第三節 御名が崇められますように
「カデシュ」との関係
「主の祈り」の前半は、「語録資料Q」に伝えられている形を直訳すると次のようになります。
「父よ、あなたの名が聖とされますように、あなたの支配が来ますように」。
この祈りをアラム語でイエスから教えられた弟子たち、また、この祈りをアラム語で祈り伝承した最初期のユダヤ人信徒たちの状況に身をおいて考察しますと、彼らはこの祈りがユダヤ教徒としてシナゴーグで祈り続けてきた「カデシュ」の祈りに他ならないことに直ちに気づいたはずです。シナゴーグではアラム語の説教の後に、「カデシュ」と呼ばれるアラム語の祈りが唱えられました。その最古の形は次のようなものであったとされています(エレミアス)。
「彼(神)の大いなる名が称えられ、聖とされんことを、
彼がその意志によって創った世界において。
彼の王国が支配するように、
汝らの生涯、汝らの日々、
イスラエルのすべての家の生涯の間、
速やかに来たって。
彼の大いなる名が永遠から永遠に称えられんことを。
そして、汝らはアーメンと言え」。
「カデシュ」は、神が王座について支配され、その聖性が顕わとなり讃美されるときが速やかに来るようにという祈りです。これは終末の到来を祈り求める祈りです。終末的な神の支配が到来することは、当時のユダヤ教全体が熱烈に祈り求めていたのです。イエスもユダヤ人の弟子たちも、この「カデシュ」の祈りを当然のこととして、神の支配が到来することを祈り求めてきたのです。ただ、イエスの場合は「神の支配」の内容が独自のものであるので、同じ言葉で祈っていても、その祈りの中身は違ってきます。その違いは、後半の「わたしたち」に関する祈りでも指し示されていますが、イエスの「神の国」宣教の全体から理解されなければなりません。以下、個々の祈りについて、今わたしたちが「キリストにあって」という場で祈るとき、その内容がどのようなものになるのかを見ていきましょう。
神の名
名はことの本質を現す言葉です。神の名とは、神がどのような方であるかを示す言葉の総体です。人間は神の本質を知ることはできませんから、神が御自身を顕わしてくださる範囲内で、わたしたちは神の名を知ることができるのです。「啓示」とは、神が御自身の名を人間に現される出来事であると言えます。
昔は、神はモーセを初めとする預言者たちによって、御自身の名をイスラエルに啓示されました。神はモーセに燃える柴の中から「ヤハウェ」という御名を顕わし、モーセを通してイスラエルに、「わたしはヤハウェ、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記二〇・二)と名のられました。さらに後に、シナイ山でモーセに現れて、「ヤハウェ、ヤハウェ、憐れみ深く恵みに富む神、・・・・罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにおかず・・・・」と「御名を宣言された」のです(出エジプト記三四・四〜七)。
イスラエルはその歴史の栄光と苦難の中で、契約(約束)の言葉を守られるヤハウェの信実と、咎を赦し価値なき民を慈しまれるヤハウェの慈愛こそ、自分たちの存在の根拠であることを体験してきました。それでイスラエルの讃美は、詩編に見られるように、自分たちの神ヤハウェの信実と慈愛への讃美に貫かれるようになります。詩編はイスラエルの祈りです。その祈りはヤハウェの御名への讃美です。自分ではなく、ヤハウェの名だけに依り頼むこと、それがイスラエルの信仰です。
このように御自身の名をイスラエルに啓示された神は、その民に「わたしの聖なる名を汚してはならない」と求められました(レビ二二・三二)。ところが、イスラエルは契約に背き、偶像を拝み血を流して、ヤハウェの「聖なる名を汚した」から、諸国に追い散らされることになります(エゼキエル三六・一六〜二一)。そのイスラエルに対して、神は「清い水」聖霊を注いで清めることによって、「わが大いなる名を聖なるものとする」と約束されます(エゼキエル三六・二二〜二八)。このように、「御名が聖なるものとされる」ことは、本来終末が到来するときに、神御自身が実現される事態であるのです。
イエスの第一の祈りは、「父よ、あなたの名が聖とされますように」という祈りでした。この祈りによって、イエスは神の名が聖とされる終末の時を待望されるだけでなく、御自分の存在を父の名が聖とされるために捧げられるのです。父の慈愛と信実と力が顕わされ伝えられるために、生涯を捧げられるのです。そして、最後に十字架の死に御自身を引き渡されるのも、「父よ、御名があがめられますように」という祈りの表現なのです(ヨハネ一二・二七〜二八)。
主イエス・キリストの名
この十字架にかけられたイエスを復活させることによって、神は最終的に御名を啓示されたのです。復活者キリストがわたしたちの罪のために死なれたことによって、「主イエス・キリスト」という御名は、「罪から贖い(罪の支配から解放し)、死者を復活させる者」としての神を啓示する名となるのです。この「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです(ローマ一〇・一三)。
「主の名を呼び求める」とは、御名が啓示する神に自分を完全に委ねることです。「主イエス・キリスト」という御名は、まず第一に、「ひとり子を賜うほどに世を愛する神」を顕わし、罪の中にいるわたしを無条件で赦し受け入れてくださっている神を示しています。この御名が啓示する神の前に、もはや自分の価値や功績を主張することなく、その方の絶対無条件の恩恵に自分の存在を委ねるわたしたちの在り方を「信仰」というのです。「信仰」とは自分を放棄して御名を呼び求めることなのです。
さらに、この御名は神の絶対的な信実を啓示しています。神はすでにイスラエルの歴史の中で、御自分の言葉を必ず成らせるという信実を示してこられましたが、イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、最終的にその信実を示されました。神の言葉は死にすら妨げられることなく必ず成就するのです。自分の確信とか信念とか忠実とか、総じて「自分の信仰」と思っているものを放棄して、この神の絶対の信実に自分を委ねる行為が「信仰」です。自分の信仰にすら絶して、神の信実だけに委ねる在り方を、わたしは「絶信の信」と呼んでいます。「主の名を呼び求める」とか「あなたの名が聖とされますように」という祈りは、この神の絶対の信実に存在を委ねることなのです。
こうして、「父よ、あなたの名が崇められますように」という第一の祈りは、キリストにあるわたしたちにとっては、自己に絶して、主イエス・キリストの御名に啓示された父の絶対の慈愛と信実に自分を委ねる信仰の告白になるのです。