市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第8講

W 永遠の命への道

            ―― ヨハネ福音書による ――

「わたしが復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
また、生きていてわたしを信じる者は、
いつまでも死ぬことはない」。

(ヨハネ福音書 一一章二五〜二六節)




第一講 霊から生まれる者

            ―― 十字架と御霊による新生(ヨハネ福音書 第三章) ――

永遠の命への問い

 先日、ホスピスに関する本を読み、深く考えさせられました。そこでは人々は、日々死と直面し、死を見据えて生きています。ところが一般社会では、われわれは死を他人事のように考え、自分とは関係がないように生きています。昔は日常生活の中に死がありました。人々は身近な人の死を目にしておりました。ところが現代では、死は病院やホスピスの中に隔離されて、一般社会ではもはや死を問題にする必要がないというような風潮になっております。しかし、人間は誰でもかならず死ぬという事実はいささかも変わっていません。この死という事実を前にして人はいかに生きるか、これが人間の根本問題であります。
 現代では、死ねば自分という存在はなくなってしまうのだから、死を考えても仕方がない、生きているあいだ楽しめばよいのだ、という生き方をする人が多いようです。しかし、人間にはそれでは納得できず、何らかの形で死後の存在を問題にしないではおれない面が本性的にあります。それが宗教を生み出す基盤です。そして人類の歴史全体から見れば、死後の存在を信じていた人が圧倒的に多いのです。
 しかし、人間は死後どうなるのか、これは所詮聞き伝えか想像に過ぎません。いま現実に自分の中に、「死んでも生きる」、「死ぬことはない」と確信できる質の命を持つのでなければ、明日死ぬかもしれない生の無常を克服し、確かな希望をもって生きることはできません。時は一切の生けるものを死滅の淵に押し流し、一切の生に無常の刻印を与えております。時の流れのただ中にいながら、この時を超え、その無常性を克服する質の命、すなわち永遠の命を内に持つことはできるのでしょうか。できるとすれば、それはどうすれば得られるのでしょうか。
 聖書もこの問題を真正面から取り上げています。マルコ福音書第十章にこのような記事があります。ある人がイエスのもとに走りよって来て、ひざまずいて尋ねました、「善き師よ、永遠の命を受け継ぐためには、何を為すべきでしょうか」。この問いは、死を超える命を慕い求めないではおれない人間の深い求めを代弁するものです。この切実な問いにイエスはどう応えておられるのか、さらに正確にいうならば、イエスを通して神はどう答えておられるのか、これが今回の集会の主題です。

立場の崩壊

 イエスはこの人の謙虚で真剣な問いをはぐらかすことなく、答えを与えておられます。しかし、その答えは問う者と同じ立場に立ってする答えではなく、その問いが立つ立場そのものを根底から覆す質のものです。まず、イエスは「なぜわたしを善き者と言うのか。神おひとりの他に善き者はない」と言って、この問いは神にのみ向けられ、神から直接語りかけられ、魂を捕えられるのでなければ、真の答えを見出すことはできないことを示唆しておられます。この人は善き師から善き教えを聞いて、よく自分で考えてそれを守ろうとしたのでしょう。しかし、いのちの言葉とはそのような次元のものではないのです。
 さらにイエスは「(もしあなたが、何を為すべきか、と尋ねるのであれば、それを教える)神の戒めは、あなたがすでに知っているとおりである」と言って、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、欺き取るな、父と母とを敬え」というモーセの律法を引用されます。するとこの人は「それらの事はみな、若い時から守ってきました」と答えています。彼は何を為すべきかを知っており、それをすべて行っているのです。それだのに、自分の内に永遠の命がないこともよく自覚しているのです。ここで彼は「永遠の命を受け継ぐためには、何を為すべきか」という問いの立場そのものが間違っていることに気付かなければならないのです。永遠の命とは、たとえそれが神の戒めを守ることであっても、人が何かを為して獲得するような性質のものではないのです。イエスはこの事を悟らせるために、さらにこう言われます、「一つ足りないことがある。行って、持っているものをみな売り払い、貧しい人たちに施しなさい。そうすれば、天に宝を持つことになる。それから、わたしに従ってきなさい」。
 イエスはここで永遠の命を受け継ぐための資格・条件として、全財産を貧しい人々に施すという慈善事業を求めておられるのではないのです。それは、この人がこのような問いを発する立場、すなわち自分のわざによって永遠の命を受けようする立場をうち砕くためです。この人は資産家で、自分の生と存在、すべてよきものを自分の所有物に依り頼む心が強かったのでしょう。それが物質的なものであれ内面的なものであれ、自分はこれだけのものを持っていますという心で神に向かう者は、神から何も受けることはできません。自分には何もありません、受ける資格もありません、という立場で、ただ神の恩恵にすがる者だけが、神からのものを受けます。すなわち天に宝を持ちます。イエスはこの人に財産を施すことではなく、それに寄り頼む心を捨て、自己を無として、神の恩恵だけに寄り頼む道、「霊において貧しい者」の道を歩むように求めておられるのです。それがイエスの道であり、イエスに従うことなのです。

