第四節 アンティオキアでの衝突
共同の食事の問題
さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。(二・一一〜一二)
エルサレム会議でパウロとバルナバは当面の目的を達しました。すなわち、アンティオキア教団が行っている割礼なしの異邦人伝道をエルサレム教団に承認させることに成功したのです。しかし、エルサレム会議は福音における律法の位置の問題、具体的にはキリストの福音とユダヤ教の関係の問題を根本的に解決したものではありませんでした。それは、いわば「両論並記」の解決でした。ユダヤ人信徒はユダヤ教律法を順守する義務があるが、異邦人信徒はユダヤ教律法を守る必要はないという、信徒を二つのグループに区分した上での解決でした。
この解決は、パウロの立場からすれば、不徹底なものであったはずです。パウロのキリスト体験は、キリストが律法の終わりとなられたことを啓示しました。律法にもっとも熱心なパウロが、律法がもはや救いの道としては役割のないことを、身をもって知ったのです。「律法なしの義」という真理は、ユダヤ人にこそ宣べ伝えなければならない福音の核心です。そのユダヤ人信徒には、これまでと同じようにユダヤ教律法の順守を要求するというのでは、パウロの福音はユダヤ人には受け入れられなかったことになります。パウロの捨て身の告白も、すでにヤコブの指導下にあるユダヤ人教団たるエルサレム教団の受け入れるところとはならず、ただ異邦人信徒には「割礼なしの福音」を宣べ伝えることを承認したにとどまりました。
このようなユダヤ教律法問題の解決の不徹底さからくる矛盾が、ペトロがアンティオキアに来た時にあらわになりました。アンティオキアに来たとき、ペトロは「異邦人と一緒に食事をした」、すなわちアンティオキア教団で行われていたユダヤ人信徒と異邦人信徒の共同の食事に参加していたのです。この共同の食事について事件が起こるのです。
初期の信徒の集会では、共同の食事は信仰生活の中心でした。その共同の食事の場に復活されたキリストが現臨され、そこでキリストの十字架の死が記念され、神への賛美と祈りが捧げられ、信徒相互の愛の交わりが具体化したのでした。コリント書簡では、この共同の食事は「主の晩餐」と呼ばれていますが、この時期のアンティオキアでどう呼ばれていたのかは確認できません。アンティオキアでは、キリストに結ばれている者は、もはやユダヤ人と異邦人の区別なく、この食卓の交わりを共にしたのでした。ところが、ユダヤ人にとって異邦人と食卓を共にすることは、律法を破り、父祖の慣習(宗教)を捨てる重大な行為でした。アンティオキアのユダヤ人信徒はあえて一線を越えて、異邦人信徒と食卓を共にしたのです。
アンティオキアでユダヤ人信徒と異邦人信徒が一緒に食事をしたのはいつからであったかは、確定する資料がありません。エルサレム会議以前にすでに、パウロやバルナバの指導の下にそういう共同の食事が実現していた可能性があります。あるいは、エルサレム会議での決定を受けて、それまでためらわれていた共同の食事が一気に実現したのかもしれません。いずれにしても、エルサレム会議の後しばらくしてペトロがアンティオキアに来たときには、ユダヤ人信徒と異邦人信徒は共同の食卓を囲んで礼拝を捧げていました。ペトロはこの共同の食事に参加していたのです(「一緒に食事をしていた」は継続を示す未完了形)。
ところが、「ヤコブのもとからある人々が来る」におよんで、ペトロは「割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだした」のです。「ヤコブのもとからの人々」とは、ヤコブの指導下にあるエルサレム教団のユダヤ人の有力信徒であり、律法に対してヤコブと同じく厳格な立場をとっていた人々です。エルサレム教団は、アンティオキアでユダヤ人が異邦人と食事を共にしていること、さらに「割礼の福音」を委ねられたペトロまでが異邦人との共同の食卓に加わっていることを伝え聞いて、それを放置できない事態として、査問と説得の使節団を送り込んできたのです。
