市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第22講

Y 主の祈り

第三講 御国が来ますように

神の支配の到来

 「父よ、あなたの支配が到来しますように!」。

 イエスはその生涯をこの祈りによって貫かれた。この祈りがイエスの活動一切の源泉であった。十字架の死に至るイエスの生涯全体がこの祈りの表現、いやこの祈りそのものであると言ってよい。
 イエスはご自身の使命をこのように語っておられる、「わたしは他の町々にも神の支配を福音しなければならない。わたしはそのために遣わされたのである」(ルカ福音書四・四三私訳)。普通神の「国」と訳されている原語《バシレイア》は、《バシレウス》(王)の支配を意味する語であって、領土よりはむしろ支配権力・支配関係を指している。したがって、「神のバシレイア」とは神が王として支配される現実を指すわけで、「神の支配」と訳すほうが適切であろう。また「福音する」と訳した動詞《エウアンゲリゾー》は《エウアンゲリオン》(福音)という名詞の動詞形である。それに相当する日本語の動詞はないので、福音という名詞を動詞として用いて「福音する」と訳しておく。
 さて、「神の支配を福音する」とは、神の支配について観察者の立場で語ったり講義したりすることではない。みずから神の支配の中に生き、自分の中に現実に神の支配を宿し、それを身を以て現していくことである。イエスは聖霊をお受けになった時、終わりの日に地上に実現すると予言され約束されていた「神の支配」がご自身の中に来たことを体験された。それは恩恵の場における聖霊による神と人との全き交わりであり、そこでは神は父としてご自身の全容を顕し、イエスは子として無の場でそれをお受けになっているのである。イエスの宣教はすべてここから発する。イエスの中に来ている「神の支配」の現実がイエスの言葉や業に溢れ出ているのである。
 ガリラヤで宣教を始められた時、イエスはまず故郷のナザレの会堂で、「主の御霊が私に宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」という預言者イザヤの書を読み、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と宣言された(ルカ四・一六〜三〇)。「わたしがそれである」という宣言である。自分たちがよく知っている大工ヨセフの子が、「わたしこそ終わりの日の神の救いの予言を成就する者である」と宣言しているのである。この宣言の意外さと重大さは、これを聞いた人たちが憤激してイエスを殺そうとしたことからも窺われる。
 学者は批判し人々は殺そうとしたが、イエスの中に来ている神の支配は隠れていることはなかった。イエスは病人を癒し、悪霊を追い出し、そして批判者に言われた、「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の支配はすでにあなたがたのところに来たのである」(マタイ一二・二八)。イエスの中に神の支配が来ている!
 イエスが病気を癒し悪霊を追い出すなどの力ある業をされるのは、この事実の現れ、そのしるしである。それは、今まで人間を支配してきた神に敵対する諸力(その頭がサタンである)が打ち破られ、神が恵みによって支配される時が到来したことを指し示している。獄中のヨハネからつかわされて、「来るべき者はあなたですか。それとも、ほかに誰かを待つべきでしょうか」と訊ねた者たちに、イエスはこう言われた、

 「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者はさいわいである」。 (マタイ一一・五〜六)

 時は満ちた! 花婿はすでに来ている。収穫の時が来ている。畑は色ずき、三十倍、六十倍、百倍の実をつけている。新しい葡萄酒を新しい皮袋に入れるべき時が来た。イエスは多くの譬で、神の支配が到来しているという奥義を語っておられる。しかし、多くの人たちは見れども見ず、聞けども聞かず、この奥義を悟らなかったのである。自分の中に実現している神の支配と、その奥義を悟ることなく神の支配を拒み続ける世界、この両方の現実に生きるイエスは「父よ、あなたの支配が到来しますように!」と祈らざるをえなかったのである。

