第一章 ユダヤ教徒パウロ
―― ガラテヤ書から(1) ――
(本章で書名のない引用箇所はすべてガラテヤ書の章節を指しています)
はじめに
「パウロによるキリストの福音」シリーズの第一巻をなす本書では、まず「ガラテヤの信徒への手紙」を取り上げます。この手紙は、キリストの福音とユダヤ教との関係という、初代教団の最も緊迫した問題を正面から取り扱っている重要な文書であり、後世のキリスト教の歴史にも計り知れない影響を及ぼしました。この講解でも当然その問題を主題として論じていくことになります。しかし、この「ガラテヤの信徒への手紙」には、パウロ個人の伝記と初代教団の歴史について、当事者であるパウロ自身が証言し資料を提供しているという、第一級の歴史文書としての側面があります。それで、本題に入るに先だって、この書簡が提供している資料に基づいて、パウロの生涯と働きを、最初期の教団の歴史を背景として見ておこうと思います。それは、この書簡の主題である福音とユダヤ教との関係の問題に深く関わっているからです。この書簡がパウロの自伝的な内容を含んでいるので、成立年代順という本講解の原則にとらわれず、最初に取り上げます。第一節 ユダヤ教時代のパウロ
ディアスポラのユダヤ人
パウロはガラテヤ書の中でこう証言しています。 「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。
(一・一三〜一四)
タルソスはキリキヤ州の州都で、アウグストゥス帝の時代にもっとも栄えた屈指のヘレニズム都市でした。その歴史は紀元前二〇〇〇年以前のヒッタイト帝国時代に遡り、アッシリアやペルシャの支配下にあった時代のオリエント宗教や文化の香りを残しながら、アレクサンダー大王以後ヘレニズム世界の重要都市として発展します。肥沃なキリキヤの平野を後背地とし、シリアとアジアの交易の要衝として栄えます。前67年にポンペイウスが東方を征服したとき、キリキヤ州の州都とされます。前51〜50年にはあの有名なキケロが総督としてタルソスに来ています。カエサルの暗殺後、タルソスはカエサルの後継者の側に立って支援したため、アウグストゥス帝は免税特権を与えるなど政治的に優遇しただけでなく、自分の教師であったストア哲学者アテノドロス(タルソス出身)を派遣して、市の行政改革を行わせ、多くの文化教育施設を造らせ、活発な文化教育活動を行わせています。その結果、当時の地理学者ストラボンが、「タルソスの人々が哲学および教養一般に向ける熱心さは大変なもので、アテナイやアレクサンドリアさえ凌駕されるほどだ」と記述するほどでした。パウロがこのようなストア哲学を土台とするヘレニズム思想が盛んな土地柄に育った事実が後のパウロの思想に全然影響がなかったとは考えられません。しかし、厳格なユダヤ教の家庭に育ったからか、またはタルソスで育ったのがごく幼少の時期だけであったからか、パウロにギリシアの古典文学の素養を見ることはできません。おそらく異教への嫌悪感からギリシアの演劇などは見なかったのでしょう。
パウロはこのタルソスのユダヤ人を両親として生まれた血統正しいユダヤ人です。このことはパウロ自身が誇りをもって証言しています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です」。(フィリピ三・五)
両親は父祖の宗教(ユダヤ教)に忠実なユダヤ人であって、生まれた男の子に割礼を施し、自分たちが属するベニヤミン族の英雄サウロ王にちなんで、「サウロ」と名付けました。「生まれて八日目に割礼を受け」たというのは、生まれは異邦人であるが成人してから改宗して割礼を受けてユダヤ教徒になったユダヤ人ではなく、ユダヤ人を両親として生まれた血統正しいユダヤ人であることを誇る表現です。生まれや血統から、神に選ばれて契約にあずかる民イスラエルに所属するだけでなく、受けた教育と生活習慣においても厳格なユダヤ教徒であるとして、彼は「ヘブライ人の中のヘブライ人」と誇ることができたのです。パウロの家族は、パウロの父親または祖父の時代にパレスチナからタルソスに移住した可能性があります。当時タルソスは(前述したように)アウグストゥス帝から優遇されており、多くの市民がローマ市民権を与えられていました。