市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第13講

第二節 信仰による救い

神から遣わされた使徒としてのパウロ

 ガラテヤにやって来たユダヤ主義者たちは、パウロが宣べ伝えた割礼なしの福音を否定するために、パウロの使徒としての立場を問題にしました。パウロの書簡から推定すると、彼らはこのように主張したと見られます。
 「パウロは主イエスの直弟子ではないのだから使徒ではない。あるいは、福音を宣べ伝える伝道者であるとしても、直弟子たちである『使徒』をいただくエルサレム教団に従属するものである。そのパウロがエルサレム教団の教えに反して、割礼なしの福音を宣べ伝えていることは黙認できない。われわれこそエルサレム教団の『使徒』の教えを忠実にあなたがたに伝える者である。あなたがたはパウロの宣教によってイエス・キリストを信じたのは結構だ。しかし、それだけでは真に神の民に加えられない。異邦人であるあなたがたは割礼を受け、ユダヤ教律法を順守することによって初めて、古くからの神の民であるイスラエルに加えられ、救済の約束にあずかるものとなるのである」。
 このような主張に対してパウロは書簡の冒頭から猛然と反論します。

 「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」。(一・一)

 この文を原文の語順通りに直訳しますとこうなります。「パウロ、使徒、人々からではなく、人によるのでもなく、イエス・キリストと彼を死者の中から復活させた父なる神による」。「使徒」《アポストロス》という語は本来「(遣わされた)使者」という意味ですから、誰から遣わされ、誰を代表するかが使者のもっとも重要な問題です。パウロはまず人々「から《アポ》」遣わされた使者ではないと断言します。パウロが複数形で「人々」と言うとき、エルサレム教団の使徒たちのことを考えていたのかもしれません。あるいはさらに一般的な意味で、いかなる人間的な制度からも派遣された使者でない、と言おうとしているのかもしれません。
 さらに、自分が「使徒」、すなわち福音を告げ知らせる全権を委ねられた使者とされたのは誰「による《ディア》」のかを語ります。それはいかなる人間的な力とか権威によるものではなく、イエス・キリスト(パウロにおけるキリストはつねに復活者です)とキリストを死者の中から復活させた父なる神による、というのです。ここでの「と」は二人の別の存在を指すのではありません。パウロにおいてはキリストと神は復活者の栄光の中で重なっています。自分はこの復活者によって直接使徒としての資格を与えられたのだというのです。ここでの「人」が単数形であるのは、対照されている「キリストと神」が一体の方として単数と意識されているのに呼応しているのでしょう。こうして、パウロは書簡の冒頭で、自分が直接復活者イエス・キリストによって立てられた、復活者キリストを代表する使者であることを宣言します。
 この表現は直ちにパウロのダマスコ体験を思い起こさせます。事実、パウロはすぐ後に、自分の使徒としての資格と告げ知らせた福音の内容が、ダマスコ途上での復活者キリストとの遭遇の体験から出ているものであることを力をこめて語ります。

 「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」。(一・一一〜一二)

 こう宣言した後、その具体的な出来事の経過を語ります(一・一三〜一七)。この箇所がダマスコ体験について語っていることは明らかです。その内容については先に詳しく見ましたので繰り返しませんが、ただここでは、この段落が「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもない」ということを示すために語られている、という文脈を改めて指摘しなければなりません。ダマスコ途上で啓示を受けた後、「エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず」(一・一七)と続くのは、自分の福音がエルサレムの先輩使徒たちから受けたものでも教えられたものでもないことを言おうとしているのです。
 続いてパウロは「三年後にエルサレムに上った」ことに触れます(一・一八〜二四)。ここでもパウロは、エルサレムでは短期間ペトロと接触しただけで、「ほかの使徒たちとはだれにも会わなかった」ことを強調しています。しかもそれを「神の前で断言しますが、うそをついているのではありません」と誓っています。これは、パウロに反対するユダヤ主義者たちが、「パウロはエルサレムで使徒たちから教えを受けた弟子である」というような噂を流していたからでしょう。この段落も、「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもない」ということを明確にするためです。
 さらに、それから一四年後に再びエルサレムに上って教団の「おもだった人々」と会談したことを語ります。そのエルサレム会議のことを語る段落(二・一〜一〇)も、エルサレム教団がパウロに割礼なしの福音が神から委ねられていることを認めたことと、パウロにいかなる義務も負わせなかったことを語るためでした。
 こうしてパウロが一章と二章前半で書いている自伝的な箇所はすべて、自分が宣べ伝えた福音が神からの直接の啓示によるものであること、使徒としての権威がエルサレム教団の承認に基づくものでないことを明らかにして、パウロを批判するユダヤ主義者たちを反駁するためでした。
 それから、異邦人信徒がユダヤ教の食事規定を守る必要があるかどうかで起こったアンティオキア教団での衝突事件で、パウロはエルサレムの使徒たちの第一人者と認められているペトロに向かって、福音の真理を守るために厳しい批判の言葉を発します(二・一一〜一四)。この記事にも、自分の使徒としての資格がエルサレム教団に依存していないことを示そうとするパウロの姿勢が見られます。
 ここに来てパウロの筆は、ペトロに対する非難から、今ガラテヤの信徒に割礼とユダヤ教律法順守を要求している「ユダヤ主義者」に対する非難論駁に、重なりながら移行します。二章一五〜二一節の段落が、アンティオキアにおけるペトロへの非難の言葉の続きであるか、執筆の時の論敵である「ユダヤ主義者」に対する反駁の言葉であるか、どちらか一方に決める必要はないでしょう。どちらにしても、パウロが「福音の真理」として命がけで擁護しようとした事柄のもっとも明白な宣言として、きわめて重要な箇所であることは変わりません。

