第一章 エフェソにおけるパウロ
第一節 コリントからエフェソまで
コリントからエルサレムに向かう
エルサレム上京の目的
前著『パウロによるキリストの福音U』で「コリント第一書簡の執筆事情」を説明したところ(50頁以下)で、パウロが一年半に及ぶコリントでの活動を突然切り上げてエルサレムに向かったことを見ました。パウロの宣教活動に反対するユダヤ人たちによって引き起こされた争乱によってコリントでの働きが困難になったこともありますが、それだけであれば当時のパウロが目指していたローマに向かって西へ行けばよいはずです。ところが、パウロは東へ向かう船に乗り、エルサレムに急ぎます。この時なぜ、または何のためにエルサレムへ行ったのでしょうか。このことについて、前著で次のように書きました。パウロがガラテヤ書二章で言及しているエルサレム会議は、第二次伝道旅行(ガラテヤ、フィリピ、テサロニケ、ベレア、コリントでの伝道)の後、使徒言行録一八章(一八〜二三節)が伝えているエルサレム訪問の時に行われたという説は、すでにJ・ノックスの著作(一九五〇年)やG・リュウデマンの著作(一九八四年)によって主張されていましたが、マーフィー=オコゥナーの著作(一九九六年)が一番新しいので、ここにあげる彼の著作によってこの説を検討します。
Jerome Murphy=O'Connor, PAUL, a critical life, Clarendon Press, Oxford, 1996
ガラテヤ書二章の「エルサレム会議」は第二回目の飢饉援助のためのエルサレム訪問時に行われたとする説は、すでにK・レイクが一九三三年に提唱しています。彼によると、飢饉援助のための第二回目のエルサレム訪問時に、パウロとバルナバはエルサレム教団の柱とされる三人と、異邦人信徒の割礼問題について個人的な合意に達していたが(ガラテヤ二・一〜一〇)、その後でペトロがアンティオキアに来たとき、共同の食事の問題でパウロと対立した。それでもう一度エルサレムで公式の会議が開かれた。それが使徒言行録一五章の「エルサレム会議」であるとします。最近ではR・ロンゲネッカーが「ガラテヤ書」(一九九〇年)でほぼ同じような見方をしています。NTD新約聖書註解の「使徒行伝」(G・シュテーリン、一九六八年)も、これと(後述の)通説を折衷したような見方を唱えています。シュテーリンは、使徒言行録が第二回目とする訪問と第三回目とは実は同じ訪問であったと見ます。クラウディウス帝の時のパレスチナの飢饉は48年から49年の冬にかけて最も激しく、この時エルサレムからアンティオキアに下ってきた預言者アガポが、飢饉の援助の勧めと共に、異邦人信徒の割礼問題でパウロとバルナバをエルサレムに派遣するように勧告します。これが、パウロがガラテヤ書で「エルサレムに上ったのは啓示による」と言っている理由だとします。この時に、ユダヤ人信徒は異邦人に割礼を求めないことと、異邦人集会はエルサレムの「貧しい者」を援助するという二つの課題が同時に合意されたとします。しかし、この両説とも、使徒言行録の記事との矛盾や、そのほか内容上の困難をかかえており、この問題の複雑さをうかがわせています。
大多数の研究者は、パウロがガラテヤ書二章で言及しているエルサレム会議は、使徒言行録一五章(一〜三〇節)でルカが報告しているパウロの第三回エルサレム訪問時に行われたと見ています。これは現在では通説になっていると言ってよいでしょう。拙著『パウロによるキリストの福音T』でも、この通説に従い、パウロはエルサレム会議の後、アンティオキアで共同の食卓をめぐる対立でペトロやバルナバと対立し、アンティオキア集会から離れて独立の宣教活動を開始し、ガラテヤ、フィリピ、テサロニケ、ベレア、アテネ、コリントに至る、いわゆる「第二次伝道旅行」を行ったとしました。ヘンゲルは、先に紹介したM.Hengel and A.M.Schwemer, " PAUL Between Damascus and Antioch -- The Unnown Years " Westminster John Knox Press, 1997 で、ほぼ使徒言行録の記述に従って、エルサレム会議を第二次伝道旅行の前としていますが、アンティオキアでの衝突事件は第二次伝道旅行の後のアンティオキア滞在時(使徒一八・二二〜二三)に起こったとしています。
