第五節 エルサレムでの四つの論争物語
はじめに
マタイが独自に構成した「たとえ集」の後に、税金問答(二二・一五〜二二)、復活論争(二二・二三〜三三)、最も重要な掟についての問答(二二・三四〜四〇)、ダビデの子論争(二二・四一〜四六)という四つの論争物語が続きます。この部分は、順序もマルコの通りであり、内容も基本的にはマルコと同じで、とくにマタイの特色は出ていません。強いて違いを捜せば、マタイは最も重要な掟に関する問答をマルコよりも簡潔な形にまとめていることと、その問答の最後にある「もはやあえて質問する者はなかった」というマルコの句を、ダビデの子についての論争の後ろに持ってきたことぐらいです。マルコではこの句の後にさらにダビデの子に関する論争が続きますが、マタイはそれを不自然に感じたのでしょうか、最後のダビデの子論争の後ろにもってきて、四つの論争物語の部分を締め括っています。皇帝への納税(22・15〜22)
ユダヤ教の本拠地、祭司や律法学者たちの牙城エルサレムに現れたイエスは、当然イエスに敵意をもつユダヤ教指導者層からの激しい攻撃を受けることになります。その最初が税金問答(二二・一五〜二二)です。マタイは、この問答がイエスを陥れるための罠であることを、「罠にかけようとして」という句を用いて明確に表現しています。また、この罠を仕掛けた主体について、マルコは「人々は」ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わしたとしており、漠然とユダヤ教指導者層(最高法院)を指していますが、マタイははっきりと「ファリサイ派の人々が」その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒に遣わしたと限定しています。これは、神殿崩壊後のマタイの時代には敵対する勢力がファリサイ派だけになっていたことによると見られます。ファリサイ派の人たちと一緒にイエスに問いかけたヘロデ派とはどういう人たちであったのか、明らかではありません。普通ヘロデ家に忠実な親ローマ派の人たちとされていますが、当時ヘロデから好意的に処遇されていたエッセネ派を指すという見方もあります。
「皇帝に税金を納めることは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という質問が罠であるのは、どちらに答えてもイエスを陥れることができるからです。イエスの時代には熱心党の運動が拡がり始めていました。熱心党は、異教の支配者であるローマ皇帝に税を納めることは、その支配を認めることになり、神だけを拝むことを求める第一戒に背くことになる、皇帝に税を納めることは律法に適っていない、と主張したのです。そして、律法を守る「熱心」から、ローマに妥協する支配層のユダヤ人を暗殺したり、ローマに対するゲリラ的な武力闘争を行ったのです。ローマが属州民に課す税《ケーンソス》を納めないように扇動することはローマに対する反逆行為ですから、ローマ側からの厳しい弾圧を受けます。もしイエスが「律法に適っていない」と答えるならば、ローマへの反逆を企てる者として訴えることができます。イエスが「律法に適っている」と答えるならば、異教の支配者の圧政に苦しんでいる民衆の支持を失わせることができます。復活論争(22・23〜33)
次にサドカイ派の者が来て論争を挑みます(二二・二三〜三三)。サドカイ派は、終わりの日に神が死者を復活させるというファリサイ派の信条を、それが律法(モーセ五書)に書かれていないという理由で否定していました。そして、子なく死んだ兄の妻を、跡継ぎを得るために弟が娶らなくてはならないという律法にあるレビレート婚の規定を持ち出し、死者の復活を認めると、その妻は次々に結婚した弟たちの妻となるから、同時に複数の配偶者をもつことを禁じた律法に違反することになると論じて、ファリサイ派を批判していました。その議論をイエスに向けるのです。死者の復活については、イエスはファリサイ派と同じ立場に立っていると見て、サドカイ派が論争をしかけたのです。最も重要な掟についての問答(22・34〜40)
次に、再びファリサイ派の律法の専門家が来て、最も重要な掟はどれかと尋ねたのに対して、イエスが、「心を尽くして神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」を、一つにまとめて「同じように重要な掟」とされた問答が来ます(二二・三四〜四〇)。問答の内容はマルコの記事と同じですが、マタイは質問者の動機に「イエスを試そうとして」という句を入れ、また、イエスの回答に感心して同意を示した律法学者の記事を省略して、対決色を強くしています。マタイは、賛意を示した律法学者をイエスが誉められた記事は入れたくなかったのでしょう。ダビデの子論争(22・41〜46)
最後にダビデの子についての論争が来ます(二二・四一〜四六)。マルコは、先行する質問なしで、「イエスは答えて言われた」という句でこの論争を導入していますが、マタイは「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった」という句で始めます。この書き方にも、ユダヤ教会堂側のメシア理解が間違っていることを突こうとする、マタイの攻撃的な姿勢がうかがえます。