第U部 神の民の歩み
3 神を喜ぶ
「そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」。
(ローマ書 五章一一節)
否定の霊
神ははじめに天と地とその中に満ちる万物を創造し、最後に御自身の像(かたち)にしたがって人を造られました。そして、「神が造ったすべてのものを見られたところ、それははなはだ良かつた」とあります。はじめにおいては、すなわち根源においては、一切の存在は創造者の「しかり」の下にあります。一切は肯定されています。根元的な大肯定が万物を支えているのです。
ところが、現実の人間はどうでしょうか。わたしたちは互いに否定し、分裂し、憎みあい、相手の存在自体を否定して殺しあっているのではないでしょうか。そして、自分自身の存在も最後には死によって否定され、一切が無意味の深淵に呑みこまれてしまうのではないでしょうか。現実の人間は否定の壁の中に閉じ込められています。この壁を突き破ることがどうしてもできなくて呻いています。
神が造られた世界、神が肯定しておられる世界に、どうしてこのような否定が入りこんできたのでしょうか。聖書は背後に「否定の霊」の働きがあることを語っています。創造者なる神に敵対する霊が、神の栄光のために創造された人間をその栄光の地位から引きずり降ろそうとして働きかけています。この霊は、聖書では「サタン」とか「悪魔」と呼ばれている霊です。彼は何よりも真理を否定する霊、虚言者です。彼はまず神の言葉を否定し、人間が神によって造られて存在しているという真理を否定し、人間自身が自分の存在の根源、すなわち神になるように欺きます。欺かれて自らを神とした人間は、自分の中に生命がないことに気づきます。生命の源泉である創造者から切り離されてしまっているからです。このようにして、サタンは人間から神の生命を奪うのです。彼は人殺しです。
サタンは死によって人間を支配します。死は人の生涯を無意味にしてしまうように見えます。たとえ死を超えて生涯を意義づける思想をもったとしても、死はわたしたちの存在自体を否定してしまうからです。もし霊魂が不滅だとしても、このからだをもって生きた生涯とそのからだが所属する自然界は、死によって否定されることになり、この具体的な人間全体を肯定することができないという矛盾に陥ります。
キリストにおける「しかり」の実現
このように否定の壁に取り囲まれて呻く世界の中に、神の「しかり」が実現しました。万物を存在させている方のあの根源的な「しかり」、サタンによって覆われ、人間から奪われていたあの「しかり」が実現しました。これが福音です。福音は終わりの時における神の大肯定です。
神は長い準備の後、イエス・キリストによってこの「しかり」を実現してくださったのです。神は選ばれた民イスラエルの歴史の中で、さまざまな形で最終的な救いを約束してこられましたが、ついに時満ちてイエス・キリストを世界に送り、この方を死人の中から復活させることによって、その約束をことごとく成就されました(使徒行伝一三・三三)。このことによって、神は御自身の言葉を否定することのできない方、絶対的に信実な方、「アァメンたる者」であることを現されたのでした。
「『しかり』がイエスにおいて実現されたのである。なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『しかり』となったからである。だから、わたしたちは彼によって『アァメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである」。(コリントU一・一九〜二〇)
イエスは復活されました。これが神の最終的な「しかり」です。はじめに天と地が創造された時に響きわたった「しかり」に呼応する終わりの時の「しかり」です。復活は、死というサタンの否定を克服する神の「しかり」です。キリストにあって人間は死から復活する者になったのです。復活によって神の創造の業は完成します。
復活はわたしたちとまったく同じからだをもつイエスに起こつた出来事です。そして、信仰によってこのイエス・キリストに属する者たちに起こると約束されている出来事です。わたしたちキリストにある者は、御自身の言葉を否定することができない方の約束に基づき、イエスと同じく霊のからだを与えられて復活することを待ち望んでいます。この信仰によってわたしたちは神をアアメン(しかり)とするのです。
しかしこの究極的な「しかり」が実現するためには、人間の神に対する否定(これが根元的な罪です)が否定されなければなりません。人間の罪に対するこの神の最終的な断罪(否定)はすでに行われました。それがキリストの十字架です。神はイエス・キリストにおいて人間の罪を断罪されました。これは「誰がわたしたちの聞いたことを信じえたか」と言われる奥義です。キリストはわたしたちすべての者の罪のために砕かれたのです。この神が成し遂げられた事実がある今、神を「しかり」とすることは自分をこの断罪の場に投げ込んで、自分を否定することです。キリストの十字架に合わせられて自分が死ぬことです。福音を信じるとは、これ以下のことではありません。
根源的な大肯定
このように神を「しかり」とする者を、信実なる神は決して死の中に放置されません。復活されたキリストと共に生かし、御自身に属する者として受け入れて下さいます。これが義です。神がわたしを「しかり」として下さることが、わたしの義です。神がわたしを堅くしてくださるのです(アァメンとする、というのはヘブル語では「堅くする」という意味があります)。
「・・・・・わたしたちをキリストのうちに堅くささえ、油を注いでくださったのは、神である。神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜ったのである」。
(コリントU一・二一〜二二)
十字架され復活されたキリストを信じることによって神をアアメンとする者を、神は聖霊を注ぐことによって堅くしてくださるのです。すなわち御自身に属する者であることを証印してくださいます。信じる者に与えられる聖霊は、神の子の実質を与える霊であり、神の国を受け継ぐ保証です。たしかに、わたしは依然として朽ち果てるべき肉体の中に住んでいます。しかし、わたしの中に宿る聖霊はイエスを復活させた霊です。この御霊によって生きる時、イエスと同じ霊のからだをもって死人の中から復活するとの約束は、生涯をかけることができる確かなものになります。この御霊による希望によって、死という最後の否定はその刺を抜き去られ、克服されます。死の現実の中に永遠の生命が立ち現われてきます。それが復活であり、神です。それは現実であり、希望であるのです。
聖霊によって生きる時、神の愛が心に注がれていることを体験します。この天地万物を創造された方がわたしを愛して下さっていることを知ります。死人を復活させる方がわたしを愛して下さっているのです。創造において初めの「しかり」を、そして復活において終わりの「しかり」を発しておられる方が、そのひとり子を与えるほどにわたしを愛して、その方の死によって和解を与え、御自身のものとして下さっているのです。この神の究極的な肯定を身に受ける時、自分が存在していること自体が嬉しくてならない、感謝でならないものになります。
今までは、あれこれのものを得たことを喜び、失ったことを悲しんできました。しかし今は、何がなくても自分の存在自体を喜び、自分を存在させ、世界を存在させておられる神を喜ぶことができます。現実の状況がどのようなものであれ、究極的には一切を肯定することができます。神を喜ぶ喜びこそ、至純の喜び、根源肯定の至福の境地です。
(アレーテイア 16号 1987年)