狭い門・細い道

 ところが、このイエスの言葉を聞いて、彼は顔を曇らせ、悲しんで去っていきました。イエスが求めておられることが理解できず、自分を捨てることができなかったのです。それを見てイエスは言われました、「資産のある者が神の国に入るのは、なんとむずかしいことであろう」。弟子たちはこのイエスの言葉に驚きました。すると、イエスは再び言われました、「子たちよ、神の国に入るのは、なんとむずかしいことであろう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がやさしい」。
 日本では一流の大学や企業に入るのは、大変むずかしいことです。きわめて高度な能力や資質、さらに努力が要求されます。それができるのは、ごく少数の人たちだけです。しかし、神の国に入るむずかしさは、そのような性質のむずかしさではありません。その点から言えば、神の国に入るのは大変やさしいのです。いかなる能力も資格も必要ではありません。だれでも入れます。ところが、まさにこの点が人間にとって最もむずかしい点なのです。自分が持っている能力、知識、教養、立派な人格や善行、このようなもの一切が神の国に入るのに全く無意味であると認めることは、立派な人ほどむずかしいのです。どんな人も自分なりの立派さを主張したいのです。その意味で人はみな、持てる者、金持ちなのです。自分が持っているものを徹底的に否定し、自分を無とし、ひたすら神の恩恵にすがって、神からのものをいただいて生きようとすることは、人間の本性にとって一番むずかしいこと、いや不可能なことなのです。そこに人間の本性的な罪があります。
 弟子たちはますます驚き慌てて、「それでは、いったい誰が救われることができようか」と互いに言いました。それに対してイエスは言われました、「人にはできないが、神にはできる。神はいかなる事でもできるからである」。自分の価値を粉砕し、自分を無にすることは、人間にはできません。この人にはできないことを、神が為し遂げて、永遠の命にいたる道を開いてくださったのです。それが福音です。これが、本講の主題です。
 イエスは別のところでこう言っておられます。

 「狭い門から入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。いのちにいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」。
(マタイ福音書 七章一三〜一四節)

 人が本性のままに、自己を追求し、自己を拡大し、自己のために富(物質的なものであれ内面的なものであれ)を蓄積していくことは、努力がいりますが、やさしいことなのです。それは人の本性にかなっているからです。しかしこの道は滅びにいたる道です。自分が持っているものに頼るかぎり、神からのものは与えられないからです。そして永遠の命は自分の中にはなく、ただ神からだけ来るものなのです。永遠の命は神からのものです。それにいたる道は細い道であり、そこに入る門は狭い門です。その道は、自己を無にするという人間の本性に反する道だからです。

霊から生まれる者

 ここにもうひとり、永遠の命への道を求めてイエスのもとにやってきた人がいました。ニコデモというユダヤ教の最高法院の議員で、ユダヤ教のなかでも律法遵守に熱心なパリサイ派の教師でした。民衆に神の道を教える立場にある者として、さきの若い資産家のように人々の前でイエスに教えを乞うわけにはいきません。それで、夜ひそかにイエスを訪ねてきて言いました、 「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。(ヨハネ福音書 三章一節以下)
 だいたいユダヤ教の指導者たちはイエスを迫害していました。イエスの伝道活動のかなり初期からイエスを殺そうと計っておりました。それは、イエスが彼らの宗教の根本原理を覆すようなことを主張されたからです。彼らにとっては、人が神の救いを受け、神の祝福にあずかるためには、神の律法(戒め)を守り行う必要があることは自明の原理でした。ところがイエスは、ユダヤ教の立場からすればとうていその規定(律法)を守ることができないような人々、たとえば遊女や取税人などと食卓を共にし、そのままで神に受入れられていると主張されたのです。神にいたる道として、彼らにとって自明な律法の道とは根本的に異質な道を説かれたのです。
 そのようなユダヤ教の指導者のなかで、ニコデモはイエスがなさっている「しるし」を認め、神がイエスを通して働いておられることを信じ、イエスが説かれることに耳を傾けようとしてやってきました。このニコデモに対しイエスは、ユダヤ教とご自身の道との根本的相違点をずばりと提示されます。そして、この相違点を示し、その限界を暴露するイエスの言葉は、ユダヤ教だけでなく、人が永遠への道として頼っている宗教・道徳一般に突き付けられているのです。イエスはニコデモに答えて言われました、