この通説の難点は、第二次伝道旅行の後パウロが突然コリントからエルサレムを訪問した動機とか目的をどうしても説明できないことです。これはエルサレム会議を飢饉援助のための第二回目のエルサレム訪問時とする説も同じです。たとえば、通説に従っている佐竹明『使徒パウロ』の「エルサレム上京の意図」(184頁)の説明は、十分説得的とは言えません。クラウディウス帝のユダヤ人追放令によりローマには入れなかったという理由も、パウロがなぜエルサレムに向かったのかを説明できません。また、その伝道旅行の前にエルサレム会議が行われ、信仰に入った異邦人に対する割礼は必要でないことがヤコブをはじめエルサレムの指導者たちに認められていたのであれば、その後異邦人信徒に割礼を求める「ユダヤ主義者」の対抗伝道がエルサレムの権威を背景としてガラテヤやフィリピやコリントにおいて執拗に行われたことが説明困難です。さらに、そのエルサレム会議でエルサレムの聖徒に対する献金が合意されていたとすれば、それに続く第二次伝道旅行中の募金活動への言及や示唆が、パウロ書簡には一切ないことも不自然です。それに対して、第三次伝道旅行は、通説に従っている佐竹明『使徒パウロ』(214頁)も認めているように、「一種の献金行脚であった」と言えます(もっともエフェソ滞在中にはエフェソと周辺の諸都市に伝道活動をしています)。第三次旅行は、新しい地に福音を伝えるという伝道だけの旅行ではなく、すでに建てた諸集会を再訪して献金を集める旅を兼ねており、この期間に書かれた書簡には献金への言及が多く、その旅の最後にコリントで集合して、献金を携えてエルサレムに上ることになります。第二次伝道旅行の後にエルサレム会議 ?
このように見ると、第二次伝道旅行の前にはエルサレム会議の取り決めのようなものはなく、パウロが第二次伝道旅行の終わりのコリント滞在中にガラテヤやフィリピにおける「ユダヤ主義者」たちの活動を伝え聞き、驚いて急遽エルサレムに向かい、エルサレムの使徒たちと異邦人信徒の割礼について談判したのだと見ると、この第四回エルサレム訪問の目的が明快に説明できます。また、この時にエルサレムの聖徒たちへの献金が合意されたとすると、それに続く第三次旅行が「献金行脚」であったこともよく説明できます。このように、エルサレム会議を第二次伝道旅行の後だとする説には説得的な面があります。しかし、この説には困難もあります。私市元宏『パウロの伝記的年代の基準 ―― デルフォイ碑文とクラウディウス帝の布告』は、デルフォイ神殿遺跡で発見された碑文の研究成果と、ローマ時代の歴史書の証言をまとめて、ガリオンのアカイア州総督在任を五一年夏から五二年春までの一年間とし、パウロのコリント滞在を五〇年の初めから五一年の夏遅くまでとしています。ガリオンによるパウロの裁判は五一年の夏、ガリオンの着任早々に行われたことになります。
通説では、パウロはコリントに五〇年秋から一年六ヶ月ほど滞在し、その間にガリオンの裁判を受け、五二年の春または初夏のころにエルサレムに向けて出発したことになっています。エルサレム会議がその後であるとすると、会議は五二年の夏とか秋になります。すると、パウロは第一回エルサレム訪問を回心の三年後とし(ガラテヤ一・一八)、エルサレム会議をその一四年後としている(ガラテヤ二・一)のですから、回心は三五年(三年とか一四年を足掛けの年数とすると三七年ころになる計算になります)ということになり、三〇年または三一年と考えられるイエスの十字架から離れすぎることになります。マーフィー=オコゥナーは、この十四年間のパウロの行動を以下のように年代づけています。シリア・キリキアとアンティオキアでの働き(三七〜四六年)、ガラテヤでの働き(四六〜四八年)、マケドニアでの働き(四八〜五〇年)。これによると、ガラテヤとマケドニアでの働きは四年に及ぶことになり、ガラテヤでの越冬や、テサロニケでの天幕造りの仕事をしながらの伝道活動など、かなりの期間と考えられる活動を十分含むことができます。