神の支配の切迫

 「父よ、あなたの支配が到来しますように!」

 イエスはご自身の中に神の支配が来ている故にこの祈りを切に祈られた。人間の論理は言う、「すでに来ているものであれば、どうしてその到来を祈り求める必要があろうか。まだ来ていないから、その到来を祈り求めるのではないか」。しかし、御霊の論理は異なる。自分の中に神の支配が来る時はじめて、この祈りを真に祈ることができるようになる。また祈らないではおれないようになる。
 イエスの神の国の宣教には、今にも神の最終的な審判が行われ、神の支配が顕現するという緊迫感がある。当時のユダヤの民の間には、神が預言者により先祖たちに約束してこられた「神の支配」の実現、すなわち終わりの日の到来が差し迫っているという期待が熱く燃えていた。バプテスマのヨハネが荒野に現れて、「神の支配が迫っている!」と叫んだ時、多くの群衆が彼のところにきてバプテスマを受け、「神の支配」の顕現に備えたのであった。イエスも宣教活動の初期においてはヨハネと共に、このような神の支配の切迫した接近を宣べ伝えておられる。
 このような切迫した終末待望は様々な形をとったが、とくに黙示録的な文書が多く流布したことがこの時代を特色づけている。すでに旧約正典中のダニエル書が実例を示しているように、黙示録的諸文書においては、反神的な諸力が支配する現在の古い《アイオーン》(世界時代)は宇宙的な破局をもって終わり、神が支配される新しい《アイオーン》が到来することが、謎めいた象徴的言語で語られている。イエスも神の支配の接近を語るのに、時代の用語である黙示録的言語を用いられた。とくに、新しい《アイオーン》を世界にもたらす人物としてダニエル書やエノク書で描かれている「人の子」は、イエスの神の国の宣教において重要な意味を持っている。イエスは御自身をこの「人の子」とされ、神の支配が到来する日を「人の子が顕れる日」として語られた。イエスが差し迫っている神の支配の到来を黙示録的用語で語っておられる典型的な所が、福音書の中に二箇所ある。一つはルカ福音書一七・二〇〜三七であり、もう一つは「マルコの黙示録」(マルコ一三・一〜三七と並行記事)であるが、両者とも思いがけない時に「人の子」が大いなる栄光をもって顕れることが中心になっている。
 このように、イエスは時代の終末待望を共にされ、それを時代の用語である黙示録的言語で語られたのであるが、イエスにはその時代の終末待望と根本的に異なる点がある。それは、イエスにおいては終末的事態である「神の支配」が現在すでに御自身の中に来ており、その現実から未来の顕現が確かさを得ている、という点である。イエスにおいては、終末が現在となっており、現在が終末をリアルな終末にしている。現在すでに神の支配が自分の中に来ているのでなければ、「この悲惨な世界に早く神の支配が実現すればよいのになあ」という願望を持つことはできるが、世界に向かって「神の支配が迫っている。神の支配に入るために、現在の生き方を徹底的に変えよ」と告白し宣べ伝えることはできない。イエスが「神の支配が迫っている」と未来のことを宣べ伝えられる時、その言葉に現実的な力があるのはイエスの中にすでにその終末的な事態が来ているからである。
 イエスはすでに聖霊により神の支配の現実を内に宿しておられたので、神の支配が顕現する日をごく近い確実な未来と受け止めておられたことが、そのお言葉から窺える。イエスは弟子たちを派遣される時、「『神の支配は近づいた』と言え」と命じられたが、その際「よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終わらないうちに、人の子は来るであろう」と言っておられる(マタイ一〇・二三)。また、御自身の死を予言された時、「よく聞いておくがよい。神の支配が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」と言っておられる(マルコ九・一)。イエスは、神の支配が到来するには自分が死ななければならないことを知っておられたが、その後弟子たちの存命中に「人の子」が来て、「神の支配」が力をもって到来することを語っておられるのである。たしかに、この予言は黙示録的な意味では実現しなかった。しかし、イエスが復活された後、弟子たちは聖霊の注ぎを受けて、終末的な「神の支配」が自分たちの中に来るのを体験したのであった。
 聖霊によって自分が神の支配の中にいる時、この世界と時代がいかに深く神の支配に逆らっているかが見えてくる。人間は神の支配の中に入ることによって初めて自分を滅ぼす力から救われる者であるのに、自己の支配を守ろうとして神の支配に逆らって止まないのである。人間のこの傲慢は本性的なものであって癒し難い。神の支配が実現するには、恩恵による神の力強い働きに待つほかない。神の支配の中にいる者は、神の支配の実現を求めて祈らないではおれないのである。
 イエスは御自身の中に来ている神の支配の現実を力ある業によって示し、教えの言葉や多くの譬をもって語り教えていかれたのであるが、最終的には神に逆らって止まない人間の本性的な罪が取り除かれなければ神の支配は実現しないことを見据えておられた。そして聖霊によって「主の僕」として召された時から、御自身がこの世の罪を負ってそれを取り除く「神の小羊」と定められていることを受け止めておられた。このような「主の僕」としての歩みの中で、神の支配の到来を求めるイエスの祈りは、世の罪のために御自身の命を捧げる道、十字架の道とならざるをえなかったのである。イエスは文字通りこの祈りに命を懸けられた。十字架はイエスの「父よ、あなたの支配が到来しますように!」という祈りそのものなのである。