ペトロは、エルサレム教団の指導者(使徒たち)の中では、パウロの立場をもっともよく理解している人物でした。ルカはペトロを異邦人伝道の口火を切った使徒として描いています(使徒言行録一〇章)。その時すでにカイサリアで、ペトロはまだ割礼を受けていない人々と食事を共にしています。「割礼を受けていない者たちのところに行き、一緒に食事をした」というエルサレム教団での非難に対して、ペトロは自分の行為を神の啓示と承認に基づくものと、堂々と弁論しています(使徒一一・一〜一八)。エルサレム会議でも、パウロの立場を擁護しています(使徒一五・七〜一一)。使徒言行録の記事には、パウロとペトロの一致を強調しようとするルカの意図からくる偏りがありますが、それでも、ペトロは厳格な律法主義者である「義人」ヤコブと違って、律法を超えておられたイエスの直弟子として、律法に対してはかなり自由な立場をとっていたことは十分うかがえます。また、先に見たように、パウロの回心から「三年後」のエルサレム訪問のさい、十五日間にもわたってパウロと共に祈り語り合った体験から、パウロの律法から自由な福音をかなり深く理解していたと考えられます。それは、ペトロがアンティオキアに来たとき、ためらわずに異邦人との共同の食事に参加したことにも表れています。
ところが、ヤコブが代表するエルサレム教団から査問の使節団が到着するにおよんで、ペトロは動揺します。使節団は、いかなる状況でもユダヤ人は異邦人と一緒に食事をすることによって汚れをうけてはならないと、キリストの福音における交わりにおいてもユダヤ教律法の順守貫徹を主張したのです。彼らはとくに、エルサレム教団の柱の一人であり、「割礼の者」への福音宣教を委ねられたペトロが、公然と律法を破っていることを問題にしたことでしょう。彼らの批判に屈して、ペトロは共同の食事から身を引きます。それは、「しり込みし、身を引こうとしだした」という表現にも示唆されているように、ペトロにとって苦渋にみちた決断だったのでしょう。
ペトロが恐れた「割礼を受けている者たち」とは誰のことでしょうか。まず、ユダヤ人信徒からなるエルサレム教団、とくにその中の指導的なユダヤ人たちが考えられます。エルサレム教団における自分の立場を考えると、「ヤコブのもとからきた人々」の非難を無視することはできなかったのでしょう。しかしそれ以外に、教団の外のユダヤ人一般を指す可能性もあります。すなわち、教団の外のユダヤ人たちが教団に対する態度を硬化させることを恐れて、という意味です。
当時、イエス・キリストを信じる者たちの群れに対する周囲のユダヤ人たちの反感は、強くなってきていました。この時代はユダヤ戦争前の時期で、熱心党《ゼーロータイ》の運動が拡大し、ユダヤ人の間にユダヤ教律法に対する熱気が高揚していた時代でした。その中で、イエス・キリストを信じるユダヤ人(とくにギリシア語系ユダヤ人)は、律法をないがしろにするような態度をとる裏切り者という疑念をもたれ、律法熱心な周囲のユダヤ人からの反感を受けていました。もしアンティオキアでユダヤ人キリスト信徒が異邦人と食事を共にして、公然と律法を破っていることが聞こえてきたら、同じイエスを信じるエルサレム教団も、律法を公然と破る者たちの一味として、その存立が危険にさらされることになりかねません。「ヤコブのもとからきた人々」は、ユダヤ人は当然律法を順守すべきであるという原理的な説得と共に、このような窮地にあるエルサレム教団の立場を説明して、アンティオキアのユダヤ人信徒に異邦人との共同の食事を止めるように説得したのでしょう。
パウロとペトロの対立
ペトロは、エルサレム教団の指導者の中で、異邦人を受け入れることではもっとも積極的な人物でしたが、エルサレム教団が置かれている状況を思うと、「ヤコブのもとからきた人々」の要求も断固拒否することができず、異邦人との共同の食事を続けるべきかどうかについて、ずいぶん苦悩したのではないかと推察されます。その結果、共同の食事に対してあいまいな態度をとるようになります。
この段階で、パウロはペトロに対して「彼の面前で」(直訳)、すなわち一対一で、共同の食事から身を引こうとする態度に反対します。しかし、「ヤコブのものからきた人々」のユダヤ人信徒に対する説得は進められて事態は深刻化し、ついに集会全体の場で決着しなければならないところまでいきます。
そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」。
(二・一三〜一四)