信仰による義

 「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」。(二・一五〜一六)

 パウロは「わたしたち」という語を用いることで、自分を論敵であるペトロないしガラテヤに来た「ユダヤ主義者」と同じ立場に置きます(ここでは普通は必要でない「わたしたち」という人称代名詞が主語として用いられており、特別に強調されています)。アンティオキアで異邦人信徒との食卓の交わりから身を引くことで、間接的に異邦人信徒にユダヤ教の食事規定を守ることを要求したペトロも、ガラテヤ教会の異邦人信徒に割礼を受けることを要求した「ユダヤ主義者」たちも、神の救いの約束にあずかるのはユダヤ教律法の枠の中にいるユダヤ人だけであり、ユダヤ教律法の外にいる異邦人は神と関わりのない罪人であるというユダヤ人優越思想が身に染み込んでいるのです。パウロは自分を彼らと同じユダヤ人の立場におくことで、彼らを自分と一緒にひっくり返して、ユダヤ教律法を救いの根拠とするユダヤ人に染み着いた思いを粉砕しようとするのです。
 パウロはこう言おうとしているのです。「たしかに、あなた(がた)もわたしも生まれながらのユダヤ人であって、律法を持たない異邦人のように神と無縁の罪人ではありません。けれども、わたしもあなたがたもイエス・キリストを信じたではありませんか。それは何のためだったのですか。もし律法を与えられて実行しているユダヤ人がそれで義とされる(救われる)のであれば、イエス・キリストを信じる必要はなかったはずです。キリストを信じることなしでは律法を実行しても救われないことを知ったから、ユダヤ人であるわたしたちもまた、神が与えてくださった別の道、すなわちキリストを信じるという道を受け入れたのではありませんか。キリストを信じて義とされる道を受け入れたということは、律法によって義とされる道を放棄したことです。そもそも律法を実行することによっては、人間は誰ひとり義とされることはできないのです。それは聖書にも書いてあるではありませんか。『御前に正しいと認められる者は命あるものの中にはいません』(詩編一四三・二)」。
 ここでパウロが、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたち(ユダヤ人)もキリストを信じた」と言っていることは、多少問題があります。ユダヤ人がイエス・キリストを信じたのは、人が義とされるのは律法の実行ではなくキリストへの信仰によることを理解したからである、と言うことは無理があります。もしユダヤ人がそのことを十分「知って」キリストを信じたのであれば、パウロに対する批判は起こらなかったでしょう。ペトロのような弟子ですら、この点の理解は十分ではなかったのです。パウロは自分の理解をユダヤ人一般に及ぼして、同胞ユダヤ人にキリストを信じたという事実が何を意味するのかを教えているのです。動機が何であれ、キリストを信じるとは、律法の実行によっては義とされないことを認めることである、とパウロは主張しているのです。パウロほど、救いの道としての「律法の実行」と「キリストの信仰」が両立しないことを深く認識したユダヤ人はいません。

