市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第14講

X 福音書ところどころ

2 貧しい者は幸いである

20 あなたがた貧しい人たちはさいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
21 あなたがたいま飢えている人たちはさいわいだ。
   飽き足りるようになるからである。
 あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
   22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、
   ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。23 その日には
   喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。
   彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。

24 しかしあなたがた富んでいる人たちはわざわいだ。
   慰めを受けてしまっているからである。
25 あなたがた今満腹している人たちはわざわいだ。飢えるようになるからである。
 あなたがた今笑っている人たちはわざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
   26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。
   彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。

(ルカ福音書 六章二〇〜二六節)

逆転の時

 イエスが神の国の祝福を述べられた言葉がルカ福音書(六章二〇〜二六節)とマタイ福音書(五章三〜一二節)の両方に伝えられています。ルカ福音書の祝福の言葉は、マタイ福音書の祝福に比べると、非常に対比がはっきりしています。貧しい者と富める者、幸いだと言われている人とわざわいだと言われている人の対比がはっきりしています。今日はこの対比を手がかりにしてルカ福音書の祝福の言葉の内容を見ていきたいと思います。
 この「幸い」と「わざわい」の対比は四つの組になって述べられています。まず最初に二〇節の「貧しい人たちはさいわいだ」に対して、二四節の「あなたがた富んでいる人たちはわざわいだ」、これが第一の組です。次に二一節の「いま飢えている人たちはさいわいだ」に対して、二五節の「いま満腹している人たちはわざわいだ」が一組になっています。第三番目に二一節の「いま泣いている人たちはさいわいだ」に対して、二五節の「いま笑っている人たちはわざわいだ」。四番目に二二〜二三節の「人々があなたがたを憎むときはさいわいだ」に対して、二六節の「人が皆あなたがたをほめるときはわざわいだ」が来ます。形から見て第四番目がそれ以外と少し違った文体になっていることに気がつきます。一番目から三番目までは整った詩的な形式をとって対比されていますが、四番目の対比はやや散文的で、詳しい説明がついた表現になっています。形だけでなく内容的にも初めの三組と四番目には違いがあるのではないかと思います。
 最初の組の「貧しい人」と「富んでいる人」というのは総括的な表現であって、それに続く二番目と三番目の「飢えている人」と「泣いている人」は、「貧しい人」の内容をさらに具体的に説明する表現だと思われます。「富んでいる人」も「満腹している人」と「笑っている人」というように具体的に説明されています。それにともなって、その人たちが将来どうなるかという描写も、表現の仕方が違います。その意味で最初の組は総括的な原則の呈示です。「貧しい人たちはさいわいである、神の国はあなたがたのものである」というのは、現在形で原則を呈示しています。貧しい人がさいわいであるのは、この世で受ける分がない彼らこそ、神の国を受けるからです。反対に、「富んでいる人はわざわいである」のは、彼らはこの世ですでに報いを受けてしまっているので、神の国において受ける報いの分はないからです。それに続く二組は「貧しい人」と「富んでいる人」のさらに詳しい具体的な描写であり、それに将来彼らが受けるものが述べられます。「いま〜である人」と現在の姿を述べ、そして「〜ようになるからである」と将来受けるべき分が述べられています。「いま飢えている人は将来飽き足りるようになる、いま泣いている人は将来笑うようになる、いま満腹している人は将来飢えるようになる、いま笑っている人は将来悲しみ泣くようになる」と言っています。
 いまの状態と将来の状態が全く逆転するということが端的に表現されています。ではその逆転はいつ起こるのか。こういう言葉を聴いて、その逆転を待ち望むことは、特に貧しい者、虐げられた者の当然の希望であります。民衆の多くは、それが地上ですぐに起こる逆転であることを期待したでしょう。いま自分はこんなに貧しく、虐げられて、辛い思いをして生きている。そういうわたしたちが本当に恵まれ満たされて、喜んで生きるようになる。それに対して、いま傲り誇っている金持ちたちが貧乏になり、飢え、泣き悲しむようになればよいという期待は充分にあったと思います。そして、政治的な革命によって社会の階層がひっくり返り、考え方も社会の仕組みも激変して、価値が逆転するということが実際に起こり得るのです。貧しい人たちがそれを期待するのも当然であり、またそういう変革を願って武力に訴えてそれを成し遂げようとする運動もありました。
 では、主イエスが考えておられる逆転はどういうことなのか、それを主ご自身の言葉から見ていきたいと思います。マタイ福音書一九章に、金持ちの青年が永遠の命を受けるにはどうしたらよいのでしょうかと尋ねたとき、主が答えて、「すべてのものを施してわたしに従ってきなさい」と言われ、金持ちの青年はそれができないので悲しんで帰っていったという物語があります。その後弟子たちが、「一体それでは誰が救われることができましょうか」と聞いたのに対して、主が「財産のある者が神の国に入るよりはらくだが針の穴を通るほうがやさしい」と答えられました。弟子たちは「わたしたちはすべてを捨ててあなたに従ってきました」と言ったのに対して、イエスが答えられました。

