市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第7講

第三節 パウロの回心

ダマスコ体験

 イエスを信じる者を弾圧するためにダマスコに向かったパウロは、その途上で彼の存在をひっくり返す決定的な体験をします。復活されたイエスに遭遇するのです。このダマスコ途上の体験については、パウロはユダヤ教時代の律法への熱心を語った言葉(一・一三〜一四)に続けて、ごく簡単に触れているだけです。

 「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき……」。
(一・一五〜一六)

 このパウロに「御子が啓示された」ダマスコ途上での出来事については、すでに本書の序章で書いていますので、改めて触れることはしません。ここでは、以上に見てきました律法への熱情に燃えるパウロにとって、このダマスコ体験が何を意味したのかを、パウロ自身の証言によって見ておきたいと思います。
 それまでの律法への熱心との関連で、この体験の意味を直接語っているパウロ自身の証言としては、まず「フィリピの信徒への手紙」三章があります。そこでパウロは、ユダヤ教徒としての誇りを数え上げた後、こう断言します。

 「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」。(フィリピ三・七)

 「わたしにとって有利であったこれらのこと」というのは、先に列挙したユダヤ教徒としての誇りです。律法を守る者として優れている点です。それが神から遣わされたキリストに反抗する理由になったのですから、キリストを信じる今では「損失」でしかありません。パウロはさらにこう続けます。

 「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。(フィリピ三・八)

 ここでパウロは「キリストの知識《グノーシス》」のすばらしさに圧倒されて、それ以外のもの一切を損失とし、キリストを知り、キリストを得るために失った一切のものを、失っても全然惜しくない無価値な「塵あくた」と見なす、と激しい言葉で表現しています。ここで「他の一切」とか、「失ったすべてのもの」と言っているものは、文脈からして、とくにユダヤ教徒としての誇り、律法の行者としての最高の価値を指していることは明らかです。
 ここで決定的な価値の転換が起こっています。それまで最高の価値であったものが「塵あくた」となり、それまでは最も卑しいものとしていた十字架の刑死者イエスをキリストとして知ることが無上の宝とされるようになったのです。それまでは、パウロは一切を律法を規準にして価値を計っていました。どれだけ律法にかなっているかが、一切のものの価値を決めていました。その規準からすると、イエスは十字架で処刑されるべき無価値なものです。ところが、イエスを復活されたキリストであると知ってからは、一切をキリストを規準にして見るようになります。どれだけキリストを知ることに関わるか、どれだけキリストにあずかっているかが、一切の存在の価値を決める規準になります。その規準からすると、パウロのユダヤ教徒としての誇りは、キリストに敵対するものとして「損失」になってしまいます。律法そのものもこの規準で新たに計られるようになります。

律法の終わり

 ダマスコ体験はよく「パウロの回心」と呼ばれます。それはたしかに、パウロにとって決定的な価値の転換でした。しかし、それは「改宗」ではありません。ある宗教から他の宗教に変わったという出来事ではありません。ユダヤ教からキリスト教に改宗したのではありません。その時にはまだ「キリスト教」はありません。この体験の後も、パウロはユダヤ人、すなわちユダヤ教徒であることをやめたわけではありません。ユダヤ教の中にいながら、パウロが「律法」と呼んでいるユダヤ教そのものの位置づけが決定的に変わってしまったのです。
 キリストに出会うまでは、律法こそ最終的な神の啓示であり、救いの道でした。ところが、キリストを知ったとき、キリストこそ神の啓示であり救いであることが分かったのです。このキリストの前に、律法はもはや最終的な啓示とか救いの道であるという位置を持たなくなったのです。たしかに、律法はキリストを準備しました。しかし、キリストが現れたとき、太陽が昇った後のろうそくのように、律法はその役割を終えたのです。この事態を、パウロは「キリストは律法の終わりとなられた」(ローマ一〇・四)と表現しています。
 ここで「終わり」と訳したギリシア語原語は《テロス》です。この語は「終わり」という意味の他に、「目標、結論」という意味もあります。新約聖書には「目標」と理解しなければならない箇所も稀にありますが(テモテT一・五、ペトロT一・九)、ほとんどは「終わり」の意味で用いられています。新約聖書での基本的な用法は、「世の終わり」(マルコ一三・七)に代表される終末的な意味の用法です。パウロもこの意味で用いています(コリントT一五・二四)。さらに、パウロは各人の「最期」「終極」という意味で用いる場合が多いようです(コリントU一一・一五、フィリピ三・一九、ローマ六・二一、二二)。
 ローマ書一〇章四節の「キリストは律法の《テロス》です」というパウロの用法は、「終わり」という意味なのか、「目標」という意味なのかが争われています。協会訳(口語訳)は「終わり」と訳し、新共同訳は「目標」と訳しています(英訳聖書では「ゴール」ではなく、ほとんどの訳で「エンド」が用いられています)。パウロのこの語の用例とここでの文脈からすると、「終わり」という意味で用いていると理解するほうが自然です。これをあえて「目標」と訳すのは、福音は律法を廃止するのではなく、完成・成就するものであるという面を強調したいという神学的な理由からであろうと思われます。
 キリストの福音において律法がどのような位置を占めるのかについては、パウロはガラテヤ書とローマ書でとくに詳しく議論を展開していますので、ここは結論を出す場所ではありません。それで、キリストは律法を成就するという一面もあることを心にとどめながら、言葉の普通の意味で「キリストは律法の終わりとなられた」というパウロの宣言を、標題として掲げておきます。それは、ダマスコ体験の内容を一言で表現するのにふさわしいものと言えます。パウロにとって、キリストとの出会いは「律法の終わり」となったのです。すなわち、ユダヤ教という「先祖からの伝承」を熱心に守り行うことによって救われようとする道は終わったのです。この時点から、パウロは全然別の救いの道を宣べ伝える者となるのです。