このように見ると、マーフィー=オコゥナーの説は困難もありますが、その困難は克服できないほどのものではなく、年代の問題など、かえって通説よりも有利な面もあります。パウロが第二次伝道旅行の後コリントからエルサレムに急いだ理由を説明するために、パウロがガラテヤ書二章で描いているエルサレム会議が第二次伝道旅行の後にあったとした上で、飢饉援助の時か第二次伝道旅行の直前にも何らかの個人的会談と合意があったとし(ガラテヤ書二章のエルサレム会談の記述は、それが個人的な会談であることを示唆しています)、この両者がパウロとルカでそれぞれの執筆意図に従って一回にまとめられたと見る折衷案も考えられますが、これも様々な困難をかかえています。私市元宏『パウロのエルサレム訪問 ―― ガラテヤ人への手紙と使徒言行録との調和』は、ガラテヤ書一〜二章の伝記的記述の部分と、使徒言行録に記されているパウロの五回のエルサレム訪問との関係についての諸説を綿密に調べて、以下のA、B、C三つの説に分類し、それぞれの説の根拠と困難、およびその説に基づくパウロの年表をあげています。A説は、ガラテヤ人への手紙二章でパウロが語るエルサレム訪問と使徒言行録(一五章)の語る使徒会議を同じと見て、これを彼の第二次伝道旅行より前のこととする説です。これが通説と言えますが、この論文ではヘンゲルの説をこれの代表説として検討しています。B説は、ガラテヤ人への手紙二章でパウロが語るエルサレム訪問と使徒言行録(一五章)の語る使徒会議を同じと見て、これを彼の第二次伝道旅行の後の出来事とする説です。この説は、本書が紹介しているマーフィー=オコゥナーの説で代表させて解説しています。C説は、ガラテヤ人への手紙二章でパウロが語るエルサレム訪問とルカの語る二回目の飢餓訪問を同じと見る説で、ロンゲネッカーの説で代表させて説明しています。このように「三つの説を紹介することで、ガラテヤ人への手紙と使徒言行録との整合性の問題を整理して」、その上で「聖書の内容に関しては、説明ができない矛盾がいろいろ指摘されていますが、この問題は、その中でも最も難しいものの一つだと言えるでしょう。しかし、(ベッツが言うように)解決はできないまでも、こういう問題が存在すること自体を知っておくことは、わたしたちが聖書を読んで自分なりに考える時に大切な意味を持つと思います」と結んでいます。
なお、本書でマーフィー=オコゥナーの説に触れることが多いので、参考までにマーフィー=オコゥナーがまとめた年表(第三次伝道旅行の終わりまで)を要約してかかげておきます。
アンティオキアからエフェソへ
アンティオキアでの滞在
ルカは使徒言行録でコリントを出てからのパウロ一行の行程をごく簡単に報告しています。「パウロは、(ガリオンの裁判の後)なおしばらくの間ここ(コリント)に滞在したが、船でシリア州に旅立った。プリスキラとアキラも同行した。・・・・一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残し、・・・・エフェソから船出した。カイサリアに到着して、教会に挨拶するためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。パウロはしばらくここ(アンティオキア)で過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、弟子たちを力づけた」。(使徒一八・一八〜二三)
パウロは船便でカイサリアに着いてエルサレムに上っていますから、その時期は冬の前でなければなりません(冬季は船便がありません)。アンティオキアに滞在した「しばらく」というのはどのくらいの期間か決定できませんが、冬の間は「ガラテヤやフリギアの地方」に出る陸路は、「キリキア門」と呼ばれる険しい峠が雪で通れませんから、少なくともアンティオキアで越冬しているはずです。マーフィー=オコゥナーはエルサレム会議を五一年の十月とし、その後アンティオキアで越冬して、五二年の春、「キリキア門」が通ることができるようになるとすぐにアンティオキアを出発したと見ています。内陸部を通ってエフェソへ
春になって山道が通れるようになると、パウロはすぐにアンティオキアを発ち、タルソから北へ向かい、「キリキア門」峠を越え、カッパドキアを経て、ガラテヤ地方を目指したと考えられます。ここの「ガラテヤ」は、第一次伝道旅行で訪れたリストラなどの「ガラテヤ州」南部の諸都市ではなく、第二次伝道旅行の途中に立ち寄って伝道した北方の「ガラテヤ地方」(小アジア中心部、現在のアンカラ周辺の地方)であると見られます。