 「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。おおよそわたしの名のために家、兄弟、姉妹、父、母、子もしくは畑を捨てた者はその幾倍をも受け、また永遠の命を受けつぐであろう」。(マタイ一九・二八〜二九)

 ここではっきりとイエスが語っておられるように、なにもかも捨てて無一物になってイエスに従ってきた者が栄光の位に座する、イスラエルの十二の部族をさばく、永遠の命を受けるのです。そして、そういう逆転が起こるのは、人の子が栄光の座に着く時、すなわち世が改まる時であります。「世が改まる」というのは「この世」が過ぎ去って「来るべき世」になるという極めて終末的な内容です。「人の子」というのも終末的な人物です。この地上の歴史が終局を迎えて、この時間の中に推移してきた歴史が断ち切られ、あるいは完成されて、もはや時間を超えた永遠の神の支配が人類に臨む時です。これは歴史を超えていますから、われわれの知恵や理解ではもう表現できない世界になってきます。この時に逆転が起こるのです。
 本当にこの地上で変革が起こって、今まで苦しんでいた人たちが慰めを受けたり祝福を受けたり良い境遇に変化したりしましても、なおそれは部分的、一時的であります。イエスが言っておられる神の国、それは最終的には復活という形で完成するということが明らかにされた今は、この神の国の栄光に与るのは地上のいかなる価値もそれには充分ではないことが理解できます。聖書的な表現を使えば、「血肉は神の国を継ぐことはできない」のです。人間の本来の能力はいかに優れたものであっても、神の国を継ぐことはできないということがここでも明確にされています。

「神の国」と復活

 ところで、イエスは「神の国」の福音を宣べ伝えられましたが、イエスの復活後、弟子たちが世界に福音を宣べ伝えたとき、それは十字架と復活の福音でありました。その福音の内容は、神の子イエス・キリストがわれわれの罪のために十字架について死なれたこと、われわれの復活が可能になるためにキリストが初穂として復活されたということ、この二点に尽きると言ってもいいと思います。使徒たちの宣教活動では、「神の国」という表現はほとんど用いられなくなっていて、「キリストを宣べ伝えた」と書かれています。キリストを宣べ伝えたということは、キリストの死がわれわれの贖罪であるという事実と、キリストの復活がわれわれの復活の保証であるということ、そういう内容がこめられています。イエスは「神の国」を宣べ伝え、使徒たちは「キリスト」を宣べ伝えたのですが、これは別のものではありません。イエスの神の国においてはなお隠されていた現実が、使徒たちのキリストの宣教においてあらわになったのだと言えると思います。イエスの聴衆はまだ譬でしか聴くことができませんでした。イエスの言葉の多くは聴衆にとってまだ謎でした(譬と謎はアラム語では同じ用語です)。イエスご自身が最後に、「もはや譬ではなく、あからさまに父のことを語り聴かせる時がくる」と言われたように、キリストの福音において、父が成し遂げてくださった救いがあらわにわたしたちに語り告げられているのです。従って、イエスが語られた神の国、天の国、永遠の命という言葉の内容を、今のわたしたちはキリストの十字架と復活におけるわれわれの救いと理解して読むことができるのです。              
 福音書のイエスの言葉は、ペテロを代表とする弟子たちが、イエスから聴いていた教えの言葉を、イエスの復活の後に繰り返して人々に語り聞かせ、それを聴いた人たちが大切に保存してまた次の人たちに語り伝えるという形で伝承されていったのです。弟子たちは主イエスのお言葉に対してきわめて忠実でしたから、その言葉をできるだけ正確にそのまま語り、またそれを聴いた人たちもそのまま伝えてきました。ですから、今わたしたちが福音書の中で読んでいる言葉は、驚くほど忠実にイエスの言葉を伝えていると思います。そのように言葉においては忠実に伝えられていますが、その言葉を伝えていく伝承の担い手の信仰はどうかというと、すでにキリストが十字架につかれ、復活されたという事実を聴いているし、また聖霊によってこのキリストの救いを自ら体験しています。そういう人たちが福音書にある言葉を伝えていったと考えるとき、彼らはすでに神の国に関わるイエスの言葉を十字架・復活のキリストの立場で理解することをしていたはずです。
 このように、イエスの「神の国」を十字架と復活の福音から理解しますと、この祝福の言葉はこう読むことができると思います。「貧しい人はさいわいである、復活はあなたがたのものであるから」と。そういうふうに受けとめますと、さいわいということが具体的に実感されるようになるのではないかと思います。なぜさいわいなのか、それは復活という人間にとって最終的な栄光がその人たちに与えられるからです。それが神の支配の原則だから、ということになるとこの祝福の内容が非常にはっきりとしてきます。

