第三章 終わりの日に生きる
― コリントの信徒への手紙 T (3)―
第一節 聖霊の宮としての体
はじめに
一章(一〇節)から三章までで、集会内の分派の問題を取り扱ったパウロは、さらに他の問題を次々に取り上げていきます。その間に、パウロは使徒としての自分に対する批判があることにも触れ、弁明しながら、使徒としての使命感やコリントの人々に対する熱い思いを吐露しています(四章と九章)。パウロとコリント集会との関係は、決して平坦で幸福なものではなく、パウロの使徒としての資格を問題にする批判者たちに弁明し、パウロの福音と異なる理解を主張する勢力と対決し、福音の真理を確立しエクレシアの一致を維持するために、論争と労苦と涙を強いるものでした。そのことはコリント書簡全体の重要な主題になっていますが、第一書簡でその主題に関連する四章と九章は、第二書簡を扱うさいにまとめて取り上げることにして、ここでは五章以下のコリント集会内部の問題に集中して進めていきます。性的放縦の問題
みだらな者を除け
1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。(五・一)
まず、パウロはコリント集会の中に「みだらな行い」があることを取り上げます(五章)。これは「クロエの者たち」からや他の経路で「伝え聞いていた」ことでしょう(五・一)。「みだなら行い」と訳されている原語《ポルネイア》(「ポルノ」の語源)は、広く社会の規範に背く性行為一般を指す語です。コリントは新興の商業都市として繁栄し、「コリント風に暮らす」という表現は贅沢と性的放縦の中に暮らすことを指すようになっていたと伝えられています。そのような大都会の気風に慣れていたコリントの人たちは、家庭の外での性行為にもあまり罪悪感を持たず、信仰に入ってからも「みだらな行い」がきっぱりと断ち切られずに残っていたのでしょう。パウロは、コリント集会のこのような状況を心配して、「みだらな者たち」と交際しないように警告する手紙を、この手紙の前にも書いています(五・九)。2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。(五・二〜五)
「こんなことをする者」を自分たちの交わりに抱え込んだままで、自分たちは霊の知恵に豊かに満たされ、すべてを支配する王になっており(四・八)、「わたしにはすべてのことが許されている」(六・一二)と主張して高ぶっているのはどうしたことかと、パウロはコリント集会の思い違いを指摘します。自分たちの中に「こんなことをする者」がいることを恥じて、自分の身体の一部を切り捨てるような痛みと悲しみをもって、その人をエクレシアの交わりから除外するのが当然ではないか、とパウロは迫ります(二節)。その後に、現代の注釈者を困惑させる言葉が続きます(三〜五節)。それは、パウロが生きている霊の次元から遠いところにいることからくる困惑でしょう。古いパン種を除け
6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。(五・六〜八)
異教時代の性的放縦を新しいエクレシアの交わりに持ち込まないで、それを厳しく取り除くべきことを、パウロはパン種のたとえを用いて勧告します。このパン種のたとえの背景には、イスラエルがエジプトから解放された出エジプトの出来事を記念する「過越の祭り」があります。昔イスラエルの民はエジプトから脱出するとき、種を入れないで焼いたパンを用意しました。それを記念して今もユダヤ人は過越祭の間は種を入れないパンを食べます。「わたしたち」キリストの民は、キリストによって「この世」の支配から解放され、約束の栄光の御国を目指す新しい旅に出発したのです。キリストが十字架につけられたのは、「わたしたちの過越の小羊として屠られた」ことを意味します。そのキリストに合わせられてこの世に対して死んだ(絶縁した)者は、イスラエルがエジプトのパン種を除いて旅に出たように、古い異教時代の悪い習慣を完全に取り除いて、キリストと共なる歩みを進めるべきです。少しでも残っていると、わずかのパン種が練り粉全体を膨らませるように、エクレシア全体を腐敗させる恐れがあると、パウロは警告します。内部の者の裁き
9 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、10 その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もしそうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。11 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。12 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。13 外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」。(五・九〜一三)
ここでパウロは、今回と同じく「みだらな者」との交際について、以前に書き送った手紙が誤解されていることに対して、真意を説明します。ここの文意は明白ですから、テキストをあげておくにとどめます。「一緒に食事をするな」という表現は、この時期では主の名によって「一緒に食事をする」ことがエクレシアとしての交わりの中心でしたから、「エクレシアの交わりから除名せよ」という意味になります。最後の引用文は、申命記一七章二〜七節の最後の部分です。申命記のこの一段は、イスラエルにおいて偶像を拝むことで主との契約に背いた者を、証人と民の全員が手を下して処刑し、イスラエルの中から除くべきことを定めた規定です。パウロはこの規定を念頭に置いて、コリントの集会が「こんなことをした者」を除名することを求めているのです。兄弟間の訴訟