ペトロの動揺に引きずられて、アンティオキア教団のユダヤ人信徒全体が「同じ偽善に陥り」(直訳)、異邦人信徒との共同の食事から身を引きます。ヤコブのもとからきた説得のための使節団は成功したのです。そして、パウロがこの人だけは自分の立場を理解してくれるであろうと期待していたバルナバまでもが、「彼らの偽善によって(誤りへと)引き込まれた」(直訳)のです。パウロは彼らが異邦人信徒との共同の食事から身を引いた行為を「偽善」と呼んで批判します。パウロにとって、福音を信じることを言い表していながら「福音の真理に従って歩まない」ことが「偽善」なのです。
福音は、律法の下にあるユダヤ人も、律法の外にいる異邦人も、区別なく信仰によって義とされることを告知しています。その福音を信じると口で言い表していながら、実際の行為では、異邦人もユダヤ人と同じように律法を守らなければならないと強いることは「偽善」に他なりません。ペトロはイエスの弟子の筆頭として全信徒に対して指導的な立場にあります。バルナバはアンティオキア教団の指導者の筆頭です。そのペトロやバルナバが共同の食卓から身を引いたことは、実際上は、異邦人信徒にキリスト教団に留まろうとするならばユダヤ教律法を守るように強制することに他なりません。
このような事態にたち至って、パウロは「皆の面前で」、すなわち集会全体の場で、この問題を取り上げ、決着を図らなければならなくなります。パウロは、全教団に対してもっとも大きな影響力をもつペトロに向かって、異邦人信徒が異邦人のままで、すなわちユダヤ教律法順守を強制されることなく、食卓の交わりにとどまることができるように要求します。
ペトロはすでに異邦人との食卓を共にすることによって、ユダヤ人としての枠から出ていました。ユダヤ人は律法によって異邦人と食事を共にすることを、汚れを受ける行為として禁じられていたからです。この行為によって、ペトロはすでに律法の外にいる者、すなわち異邦人のように振舞っていたのです。そのペトロがここにきて、今までの自分の行為を否定して、共同の食事から身を引き、異邦人信徒にユダヤ教律法を守ることを強要するような態度をとるのは、いったいどういうことかと批判します。動機は何であれ、ペトロの行為は「福音の真理」を危うくする行為なのです。これはペトロ個人を非難するためではなく、「福音の真理」を守るためのパウロの戦いです。
ガラテヤ書では、ペトロへの批判の言葉の後に、パウロが「福音の真理」を提示する重要な段落が続いています(二・一五〜二一)。この部分は、一四節の批判の言葉から自然に続いているので、パウロがアンティオキアでペトロに向かって語った言葉であるとする理解も可能です。しかし、内容から見ても、それ以後の手紙の流れからしても、ガラテヤのユダヤ主義者たちに向かって語っていると考える方が自然です。ここでは、ガラテヤ書を資料にして、パウロの働きの歴史的展開に焦点をあてて考察していますので、アンティオキアでの衝突の記事は一四節で切り、一五節以下の段落は後で別に扱います。
独立の宣教活動の開始
この公の集会の場での対決がどういう結果に終わったのか、パウロは何も書いていません。もしパウロの主張が通って、ペトロやバルナバが共同の食卓に復帰したのであれば、その事実はガラテヤの信徒を説得するのに有力な材料になるので、何らかの形で触れるはずだと考えられます。パウロが結果について沈黙していることと、その後の事態の進展から見ますと、パウロの抵抗も空しく、ヤコブのもとから来た使節団の説得は成功し、パウロは孤立したと見られます。
使徒言行録にはこの重要な事件のことは何も書かれていません。ルカは全教団と使徒たちの一致を美化しようとする傾向がありますから、代表的な使徒であるペトロとパウロの深刻な衝突に触れなかったことは十分に理解できます。しかし、使徒言行録にもこの事件を示唆する記事があります。使徒言行録一五章三六〜四一節でルカは、エルサレム会議の後パウロとバルナバが再び宣教の旅に出ようとした時、マルコを同行するかどうかで「意見が激しく衝突し、ついに別行動をとるようになった」ことを報告しています。しかし、それまでの協力関係からすると、パウロとバルナバという福音のための熱い同志が、マルコを同行するかどうかという些細な問題で決裂すると考えることは、きわめて不自然です。二人の訣別の背景にはもっと深刻な対立があったと見なければなりません。二人の訣別は、パウロがガラテヤ書で報告しているアンティオキアの衝突事件を背景として見るとき、もっとも自然に理解できます。