キリスト信仰

 ここに「律法の実行」と「キリストの信仰」という二つの表現が、正確に対応して用いられています。後者は協会訳(口語訳)では「キリストを信じる信仰」、新共同訳では「キリストへの信仰」と訳されています。しかし、原文では「律法の実行」と同じ属格を用いた句ですので、「キリストの信仰」と直訳して同じ形にする方が対比がいっそう明らかになると思われます。この「キリストの信仰」という句は、ここだけでなくローマ書の核心部(三章二一〜二二節)にも用いられています。ローマ書の箇所(三・二二)を直訳しますと、「(それは)イエス・キリストの信仰による神の義であって、誰でも信じる者に与えられるものです。そこには何の差別もありません」となります。
 ここに用いられている「キリストの《ピスティス》」という表現は、ギリシア語の《ピスティス》が本来「忠実、誠実、真実」という意味の語であることから、「キリストの真実」と理解することも可能です。すなわち、「キリストの」という属格を主格的属格と理解して、キリストが持っておられる(または現しておられる)真実と理解するのです。バルトがこの箇所を「キリストの真実」、すなわち「イエス・キリストにおいて現された神の真実」と読んだとき、《ピスティス》を人間の側の態度としてしか理解してこなかったキリスト教世界は衝撃を受けたのでした。
 わたしも以前から、「信仰」とは神とかキリストを対象とする自分の側の誠実とか真実ではなく、神の《ピスティス》(信実)に自己の全存在を委ねる人間の在り方であることを唱えてきました。すなわち、自分の価値や功績だけでなく、自分の信仰にも絶して、あるいは自分の信仰さえも放棄して、神の側の信実だけに委ねて生きることであるとし、これを「絶信の信」と呼んできました(詳しくはマルコ福音書一一章二二節の講解を参照のこと)。この「絶信の信」の世界では、「キリストの《ピスティス》」とは、キリストを外にある対象として「信じて仰ぐ」ことではありません。それは神の信実だけを拠り所として、キリストの現実に自己を投げ入れ、キリストとの結びつきに生きる事態です。それはほとんど、パウロが《エン・クリストー》(キリストにあって、キリストに結ばれて)と言っているのと同じ現実です。
 パウロにおいては「信仰によって」と「キリストにあって《エン・クリストー》」とが同じ意味で用いられていることは、「信仰によって」与えられて生きる現実と、「キリストにあって」与えられて生きる現実が、しばしば同じ用語で描かれている事実からもうかがわれます。一例だけ挙げますと、この段落で「イエス・キリストの信仰によって義とされる」(一六節)と同じことが、「キリストにあって《エン・クリストー》義とされる」(一七節)と表現されています。
 パウロはしばしば「信仰によって」という表現を用いています。そのさい「信仰」はもちろん「キリストの信仰」を指しています。このようにキリストとの関わりで成立し、キリストとの交わりを内容とする信仰を表現するには、日本語では「キリスト信仰」と言うことができると思います。名詞を二つ並べるだけの表現は曖昧さを残しますが、それだけに広範囲の意味を含みえますから、この場合かえって適切ではないかと思われます。さらに正確には「キリスト信交」と言うべきかもしれません。伝統的な宗教用語として「信仰」を用いるにしても、また「キリストへの信仰」という訳を用いるにしても、それは外にある対象を「信じて仰ぐ」のではなく、《エン・クリストー》(キリストに結ばれている事態)であることを銘記して用いるべきでしょう。
 この用語を用いて表現しますと、この段落でパウロが掲げているテーゼは、「人は律法順守ではなくキリスト信仰によって義とされる」となります。なおこの場合、「律法順守」というのは道徳律の順守ではなく、割礼や食事規定や安息日規定に代表されるユダヤ教戒律の順守が問題になっていることを改めて留意しなければなりません。道徳と信仰の関係の問題は別の問題です。

 「もしわたしたちが、キリストによって義とされることを求めることによって、自分自身が罪人と認められるようになるのであれば、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違反者であると証明することになります」。(一七〜一八節 私訳)

