の審判と見て、今は「異邦人の時代」が始まっていると見ています。このルカにとって、エルサレム教団への献金はもはやイスラエルと異邦人の統合を象徴する重要問題ではありません。ルカは、不成功に終わったエルサレム教団への献金運動をいっさい省略して、パウロによる異邦人への福音の進展を語ります。
 この献金問題の成り行きを考える上で、一度ヤコブの立場から問題を見てみましょう。五、六年前のエルサレム会議でヤコブはペトロ、ヨハネと共にパウロと会い、パウロが異邦人に割礼を求めないで福音を宣べ伝えることを認めました。その代わり、異邦人集会がエルサレム教団の「貧しい者」を援助するように求め、パウロはそれを引き受けました。その時の合意に従えばヤコブが献金を受け取ることに問題はないはずです。
 ところが、その後状況が変わりました。パウロの異邦人伝道は大いに進展し、パウロが異邦人には割礼を求めないで、無割礼のままキリストの民として受け入れていることが、割礼とモーセ律法そのものを否定していると誤解されてエルサレムに伝わってきていたようです。パウロは決してユダヤ人にユダヤ教を捨てるように説いたのではありません。しかし、パウロの「無割礼の福音」はユダヤ教そのものの否定と誤解されて、エルサレムの律法に熱心な保守派のユダヤ人信徒を激怒させることになります。パウロは割礼とユダヤ教を相対化したのですが、それがユダヤ教の全面的否定と誤解されたのです。しかし、この誤解は宗教問題では避けられない誤解です。どの宗教にも自己絶対化の体質がありますから、自分の宗教の絶対性を否定する言動には拒否反応を起こすのです。

「パウロによるユダヤ教の相対化」については、拙著『教会の外のキリスト』の終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」の402頁以下を参照してください。

 そのように誤解されてエルサレムに伝わっていたことは、ルカがヤコブの言葉として伝えている次の箇所によく表れています。

 「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです」。(使徒二一・二〇〜二一)

 しかし、エルサレム教団のパウロの「無割礼の福音」に対する危惧の念は、誤解によるものだけではありません。当時の民族主義的傾向を強めつつあるユダヤ教の中に置かれたエルサレム教団の状況がそうさせるのです。この会談(56年)はユダヤ戦争が勃発する十年前です。ローマの支配に対する反発から、ユダヤ教律法をさらに厳格に順守することでユダヤ民族のアイデンティティーを確立しようとする「熱心」がますます高揚してきた時代です。その中でイエスをメシアと信じるユダヤ人の教団は、周囲のユダヤ人たちから、異邦人と交わって律法を汚し、神の怒りを招いているのではないかという猜疑の目で見られることになります。それで、エルサレム教団は、厳格な律法順守で有名な「義人」と呼ばれるヤコブを代表者にして、その疑いを晴らし、時代に生き残ろうとしたのです。
 このような周囲のユダヤ人からの圧力は、先のエルサレム会議の時からすでにありました。アンティオキアでの食卓の交わりをめぐるペトロとパウロの対立もこの圧力が背景にありました。しかし、その後の状況の進展により、今はその圧力はますます強くなっています。その中でパウロの反ユダヤ教的と見える異邦人伝道はますます放置できないものとなり、対抗宣教活動が組織され、パウロが建てた異邦人諸集会の信徒に割礼とモーセ律法の順守を求める活動が始まります。それは、たしかに「(周囲のユダヤ人から)迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(ガラテヤ六・一二)とパウロが言う通りです。それが直接ヤコブの指導によるものかどうかは分かりませんが、体質としてはヤコブが代表するエルサレム教団から出たものと見られます。
 パウロの異邦人伝道の進展が伝えられるごとに、エルサレムでは激しい議論が繰り返されたことでしょう。このような状況でヤコブは簡単にパウロが差し出す献金を受け取ることはできません。たしかにエルサレム教団は救援の資金を必要としています。しかし、献金を受け入れるためには、それが律法を汚すことにならないと、エルサレム教団の中の「律法に熱心な」ユダヤ人、とくに長老たちを納得させなければなりません。
 そこで、ヤコブはパウロに、彼らの前で律法を順守する者であることを具体的に示すために、一つの提案をします。それは、エルサレム教団のユダヤ人で誓願を立てている者が四人いるから、その人たちの「頭をそる費用」を負担すれば、エルサレム教団の律法に熱心な長老たちも、パウロが律法を守るユダヤ人であることを認めるであろうという提案です(使徒二一・二二〜二四)。そうすれば、献金を受け取ることに問題はなくなります。
 「頭をそる費用」というのは、ナジル人の誓願を立てた者が、誓願の期間中かみそりを当てずに伸ばしていた髪の毛をそって誓願期間を終えるときの儀式に必要な犠牲の動物(羊三頭)やその他の供え物を買う費用です(民数記六章参照)。これは貧しいユダヤ人にはかなりの負担になる金額です。それを負担するためには、おそらくパウロの私財ではなく、持参した献金の一部を使うことになったでしょう。
 この提案のすぐ後にヤコブは、以前異邦人信徒に書き送った「使徒教令」のことに言及します(使徒二一・二五)。それは、異邦人信徒が守るべき最小限度の規定を伝える手紙でした(使徒一五・二二〜二九)。ヤコブがここでこの「使徒教令」に言及したのは、たとえパウロがヤコブの提案を受け入れて律法を順守するユダヤ人として行動しても、異邦人信徒はすでにあの手紙で立場が確立されているのだから、それ以上にユダヤ教律法の順守を求められることはないと保証して、パウロが提案を受け入れやすくしたものと考えられます。