パウロの父または祖父が解放奴隷として資産をなし、ローマ市民権を与えられ、またタルソスの市民権(使徒二一・三九)も獲得したと推定されます。ローマ市民権をもつ者の子は自動的にローマ市民権を持つことになります。パウロのローマ市民権については、フィリピでの投獄を扱うところ(本書284頁)で詳しく見ることになります。父親の職業は天幕布織りであったと考えられますが、どの規模のものかは分かりません。パウロが後に独立伝道を支えるためにキリキア特産の天幕布織りを職業とすることから推測されることですが、パウロの父親はパウロをラビ(律法の教師)にしようとして、当時ラビには無報酬で教えることができるようになるため手仕事を習得することが求められていたので、息子に自分の職業を教えたと考えられます。
このように、パウロは異邦人地域に住むユダヤ人、すなわちディアスポラ(離散)のユダヤ人です。ヘレニズム都市に住むディアスポラ・ユダヤ人の通例として、「サウロ」というユダヤ名の他に、「パウロ」というギリシア語の名前を用いていました。ディアスポラのユダヤ人は、ユダヤ名に近い発音のギリシア語名(またはラテン語名)を持つのが通例でした。二つの名前が象徴するように、パウロの一身にユダヤ教とギリシア文化という二つの世界が沁み通っているという事実が、パウロをしてパウロならしめているのです。先祖からの伝承
ところで、パウロ自身はユダヤ教との関わりについてこう証言しています。「わたしは先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。(一・一四)
原文の順序では、まず「ユダヤ教に徹しよう」としたことが語られ、続いてそれが「先祖からの伝承を守るのに熱心で」という文で説明されています。ここでまず、パウロが回心前の自分のことを「ユダヤ教にいた時のふるまい」(一三節私訳)とか、「ユダヤ教に徹しようとした」(一四節)というように、「ユダヤ教」という語で表現していることが注目されます。この語が用いられるのはここだけで、他では用いられていません。他の箇所では、回心前の自分を表現するのに「律法」という語が用いられています。たとえば、このガラテヤ書の箇所と同じことを語るのに、フィリピ書ではこう言っています。「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。(フィリピ三・五〜六)
この並行例からも分かるように、パウロにおいては多くの場合、「律法」と「ユダヤ教」はほぼ同じ内容を指す語として用いられています。ユダヤ教に徹するとは、モーセ律法を徹底して厳格に守り行うことです。そして、ユダヤ教に徹するとか、律法を行うというのは、さらに具体的に言うと、「先祖からの伝承を守る」ことなのです。これはとくに、パウロもその一員であったファリサイ派のユダヤ教徒にとって重要な表現です。ファリサイ派とは、まさに「先祖からの伝承を守るのに熱心」な人々の運動なのです。エルサレムのパウロ
パウロが最後のエルサレム上京のさい騒乱に巻き込まれて逮捕されたとき、エルサレムの住民に向かってヘブライ語で次のような弁明をしたと、ルカは伝えています。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都(エルサレム)で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」。(使徒言行録二二・三)
パウロが若い時からエルサレムで律法の教育を受けたとするルカのこの報告は、現代では論争されています。しかし、M・ヘンゲルがその著『回心前のパウロ』で説得的に論証したように、少なくともパウロがエルサレムでファリサイ派の律法教育を受け、律法の教師として活動したことは認められるべきであると思われます。七〇年の神殿崩壊以前のファリサイ派ユダヤ教においては、聖都エルサレム以外の地でのラビ教育は考えられないからです。パウロがエルサレムで律法教育を受けたとすると、当時エルサレムで最高の律法学者であったガマリエル(使徒言行録五・三四のガマリエル)の弟子となったというルカの記事(使徒二二・三)も疑う理由はありません。