貧しい者とは誰か

 ではそのように復活という大きな約束を与えられている「貧しい者」というのは一体どういう者か。それはここの文脈からだけでなく、イエスの宣教活動全体から見なくてはなりません。イエスはどういう人々を貧しい者と扱っておられるのでしょうか。もちろん貧しい者という言葉の意味は貧乏で資産もなく生活にも困っている人を意味することは当然ですが、そのような貧しい人と、これから見ていきます復活が約束されている貧しい人とはある意味では非常に深く重なっています。重なっていますけれども、この貧しい者というのが経済的な意味で貧乏な者という意味だけでないこともまた大切な点であります。聖書で「貧しい者」というとき、特に主イエスが「貧しい者」という言葉を使われるときには、旧約のとくに預言者たちが貧しい者をどう理解してきたかが大切です。そういう伝統の中でイエスはこの貧しい者を使っておられるのですから。預言者たちは、イスラエルの人たちが多くの供え物をして神を拝んでいることに対して、そういうものを神は求めておられるのではない、公義を行うことを求めておられる、力のある者がその力にまかせて貧しい力のない者を虐げ、搾取することがいちばん神の憎まれる不義だということを指摘しました。
 そういう不義が支配する人間社会の中に、神は義をもってその救いを行われるというのが預言者たちの告知であります。ですから、神の義は必ずそういう虐げられている貧しい人をその虐げから解放するという形で実現します。それを最もよく表現しているのがイザヤの言葉です。これは主イエスがご自分の生涯の働きの基礎にされた大事な言葉ですから見ておきます。

 「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心をいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえてさんびの衣を与えさせるためである。こうして彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる」。(イザヤ六一・一〜三)

