第二章 幸いの言葉
第一節 マタイの視点と構成
二つのテキスト
イエスの「御国の福音」は、「幸いである」という宣言によって始まります。神の国を告げ知らせるイエスの福音の冒頭には、《マカリオス》(幸いだ)という言葉が、壮大なドラマの開幕を告げ、新しい時代の到来を知らせるファンファーレのように、九回も続けて鳴り響いています。
この「幸いである」という宣言が誰に向かって語られたものであるかは、前章で詳しく触れました。「貧しい人々は幸いである、神の国はそのような人たちのものである」というイエスの言葉を標題のようにして、おそらく様々な機会に語られたイエスの「幸いである」というお言葉を、マタイはまとめて「御国の福音」の冒頭に置くのです。
まず、マタイ福音書五章にあるテキストを掲げておきます。講解で触れるさいの便宜上、それぞれの「幸い」の言葉に番号をつけておきます。(テキストは、三節の「心」を「霊」とした以外は、新共同訳をそのまま用います。)
マタイのテキストの特色を理解するために、並行するルカのテキスト(六章二〇〜二六節)をその後にあげておきます。
マタイ福音書(五章三〜一二節)
一 霊の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。(三節)
二 悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。(四節)
三 柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。(五節)
四 義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。(六節)
五 憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。(七節)
六 心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。(八節)
七 平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。(九節)
八 義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。(一〇節)
九 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。(一一節)
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(一二節)
ルカ福音書(六章二〇〜二六節)
貧しい人々は幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。
マタイの視点とルカの視点
マタイとルカを比較すると、その違いからそれぞれの編集方針や視点が見えてきます。もちろん、「貧しい者」の幸いを宣言するという基本的な内容は同じですが、著作の状況と動機から、構成と用語には違いが出てきています。
マタイの「幸い」の言葉でルカと共通しているのは、第一、第二、第四の言葉と、第九です。この四つの言葉は、マタイとルカが用いた共通の資料である「語録資料Q」に含まれていたと見られますが、他はマタイとルカがそれぞれ固有の伝承から取り入れるか、自身で構成したと考えられます。
共通している第一、第二、第四の言葉も、マタイとルカでは違いがあります。第一の言葉の「霊の」や、第四の言葉の「義に」は、マタイ特有の解釈から出た付加であると認められます。また、ルカだけにある「今」という語も、マタイがQから削除したと考えるよりは、ルカが付け加えたと考える方が自然です。それで、おそらくQ文書には、次のような形で記録されていたと推定されています。
貧しい人々は幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
この形がイエスが語られた元のお言葉にもっとも近いのではないかと見られます。ただ、イエスは預言者的に「あなたがた」という二人称で語りかけられたのか、知恵の言葉では普通の「その人たち」という三人称で語られたのかは議論があります。
マタイとルカの現在のテキストの形を、資料として用いた「語録資料Q」の形と比較しますと、ルカは貧しい者と富める者との対比、さらに現在と来るべき時代とでの両者の立場の無条件の逆転を強調しています。それに対してマタイは、「慰められる」とか「満たされる」という第二句の動詞に未来形を用いることで終末的な逆転という面を残してはいますが、全体の構成からすると、神の国に入ろうとする者の現在の在り方を教えようとする傾向が見られます。この視点の違いは、ルカがとくに異邦人を意識して外の人々に福音を伝えようとしているの対して、マタイはすでに洗礼を受けて教団に入っているユダヤ人に義の道を教えようとしている、という違いから来るものと考えられます。
ルカが貧しい者と富める者について語っている言葉は、普通の社会生活を体験している者であれば誰でも理解できる言葉で語られていて、聖書の知識を前提にしていません。それに対してマタイでは、聖書の用語や考え方が前提となっていて、とくにマタイだけにある「幸い」の句では、詩編や預言書や知恵文学からの引用や構成が目立っています。この点からも、ルカが外の異邦人に語りかけようとしているのに対して、マタイは共同体内部のユダヤ人に語りかけていることが分かります。
このマタイの特殊な立場は、わたしたちが現在マタイの「幸いの言葉」をどのように理解し受け取るべきかを考えるさいに、心にとどめておくべき重要な点の一つであると思います。
マタイの構成
マタイの「幸いの言葉」の構成を見ますと、第一から第八までが一連のまとまりをなし、第九は枠の外の特別の位置に置かれていることが、一見してすぐに分かります。第一から第八は、同じような詩形で語られいるだけでなく、最初と最後(三節と一〇節)に置かれた、「天の国はその人たちのものである」という同じ言葉で枠をはめられています。
その八つの「幸いの言葉」は、前半の四つと後半の四つの二部に分けられます。このことは、キリスト教会の長い歴史の中でしばしば現れた解釈のように、前半の四つは神の国を受ける者の「在り方」、すなわち何も持っていないという窮乏と待望の姿が語られているのに対して、後半の四つは、神の恵みを受けた者が示す姿や行為が話題になっている、という内容の違いから説明されます。さらに、前半四つの言葉に用いられている「貧しい者」、「悲しむ者」、「柔和な者」、「飢え渇く者」という単語が、ギリシア語ではみな同じ「パイ」の文字で始まるという事実も、マタイがかなり意識してこの四つの言葉を一まとまりとしていたことをうかがわせます。