世を裁く聖徒
1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。3 わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。4 それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。5 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。6 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。(六・一〜六)
集会がその交わりの中に抱え込んではならない「みだらな者」を除名しないでいること、すなわち内部の者を裁く能力がないことを非難したパウロは、続いて、兄弟の間の日常生活にかかわる紛争も自分たちの中で裁くことができないコリント集会の状況を批判します。先の《ポルネイア》の問題もこの訴訟の問題も、パウロが批判し非難するのは、このような行為をしないようにという勧告であるだけでなく、このような問題を自分たちの中で処理することができない集会を「恥じ入らせ」、自分たちは知恵に達しているという誇りを打ち砕くためです。この知恵の誇りが、分派の問題だけでなく、コリント集会のトラブルの源泉であるとパウロは見ているのです。その誇りを砕くために、「このようなことも知らないのですか」と畳みかけて問いかけるのです。「聖なる者たちが世を裁く」という思想は、ユダヤ教黙示思想の思想です。預言者たちにも終末思想はあり、終わりの時に神が世界を裁かれることが語られています。しかし、神の民が終末審判に参加するという思想は見あたりません。時代が下って黙示思想の成立と共に、この《アイオーン》では世の支配者たちから迫害されてきた「義人」とか「聖徒」たちが、新しい《アイオーン》では世界を裁き支配する立場に立つという逆転が期待され、語られるようになります。黙示文書の終末観は一様ではなく、終わりの日の世界審判についても違った見方が並存しています。その中に、「聖なる者たちが世を裁く」という思想が見られるようになります。たとえば、「やがて、『日の老いたる者』が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである」(ダニエル七・二二)とか、「見よ、彼(永遠の神)は一万人の聖者をひきつれて来られた。それは彼ら(すべての人)に審きを行うためである。彼は不敬虔な者たちを滅ぼし・・・・」(エチオピア語エノク書一・九)、「義人たちよ、罪人を恐れるな。主は、いつか彼らをきみたちの手に返されるから、そうしたら好きなようにやつらを裁いてやるがよい」(同九五・三、九六・一も)と語られるようになります。また、「そののち、・・・・大いなる、永遠の裁きが行われ、彼は天使たちに罰をくだされるであろう」(同九一・一五)という天使への裁きにも聖徒が参与すると理解されて、「天使たちさえ裁く」という思想が出てきたのでしょう。聖徒が裁きの座につくという思想は新約聖書のマタイ福音書一九章二八節に、終わりの日に主は裁くために聖なる者たちと共に来臨されるという思想はテサロニケT三章一三節に、その痕跡をとどめています。コリント書簡のこの箇所は、パウロが《エクレーシア》を黙示思想的な終末共同体と理解していたことを指し示すケースの一つです。
この世を裁くはずの「聖なる者たち」が、自分たちの間の日常の生活に関する紛争一つ解決できず、この世の法廷に訴え出るのは、自分たちの知恵がこの世の知恵にも及ばないことを告白しているわけです。兄弟の間の争いを仲裁できる知恵のある者が一人もいないのに、自分たちは知恵に達していると誇るのはどうしたことか、とパウロは彼らの高ぶりを戒めるのです。聖徒と裁判
7 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。8 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。(六・七〜八)
民事裁判というのは、市民の間の紛争を力(公権力)によって解決しようとするものです。この世は力が支配する社会です。そこでは力のある者が弱い者から奪うことがあるので、弱い立場の者は公の権力(裁判)に訴えて自己の正当な権利(人権や資産)を守らなければならないという場合があります。裁判は「正義」(弱い者の権利を守ること)の実現のために、この世では無くてはならない制度です。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。(マタイ五・三九〜四二)
パウロはイエスの語録を引用することはほとんどありません。しかし、同じことを言っていることが分かります。それは、イエスもパウロも同じ御霊によって同じ「恩恵の支配」の現実に生きているからです。甘んじて不義を受けるだけであれば、不義を野放しにすることになるではないか、という反問に、おそらくパウロはこう答えるでしょう。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる、と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。(ローマ一二・一九〜二一)
