市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第27講

第三節 祈りについて

 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。

(六・五〜六)


 祈りは信仰生活の生命線です。祈りなくしては信仰生活は成り立ちません。もし祈りが偽りに陥るならば、信仰も空虚なものになるでしょう。その意味で、ここに言われていることは重大です。
 祈りとは本来神への語りかけです。しかし、わたしたちにとっては、祈りは自分の願望を神の前に羅列することではなく、神からの語りかけを待つ場であり、神からの語りかけを受けて、それに応答する場です。その意味で、神とわたしたちの魂の対話です。
 ところが、信仰のもっとも内面的な営みである祈りが、人に見せびらかす行為になっている場合があります。ここでは実例として、ユダヤ教の律法学者やファリサイ派の人々の祈りが取り上げられます。彼らは会堂や大通りの角で「立って祈りたがる」と言われています。会堂では、皆が座っている中で「立って祈る」人は目立ちます。「大通りの角に立って祈る」というのは、ユダヤ教では祈りの時間が決まっていたので、ちょうどその時刻に大通りにいるようにして、人通りの多い街角で立ち止まって祈ったのです。これも人目につくためです。このように、「偽善者」の祈りは神の目ではなく人の目を意識しての祈りであり、人から信心深い人物という評判を得たいからだというのです。
 これはキリスト教会でも同じです。自分の信仰を見せびらかすような長い祈り、人に説教するような祈り、他人をあてこするような祈りがなされます。このような祈りは、神に語りかけるのではなく、人に向かってなされた語りかけにすぎず、神から何も受けることはありません。
 このような「偽善者」の祈りに対して、イエスの弟子は「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と勧められます。ここで「奥まった部屋」と訳されているギリシア語は、農家によくある住居から離れた納屋を指す語です。住居では誰かが一緒にいるから、離れた納屋に入り、戸を閉めて、一人きりになって祈りなさい、という勧めです。なにも納屋でなくてもよいのです。「自分(だけ)の部屋に入り」、人の目を遮断するように「戸を閉めて」、一人きりになって祈れ、ということです。
 こうして、自分を人目から隠すことによって、「隠れたところにおられる父」に祈ることが具体的に実現します。「隠れたところにおられる父」と「隠れたわたし」の対話という祈りの本来の場が成立します。それはイエスの祈りの姿でした。祭司が神殿で犠牲を捧げて祈り、律法学者が会堂で立って祈っているとき、「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」のです(ルカ五・一六)。わたしたちも、「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」のです。
 そのような祈りの場では、ここで「あなたの父」と言われているように、神は「わたしの父」となり、この父と隠れたわたしとの間に、「あなた・わたし」の対話が始まります。そのような祈りの場で「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」ものは、「隠れたわたし」を豊かにするもの、すなわち、信仰と愛と希望、平安と喜びと勇気というような霊の次元の賜物です。
 もちろん、一人きりになって祈れというこの勧めは、信仰を共にする者たちと一緒に祈ることを妨げるものではありません。共同の祈りは、一本の薪より数本の薪の方がよく燃えるように、互いに助け合って祈りを熱くします。しかし、共同の祈りの場でも、ひとり一人の祈りは「隠れたところにおられる父」にひとり対して祈る祈りでなければならず、そのような祈りの生活が土台として背後になければなりません。

 マタイが構成した「御国の福音」(五〜七章)、とくにこの三つの勧告(六・一〜一八)で、神は当然のように「父」と呼ばれています。しかし、これは当たり前のことではなく、イエスから始まった新しい神との関わりを示す重要な指標です。神を「父」と呼ぶことはまさに、イエスの「御国の福音」の重要な内容そのものであるのです。このことの意義については、次章の「主の祈り」の講解のさいに、改めて詳しく触れることにします。

 「隠れたところにおられる父」という表現は、ここでは祈りが人前に目立たない隠れたものになるために、祈りが向かうべき方向を指し示すためだけに用いられています。しかし、この表現は、聖書に親しんでいる者に、預言者イザヤの言葉を思い起こさせます。

 「まことにあなたは御自分を隠される神
  イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる」。(イザヤ四五・一五)

この言葉は、捕囚期の預言者(第二イザヤ)が、神の民イスラエルの捕囚とか異教の支配者キュロスによる解放という理解しがたい歴史の謎に直面して、イスラエルの救い主なる神はいま歴史の暗闇の中に御自分を隠しておられると感じたところから出ています。ところが、この言葉は改革者ルターが、イザヤ書のこの箇所のラテン語訳「隠された神」(deus absconditus)を用いて、十字架の裁きという神の怒りの中に神の愛による救いが隠されているという形で福音の中心を語ったことにより、神学上きわめて重要な意味を持つようになりました。たしかに、神の救いの奥義は自然や歴史の中に見える形で顕わされてはいません。神は「御自分を隠される神」です。もしわたしたちがその隠された奥義を知ることができるとすれば、「あなた・わたし」の隠れた場での祈りにおいて、御霊の働きとして「隠れたわたし」に「隠れたことを見ておられる神が報いてくださる」以外にはないのです。これが、わたしたちが隠れたところで祈る必要がある最大の理由です。