第二節 結婚生活についての勧告
結婚と独身
性的禁欲について
1 そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。2 しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。3 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。4 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。(七・一〜四)
ここまでは伝え聞いていたコリント集会の現状を心配して書いていたパウロは、ここから「そちらから書いてよこしたことについて」答えます。集会に起こった様々な問題について、コリントの集会はステファナたち代表を送って書簡を届け、パウロの助言を求めたのでした。5 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。7 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。(七・五〜七)
「互いに相手を拒んではいけません」という勧告に但し書きがつきます。性関係を避けることが、祈りに専心するために合意の上でしばらく別れるだけであるならばよいというのです。そうでないと(すなわち相手を拒んだ状態が長く続くと)、自制心がないのに乗じてサタンが誘惑し、《ポルネイア》に陥る危険があるからです。パウロが結婚生活を勧め、お互いに相手を拒まないように勧告する(二〜五節)のは、ここでは《ポルネイア》を避けるためという消極的な動機が前面に出ていますが、そこには人間性に対するパウロの深くて現実的な理解が見られます。パウロは決して信仰生活を原則論だけで規制することはしていません。結婚の維持について
8 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。9 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。
(七・八〜九)
10 更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。11 ―― 既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。―― また、夫は妻を離縁してはいけない。(七・一〇〜一一)
次に「既婚者」に命じます。夫婦は離婚してはならないという命令です。他の場合ではパウロの勧告ですが、それと区別して、これは主の命令として命じられています。ここは、パウロがイエスの言葉伝承(マルコ一〇・五〜一二とその並行記事)を知っていたことを示す実例の一つです。パウロがイエス伝承をどのくらい知っていたのかについては、『パウロによるキリストの福音T』第5章「御霊による自由」の最後にある「パウロとイエス」の項を参照してください。
パウロは最初に妻に向かって「夫と別れてはいけない」と命じ、その後で夫に向かって「妻を離縁してはいけない」と命じています。これは、ローマ法では夫にも妻にも離婚を請求する権利が認められていたことの反映です。現代日本の世相と似て、当時のローマ社会でも、妻の側からの離婚の方が多かった(あるいは目立った)のでしょうか、パウロは妻の側からの離婚を先にあげています。信仰に入る前に離婚してしまっている女性については、再婚せずにいるか、夫と和解して帰るように命じます(男性の場合も原則は同じでしょう)。12 その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。13 また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。14 なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。(七・一二〜一四)
新しい土地に福音が宣べ伝えられ、キリストを信じる民が形成される時期には、新しく信仰に入った人の配偶者が信者でないという場合が出てきます。そのような場合、信者の夫または妻は、信者でない配偶者と生活を共にすることが、信仰生活と両立するのかが心配になります。バプテスマを受けて信仰共同体に入った者は、以前の人間関係をきっぱり断ち切ったはずです。信者でない配偶者との生活はどうしたらよいのかが問題になります。15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。16 妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。(七・一五〜一六)
それに対して、信者でない配偶者が離れていく場合は、去るにまかせるように勧めます。このような場合には、離婚を禁じた主の言葉にもかかわらず、信者は結婚の誓いに縛られていないというのです。こういうところにも、パウロは主の言葉伝承を「文字によらず、霊によって」理解していることが分かります。結婚が恩恵の出来事であることについては、拙著『マタイによる御国の福音―山上の説教講解』170頁以下の第四節「心の中での姦淫」を参照してください。
召された場で
割礼と無割礼
17 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。18 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。19 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。(七・一七〜一九)
結婚と独身の問題について命じたり勧告したりしたパウロは、ここでその勧告が出てくる原則を明らかにし、その原則によって、割礼と奴隷の身分について勧告します。ここで男と女、割礼と無割礼、自由人と奴隷という三つの主題が取り上げられるのは、当時の福音宣教にさいして用いられていた「バプテスマ定式」(バプテスマを受けるときに唱えられた信仰告白の定式文)から来ていると見られます。「あなたがたはみな神の子である。キリストの中へとバプテスマされた人はみなキリストを着たからである。ユダヤ人もギリシア人もない。奴隷も自由人もない。男と女はない。あなたがたはみなひとつだからである」。
これまで着ていた古い衣服を脱いで、白い衣を着て水の中に浸され、水から上がってこの告白文を唱えるとき(または唱えられるのを聞くとき)、受洗者は自分が今までとまったく違う世界に生まれ出たことを実感したことでしょう。受洗者は実は御霊によりキリストの中に浸され、そこからキリストという義の衣を着て出てきたのです。キリストを着ることで、中の人間の区別はなくなり、みな神の子とされているのです。そこにはもはや割礼を受けているユダヤ人であるか無割礼の異邦人であるかの宗教上の区別はなく、自由人か奴隷かという社会的身分の差もなく、男か女かという父権制社会での重い性差別もなく、みな一人のように差別なく結び合わされ、一つの共同体を形成しているのです。実際、ヘレニズム世界の小さい「家のエクレシア」では、割礼のない異邦人はもちろん、奴隷の身分の者でも、女性でも集会で積極的に活躍し、指導的な立場につく者もあったことが知られています。奴隷の身分について
20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。(七・二〇〜二四)
