第三節 エルサレムでの三つの象徴行為
はじめに
ついにイエスはエルサレムに入られます。エルサレムでの出来事については、マタイはほぼマルコの順序に従っていますが、三つのたとえ集や律法学者に対する激しい批判の語録集など、マタイ独自の構成も見られます。第五ブロックの物語部分「エルサレムに現れるメシア」の後半、すなわちエルサレムに入城してからのメシア・イエスの物語(二一〜二三章)は、次の四つの部分から構成されると見られます。子ろばに乗って(21・1〜9)
いよいよイエスはエルサレムに入られます(二一・一〜九)。エリコを通って東からエルサレムに近づいた一行は、オリーブ山沿いのベトファゲという所に到着します。ここでイエスは聖都エルサレムに入る準備をされます。近くの村から一頭のろばを子ろばと一緒に連れてくるように弟子たちに指示し、そのろばに乗ってエルサレムに入られます。イエスをイスラエルに遣わされたメシアとして描いてきたマタイは、子ろばに乗って都に入るイエスの姿に、ゼカリヤ(九・九)の預言の成就を見ます。メシアとしてイスラエルの王であるイエスは、力をもって民を支配するこの世の王とは違い、「柔和な方で、ろばに乗り、子ろばに乗って」その民のところに来られるのです。子ろばに乗って入城する王。この姿にイエスがどのような性質の支配をもたらす方であるかがよく象徴されています。このエルサレム入城の記事も、マタイはマルコと一部違っています。最大の違いは、マルコにはない預言の成就であることを入れている点(冒頭行はイザヤ六二・一一の、後はゼカリヤ九・九の一部の合成)ですが、その他にも微妙な違いがあります。マルコは「ベトファゲとベタニアにさしかかった」と書いていますが、ベタニアはベトファゲよりも東にあり、東から来た一行の行程としてはこの順序は不自然ですので、マタイはベタニアを省いています。マルコでは子ろばを一頭連れてくるように指示されていますが(ルカも同じ)、マタイは子ろばと一緒に一頭のろばを連れてくるようになっています。それにともない、七節の「イエスはそれにお乗りになった」の「それ」は複数形で不自然な表現になっています。これは、マタイがゼカリヤの預言の「ろばに乗り、子ろばに乗って」を別のろばと考えて(七十人訳ギリシャ語聖書ではそう読めます)、それに合わせて二頭のろばを連れてきたことにした結果であると考えられます。しかし、ゼカリヤの原文は「彼は・・・・ろばに乗ってくる、(すなわち)雌ろばの子であるろばに乗って」とありますから、一頭でよいはずです。ヨハネ(一二・一四)もゼカリヤの預言の成就としていますが、ろばは一頭です。なお、ろばを連れてくるさいの村人との会話や道に敷いた「木の枝」、「ホサナ」の歓声など、詳しくは『マルコ福音書講解U』60「エルサレムに入る」を参照してください。
子ろばに乗って聖都エルサレムに入城するイエスを、群衆は自分の服や木の枝を道に敷き、「ホサナ」を叫んで歓迎します。マルコの「主の名によって来られる方」という歓呼に、マタイは「ダビデの子」という称号を添えています(二一・九)。マタイはこれまでずっとイエスをダビデの子として描いてきました。ダビデの支配を回復するとイスラエルに約束されていたメシアが、今その支配を現すはずの都に入られるのです。その歓呼の声に包まれながら、子ろばに乗る王は心の中でエルサレムのために泣いておられます。イエスは、イスラエルが期待するような力をもって支配する王ではなく、人々の重荷を背負う子ろばのように「柔和な方」として、都に入られるのです。このメシアを受け入れない民に臨む命運を思い、都を遠くから見て泣かれたイエスの心情(ルカ一九・四一〜四四)は、この時も同じであったと推察することが許されるでしょう(マタイ二三・三七〜三九も参照)。神殿での象徴行為(21・12〜17)
