市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第44講

第三節 二つの家

岩の上の家と砂の上の家

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」。(七・二四〜二七)

 最後に、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」と「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者」が、岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人のたとえで対照されます。たとえの意味は明白です。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」は岩の上に家を建てた人のように「賢い人」と呼ばれ、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者」は砂の上に家を建てた人のように「愚かな人」と呼ばれています。このたとえは真の賢さ、すなわち「知恵」がどこにあるのかを指し示しています。
 イエスは知恵の教師であるという一面があります。イエスの言葉は、わたしたちに人間の本質を認識させ、真実の生き方を教え、幸いを与える知恵の言葉です。しかし、イエスが教えた知恵の言葉も、それを聞いているだけで実際に行うのでなければ、その言葉は私たちの身についた知恵、現実にわたしたちの人生を支える知恵とはなりません。
 イエスの言葉を「行う」というのは、律法とかその他の規範に従う個々の行為をするという意味とは違います。それは「生きる」と訳す方が適当でしょう。イエスの言葉が指し示す道を実際に歩み、自分の思想と人生の全体をイエスの言葉に従って形成することです。その時、私たちの人生はどのような試練や苦難が襲ってきても、それを乗り越える知恵を宿す人生になるのです。それは、これらの言葉が語っていたように、父の慈愛と信実が現実にその人の人生の土台となるからです。その人生は岩の上に建てられたものになります。それに対して、わたしたちがイエスの言葉を聞くだけで生きることをしなければ、わたしたちの人生は、父の慈愛とか信実に関わりなく、わたしたち自身の力に任されてしまいます。人間の弱さを考えると、自分の力と知恵だけに委ねられた人生は脆いものです。それは砂の上に建てられた人生です。
 知恵の教師としてのイエスは、しばしば弟子たちに「わたしを『先生、先生』と呼びながら、どうしてわたしの言うことを行わないのか」(ルカ六・四六)と呼びかけ、そのさいに家を建てる人のたとえを語られたのでしょう。マタイはこのたとえを「山上の説教」の最後に置いて、実際にイエスの言葉に従って生きるように勧告して、この「御国の福音」を締め括るのです。