主イエスよ、来たりたまえ

 「父よ、あなたの支配が到来しますように!」

 今われわれもキリストにあってこう祈る。それは、われわれもキリストにあって聖霊を受け、イエスと同質の「神の支配」の中にいるからである。われわれはいくら自らを清くしても、直接神の霊を受ける資格はない。ただキリストにあって、すなわち自分の罪のために十字架され、復活して今も生きて働きたもうキリストを信じ、このキリストに自分の全存在を委ね、この方と結ばれて生きる時、神に叛いて止まない自我はキリストと共に十字架されて打ち砕かれ、「父の約束」である聖霊を受けることができる。この聖霊によって我々の内に実現する父との交わりこそ、イエスが語っておられた「神の支配」に他ならない。
 使徒たちが復活されたキリストの福音を宣べ伝えた時、「主イエス・キリスト」が前面に出て、「神の支配」《バシレイア》という表現は背後に退いている。使徒パウロもキリストにある者の現実を語る時、「神の支配」という表現はほとんど用いない。しかし《バシレイン》(王として支配する)という動詞を用いて、同じ現実を語っている。ローマ人への手紙五章(一二〜二一節)で、パウロはアダムにある人間、すなわち生まれながらの人間と、キリストにある人間とを対比している。アダムにあって、すなわち生まれながらの本性のままに生きる場では、「死が支配する」のである。キリストにあって初めて溢れるばかりの恩恵と義の賜物を受け、「命にあって力強く支配する」ようになる。「罪が死によって支配したように、恩恵もまた義によって支配し、われらの主イエス・キリストにより、永遠の命を得させるためである」(二一節)。
 「神の支配」とは「恩恵の支配」である。キリストにあっては、神の無条件の恩恵が溢れみなぎり、人間の罪科と悲惨を包み込み、頑なな反抗を打ち砕き、一切を圧倒する勢いで押し迫っている。キリストにあって聖霊を受けるとは、このような圧倒的な神の愛、神の恩恵を体験することである。このような恩恵の支配の下でのみ、償う方法もない罪の負債をかかえて破産している人間が義の賜物を受けて、罪の支配から解放され、神の子とされて父との交わりに入ることができるのである。
 キリストにあって聖霊により神の恩恵の支配の中に入ってみると、世界がいかに深く神の恩恵に逆らっているかが見えてくる。自分にいのちを与える神の恩恵に、人間本性はどうしてこれほど執拗に逆らうのであろうか、恐ろしく感じられる。キリストにある者は、「父よ、あなたの恩恵の支配が到来しますように!」と祈らないではおれない。神の恩恵が支配するためには福音が宣べ伝えられ、信じる者に聖霊が注がれる以外に道はない。我々の福音宣教活動はこの祈りの表現であり、実践である。
 我々の最後の敵は死である。現在は死がすべての人を支配している。しかし神はイエスを死人の中から復活させて、神の支配は死の支配を打ち破るものであることを示された。イエスの復活において新しい時代《アイオーン》が始まっている。終末《ト・エスカトン》が世界に突入してきている。それは今、人間の悲惨な歴史の中に隠されて来ている。しかし隠されているもので顕れないものはない。それが全容を現す時、神の支配が顕現する。そこでは死の支配は打ち破られ、神に属するものすべてが復活の栄光の中に顕れる。
 今キリストを信じて聖霊を受ける者は、イエスを死人の中から復活させた命、来るべき世の命に与っているのである。しかし、その命は今この朽ちるべき体の中に宿り、死の暗闇の中に隠されている。その命は暗闇の中で呻きながら、この死すべき体があがなわれること、すなわち来るべき世の命にふさわしい霊の体、復活の体が与えられることを待ち望んでいる。この呻きがキリストにある者を祈らせる、
  「父よ、あなたの支配が到来しますように!
   死の支配が打ち破られ、
   復活の栄光が顕されますように!
   その栄光の中に全宇宙が完成しますように!」。
 我々は「死人が復活する時が来ますように!」と祈る。いったい誰がこのような途方もない祈りを自分の全存在をかけて祈ることができようか。そのような祈りを現実に人生の目標とすることができようか。それは聖霊によってイエスを復活させた命を今現に内に宿している者だけである。終末を現に生きている者だけが、終末の到来を真実に祈り待ち望むことができる。そして時間の中で現に終末を生きている者は、終末の到来・顕現を切に祈り求めないではおられないのである。
 我々キリストに属する者は、「主イエスよ、来たりたまえ!」と祈る。復活して全世界の主《キュリオス》と立てられたイエスは、今は「我々は彼が王となることを望まない」という世界の不信の中に隠されているが、やがて必ず主としての栄光の中に顕れ給う時が来る。これを聖書はキリストの「来臨」とか「顕現」と呼び、教会は「再臨」と呼んで待ち望んでいる。その時こそ、キリストにおいてすでに到来している終末が顕現する時、死人が復活して死の支配が打ち破られる時、神の支配が完全に実現する時である。
 主イエスは言われる、「見よ、わたしはすぐに来る」。その御約束に応えて我々は祈る、「主イエスよ、来たりたまえ!」。我々キリストにある者においては、この祈りが「父よ、あなたの支配が到来しますように!」という祈りと重なり一つとなって、死の体の中で呻いている自分の救いの顕現を、そして全世界、全宇宙の完成を祈る祈りとなる。
(天旅 一九八七年3号)