マルコ(一一・一一)では、エルサレムに入られたイエスは神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、夕方に弟子たちを連れて都を出て行かれたことになっていますが、これはイエスのエルサレム入城を歓呼して迎えた群衆の興奮からするとやや不自然に見えます。それでマタイはマルコの記事を改訂して、イエスがエルサレムに入られると、「いったい、これはどういう人だ」と言って、「都中の者が騒いだ」としています(二一・一〇〜一一)。おそらく、イエスの入城を歓呼した群衆とは、ガリラヤから来た巡礼者の一団で、イエスのガリラヤでの活動をよく知っていて、イエスを「ガリラヤのナザレから出た預言者」と仰いでいた人々だったのでしょう。実際には、イエスはこのような比較的小規模の「群衆」に囲まれて、あまり目立たないで都に入られたのでしょうが、マタイはそれを「都中の者が騒いだ」出来事とし、その騒ぎの中で預言者イエスはすぐに神殿に入り(マルコでは翌日)、神殿の崩壊を予言する象徴行為をされたとするのです(二一・一二以下)。神殿での象徴行為について詳しくは、『マルコ福音書講解U』62「神殿から商人を追い出す」を参照してください。なお、マタイがマルコにある「境内を通って物を運ぶことを許されなかった」とか、「すべての国民の」祈りの家という句を省略し、禁令に反して境内に「目の見えない人や足の不自由な人」を登場させているのは、マタイの時代にはもはや神殿はなかったという事情が反映していると考えられます。
いちじくの木が枯れる(21・18〜22)
マルコでは、イエスはエルサレムに入られた日はすぐに都を出てベタニアに行き、そこに泊まっておられます。それで、神殿での象徴行為はその翌日になりますが、その日の朝ベタニアから出かける時に、葉ばかりで実のないいちじくの木に「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われたとされています。そして、神殿での象徴行為をされた日の翌日、ベタニアから出て行かれるときに、そのいちじくの木が枯れているのを弟子たちが見て驚き、信仰についての対話がはじまります。このように、マルコでは神殿での出来事がいちじくの木が枯れた記事で前後を囲まれているという構成になっていますが、マタイは神殿での出来事をエルサレム入城当日のこととしていますので、いちじくの木が枯れたことは神殿の出来事の翌朝の一回にまとめられています(二一・一八〜二二)。それで、イエスがその言葉を発せられると、(マルコのように翌日ではなく)「いちじくの木はたちまち枯れてしまった」ことになります。いちじくの木が枯れた記事には、(マルコと同様マタイでも)祈りについてのイエスの言葉が続いています(二一・二〇〜二二)。いちじくの木が枯れた出来事は、異邦人キリスト者の教団において伝承される過程で、イスラエルに対する裁きという象徴的意味よりも、イエスの言葉の奇跡的な力の方が重視されて、祈りの力を教える実例として用いられるようになったのでしょう。いちじくの木の出来事の象徴的意味については、『マルコ福音書講解U』61「いちじくの木を呪う」で、また祈りの力の教えという意味については、『マルコ福音書講解U』63「いちじくの木が枯れる」で詳しく論じていますので、ここでは割愛します。ただ、祈りの力を教えるイエスのお言葉が、マルコでは「神の信を持て」(直訳)であったのが、マタイでは「信仰を持ち、疑わないならば」となっていることが注目されます。個人的な体験ですが、(マルコ福音書講解のその箇所で詳しく述べましたように)マルコの表現が「絶信の信」の消息に入っていく貴重なきっかけになったことを思いますと、マタイの表現は大事なものを見落とすことにならないかと心配されます。
権威についての問答(21・23〜27)
神殿で売り買いする者や両替をする者たちを追い出されたという激しい行為は、神殿を拠り所とする宗教指導者階級を激怒させ、イエスへの殺意を固めさせました。彼らは神殿境内で教え続けるイエスに近寄ってきて、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と詰問します(二一・二三)。イエスがガリラヤで活動しておられる時から、彼らは部下を送って、イエスの言動を監視し、批判し、律法違反を咎めていました。いま神殿で彼らはイエスと直接対決し、最後通牒を突きつけます。この問答について詳しくは、『マルコ福音書講解U』64「イエスの権威」)を参照してください。