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U 聖書と人生

第三講 約束の下にある人生

人生の無常

 今回、わたしたちの地上の人生に焦点をあわせまして、この人生に聖書はどのような光を投げかけてくれるのか、ご一緒に学んでまいりまして、最後の集会になりました。
 わたしは日頃、人間の存在を三つの次元で考えています。すなわち、神との関わりという垂直の次元、それから人との関わりという水平の次元、そしてもう一つ、時の中にいるという人間のあり方、これが第三の次元ではないかと思います。第一の神との関わりの次元については第一講で、第二の人との関わりの次元については第二講でお話ししたわけですが、この第三講では第三の次元、時の中にいる人間の面を考えてみたいと思います。
 時はすべてのものを変えていきます。人間も時の中にいる限り変わっていくものだということは、昔から人々ははっきりとみてきました。日本人はそれを「無常」と呼んできました。時の流れの中で一切は移り変わり、永遠に変わらないものは何もないという人間のあり方は、日本人は敏感に感じとってきました。日本文学の跡を辿ればそれがよく見えます。仏教が入ってきてからは、この無常感は仏教的な色彩を帯びて深められてきたようです。方丈記の著者は、人間の存在を「よどみに浮かぶうたかた」にたとえました。川のよどみに泡ができて、また消えていく。わたしたちの一生というのは、あのよどみに浮かんでいるうたかたのようにはかないものだということを彼は見据えていました。日本人の多くが信奉している浄土系の仏教においても、この無常感が根底にあります。
 人間は時間の外に出ることはできないのであって、時間の中にいる限り、すべては移り変わり、生あるものは死に、存在するものは無に帰していきます。この無常を人間ははっきりと見つめざるをえませんでした。聖書にも、人間は無常なるものだという自覚があります。たとえば詩篇の九十篇を開いてみます。

主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。
山がまだ生まれず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、
とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。
あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。
あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、
夜の間のひと時のようです。
あなたは人を大水のように流れ去らせられます。
彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。
あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。 ………………
われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。
われらのよわいは七十年にすぎません。
あるいは健やかであっても八十年でしょう。
しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、
その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。  (詩編 九十編一〜一〇節)

 この年数は今の日本の平均寿命くらいのものですが、たとえ平均年齢の八十歳の生命を全うしても、中身は苦労ばかりで、振り返って見れば夢のように飛び去った人生であると述べています。こういう感慨はこのようにイスラエルの中にもあったわけです。
 また旧約聖書の後期に属する文書でありますが、「伝道の書」では一切は空であると言っています。さまざまな人間の生き方を見、すべての快楽を窮め尽くした知者が、人間の生きざまを反省し、結局は空しいことだと自覚して、次のように言っています。

 「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、……愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある」。(伝道の書 三章一〜九節)

 わたしはこの「…に時があり」の「に」をすべて取って読んでいます。「に」を入れるか入れないかで意味が変わってきます。ここで言っているのは、人間が何かをするのには適当な時期があるという処世訓ではなくて、人間として存在している以上は、生まれる時があるし、死ぬ時があるというように、時の流れの中では、人生にはまったく相反するものがいやでも起こってくるものだということを言っているのです(新共同訳「コヘレトの言葉」三章一〜九節はこのような理解で訳している)。人生の無常を非常によく表現している箇所だと言えます。これはイスラエルがギリシャの思想、ヘレニズム思想に深く影響された時期の文章でありまして、イスラエルの人たちが人間性そのものに深く目を止めて反省を深めていった時期のものです。そこには自ずから仏教が見ていました無常なる人間の姿と相通じるものが出てきています。

永遠の言葉

 しかし、人生が無常であるということを悟ることは決して無益なことではありません。そこから真実の知恵が生まれてくるのです。詩編九十編にこういう言葉があります。

「われらにおのが日を数えることを教えて、
知恵の心を得させてください」。 (詩編 九〇編一二節)