 神がメシヤ、油注がれた者をこの世界に遣わして救いのわざをなさるとき、それは貧しい者に救いの福音を宣べ伝えさせるためであると言われ、その具体的な内容が述べられています。イエスご自身は聖霊を受け、荒野の試みを経て、聖霊の力に満ち溢れてガリラヤに現れて福音を宣べ伝えられたときに、このイザヤの言葉を引用されて、「この言葉はいまあなたがたが聴いているこの日に成就した」と宣言されました。イエスはご自分の神の国の宣教をこの預言の実現と受け取っておられたのです。貧しい人たちに福音を宣べ伝えることだとしておられたのです。ですから、イエスが「貧しい人」と言われるのは、預言者たちが見ていた「貧しい人」ということになります。力ある人に抑圧されて、みずからどうしようもない状況に陥って、ただ神の解放のわざ、救いのわざだけを待ち望むことしかできない、そういう人たちです。そういう人たちに、神がいま立ち上がって救いのわざをなしてくださったという福音が宣べ伝えられているのです。主イエスがこのことをどれだけ大切に考えておられたかは、バプテスマのヨハネが弟子を遣わして「きたるべき方はあなたですか」と尋ねさせたときに、イエスはご自分がなさっている病人を癒したとか、悪霊を追い出したとか、中風の人を癒したとか、盲人の目を開いたとか、終わりの日に神の救いが成就するときに与えられる救いを列挙された後に、最後に「貧しい人は福音を聴かされている」と締め括られたことからも分かります。
 ではイエスが福音を語り聞かせられた「貧しい人」、あなたがたに今救いがきていると語られた対象はどういう人だったか。福音書が繰り返してわれわれに教えてくれているのは、取税人、遊女、罪人、そういう人たちにイエスは解放の福音を告げ知らされたということです。まさに医者が要るのは病人であって、健康な人は医者は要らないのです。ここで病人と呼ばれる人たちは、イエスの時代においてユダヤ教という正統宗教から罪人のレッテルを貼られて、いっさい神の前によきものを受ける資格のない者とされていた人たちです。そういう人たちをイエスは招かれたのです。ですからイエスが貧しい人と考えておられた人たちは、こういう神の前に何の価値をも主張できないような人たちです。
 そういう内容理解からして、マタイ福音書の「心の貧しい人たち」という表現が出てくるのです。ここで心というのは原語では霊です。霊において貧しい人たちはさいわいだというのは、このように神との関わりにおいて、霊なる神の前に霊なる存在として人間が関わるときに、何ももたない乞食のように、ただ憐れみをお願いするしか仕方のないような人たち、自分が無になっている人たちのことをイエスは言っておられるのです。マタイの表現はそういう内容理解からくる表現だと考えられます。だから飢え渇く者というところを、マタイは「義に飢え渇く者」と表現しています。これも同じように、飢えを満たすものが自分のほうには何もないから、ただ神からの義を慕い求めているような人たち、こういう人たちがここで考えられているのです。

富める者はわざわいだ

 そういう貧しい人たちに、主は「神の国はあなたがたのものだ」と語っておられます。これが福音なのです。すなわち、こういう神の前に何も持てない者にこそ、復活という人間として究極の栄光と祝福が与えられるということを、イエスはここで原則として呈示しておられるのです。「貧しい人はさいわいだ、復活はあなたのものだ」と言っておられるのです。それに対して「富める者はわざわいだ」と言っておられます。富める者というのは神の前で自分の価値を主張する者です。パリサイ派の人はそういう意味で富める人です。自分はこれだけのことを立派にやりました、律法を満たしました、だからこれだけのものをいただけるはずですと要求している人です。彼はすでに地上で宗教的、霊的な報いを受けてしまっています。だから人の子が栄光の座につくとき、逆転が起こるときにはもう受けるべきものがないのです。
 だから「財産のある者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがやさしい」と言われたのも、確かにこの地上で資産のある者はどこか心の在り方が自分を主張する、自分の力と価値に依存するというところが本性的にあって、それを自分の悟りで乗り越えるということは本当に難しいことだからです。確かに人間として自ら貧しくなることは難しく、どんなに社会的、経済的に貧乏な人も霊においては富める者でありたいと願って努力しているとするならば、一体誰がここで「貧しい者はさいわいだ、復活はあなたがたのものだ」と言われるような者になるのでしょうか。それはほんとうにわたしたちが十字架の真理に直面するときだけだということになります。この意味で、「貧しい者はさいわいだ」の「貧しい」も、キリストの福音の中の十字架の真理、十字架がわたしたちの罪のためであるという真理が理解され、受け取られるときに初めて実現する部分です。それまではイエスが祝福の対象とされた「貧しい者」にすらわたしたちはなれないのです。
 イエスご自身は神のみ子ですが、神の子というのは初めからものすごい神の聖性と能力がある方ではありません。人間としてのイエスは自分を全く無にされた方です。自分を無にされたからこそ、神の御霊の満たしにあずかって、神の力と真理に満たされてあのような働きをなすことができたのです。われわれは自らの悟り、自らの人間的な努力や境地によって、自らを無とすることができません。だから十字架が必要なのです。自分を主張して止まない、すなわち神の前に自我をたてて止まない人間性が打ち砕かれるために、神はわたしたちのその自我性という根源的な罪を砕くために、キリストの十字架を備えてくださったのです。身を翻してキリストの現実に飛込み、その十字架に合わせられることによって初めて、わたしたちの自我が打ち砕かれるのです。この十字架の場においてはじめて、神の約束しておられるもの、すなわち御霊の現実、復活の希望を受けることができるのです。こうして、イエスの「貧しい者はさいわいである。神の国はあなたがたのものである」という祝福は、「わたしの十字架にあわせられて無とされた者はさいわいである。その人は死人の中からの復活にいたるからである」という内容になります。