 「よくよくあなたがたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。(ヨハネ福音書 三章三節)

 イエスはこう言っておられるのです、「あなたがたは神の戒めを守れば、永遠の命が受けられるとして努力しているが、そう努める自分自身をそのままにしている限り、まことの命にいたることはできない。あなたがた自身の命の質は神のいのちとは相反し、どのような立派な行為をしても、それで命の質を変えることはできない。あなたがたが生まれながら持っている命とは全然別種の命を上からいただいて、新たに生まれるのでなければ、永遠の命を宿し、それによって神の国の現実を味わうことはできない」。
 ニコデモは驚きました。イエスが語っておられることが理解できませんでした。あまりの意外さに彼は思わず言いました、「人は年をとってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」。イエスが「新たに生まれなければ」と言われた時、「新たに」(原語《アノーセン》)には「上より」の意味もあるのです。イエスは上よりの命、すなわち神よりの命を受けて生まれることを語っておられるのです。それは地上での誕生とは全く別種の誕生ですから、新たに生まれると言われるのです。ところが、ニコデモは地上の経験しか理解できないので、「もう一度」《デウテロン》二度目に)母の胎にはいって生まれることしか思い浮かびません。この生まれながらの命は、何度生まれかわっても、神の国を見ることはできないのです。そこでイエスは「新たに」生まれるということの内容を明確に告げられます。

 「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない」。(ヨハネ福音書 三章五節)

 ここで水は霊の象徴です。象徴と本体とが平行してあげられることはよくあることです。ですから、この直後では「霊から生まれる者」とだけ言われております。もしこの水がパブテスマの水を指すとしても、水のパブテスマは聖霊によるパブテスマの象徴ですから、結果は同じです。イエスは「霊から生まれる」ことを語っておられるのです。これは、母の胎から生まれることと対比して語られております。神の霊の働きによって形成された新しい命が、時満ちてその霊の中から生まれ出て、独立の人格としての声をあげ始めるのです。イエスはこの間の消息をさらに詳しく語られます。

 「肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるものは霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。その音は聞こえるが、それがどこから来て、どこへ行くかは分からない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」。(ヨハネ福音書 三章六〜八節)

 ここで「肉から生まれるものは肉である」というのは、母の胎から生まれるのは肉体である、という意味だけではありません。肉とは生まれながらの人間の本性を指します。しかも、それは神に逆らうことしかできない本性です。ですから、本性的な自己がそのままである限り、人間が生み出すものは結局その人間本性のらく印をおされており、神との本来の交わりを持つことはできないのです。神から賜る御霊の働きによって人の内に生み出されてくるものだけが、神との交わりを持つことができる次元、すなわち霊の次元です。神との本来の関わりの中で、永遠の命を受け、神の国の現実に入るには、霊によって生まれる他に道はないのです。これは生まれながらの人間性にとってまったく意外なことで、ただ驚くほかありません。
 さらに、霊から生まれる者の消息が風をたとえとして語られます。霊も風も原語は同じ「プニューマ」です。風の吹く道を知り、その吹き方を支配・制御することは、人間にはできません。そのように、神の霊の働きは人間が支配することはできないのです。おおかたの宗教は祭儀によって霊の働きを支配しようとしますが、まことの神の霊はいかなる人間の装置や呪術によっても縛られていません。人間の思いをはるかに超えて、おのが欲するままに働かれます。霊から生まれる者も、神の霊がどこから来て、どのように働き、自分に何をしてくださったのか説明できません。しかし、自分からは絶対出てくるはずのないものが、自分の中に宿り、生き始めていることを知っています。新しく自分の中に生まれてきたその何かによって、わたしたちは「アッバ、父よ」と祈り始めるのです。