神殿における騒乱とパウロの逮捕

 パウロはこの提案を受け入れます。パウロにとってユダヤ人の教団を代表するエルサレム教団との結びつきはきわめて重要な事柄で(355頁の「祭司の務め」の項を参照)、決裂することはできません。「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになる」(コリントT九・二〇)という原則から、パウロはここではユダヤ人(ユダヤ教徒)として振舞います。パウロは最後までユダヤ教徒です。ユダヤ教の規定に従い、「その四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入ります」(使徒二一・二六)。この儀式は神殿の聖所で行われるので、その儀式にあずかるには(外国からの帰国者は汚れていると見なされるので)パウロはまず清めの儀式を受けなければならないのです。
 「七日の(誓願解除の儀式の)期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ」、「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった」と叫びます(使徒二一・二七〜二八)。
 ユダヤ教は清めのシステムであると言えるほど、聖性(清さ)を追求しまた。とくに神を礼拝する唯一の場所である神殿を清く保つことに神経質でした。異邦人は汚れた者とされていましたから、異邦人が神殿に入ることは神殿を汚す行為として死刑の警告をもって禁止されていました。

神殿の外庭は異邦人も入ることが許されていて「異邦人の庭」と呼ばれていましたが、内庭を囲う柵を越えて「ユダヤ人の庭」に入ることは、死刑の威嚇をもって禁止されていました。この原則はローマ当局によって承認されており、この柵には次のような警告文が掲げられていました。「如何なる異邦人も神殿の周りの柵と囲いより内に入ることを禁じる。もし(この禁を犯して)逮捕された者は何人であっても、そのために生じる死罪の責めを自ら負わねばならない」。(蛭沼他『原典新約時代史』112頁)

 「アジア州から来たユダヤ人たち」とは、五旬節の祭りのためにエフェソからエルサレムに来ていたユダヤ人たちで、自分たちの顔見知りの「(異邦人の)トロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思った」、すなわち誤解したのです。この禁令をよく知っているパウロが、同行者の異邦人兄弟の生命を危険にさらすようなことはするはずがありません。エフェソでパウロを掴まえることに失敗したユダヤ人たちは、エルサレムで意趣返しをします。誤解してか、あるいは意図的にありもしないことを叫んで、群衆を扇動し、パウロに襲いかかり、境内から引きずり出して、殴る蹴るの暴行を加え、パウロを殺さんばかりにします(使徒二一・二九〜三〇)。

パウロに対する暴行が描かれる箇所に、「そして、門はどれもすぐに閉ざされた」という文があります。この具体的な記述は、この記事が目撃証人によって書かれたことを示唆しています。その「門」とは、おそらく神殿の内庭を囲む柵にある門を指すのでしょう。神殿当局は門を閉ざして、外での暴徒の行為を黙認したと見られます。

 この事件でエルサレム中が混乱状態に陥っているとの知らせを聞いたローマ軍守備大隊の千人隊長が、現場に駆けつけてパウロを逮捕します。祭りの時は、エルサレムの治安維持のために千人からなる大隊が神殿近くのアントニオ砦に駐留していました。その守備大隊が出動したのです。逮捕したパウロを尋問のために兵営(アントニオ砦)に連れて行く時にも、群衆が押し迫ってパウロに暴行を加えようとするので、兵士たちはパウロを担いで行くことになります(使徒二一・三一〜三六)。この情景は、当時のエルサレムが民族主義的な熱気にいかに激しく燃えていたか、またそれを背景として律法(ユダヤ教)をおとしめるような言動をする者に対する憤激がいかに強いものであったかを物語っています。このローマ軍によるパウロの逮捕は、結果としては群衆のリンチからパウロを保護する「保護拘束」となります(使徒二三・二七)。