 ここではパウロは、アンティオキアで異邦人信徒にユダヤ教食事規定を守るように求めたペトロの行為と、ガラテヤの異邦人信徒に割礼を求める「ユダヤ主義者」の要求を重ねています。どちらも神の民として救いの約束に与るにはユダヤ教律法の順守が必要であるとしているのです。それに対してパウロは、ユダヤ人でキリストを信じた者が異邦人信徒にそのような要求をすることが何を意味するのかを明らかにして、その矛盾をつきます。
 「わたしたち」ユダヤ人がキリストを信じたのは、先に見たように、律法順守によってではなくキリスト信仰によって義とされることを求めているのです。そのユダヤ人が異邦人にユダヤ教律法の順守を求めるとすれば、それはみずから放棄した律法順守を再び自分の手で救いの規準に据えている(自分で打ち壊したものを再び建てる)ことになります。そして、みずから再び据えたその規準(救いには律法順守が必要であるという規準)によって、キリストによって義とされることを求めて律法を順守しなくなった自分自身が、罪人と認められる結果になります。それは自分で自分を「違反者」であると証明する行為です。そうすると、キリストはユダヤ人に律法順守の道から引き離して罪に導く者になるわけです。
 「決してそうではない」と、パウロは激しくこのような帰結を否定します。すなわち、キリストを信じたユダヤ人が異邦人信徒にユダヤ教律法の順守を求めることの矛盾を暴いて激しく論難するのです。パウロの議論は、義とされる(救われる)ことにおいて律法順守とキリスト信仰は両立しない、すなわち一方を選べば他方は放棄されるという前提に立って進められています。ところが、多くのユダヤ人信徒はこのような前提を認めません。キリストを信じることとユダヤ教律法を順守することは、義とされるために両方とも必要であるとするのです。そこでパウロは、救いにおいて律法順守の道とキリスト信仰の道がいかに両立しえない関係にあるかを、自分自身の体験をもって語り出します。

キリストがわが内に

 「わたしは神に生きるために、律法によって律法に死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。(一九〜二〇b 私訳)

 この文では強調の人称代名詞「わたし《エゴー》」が文頭に来ています。この「わたし」は、これまで用いられてきたユダヤ人を指す「わたしたち」の中の一人、典型的なユダヤ人としてのパウロ自身を指していると見られます。ユダヤ人の中でもとくに律法順守に熱心であったパウロ(一・一四)が、キリストに遭遇して以来、「律法に死んだ」のです。それまでのパウロは「律法に生きる」者でした。律法こそ彼の生の拠り所であり、律法を実行することこそ彼の生きる意義であったのです。ところが、キリストに遭遇し、キリストにあって生きるようになったパウロにとって、律法はもはや生の根拠でもなく意義でもなくなりました。パウロは律法とはまったく別の根拠によって生き、律法とは無縁のところに生きる意義を見い出したのです。そのことを、パウロは「律法に死んだ」と表現するのです。
 ここで「律法に生きる」と「神に生きる」が二者択一の関係に置かれています。すなわち、律法に生きるとき人は神に生きることはできず、神に生きるためには律法に生きることは否定されなければならないのです。それは、「律法に生きる」ときには自己が生きているからです。「律法に生きる」者は、これだけの律法を実行したという自己の誇りをもって神に向かうのです。律法を足場にして神と対立するのです。そこでは、神との交わりの中で、神の命に生きるという場は成り立ちません。「神に生きる」ためには、神と対立する自己主張が死に、神の恩恵だけが支配する場に来なければなりません。すなわち、「律法に死ぬ」必要があるのです。
 ここでパウロが、「律法によって」律法に死んだと言っていることが問題です。「律法によって律法に死ぬ」とはどのような事態でしょうか。律法を実行しようと努力すればするほど、その不可能なことを実感して、律法に生きることを断念するにいたるということでしょうか。このような理解は、パウロがキリストに遭遇するまでは、律法順守に自信をもっており、律法を実行できない苦悩を示唆することはありませんし、また、律法を軽視するキリスト教徒を確信をもって迫害しているという事実からしても困難です。この句は、パウロがこの句の直後に一息に、「わたしはキリストと共に十字架につけられています」と続けている事実から理解するべきでしょう。
 キリストは「律法によって」殺されました。たしかに、イエスを十字架刑に処したのはローマの権力者です。しかし、イエスの処刑を求めてローマの権力に引き渡したのは、ユダヤ教律法を代表する最高法院でした。ユダヤ教律法がキリストであるイエスに死刑を言い渡したのです。この一事が何よりも雄弁に、律法による義の道とキリストによる義の道が相容れないものであることを示しています。パウロが「律法に死んだ」というのは、キリストに遭遇し、キリストに合わせられて生きるようになった結果でした。律法に生きていた「わたし」は、キリストと一緒に十字架につけられて死んだのです。律法によって殺されたキリストと一緒に、わたしも「律法によって」死んだのです。
 パウロがここで用いている「共に十字架につけられる」という動詞は現在完了形です。すなわち、過去に起こった出来事の結果が現在にも及んでいる事態です。わたしは現在キリストと一緒に十字架につけられているのです。「わたし」は死んでいるのです。では、生きているのは誰でしょうか。キリストです。「生きているのは、もはや『わたし』ではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。
 この一文は「キリスト信仰」の内容をもっともよく示しています。キリストを信じること、すなわち「キリスト信仰」とは、キリストに自分を投げ入れ、キリストに結ばれることによって、キリストの十字架の死に合わせられて「わたし」が死に、復活されたキリストがわたしの内に生きておられる事態です。これは《エン・クリストー》の現実です。
 「わたしが死ぬ」というのは、自己の価値や資格を押し立てて神に要求する自己がなくなるということです。「キリストがわたしの内に生きておられる」というのは、神との関わりにおいて、わたしの現実のすべてでキリストが主語になっておられるということです。キリストがわたしを義としてくださるのです。キリストがわたしのために執りなしてくださるのです。キリストが愛の力として働いておられるのです。
 「わたしが死ぬ」のも、「キリストがわたしの内に生きておられる」というのも、実感とか神秘体験の問題ではありません。それは神と関わる人間の立場の問題です。ユダヤ教律法を拠り所としていたパウロの場合は、「わたしが死ぬ」ことは「律法に死ぬ」と表現されました。はじめからユダヤ教律法とは関係のないわたしたち異邦人の場合は、何であれ自己を主張する拠り所を放棄することです。そして、キリストだけを根拠とする場に生きることが、「キリストがわたしの内に生きておられる」ことになるのです。