人の子を信じる者

 どうすれば、そのような霊から生まれるというようなことが起こりうるのでしょうか。ニコデモもイエスの意外なお言葉に驚いて尋ねております、「どうして、そのようなことが起こりうるのでしょうか」。それに対してイエスは答えられます、「あなたはイスラエルの教師でありながら、このことを知らないのか」。
 宗教家や神学者の中には、宗教や神学の細かい知識には精通していながら、また宗教生活(戒律遵守の生活)に熱心でありながら、霊的体験がないため、霊の現実のごく基本的なことを知らない人が多くいます。ニコデモもそのような宗教家のひとりでした。霊から生まれることは知識や行為の問題ではなく、信仰の問題なのです。イエス(と信じる者たちの群れ)は、ユダヤ教に代表される信じない世に向かって、その不信仰を嘆き、責めないではおれません。「よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。わたしが地上のこと(新しく生まれることは、霊の次元のことであるが、それでもなお、地上の人間の体験である)を語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」。それに続いて、イエスは謎のような言葉を語られます。

 「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。そして、ちょうど、モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。(ヨハネ福音書 三章一三〜一五節)

 ここで初めて「永遠の命を得る」ための道が語られます。それは「人の子」と呼ばれる方を信じることによります。しかし、イエスが誰か他の人を指すように彼と呼んでおられる「人の子」とはいったい誰でしょうか。人の子は「天から下ってきた者」、「天に上った者」、そして「モーセが荒野で蛇を上げたように上げられる者」と言われています。このような姿・本質をもった「人の子」とはいったい誰か。永遠の命への道を尋ね求める者は、この謎の前に立ら止まってしまいます。ニコデモとの対話もこれ以上進みません。イエスはこれ以上言葉をもって説明しようとはされません。ニコデモも実際に「人の子」を見て信じなければなりません。
 実は、この「人の子」とはイエスご自身です。現代のわれわれには分かりにくい称号ですが、当時の人々にも謎に満ちた称号でした。当時ユダヤの民の間に、世界の終わりが迫っており、宇宙的な破局を経て、神が支配したもう新しい時代が始まるという信仰と、それを象徴的な文体で記した「黙示文書」が多く流布していました。旧約聖書の中のダニエル書もその中のひとつです。そのような黙示文書の中で、神の栄光の中に天より臨む支配者が「人の子」と呼ばれています(ダニエル書七章参照)。イエスは御自分が誰であるかを語るのに、神がその民の救いのために油を注いで立てられる王を指す「メシア」という称号は避けて、この謎めいた「人の子」という称号を用いられました。それは、「メシヤ」がイスラエル民族の地上的・政治的救済者として一般に受けとられていたからです。イエスはそれ以上の者、すなわら神の人類救済の最終的なみわざを実現し、天上の栄光に座する者として、この「人の子」という称号でご自身の本質を示唆されたと思われます。
 「人の子」はまず「天から下ってきた者」です。人の子は本来天的存在者ですから、地上のイエスが人の子であるとは、すでにイエスが「天から下ってきた者」であることを主張しています。イエスは神より遣わされた者であることをたびたび明言されました。イエスがされた力あるわざ(奇跡)はそのことのしるしです。ところが、当時のユダヤ人たちはそれを信じないで、「これはマリヤの子ではないか。その兄弟たちはわたしたちのところにいるではないか」と言って、イエスをただの人として、おのが心のままに扱い、その主張の故にイエスを憎み、遂に殺すにいたりました。イエスを死刑に定めようとする最後の裁判の席で、イエスは大祭司たちの前ではっきりと言われました。

 「あなたがたは、人の子が神の右に座して、天の雲と共に来るのを見ることになる」。
(マルコ福音書 一四章六二節)

 そして、イエスが言われたように、十字架につけられ殺されたイエスを、神は三日目に復活させて、高く天に上げ、神の右に座す主(キュリオス)とされたのです。復活し天に上げられることによって、地上のイエスが天から下ってこられた者であることが確証されたのです。
 福音は初め、端的にこのイエスの復活の事実を告げ知らせる証言でした。そして、これを聞いて信じた者は、上よりの神の力を体験し、救われました。このことは聖書に次のような言葉で書きしるされ、確認されています。