もう一度「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」という原則を述べた後、その原則を奴隷の身分について適用して語ります。召されたとき奴隷であった者は、奴隷であることを悩んだり嘆いたりすることなく、奴隷という身分の中でキリストに属する者として忠実に歩みなさいと、パウロは勧めます。ただ、二一節後半を新共同訳は「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」と訳していますが(NRSVもほぼ同じ)、この訳には問題があります。ここの文は「もし自由の身になることができるのであれば、その機会を利用しなさい」(RSV、協会訳もほぼ同じ)とも訳せます。現代語訳は二つに分かれています。「機会を利用しなさい(生かしなさい)」という動詞を、前者(新共同訳)は「むしろ奴隷という立場を生かして、僕として歩まれた主イエスの謙りくだりを学びなさい」という意味に理解しているのでしょう(この場合も解放を拒否するように命じているのではありません)。後者(協会訳)は「その機会を生かして自由の身になり、もはや主人の意向に拘束されずに主に仕えることができる身になりなさい」と理解していることになります。この段落の最初と最後に置かれて枠を形成している「召された時の身分に留まっていなさい」という原則からすると、前者が適切であるように見えます。しかし、(結婚の場合もそうでしたが)特別の場合について具体的な勧めをしていると理解すれば後者も十分成り立ちます。むしろ、二三節で「人の奴隷となってはいけません」と言っていることからすると、この方がいっそう適切かもしれません。いずれにしても、理由を示す次の二二節の文は、奴隷の身分のままに留まることを悩んだり、奴隷制という制度を嘆いたりしないように勧める二一節前半の根拠を示していると見られます。
パウロは社会制度としての奴隷制を正面から否定したり変革しようとはしていません。奴隷制という社会の枠の中で、「主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者(主の解放奴隷)であり、同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストを主人とする奴隷である。あなたがたはみな身代金を払って買い取られたキリストの奴隷である」、すなわち「奴隷も自由人もない、同じ立場である」(ガラテヤ三・二八)という、まったく新しい共同体形成の場を提供します。「主によって召された」場には、あらゆる人間的な区別を超えて、人と人を結びつける力があります。この力がやがて奴隷制という人間の尊厳に反する社会制度を変革していくのです。ローマの奴隷制と福音の関わりについては、次に刊行する予定の『パウロによるキリストの福音V』で、フィレモン書の講解の際に詳しく取り扱います。
終末の切迫と結婚
未婚の人たちへの勧告
25 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。26 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。27 妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。28 しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。(七・二五〜二八)
パウロはすでに「未婚者とやもめ」について勧告を与えています(八節)。そこでは「未婚者」《アガモス》は「寡婦」《ケーラ》と一組に並べられて、結婚生活をしていない男女を広く指していました(離婚したままの男女も含まれます)。ここでは違う用語《パルテノス》の複数形が用いられています。この語は「処女マリア」を指すときにも用いられる語ですが、ここでは何らかの理由で初めから性関係をもたないで歩んでいる独身の男女を指していると考えられます。婚約中の男女が典型的な実例となるでしょう。29 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、30 泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、31 世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。(七・二九〜三一)
32 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、33 結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、34 心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。35 このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。(七・三二〜三五)
終末的な待望に生きる状況のゆえに独身にとどまるように勧める勧告の中に、結婚すれば相手を喜ばすことが先になって主に仕えることに専心できなくなるからという理由(これは人間的な現実をパウロがよく見ていると言えます)が入ってくるのは、やや不自然な印象を与えます。とくにパウロはアキラとプリスキラ夫妻というような優れた伝道者の働きを身近に知っているのですから、やや意外の感じが否めません。しかし、パウロ自身がここで言っていますように、この勧告は束縛するものではなく、結婚してもしないでいても、要するに「品位のある生活をし、ひたすら主に仕える」ことができればよいわけです。「ひたすら主に仕える」ことを願う者に、独身を要求する言葉ではありません。そのために独身を選び取るかどうかは、それぞれにいただいている賜物の問題であること(七節)を思い起こす必要があります。純潔を誓ったカップルへの勧告
36 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。37 しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。38 要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。(七・三六〜三八)
ここで「娘」と訳されている語は、二五節と同じ《パルテノス》の単数形です。未婚女性というよりは、何らかの理由で性関係をもたない男または女を指す語です。さらに「自分の相手」とか「(誓いに)ふさわしくない」(「誓い」は原文にはありません)という語が用いられているところから、ここでパウロは純潔を誓ったカップルについて、たとえば「宣教パートナー」の関係にある男女のことを扱っていると見ると分かり易くなります(婚約関係の男女のことは二五〜三五節ですでに扱っていますから)。「宣教パートナー」というのは、御霊に燃えた初期の宣教活動において、性関係をもつことなしに福音宣教に従事した男女のカップルを指します。このようなカップルの間で、情熱を自制できなければ結婚しなさいと勧告していると理解することが、いちばん無理がないと思われます。「宣教パートナー」については、E・S・フィオレンツァ『彼女を記念して』(山口里子訳)252頁以下を参照。
妻への勧告
39 妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。40 しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。(七・三九〜四〇)
最後に妻の再婚について勧告して、結婚と独身に関する勧告を終わります。この勧告全体を通じて、パウロは主に召されたときの現状にとどまることを原則としていますが、パウロは人間の現実をよく見て、この原則や「主の言葉」をかなり柔軟に適用していることが目立ちます。アウグストゥス帝の「婚姻法」については、塩野七生『ローマ人の物語Y』(新潮社)一四一頁以下を参照。