第四節 「山上の説教」の終わり
権威ある者
イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。(七・二八〜二九)
「イエスはこれらの言葉を語り終えて」という表現は、マタイがまとめた五つの大きな説教集の終わりに現れ、各説教集の結びとなっています(ここと一一・一、一三・五三、一九・一、二六・一)。このような言葉による結びは、申命記(三一・一、三二・四五〜四七)にも見られ、マタイはユダヤ人読者にこのような聖書の言葉を想起させて、ここにまとめられたイエスの言葉がモーセ律法に対応する新しい啓示の言葉であることを示唆しているのかもしれません。また、イエスがこの言葉を語るために「山に登られた」(五・一)ことと、これらの言葉を語り終えた後「山を下りられた」(八・一)ことを語るのも、モーセが「十の言葉」(十戒)を受けるのに山に登ったことを想起させるためかもしれません。マタイがイエスの語録を五つの大きなグループにまとめたのも、モーセ律法が五書から成っていることに影響された可能性もあります。こういうところに、聖書学者としてのマタイの素養が出てくるのでしょう。 マタイにおけるイエスの語録の大きなグループは以下の五つです。
山上の説教 五章一節〜七章二九節
派遣の説教 九章三五節〜一一章一節
たとえ集 一三章一節〜五二節
集会生活についての指示 一八章一節〜三五節
終末預言 二四章一節〜二五章四六節
「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。(マルコ一・二一〜二二)
マルコでは、一言で悪霊を追い出されたイエスの言葉の権威に驚いたのでした(マルコ一・二七)が、マタイは群集の驚きを、イエスの教えの言葉そのものの権威に対する驚きとしています。律法学者は書かれた律法(モーセ五書)と父祖たちの言い伝えを解釈し直して民衆に教えていました(マタイは「彼らの」律法学者たちと突き放した表現をしていることが注目されます)。それに対して、(マタイの構成では)イエスは「あなたがたも聞いているとおり、昔の人はこう命じられている。しかし、わたしは言っておく」と、自分自身を権威として語り、昔の人が聞かされていたモーセ律法の権威を超えるものであるとされたのですから、モーセ律法を至上の権威としていたユダヤ人には大変な驚きでした。