この事件によって、パウロはバルナバと訣別しただけではなく、アンティオキア教団からも離れたと見られます。バルナバはアンティオキア教団のもっとも有力な指導者ですから、これは当然です。この衝突事件までは、パウロは異邦人に福音を宣べ伝えるという使命をアンティオキア教団と共に進めてきました。アンティオキア教団はパウロの異邦人伝道の拠点でした。しかし、この事件以後は、パウロはアンティオキア教団から離れ、独立でヘレニズム世界の異邦人に福音を宣べ伝える働きを進めるようになります。
エルサレム会議とアンティオキアでの衝突事件の後では、パウロの宣教活動はそれ以前のものと性格が違ってきます。バルナバと共になされたキプロスとガラテヤ州南部への伝道旅行(いわゆる「第一次伝道旅行」)は、アンティオキア教団から派遣されて行われた、アンティオキア教団の活動の一部でした。この事件以後になされた小アジアとギリシア方面への宣教活動(いわゆる「第二次伝道旅行」と「第三次伝道旅行」)は、アンティオキア教団とは関係なく、パウロがシラスやテモテたちと独自のチームを形成し、生活と宣教活動のための必要経費はみずからの手仕事で満たしながら進められた、独立の宣教活動となります。パウロの書簡はみなこの時期に書かれていますので、パウロはアンティオキア教団について触れることは一切ありません。この「ケファがアンティオキアに来たとき」という箇所が唯一の例外です。使徒としての生涯の前半を形成する重要なアンティオキア時代のことについて、パウロがかたくなに沈黙を守っているという事実に、この衝突事件がパウロにとってどれほど大きな衝撃であったかがうかがわれます。
一方、ペトロはアンティオキアにとどまり、アンティオキアを中心にシリア地方で宣教を進め、この地域に影響力を及ぼしていきます。ペトロの名は、ユダヤ人信徒だけでなく異邦人信徒にとっても、イエス復活の第一の証人として、イエスの直弟子の筆頭として、また、イエス伝承の担い手の代表として、特別の権威をもっていました。シリアにおいてペトロの権威が確立していったことは、後にこの地方で成立したと見られるマタイ福音書がペトロを使徒の首座に置き、教会の土台となる岩としている(マタイ一六・一六以下など)ことからも、十分うかがわれます。パウロのアンティオキアについての沈黙も、その地域がすでにペトロの権威の下にあるという認識からきているという面もあると考えられます。
「使徒教令」の問題
ルカによると、エルサレム会議での決議が文書にされて、アンティオキアとシリア・キリキア州の諸教会に送られたことになっています(使徒一五・二二〜二九)。その文書はエルサレム教団の「使徒と長老」から出されたもので、ユダヤ人信徒と異邦人信徒が共同の食事をするために、異邦人信徒の側で守るべき最低限度の規定を定めています。
「長老」というのは、ユダヤ人の共同体の指導機関を構成する人々の総称であり、パレスチナではエルサレムの《サンヘドリン》(最高法院)を構成し、ディアスポラのユダヤ人社会では《ゲルーシア》(長老会議)を構成しました。エルサレム教団では、イエスの弟子であった「使徒」と共に、信徒の中の有力な年輩者が「長老」としてエルサレム教団の指導機関を構成しました。その「長老たち」の代表者がヤコブです。ヤコブは「主の兄弟」として、またユダヤ教律法の厳格な実践者として「義人」と呼ばれ、全員ユダヤ人であるエルサレム教団の尊敬を集めて、「長老たち」の筆頭者の地位を占めるようになります。とくに、ペトロがエルサレムを去ってからは、「使徒たち」の影響力は相対的に低下し、ヤコブと「長老たち」の権威が強くなります。エルサレム会議ではまだ「使徒と長老」と並べられていますが、すでに会議の議長は「長老たち」の代表であるヤコブであり、教団の「おもだった人々」の筆頭者はヤコブです。そして、エルサレム会議以後は「使徒」は登場せず、「長老」だけがエルサレム教団を指導していることが使徒言行録からうかがわれます。
「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。」 (使徒一五・二八〜二九)