兵営での尋問とカイサリアへの護送

 ローマ軍に逮捕されたパウロは、これ以後ローマ総督の裁判を受ける身となります。ルカはその裁判の経過やそこでのパウロの演説を詳しく物語っていますが、その記事を解説することは「使徒言行録」の注解に委ねざるをえません。ここでは出来事の大要とその意義について簡単に触れるに止めます。 
 パウロを逮捕した千人隊長は、取り調べのためにパウロを縛って鞭打ちを加えるように命じます。総督はカイサリアにいて不在ですから、エルサレムでは千人隊長が総督の代わりを務めます。その時パウロが、自分はローマ市民権を持つ者であるのに裁判もせず鞭打ってもよいのかと抗議したので、この千人隊長は大いに驚き、鞭打ちを止め、直ちに鎖を解きます(使徒二二・二二〜二九異本)。この「クラウディウス・リシア」(使徒二三・二六)という名の千人隊長は、多額の金を払ってローマ市民権を得たのでした。彼はローマ市民権の重さを知っています。法に反してローマ市民を扱ったことに怖れを感じます。

パウロのローマ市民権については拙著『パウロによるキリストの福音T』の45頁と284頁の注記を参照してください。

 ここでまた「ユダヤ人の陰謀」が発覚します。それはエルサレムに住むパウロの姉妹の子(パウロの甥)が聞き込んで、獄中のパウロに通報したのです。その陰謀とは、四十人ほどのユダヤ人がパウロを殺すまでは飲食しないと誓いを立てて機会をうかがっているというのです。彼らはエルサレムの祭司長や長老たちに、最高法院と組んでパウロを尋問のために議会に連れてくるように千人隊長に要求し、彼が議会に到着する前に暗殺する手はずを整えているというのです(使徒二三・一二〜一六)。
 このような暗殺計画は、当時エルサレムではシカリ派が活動していたことから、ありうることだと考えられます。シカリ派は「熱心党」の中の過激派で、隠し持った短刀(シカリ)でローマの異教支配に協力するユダヤ人を暗殺していました。パウロ暗殺計画は、ローマ兵に護衛されたパウロを襲うのですから、自分たちもローマ兵に殺されることを覚悟しなければなりません。失敗すれば処刑も覚悟しなければなりません。いわば自殺テロです。彼らが飲食を断つという誓いをしているのも自殺テロの決意を示しています。
 甥の通報を受けたパウロは、甥を千人隊長に会わせて暗殺計画を伝えます。そこで千人隊長は護衛の部隊をつけて、パウロをカイサリアにいる総督フェリクスのもとに送ります(使徒二三・一七〜三〇)。その時に千人隊長クラウディウス・リシアが護衛隊に持たせた総督フェリクスあての手紙では、パウロが宗教問題でユダヤ人から恨まれているだけで、ローマの支配に反抗するような性質のものでないことが強調されており、ルカの護教的意図がこめられているようです。
 カイサリアに護送されたパウロは、「ヘロデの官邸」(ヘロデが建てた宮廷を総督官邸にした建物)に留置されます。シリア州総督フェリクスは、囚人がキリキア州(自分の管轄州)出身であることを確認して、告発者の到着を待って裁判することを告げます(使徒二三・三一〜三五)。

総督フェリクスの裁判

 フェリクスは、クラウディウス帝の母アントニアの解放奴隷でした。自分や身近な者の解放奴隷を重用して秘書官のように用いたクラウディウス帝の愛顧によって、(本来元老院議員を務める貴族階級だけがなる)属州総督という高い地位にまで上りつめた人物です。
 パウロがカイサリアに護送されて五日後に、大祭司アナニア自身が、長老たちと弁護士テルティロを連れてカイサリアに来て、パウロを正式に総督に告発します(使徒二四・一〜九)。弁護士テルティロによってなされた告発はルカの筆で要約されていますが、その中で大祭司が(テルティロを通して)パウロを「この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の首謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました」と告発していることが注目を引きます。
 イエスの場合もそうでしたが、ユダヤ教指導層は律法問題(宗教問題)で自分たちに反対する者を抹殺しようとしますが、ローマ総督に訴えるときには騒乱によってローマの秩序を破る者として訴えます。ここの訴えは、パウロが「疫病のような人間」として、いかに強く当時のユダヤ教徒から憎まれていたかを伝えています。
 それは、パウロはユダヤ人たちから「『ナザレ人の分派』の首謀者」と見られていたからです。「ナザレ人たちの分派」(新約聖書ではここだけ)という表現は、「ナザレのイエス」を信じるユダヤ人を指します。彼らはファリサイ派やエッセネ派のように、ユダヤ教の一つの分派と見られていましたが、その派は正統ユダヤ教と相容れないものとして、後には「異端」という烙印を押されます。パウロはその異端の首魁と見られていたのです。