ここで注目すべきことは、裁判ざたになったことをパウロが「あなたがたの負け」と言っていることです。訴訟を起こした個人の信仰上の欠点というだけでなく、集会がこの世の勢力に負けたことを意味すると言っているのです。集会は、「兄弟」の間の紛争を仲裁することができず、この世の力を借りなければならなくなったことで、自らの弱さを暴露したというのです。兄弟の間で争いが起こったとき、集会は両者に自分たちが今どのような場に生きているのかを教え諭して、両者を恩恵の場にふさわしい和解に導くべきであったのです。裁判は力ずくで解決しますが、和解は両者の納得と同意の中で解決します。和解に導く知恵もなく、この世の裁判になったこと自体、終末共同体としてのコリント集会の敗北だというのです。この発言は、わたしたちに「エクレシア」の場に生きることの真剣さを改めて感じさせます。御霊による変革
9 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、10 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。11 あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。(六・九〜一一)
「むしろ不義を甘んじて受ける」ように勧めたパウロは、不義を働く者には「神の国を受け継ぐことはない」と厳しい判決を下します。これは、兄弟から力ずくで奪うようなことをする者について語っている文脈で出てくる言葉ですが、このようなことをする「正しくない者」に、パウロは先に触れた「みだらな者」も含ませます。ここに出てくる「正しくない者」のリストは、まず「みだらな者」の種類が具体的にあげられ、それからこの文脈での主題である「泥棒、強欲な者、人の物を奪う者」があげられます。その間に「酒におぼれる者」と「人を悪く言う者」が入ってきます。とくに「人を悪く言う者」があげられていることが注目されます。陰で「人を悪く言う」ことは軽く見られがちですが、重大な罪なのです。人と人との交わりを破壊する行為であって、神の愛の霊が支配する場には入れないのです。聖霊の住まいとしての体
体は主のため
12 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。13 食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。14 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。(六・一二〜一四)
パウロはもう一度「みだらな行い《ポルネイア》」の問題に帰ります。コリントの人たちの中に《ポルネイア》が行われたのは、霊の知識に到達した者は自由であり、身体の行為は霊の知識に影響することはないという考えが影響していたようです。彼らのスローガンが「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉でした。御霊によって生きる者は外からの律法の拘束からは解放されており自由であるという主張は、パウロの主張でもあり、パウロは頭から彼らの主張を否定することはしません。ただ、その福音的な主張が誤って用いられていることに抗議し、正しい方向に向けようとするのです。キリストの体の肢体
15 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。16 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。(六・一五〜一七)
新共同訳がここで「一部」と訳している語は、全体に対して一部というだけでなく、目や足や手のように同じ命で体につながった部分、すなわち「肢体」という意味の語です。キリストに属する信徒ひとりひとりが「キリストの体」の「肢体」として、違った役割を担って補完的に働き、《エクレーシア》という一つの体を構成するということが一二章で詳しく論じられますが、ここでは各人の体がそれぞれキリストの体の肢体であること、したがって体でする行為がキリストの体の出来事になるという、各人の行為が問題とされます。聖霊が宿る神殿
18 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(六・一八〜二〇)
このように、「みだらな行い」《ポルネイア》、すなわち《ポルネー》(娼婦)との交わりは、本来キリストの体の肢体である自分の体を、娼婦と一体となることで、背後にある偶像の支配に引き渡すという結果になり、「自分の体に対して罪を犯す」ことになります。それは自分の存在全体を主との交わりから引き離して罪(神の支配への反抗)に引き渡すことです。それに比べると、他の罪はすべて「体の外にあります」。すなわち、自分の存在全体を罪に引き渡すのではなく、キリストと一体となって生きている中で、主の御心に反する個々の失敗であることになります。このように、パウロは《ポルネイア》を他の罪とは性質の違う重大な罪であることを、コリントの人たちに明らかにして、「《ポルネイア》を避けよ」と強く迫ります。