この四項目は、レビ記の一七章と一八章に書かれている規定の要約であって、その中の初めの三項目は食物規定です。普通「使徒教令」と呼ばれているこの文書は、きわめて軽減された形にはなっていますが、異邦人にユダヤ教律法の順守を課するものです。これはパウロが、エルサレム会議で「おもだった人たちはわたしにどんな義務も負わせませんでした」(二・六)と言っていることと正面から矛盾します。たとえ一部であれユダヤ教律法が異邦人信徒に課せられるようなことには、律法問題でいかなる妥協も拒否したパウロ(二・五)が同意したとは考えられません。
もし、このような文書がエルサレム会議の決議としてアンティオキア教団に伝えられ受け入れられていたのであれば、共同の食事についてアンティオキア教団で衝突が起こることもなかったでしょう。この取り決めはむしろ、アンティオキア教団で共同の食事について衝突が起こったので、教団の分裂を回避するためにとられた妥協の産物であったと見られます。
ヤコブのもとから来た使節団の説得が成功して、アンティオキア教団のユダヤ人信徒は、ペトロとバルナバを含めて、異邦人信徒との共同の食事から身を引きます、そうすると、異邦人信徒は実質的に教団の交わりから締め出される結果になります。教団は分裂します。それはペトロやバルナバたち指導者の望むところではありません。パウロがアンティオキア教団を去った後、なんとか共同の食事を成立させようとして、エルサレム教団の「使徒と長老」たちとの折衝が重ねられて、このような妥協が成立したのでしょう。その交渉の場には、もはやパウロは居合わせなかったはずです。
ユダヤ教会堂には、割礼を受けていない「神を敬う」異邦人同調者たちが参加していました。彼らと割礼を受けているユダヤ人との食卓での交わりを可能にするため、彼らに最小限度の食事規定を順守することが要求されていました。その規定をモデルにして「使徒教令」のような文書ができたと考えられます。
パウロはこの「使徒教令」の存在を知りません。パウロの全書簡の中で「使徒教令」に触れているところはありません。もしその存在を知っていたのであれば、コリントやローマの集会でユダヤ人と異邦人の間で食物について宗教上の対立と紛争が起こったとき、「使徒教令」を引用して調停を図ることができたはずですが、パウロがそのような解決を図った痕跡はありません(コリント書T八章、ローマ書一四章)。あるいは、その存在を知っていて無視している可能性もあります。いずれにせよ、パウロにとってこのような妥協はあずかり知らぬこと、とうてい承認できないことです。もしパウロがこのような妥協を認めていたのであれば、ガラテヤ書もまったく違った書き方をしたことでしょう。
このような事後の妥協をエルサレム会議の決議として描いたのは、ルカの筆です。その結果、割礼の問題を協議するために始まったエルサレム会議が、食事の問題で終わるという不自然な展開になっています。一方ルカは、パウロが最後にエルサレムを訪問したときに、初めてヤコブがパウロにこの教令のことを伝えたような書き方もしています(使徒二一・二五)。この書き方から、ルカはパウロが「使徒教令」を知らなかったという事実を知っていた可能性も推察できますが、ルカにとっては、事実の正確な記述よりも、教団の一致の中で異邦人伝道が進展したことを描くことの方が大きな関心事であったのでしょう。
律法の支配を打ち破る力
ガラテヤ書二章で、エルサレム会議(一〜一〇節)とアンティオキアでの衝突事件(一一〜一四節)という、パウロの生涯で重要な二つの出来事を見てきました。この二つの段落のそれぞれで、パウロは「福音の真理」という表現を用いています(五節と一四節)。この二つの出来事は、パウロにとって「福音の真理」を守り抜くための捨て身の戦いであったわけです。
「真理」《アレーテイア》という語を広く理解すれば、「福音の真理」というのは福音に関して真実なことすべて、あるいは福音がもたらす現実(リアリティー)全体を指すのでしょうが、ガラテヤ書のこの箇所ではパウロはこの語をかなり限られた意味で用いているようです。すなわち、主イエス・キリストを信じ、キリストに結ばれている者は、ユダヤ教律法を守っているかいないかに関係なく、従ってユダヤ人であるか異邦人であるかに関係なく、キリストにおいて啓示された神の義によって救われるという事実を指しています。さらに簡単に言えば、人が救われるのはユダヤ教律法と関係がないという主張です。