「ナザレ人たち」という呼称については様々な議論があります。その議論については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』74頁以下の「ナザレへの移住」の項、および日本聖書学研究所編『死海文書』57〜59頁を参照してください。なお、ここで「分派」と訳されている《ハイレシス》は「(選んだ)学説、党派」という意味の語ですが、後に「異端」(ヘレシー)という意味に用いられるようになります。

 この告発に対してパウロがなした弁明は(これもルカの筆で要約されています)、騒乱の発生にパウロの行動は責任がないことを具体的に論証し(使徒二四・一〇〜一三)、続いてパウロがいかに聖書(律法と預言者)に忠実な信仰で行動をしているかを強調しています(使徒二四・一四〜二一)。
 大祭司は、「この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました」と、パウロ逮捕の正当性を訴えます(神殿を汚す者への警告文はローマ当局も認めていました)。異本(使徒二四・六b〜八a)では、その後に千人隊長ルシアが不当に介入してパウロを奪ったと訴えています。おそらくこれが本来の告発でしょう。それでフェリクスは千人隊長ルシアの証言を待って判決を下すとして、裁判を延期します(使徒二四・二二)。
 ところが、フェリクスはその後、自分の任期中は裁判をしないままで放置します。ある程度自由を与え友人たちとの接触を許すという緩やかな形ですが、パウロを二年間も拘留します。それは、ユダヤ人に気に入られようとしたのと、パウロから賄賂をもらう下心があったからだと、ルカはフェリクスという総督の人物と動機を批判的に描きます(使徒二四・二三〜二七)。裁判を行う者が被告から賄賂を期待するというようなことは現代の法治国家では考えられませんが、ローマの属州総督は役得としてそういうことも行い、蓄財に励んだと伝えられています。

ルカは、フェリクスがユダヤ人の妻ドルシラと一緒にひそかにパウロの話を聞いたことを伝えています(使徒二四・二四〜二五)。このドルシラはアグリッパ一世の娘で、エメサの領主と結婚していたのですが、フェリクスが横恋慕して、この美貌の若妻を夫と離婚させて、自分の(三番目の)妻とした女性です。二人の前に立ったパウロは、アグリッパとヘロディアの前に立った洗礼者ヨハネと同じような立場にありました。それで、「パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり」ます。ドルシラはパウロを憎んだかもしれません。フェリクスがパウロを二年間も拘留したのは、ドルシラが夫に働きかけた可能性もあります。

フェストゥスの裁判

 フェリクスの後任にユダヤ総督として着任したフェストゥスは、着任早々カイサリアからエルサレムに行って、ユダヤ人指導者たちと会います。これは、任地の地元指導層と友好的な関係を築くためです。その時、ユダヤ人指導者たちはパウロをエルサレムで裁判にかけるように要求します。これは途中でパウロを暗殺する「陰謀」を企てていたからだと、ルカは報告しています。しかし、フェストゥスはこの要求を拒否して、カイサリアで裁判をすることを通告します(使徒二五・一〜五)。
 新任のローマ総督は、たまっている裁判を片づけることを着任早々の仕事としていたようです。フェストゥスは十日ほどエルサレムに滞在した後、カイサリアに帰り、その翌日早々に法廷を開きます。前のフェリクスの裁判の時のように、エルサレムから来たユダヤ人たちが様々な罪状を訴えてパウロを告訴します。しかし、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」というパウロの弁明を、証拠を挙げて覆すことはできませんでした(使徒二五・六〜八)。
 ここでフェストゥスはパウロに、エルサレムで裁判を受けてはどうかと提案します。直接の動機は、争点の宗教問題で取り調べがしやすくなるということです(使徒二五・一九〜二〇参照)。もともとアグリッパを始めユダヤ人指導層との友好関係を重視するフェストゥスは、その方がユダヤ人たちとの友好関係を維持するのに好都合と判断したのかもしれません。しかし、先にエルサレムでの裁判を拒否したことからすると、方針を変えたことになります。先はユダヤ人の法廷での裁判を拒否したが、今回は場所がエルサレムに変わるだけで、自分の裁判である以上ローマ総督の責任を果たすことになるとした、という理解も可能です。この提案は、パウロにとってはユダヤ人からの圧力の下での裁判を意味するので、パウロはこれを拒否して、あくまでローマの法廷で裁判を受けることを主張し、皇帝に上訴します。フェストゥスはこの上訴を認めます(使徒二五・九〜一二)。

