第四章 隠れたところで
第一節 対立勧告
マタイにとって「神の支配」(マタイはそれを「天の国」と呼んでいます)は義の王国、すなわち義なる者だけが入ることが許される王国です。しかも、その義は律法学者やファリサイ派の人々の義の程度では駄目で、それにまさる義でなければならないのです。マタイははっきり宣言します。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。(五・二〇)
そして、イエスと共に「天の国」に入るのに必要な義を、律法学者やファリサイ派の人々の義と対照して、まず六つの「対立命題」の形で述べます(五・二一〜四八)。ここで扱われた義は、おもに社会的な関係における「義」、すなわち人との関わりの中でイエスの弟子が示すべき正しい生き方のことでした。「見てもらおうとして、自分の義を人の前で行うことのないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」。(六・一 一部私訳)
新共同訳はこの節の《ディカイオシュネー》を「善行」と訳していますが、この訳語では、施し、祈り、断食を扱うこの部分(六・一〜一八)が、先行する六つの「対立命題」と並んで、「律法学者やファリサイ派の人々にまさる義」を扱っているという、主題の一貫性が曖昧になります。ここは協会訳のように「義」と訳す方が、マタイの論旨を理解するのに適切です。
このように前置きした上で、マタイは施し、祈り、断食という代表的な敬虔のわざについて、人の目に目立つようにしないことを、ユダヤ教での仕方と対比して勧告します。それぞれの勧告の構成は共通しています。この共通の構成は、祈りについての部分においては、「主の祈り」に関連する教え(六・七〜一五)が加えられていることで破られています。この部分を除くと、三つの勧告はきわめて明確な共通の構成と主題を見せています。それで、本章では「主の祈り」に関する部分を外して、三つの勧告の共通の主題に集中し、「主の祈り」に関する部分については(その重要性も考慮して)次章で別に扱うことにします。
三つの勧告は、先の六つの「対立命題」と同じく、ユダヤ教の宗教的実践と対比して、イエスの弟子が行うべき宗教的実践の在り方を勧告しています。先の六つの「対立命題」が、状況や報酬には言及しないで、断言的に「あなたがたは・・・・しなさい」と命じていたのに対して、ここの三つの勧告は、「そうすれば、父は報いてくださる」と条件付きで報償を約束して勧めていますので、先の「対立命題」とは一応区別して、仮に「対立勧告」と呼んでおきます。先の六つの「対立命題」もここの三つの「対立勧告」も共に、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」を主題としていることで一貫しています。この箇所(六・一〜一八)では、「主の祈り」を別にして、マタイが「語録資料Q」を用いていないことが目立ちます。マタイは、序論で見ましたように、「語録資料Q」を奉じる流れにいる指導的なユダヤ人キリスト教学者であり、彼の「御国の福音」(マタイ五〜七章)はおもに「語録資料Q」の素材をもって構成されています。ところが、この箇所ではマタイは「語録資料Q」を用いていません。それで、この箇所の素材がどのような伝承とか資料に由来しているのか、議論が絶えません。このようなマタイ特有の素材については、その由来を確定することはきわめて難しいことでしょう。問題は、この箇所の言葉がどこまでイエスに遡りうるかです。たしかに、編集と構成はマタイによるものです。しかし、「語録資料Q」に属していないからといって、イエスの言葉ではないと断定できません。「右の手のすることを左の手に知らすな」とか、「頭に油をつけ、顔を洗え」というような言葉使いは、霊的な事柄を具体的な表象で端的に語り出されるイエスの語り方を思い起こさせます。要は、マタイが理解し伝えたイエスの教えの精神を、どれだけ忠実に現在の状況に生かすかが問題です。