十字架・復活の福音における成就

 最後に、「憎まれている者はさいわいだ」という句が来ます。ここで突然「人の子のために」という句が入ってきて、「人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときはさいわいだ」となります。これはおそらく先ほど申しましたように、イエスの言葉を伝えていく担い手たちはすでにキリストの十字架と復活の福音を聴いて知っており、またそれを生きているのですから、そのキリストを信じるために受ける多くの迫害や苦しみの体験がここににじみ出たのではないかと考えられます。「人の子」はもちろんキリストを指す言葉でありまして、この言葉の背後にはキリストの名のゆえに追放され、汚名を着せられ、迫害されているという初代のキリスト者たちの姿があります。そしてキリストを信じる者は神の律法を汚す者だという汚名を着せられて迫害されました。裁判にかけられ、鞭打ちにされ、石打ちにされました。そういう人たちのことがここで考えられています。そういう人たちが天において受ける報いは大きいと言われています。世が改まって最終的な栄光が現れるときに、復活の栄光にあずかるということがこの報いの内容であります。
 それに対して「すべての人に誉められる者はわざわいだ」と言われています。パリサイ派の人たちはその当時の宗教の世界では優等生であり、誰からも非難されることのない立派な人たちであり、世の中では尊敬を受けていました。しかしその世の中で尊敬を受けるということが、ここではわざわいだと言われています。それはにせ預言者、神の前のにせものを人間は喜んで誉めるという傾向があるからです。人間は自らにせものでありますから、にせものであることを最も立派にやってくれている人たちを見ると安心するのか、彼らを誉め讃えます。
 イエスはご自分を人の子とされたために迫害され、追放され、汚名を着せられてついに十字架刑に処せられたのです。そしてその報いとして復活を与えられたのです。ですから、わたしたちもまた、イエスのみ名によって生きる者は、イエスがお受けになった汚名と迫害を身に受けてイエスに従って行くときに、わたしたちもまた天において受ける報いは大きいのです。復活という報いを受けるのです。
 こうして見ますと、この祝福の言葉の全体はまさにキリストの十字架と復活の福音において見事に成就し、顕わになっていると言えます。すなわち、わたしたちが「貧しい者」になるのも十字架によって初めて可能になり、十字架によって貧しくされたときに将来の復活という約束を与えられるのです。そして「憎まれている」というのも、この世でイエスに従う者として十字架を負って歩む姿として成就します。端的に言いますと、この祝福の言葉全体はキリストにおいて成就しています。「キリストの十字架に合わせられて無とされ、イエスと共に十字架を負って生きる者はさいわいである。復活はあなたがたのものである」となります。わたしたちの人間としての自我主張が十字架によって打ち砕かれて、自分が無とされて、十字架の場以外に生きる場がなくて、イエスと同じく十字架を負って生きる生涯をこの地上で貫いていくならば、聖霊の賜物により地上で命の喜びと復活の希望を宿し、この世が変わるとき、すなわち終末の栄光が世界に顕わになるときに、その命は死人の中からの復活をその報いとして受けるのです。
 そういう人たちはさいわいだというのは、まさにこれは人間の思いを越えた宣言であります。「貧しい者はさいわいだ、神の国はその人のものだ」とイエスが言われたときに、じつはその内容は十字架と復活による人間の救済、完成、栄光が意味されていたということを思いますときに、このイエスの祝福の言葉の壮大な内容に改めて驚きを禁じ得ません。ほんの一例ですが、われわれの罪のために十字架され、復活されたキリストの福音の視点から、イエスの神の国の福音を受け止めるときにどういうことになるのか、わたしなりの理解をお話ししました。問題はそういう理解ではなくて、ほんとうに十字架の道を歩み、その十字架の道の結果として復活に至るかどうかです。これはわたしたちの信仰者としてのあり方が決めることですから、このイエスの祝福の言葉が自分の小さな人生に成就していくように、十字架のもとにひれ伏して、御霊の力に助けられて、この十字架の道を歩んで行きたいと願います。
(天旅 一九九一年1号)