フェストゥスのユダヤ総督着任が何年であったかは争われています。本書が用いている年表では、カイサリアでの拘禁を五六年から五八年としています。したがってフェストゥスの着任は五八年ということになります。しかし、最近の研究では五九年夏という日付が有力になっています(アンカー聖書事典)。そうだとすると、パウロが五六年初夏にエルサレムに到着してから三年経っていることになります。この場合は、カイサリア拘禁の「二年」は概数で、その前の未決期間を入れると三年になると理解しなければなりません。フェストゥスの総督在任は、彼の任地での急死で六二年に終わります。後任の総督アルビヌスの着任までの空白期間を利用して、大祭司アンナスがエルサレム教団の代表者ヤコブを殺害します(ヨセフス『古代誌』二〇・九・一)。ヨセフスは、前任者フェリクスと後任者アルビヌスと対比して、フェストゥスをユダヤ人に好意的な総督として描いています。
 なお、皇帝への上訴とパウロのローマ市民権との関係については、拙著『パウロによるキリストの福音T』の284頁の注記を参照してください。

アグリッパ王の前での弁明

 皇帝への上訴を認めたフェストゥスは、すぐにパウロをローマに護送することになるはずですが、ルカはその前に、アグリッパ王の前でパウロが行った弁明の演説を報告する長大な記事を入れています(使徒二五・一三〜二六・三二)。ルカはすでに二回、逮捕された後にパウロがした長い弁証の演説を入れています。すなわち、逮捕された直後、エルサレムのユダヤ人たちにした演説(使徒二二・一〜二一)と、総督フェリクスの前でした弁明(使徒二四・一〇〜二一)です。この三回目で最後の演説(二六章全体)は、最も長くて詳細です。ルカはここで文筆家としてあらゆる技巧を駆使して、王の前で証言する異邦人への使徒パウロの姿を描き出しています。ここのパウロの演説は実に感動的であり、その記事は「使徒言行録」の理解にとって重要ですが、ここではその講解は割愛せざるをえません。
 アグリッパは新任の総督への表敬訪問のために、妹のベルニケを伴ってカイサリアに来ていたのでした。このアグリッパ(二世)の父親のアグリッパ(一世、使徒一二・二〇〜二三のヘロデ)は、三人の領主に分割されていたヘロデ大王の領地をローマの支援で回復し、「ユダヤ人の王」となっていました。その急死(44年)により再びローマ属州となっていたその領土を、このアグリッパ(二世)はローマとの友好関係によりこの時にはほとんど回復していました。したがって、実質的にこのアグリッパがこの時の「ユダヤ人の王」という立場でした。
 ルカは、総督フェストゥスが表敬訪問したアグリッパにパウロの事件を持ち出して、パウロがアグリッパの前で弁明するようにした経緯を詳しく描いています(使徒二五・一三〜二七)。その記事にも、パウロがローマ帝国の秩序を乱す者ではないことをローマ総督のフェストゥスが認めているという、ルカの護教論的意図が出ています(使徒二五・一八、二五)。また、フェストゥスは上訴の理由を明らかにするためにアグリッパによる取り調べが必要だとしていますが、すでに上訴を認めておきながら、後でその理由を調べるというのは矛盾しています。しかし、ルカは「王と総督の前での証し」(ルカ二一・一二、マルコ一三・九)の場面を大使徒パウロの生涯の最後に置きたかったので、このように総督フェストゥスがアグリッパ王にパウロの事件を聞かせた経緯を詳しく物語ったと考えられます。そういえば、イエスの裁判でも総督ピラトがイエスをヘロデ王(当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス)のもとに送ったとしているのはルカ福音書(二三・六〜一二)だけでした。ルカには、イエスの裁判とパウロの裁判を並行関係で描こうとする意図が見られます。

アグリッパが同伴したベルニケは、アグリッパ(一世)の娘で、このアグリッパの妹になります。彼女は二度目の結婚を解消して、兄アグリッパのもとに帰り、彼と同棲します。アグリッパはいつも彼女を伴い、二人の関係は近親相姦と噂されるようになります。ルカがパウロの裁判にドルシラとかベルニケのような女性の名をあげるのは、裁判をする側に問題があることを示唆するためかとも思われます。