福音の本体はキリストです。キリストと、キリストを信じることによって救われる現実が「福音の真理」の基本的な内容です。ところが、この「真理」は、律法を行うことによって救われるとするユダヤ教との論争においては、人が救われるのはユダヤ教律法と関係がない、という主張となります。エルサレム会議とアンティオキアでの衝突事件で、パウロはまさにユダヤ教の主張と対決し論争しているのですから、ここで言われる「福音の真理」は、救いはユダヤ教律法と関係がないのだという主張が前面に出てくるのです。もし、救いのためにはユダヤ教律法の順守が必要とされるのであれば、ユダヤ人も異邦人も区別なく「キリスト信仰」によって救われるとする「福音の真理」は崩れてしまいます。
この「福音の真理」を貫くために、パウロはエルサレム教団の有力者を相手に、かたときも妥協することなく、自分が復活者キリストから受けた啓示を主張します。エルサレム教団はヤコブをはじめ律法に熱心なユダヤ教徒によって構成される教団であり、パウロはエルサレム教団を神によって立てられた母教会と認め、エルサレム教団とのつながりを切ることはできないと考えていただけに、この論争はパウロにとってきわめて困難なものであったはずです。さらにアンティオキアの衝突事件では、この「福音の真理」を貫くために、使徒たちの筆頭者であるペトロと集会の面前で論争し、長年の同労者であるバルナバとも対立し、その結果、十数年指導的な立場で働いてきたアンティオキア教団から去らざるをえなくなります。
その後、パウロは「割礼なしの福音」、すなわちユダヤ教律法とは無関係の救いの福音をたずさえて、地中海世界の異邦人にキリストを宣べ伝える独立の活動を進めていきます。このパウロの宣教活動に対して、一部のユダヤ人キリスト教徒が対抗運動を組織し、異邦人もキリスト信徒たる者はすべて割礼を受けてユダヤ教律法を守るように要求します。このような妨害運動に直面して、パウロの活動は困難をきわめます(ガラテヤ書もこのような妨害運動に対処するために書かれたものです)。それだけでなく、聖なる神の律法を汚し否定する背教者として、パウロを殺すことを誓うユダヤ人の陰謀団が組織され、行く先々でパウロの命を狙います。
このように対抗する力が強大であるだけに、それを突き破って「福音の真理」を貫こうとする力、パウロの内に働く福音の力の強烈さに圧倒されます。パウロの福音宣教の場で二つの力が激突しています。一つはパウロの内に働くキリストの力、すなわち信仰による救いと恩恵の支配を告白し宣べ伝えようとする力です。他の一つはユダヤ人の中に働く律法の力、すなわち律法の支配を確立維持しようとする力です。律法の支配を目指す力は、パウロの宣教を妨害し、ついにパウロを殺すことに成功しました。しかし、パウロの内に働くキリストの力は、世界の各地に律法から自由な救いの福音によって立つ教団を確立し、キリストが律法の支配を打ち破る力であることを示しました。
先年イスラエルを旅行したとき、ユダヤ人社会における律法(=ユダヤ教)の支配力の強さを実感しました。一旅行者として僅かの期間滞在しただけですが、それでもこの社会でユダヤ教律法の他に神の救いがあると主張したり、律法の支配以外の原理を宣べ伝えることがどれほど大変なことか、それは命がけのことなのだということが実感されました。パウロの時代はユダヤ戦争勃発前の緊張した時代であり、ユダヤ人が外国の支配に対抗して父祖伝来の宗教の確立に燃えていた時代でした。それだけに、パウロがユダヤ教律法の外で異邦人が異邦人のままで神の民となるという福音を宣べ伝えたことは、どれだけユダヤ人の憎しみを買ったことか、想像を超えるものがあります。
キリストの福音がユダヤ教という民族宗教の枠を超えて宣べ伝えられ、キリスト教という世界宗教として成立するのに、最大の貢献をしたのはパウロです。律法から自由な福音を命がけで宣べ伝えたパウロの働きがなければ、今日キリストの福音とユダヤ人の聖書が世界の諸民族にまで行き渡るという事態はなかったのです。今回見ましたエルサレム会議とアンティオキアでの衝突事件は、パウロの生涯の転機となっただけでなく、キリストの福音がユダヤ教の枠を突き破る力をもっとも劇的に現した出来事であり、世界史的な意義を担っています。