 「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。(二・二〇c)

 わたしはキリストと一緒に十字架につけられて死んだのに、今もなお生まれながらの人間の生を生きているのは、どういうことでしょうか。今わたしが生きているこの生は、もはや自分が自らの存在と価値を根拠に生きている生ではなく、わたしを愛し、生きる資格のないわたしのためにご自身を捧げてくださった神の子キリストとの交わりの中で生かされているのだと、パウロは現在の自分の生の姿を告白します。
 ここでも「神の子に対する信仰による」と訳されている部分は、直訳すると「神の子の信仰にあって」となります。神の子であるキリストがわたしのために死んでくださったという、圧倒的なキリストの愛に迫られて、このキリストの現実に自分を投げ入れて生かされていることを、パウロは「神の子の信仰にあって」と言うのです。ここでも、この表現は「キリストにあって」とほぼ同じことです。
 キリストの十字架上の死が「わたしたちのため」であることは、ごく初期から信仰告白の定式文が唱えてきました。そのキリストの十字架を「わたしのため」の死と受け取るのは、聖霊による復活者キリストとの個人的出会いの場においてです。パウロは聖霊によって復活者キリストに出会い、キリストとの交わりに生きました。そのキリストはいつも十字架の死を負ったキリストでした。パウロはそのキリストの十字架の死を、キリストと一対一で対する場で、ほかならぬ自分のための死と受け取らざるをえなかったのです。「わたしたちのために」が「わたしのために」にならなければ、キリストの死がわたしの救いになることはありません。親鸞も、弥陀の本願を「親鸞ただ一人のため」と受け取ってはじめて、本願に生きる道を歩むことができたのでした。
 わたしの場合も、聖霊によって復活者キリストに出会ったとき、そのキリストは「わたしはあなたのために死んだ」という言葉として迫る愛でした。神の子キリストがわたしのために死なれたのですから、もはや「わたし」は生きることはできません。わたしはキリストと一緒に死んだのです。今生きる生は、復活されたキリストに合わせられ、恩恵によって与えられている生です。このように、キリストに合わせられることによって、すなわち「キリストにあって」、生まれながらの自分が死に、復活の新しい質の生命に生きるようになることが「キリスト信仰」の核心です。パウロはこの箇所(一九〜二〇節)で、自分の体験として福音の核心を語っているのです。

 「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」。(二・二一)

 律法順守とは別に、キリスト信仰が救いの道として与えられていることは、神の恩恵によることです。信仰によって救われるというのは、恩恵によって救われることです。信仰と恩恵は表裏一体です。信仰というのは、恩恵を恩恵として無条件に受ける人間の在り方のことだからです。資格のない者を無条件に受け入れる神の恩恵が、人間に受け取られている姿が信仰です。ですから、キリスト信仰による救いから離れて律法順守の道に戻ることは、神の恩恵を無用のものとすることに他なりません。人が律法順守によって義とされるのであれば、キリスト信仰は不要になり、キリストは無駄に死なれたことになります。ここでもパウロは、義の道においてキリスト信仰と律法順守が両立しないことを、きわめて印象深い表現で語っています。