第U部 神の民の歩み
11 キリストに達するまで
キリスト道
人間には様々な生き方があります。人はそれぞれ何かを依り所とし、何かを目標として生きています。何を依り所とし、何を目標とするにしても、それを自覚していることが大切です。もしそれを自覚しないならば、その人の人生は、世の流れに押し流されるだけの、自由も創造性もない、生きる意義も感じられない人生、ただ一場の夢として終わる人生になってしまうでしょう。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストヘの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。(フィリピの信徒への手紙 三・八〜一四)
ここに、「キリスト道」を歩む者の姿が見事に告白されています。パウロは「律法から生じる自分の義ではなく、キリストヘの信仰による義」を依り所とし、「キリストを得る」こと、すなわち「死者の中からの復活に達する」ことを目標として、歩むというより「ひたすら走る」のです。彼はキリストに捕らえられた者として、そうせざるをえないのです。その道を歩むことが、今まで価値あるものとしていたすべてを失うことになっても、その道を歩まざるをえないのです。その道が「キリストの苦しみと死の姿に合わせられる」という苦難の道であろうとも、そのことが「キリストとその復活の力を知る」ことになるので、そのあまりのすばらしさに、他の一切を損失と見て、かえってキリストの苦しみに合わせられることを願わないではおれないのです。このように、「キリスト道」を走る自分の生き方を告白するだけでなく、パウロは使徒としてキリストを信じる者すべてに、自分にならってこの道を歩むように呼びかけているのです。キリスト道を歩む者の原型としてのイエス
さて、このように、「キリスト道」を立派に歩んだ先輩聖徒たちは、じつに数多くいます。しかし、この「キリスト道」を最初に完全に歩み抜き、その目標に到達した人物は、ナザレのイエスその人であります。こう言うと、イエスをキリストと呼びなれているキリスト者には、奇異に感じる人が多いのではないかと思います。しかし、イエスは初めからキリストであったわけではありません。地上のイエスは、わたしたちと全く同じ人間です。そのイエスが十字架の苦難を通り、死者の中からの復活によってキリストとされたのです。福音は、人々が十字架につけて殺したイエスを、神が死者の中から復活させて、主(キュリオス)またキリストとしてお立てになった、と言っています。このことは、イエスの側に即して表現すると、「復活によってキリストになった」と言えます。イエスは十字架と復活によって「キリストに達した」のです。キリスト道の目標地点である復活者キリストに到達されたのです。イエスの道
「イエスはキリスト道を歩み抜いて、目標に到達された」というのは、わたしたちの立場からイエスの生涯を描写した表現であって、イエスご自身は「キリスト道」とか「キリスト」ということは語っておられません。イエスにとって、イスラエルの歴史の中に自己を啓示してこられた神、すなわち聖書を通して語りかける神のみ旨こそ、歩むべき道であり、成就すべき目標であったわけです。イエスは聖霊を受けて、この神から子と呼びかけられ、この神を父と呼んで、親しい交わりの中に生きられたのです。それで、イエスにとっては、父の慈愛と信実、またその力こそ生きる依り所であり、父のみ旨こそ実現すべき目標であったわけです。そのような生き方がイエスにとっての「道」であったわけです。イエスが語られる言葉には、このことがよく表れています。そして、イエスが父の道を歩まれた結果が十字架であり、到達されたところが復活であったのです。イエスがその道を歩み抜かれた結果、「イエスはキリストとなられた」のです。イエスの弟子
このように、イエスの道とわたしたちの「キリスト道」とが同じであるからこそ、イエスの言葉がわたしたちの生き方の道しるべとなるのです。もし、二つの道が別のものであれば、わたしたちがイエスの言葉を聴くことは無意味になります。二つの道が同じであるから、わたしたちはイエスの弟子として、イエスと共に「キリスト道」を歩むことができるのです。狭い門から入れ
では、復活されたイエス、すなわちキリストと共に生きることはどうして可能になるのでしょうか。それは、イエスが聖霊を受けることによって、父と一つに合わせられて生きられたように、今わたしたちも信仰によって、すなわち、わたしの罪のために十字架され、三日目に復活されたキリストに自己の全存在を投げ入れることによって、約束された聖霊を受け、聖霊によってキリストと合わせられて生きるようになるのです。この時はじめて、わたしたちはイエスと共に生きる弟子となり、イエスの道がわたしの道となるのです。イエスと共にキリストに到る道を歩むことになるのです。この時、イエスの言葉はただちにわたしの歩みの道しるべとなり、歩む力となるのです。