本章の「ユダヤ教時代のパウロ」については、ここに挙げた M.Hengel, The Pre-Christian Paul, SCM Press 1991 の論証に負うところが多くあります。ガマリエルがエルサレムで律法の教授活動をしたのは20年〜50年頃と考えられるので、パウロがガマリエルの門下で律法教育を受けたことは、年代的に十分可能です。パウロがフィリピ三・五〜六で自分のユダヤ教における優位を列挙するさい、ガマリエルの門下であったことに言及していないことを根拠にして、このルカの記事を疑う(佐竹『使徒パウロ』も)のは、沈黙からの論証として根拠が弱いと考えられます。ガマリエルはヒレルの後継者ですから、パウロはヒレル派のファリサイ派ユダヤ教を継承したことになります。後に見るように、パウロは黙示思想やエッセネ派などからも影響を受けていますが、パウロの基本的な素養はファリサイ派のラビ・ユダヤ教であることは確実で、後のパウロ書簡の議論には、ラビの論法が繰り返し用いられます。
当時のエルサレムのユダヤ教の状況について重要なことは、エルサレムがすでにギリシア語を話す世界有数のギリシア都市の一つであったという事実です。もちろんユダヤ教の聖地として、エルサレムは聖書の言語であるヘブライ語と日常語であるアラム語を用いるユダヤ人の都市であり、アラム語を母語とするパレスチナ・ユダヤ人が多数を占めていました。しかし、彼らの中にはギリシア語もよくする人たちが多くいました。その上、ディアスポラのユダヤ人でエルサレムに住むようになった人たちやその子孫のように、ギリシア語を母語とするユダヤ人もかなりの割合(一〇〜一五パーセント)であったと推定されます。エルサレムとその近郊で発見された第二神殿時代の碑文の四割がギリシア語の碑文であるとも報告されています。エッセネ派の影響
回心前のパウロがエルサレムで律法を学び教える活動をした時期については、パウロの思想形成に大きな影響を及ぼしたと見られるもう一つ注目すべき事実があります。それはエルサレムにおけるエッセネ派の存在です。この時代の歴史家ヨセフスが、エルサレム城壁の南西部に「エッセネ門」と呼ばれる城門があったことを報告していますが、これはその近くにエッセネ派の居住地があったことを示唆しています。この時期はクムランの居住地が紀元前三一年の地震によって放棄されていた時期であり、エッセネ派に好意的なヘロデによってエルサレムに居住地が与えられていたと推定されています。これは最近の考古学的発掘によってかなり確実な事実と見られています。エルサレムのエッセネ派居住区については、ベッツ/リースナー『死海文書ーその真実と悲惨』(清水宏訳、リトン社)第十章を参照してください。わたしが一九九四年にパレスチナに旅行し、城壁に囲まれたエルサレムの旧市街を歩いたときに持った第一印象は、エルサレム旧市街の狭さでした。このような狭い市街に世界の各地からやって来たユダヤ人や巡礼者がひしめいていた様子を想像すると、パウロが当時エルサレムに居住して活動していたとされるエッセネ派から強い影響を受けたことが実感されました。
パウロの用語と死海文書との並行表現は、次のようなパウロ思想の中心的な用語にも見られます ―― パウロの「神の義」とクムランの「あなたの義」(感謝の詩篇四・三七)、「光の子ら」(宗規要覧などに多数)、「罪の肉」(宗規要覧一一・九)、「悪い時代」(ハバクク書注解五・七)、「新しい創造」(感謝の詩篇一三・一一)など。もちろん、用語は同じでも、パウロはクムランの「律法の行いによる義」に対して「信仰による義」を激しく主張している点で、根本的に違います。「死海文書」については、日本聖書学研究所編『死海文書』(山本書店)がテキストの翻訳と解説を提供しています。死海文書についての研究書は、M・バロウズ『死海写本』やM・ブラック『死海写本とキリスト教の起源』など多く出ていますが、その中でJ・H・チャールズワース編・山岡健訳『イエスと死海文書』(三交社)が、学術的に信頼でき、興味深い情報を提供しています。その第7章に「イエス、原始共同体、そしてエルサレムのエッセネ派居住地」があります。
なお、黙示思想とパウロの関係は、本書で後にテサロニケ書簡を扱うとき、詳しく触れることになります。