第六節 明日の糧を今日
明日の糧を今日、わたしたちに与えてください。(私訳)
パンとは何か
「あなたの名、あなたの支配、あなたの意志」についての三つの祈りの後に、「わたしたち」のことを祈り求める三つの祈りが続きます。その祈りの最初に、パンを求める祈りが来ます。イエスが弟子たちに、「父よ、わたしたちにパンを与えてください」と祈るように教えられるとき、どのようなパンを意味しておられるのでしょうか。教会では普通このパンを生活に必要な食物としてのパンと理解して、「日ごとの食物を今日もお与えください」と祈ってきました。はたしてそうでしょうか。語義と文脈の面から吟味しましょう。《エピウーシオス》の意味については、EDNT(新約聖書解釈辞典)は二つの意味を併記するだけで決定していません。TDNT(キッテルの新約聖書神学辞典)は「明日の」という意味を退け、この語を時ではなく量を指示するものとして、「わたしたちが必要とする(量の)パン」と理解しています。新共同訳も採用しているこの理解は、旧約聖書のマナの物語を想起させ、説得的です。しかし、「ナザレ人福音書」のアラム語訳を根拠として「明日の」と理解すべきであるというエレミアス(新約聖書神学T)の主張は、学界にも受け入れられてきているようで、最新のEKK新約聖書註解(ルツ)も「明日のための」という訳を提案しています。なお、ナザレ人福音書の当該箇所については、教文館『聖書外典偽典別巻・補遺U』二六頁の第五断片を見てください。
さらに、ヒエロニムスは「明日のパン」という表現の意味について次のように書いています。「明日という意味の《マハル》によって、ここの意味は、われわれの明日、つまり未来のパンを今日われわれにお与えくださいということになる」。《マハル》は字義の上では「明日」ですが、広く「未来・将来」を指す語であり、信仰の世界では「神の明日」として終末を意味する語です。彼は「主の祈り」のパンを、生活に必要な食物としてのパンではなく、終末時のパン、すなわち終末的な生命に必要なパンと理解していたのでした。パンをこのように終末論的に理解することは、初めの数世紀の間、東方教会でも西方教会でも支配的であったようです。なお、ヒエロニムスのラテン語訳聖書(ローマカトリック教会公認のウルガータ)では、ここは panem supersubstantialem(超実体的なパン)となっています。『ディダケー』によりますと、初期の教会では「主の祈り」は信徒の最も基本的な祈りとして集会の度ごとに祈られていました。集会の中心は「主の食事」であって、パンとぶどう酒による共同の食事をもって、復活された主の臨在と十字架の死による贖い、そして栄光の来臨を言い表したのでした。その信仰告白の場で「主の祈り」が唱えられたのです。「主の食事」での感謝が、食物としてのパンとぶどう酒が与えられていることへの感謝ではなく、パンとぶどう酒が指し示しているキリストへの讃美と感謝であることは明らかですから、そこで祈られるパンも、霊的な糧としてのキリストを指していたと理解できます。ヒエロニムスの「超実体的なパン」という訳語も、こうした古代教会一般の理解を反映しているのでしょう。古代教会の典礼を「主の祈り」解釈の根拠にすることはできませんが、少なくともこの解釈が新奇なものでなく、古代教会以来の伝統的なものであることを示す意味はあると考えられます。
カトリック教会の霊的・比喩的解釈に対抗して、宗教改革は聖書の文字通りの解釈を主張したので、このパンの祈りも宗教改革以来文字通りに物質的なパンを指すと解釈されるようになりました(ツウィングリは霊的解釈に留まりました)。しかし、次の祈りの「負債・借金」は明らかに罪の象徴的表現ですから、パンを文字通りの解釈に限定することはできないはずです。パンの祈りをこのような文脈に置いたのは福音書記者マタイとかルカであって、イエスと弟子たちの状況では、今日の生存に必要なパンを父に求める祈りであったという議論もあります。しかし、この祈りは、何も携えないで巡回して「神の国」を宣べ伝えるように送り出された弟子たちの特別な状況(ルカ一〇・四〜九)を反映するものではないとの指摘もあります(ルツ)。いずれにしてもこの場合、「放浪のラディカリズム」という特別の状況による解釈に限定することは適当でないと考えられ、新約聖書(福音書)が置いている文脈で解釈するのが、現在のわたしたちにとって適切であると思われます。
ただ聖霊を求めて
明日の糧を今日、わたしたちに与えてください。(私訳)
このように語義と文脈からする解釈以上に、「主の祈り」全体の性格からする解釈が重要です。そして、「主の祈り」全体は、イエスの「神の国」宣教の枠組みの中で理解されなければなりません。「主の祈り」は、すでに前半の三つの祈りで見ましたように、終末論的な性格を強くもっていました。それは、イエスの「神の国」宣教が、独自の構造をもつものですが、終末的な性格のものであったからです。イエスの「神の国」は、当時のユダヤ教黙示思想と違い、ただ未来に神の支配の実現を待ち望むのではなく、聖霊によってすでにイエスの中に到来しているゆえに、その現実に生きながらその顕現を強く迫られて待つという構造をもっていました。イエスの宣教においては、終末が現在の中にあり、そのために終末が力あるリアルな未来になっているのです。