 「自分の口でイエスは主(キュリオス)であると告白し、自分の心で神がイエスを死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われる」。(ローマ人への手紙 十章九節)

 これは、イエスが用いられた称号を使うならば、「人の子を信じる者は救われる」となります。

十字架の下で

 さらにイエスは、「人の子を信じる者が、すべて永遠の命を得るために、ちょうどモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」と言われます。「モーセが荒野で蛇を上げた」ことは旧約聖書の民数記二一章に記されています。主の力によってエジプトから導き出されたイスラエルの民は、荒野を旅している時、食物や水の乏しい旅の苦しさに耐えかねて、主とモーセに対してつぶやきました。すると、火の蛇が民を襲い、かんだので、多くの人が死にました。そこで民はモーセに「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞ蛇をわたしたちから取り去られるょうに、主に祈ってください」と願いました。モーセが民のために祈りますと、主はモーセにこう言われました、「火の蛇を作って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。そこでモーセは青銅で蛇を作り、さおの上に掛けて置きました。すべて蛇にかまれた者がそれを仰いで見ると、死を免かれ、生きることができました。この蛇のように、人の子であるイエスが木に掛けられて、地から上げられることになる、と言っておられるのです。それは、イエスが十字架に掛けられて死ぬことを予告しておられるのです。
 人の子を信じる者が永遠の命を得るためには、人の子が十字架に掛けられなければならない。これは本当に人間の思いを絶した神の道(方法)です。さきに、神の国に入ることについて、「人にはできないが、神にはできる」とイエスが言われたことの中身がこれです。人は自分で自分をうち砕くことができません。そして、この「自分」、「自己」こそ罪なのです。人は本性的に、自分が持っているものに頼り、それを誇り、自分の価値を主張して、神の前に出ようとします。それは結局、自分をすべての価値の源とすること、すなわち自分を神とすることなのです。自分が神であれば、ほかに神はいりません。罪とは神を憎み、神を殺す心です。この人間の高ぶり、自己神化こそ罪の正体であり、この罪が神と人との本来の交わりを断ち、神の国の門を閉ざし、人を永遠の命から追放し、死の支配に陥れている元凶です。宇宙を征服する人間も、罪なる自己をうち砕くことはどうしてもできないのです。まさにそのことを神が為し遂げてくださったのです。それがイエスの十字架です。
 イエスが十字架の上に死なれた時、そこで人間の罪が断罪され、裁かれたのです。イエスはただひとり罪のない方でした。自己を空しくして、神との全き交わりの中に生きた神の子でした。そのイエスが世の罪をその身に負い、罪に対する神の裁きを受けたのです。モーセが杖に掛けて上げたのが青銅の蛇であったように、十字架の上にかけられたのは人間の罪そのものであったのです。聖書では、蛇はサタンの象徴です。罪というサタンの実体が十字架に掛けられ、裁かれ、暴露されているのです。そして、杖に掛けられた蛇を仰ぎ見た人がみな救われたように、イエスの十字架に自分の罪が裁かれているのを見る者は罪の支配から救い出されます。そこに自己がうち砕かれているからです。それは神がなされた業です。この事実の前にわたしはひれ伏すほかありません。
 イエスが言われたように、人が神の国に入るためには、あるいは永遠の命を得るためには、新しく上より生まれなければなりません。それは霊から生まれることです。ところが、人の罪が、すなわち自己が岩のように堅く居座っているところでは、上よりの霊は働くことができません。神の霊が働くのは、人間の自我がうち砕かれ、神の恩恵だけが支配しているところです。それは十字架が信じ仰がれているところです。十字架の下にひれ伏す魂だけに、神の御霊が注がれるのです。ですから、新しく生まれて、いのちの道を歩み始めるには、どうしても十字架の前にひれ伏して、自己を明け渡し、砕かれなければならないのです。十字架という狭い門から入らなければなりません。しかし、この門から入る者は幸いです。復活されたキリストから聖霊のパブテスマを受け、その霊水の中から新たに生まれ、復活にいたるいのちの道を歩むことになるからです。

 「神はこの世を愛して、独り子を賜ったのである。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、
永遠の命を得るためである」。(ヨハネ福音書 三章一六節)

(天旅 一九八六年1号)