 自分の存在に限界があるということ、わたしの存在が永遠ではないということをはっきりと自覚することを教えてください、それが人間として生きる真実の知恵の始まりになる、と言っているのです。今わたしたちはこのように存在していますが、これは「常なるもの」、いつまでも同じように続く存在ではないのです。今の存在と反対のものがくるということを自覚すること、これは人生の無常を自覚することです。この自覚は真実のものを得るための知恵の始まりであります。こうして変転極まりない人生の歩みの中に果して変わらないもの、永遠なるものをつかむことができるかどうか、これは人類が初めから追い求めていたことでありまして、それが宗教を生み出していくわけです。同じ「伝道の書」の中で、このように人間ははかないものだけれども、神が「永遠を慕う心をお与えになった」ということも言われています(三・一一)。   
 その永遠との出会いはどのような形で起こり得るのか、これは人間にとって大問題であります。イスラエルは、自分たちをこのように存在せしめている方が、自分たちに語りかけてくださった言葉は永遠であるという形で、永遠との出会いを体験してきました。
 神は直接には見えませんし、知ることもできません。しかし神は人間に働きかけてくださる方です。その働きは歴史の状況の中で変わります。エジプトから救い出すように働いてくださることもあれば、バビロンへ捕え移す働きをなさることもあります。歴史の中の出来事はすべて移り変わります。しかしそういう出来事をなさるために神が発せられる言葉は永遠であるということを、イスラエルの民は長年の神の民としての体験の中で体得していったのです。その典型的な表現がイザヤ書四〇章の言葉です。

声が聞こえる、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。
「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。
主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。
たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」。 (イザヤ書 四〇章六〜八節)
 人間がここで草や花にたとえられています。朝には萌出るけれども、夕べには枯れ果ててしまうはかない草にたとえられて、人間もそのようなものに過ぎないと言っています。しかしわれわれの神の言葉はとこしえに変わることがないのです。人間は神の言葉に出会うことによって、この世界の中で変わらないもの、時の流れによって変化しないもの、すなわち永遠なるものがあることを体験するのです。これは神の言葉に接した者が等しく抱く確信なのです。自分は変わるし、世界も変わる。しかし自分が受けた神の言葉は変わることはないのです。真実の神の言葉はそのような確信を、聴く者に与えます。
 「天地は過ぎ行く。しかしわたしの言葉は過ぎ去ることがない」と主イエスは言われました。ものすごい言葉だと思います。わたしたちはこの天と地は永遠だと思っています。この不変の天と地がたとえ過ぎ去って行くことがあっても、わたしが語った言葉は過ぎ去ることがない、自分の語った言葉がこの天地の存在よりももっと永遠で変わらないものだというようなことを、一体神以外のだれが言うことができるでしょうか。
 これは、主イエスが自分は神の言葉を聴いている、神の言葉を語っているということをはっきりと自覚しておられたから、このような表現ができたのです。人間は漠然と神という言葉を使うときに、人間の無常に対して永遠なる方を考えています。フランス語の聖書では、普通わたしたちの聖書に「神」と書いてあるところは、「永遠者」という言葉で訳しています。人間が神を思うときには、時の流れの中で変転極まりない無常なる世界に対して、その無常を超えた永遠に常なる方をわたしたちは考えています。
 しかし、それが人間の考えの中で、無常の反対として考えられている限り、まだそれは観念的な存在に過ぎないのです。わたしたちが神の存在を人生において体験するのは、神の言葉を聴いて、その言葉は変わりえないのだということを何かの意味で体験するときに初めて、神の永遠性を具体的に知ったと言えるようになります。

約束の構造

 イスラエルの民は二千年の歴史の中で、神の言葉は変わらないことを体験し、確信してきました。それが彼らの信仰の根底になるのです。神がその民に語りかけられる言葉にはさまざまな局面がありますが、時間の流れの中にいる人間に語りかけられるときに、神の言葉は事が起こるに先だって、起こるべきことを語るという面があります。神は永遠にすべてのことを見ておられます。人間は時の中にいますから未来は見えません。だから、神が語りだされた言葉は、人間にとってはまだ未来のことを予め語る言葉として聞こえてきます。それは広い意味の約束になります。神はそのわざをなされるにあたって、それが神からの出来事であるということを示すために、神御自身がまずそれを言葉として語っておかれます。ときには預言者を遣わしてそれを明確な言葉で語られます。それが広い意味の約束であります。そして、イスラエルは神の約束がその言葉どおりに実現するという形で、神の言葉は永遠であるということを体験したのです。自分たちの状況がすっかり変わってしまって、もうそんなことは起こりえないだろうと思っていると、驚くべき仕方で神が語られたことが起こるのです。このような形で、神の言葉は変わることはない、神は信実な方であって、神の信実は変わることはないということを彼らは体験してきました。
 わたしたちは雨上がりに美しい虹を見ます。これは昔の人も同じように見たのです。ところがイスラエルの民はこの虹を見たときに、あの美しい虹は神の約束のしるしだと受け止めたのです。ご存じのように、神は人間の悪を憤って裁かれました。大水と大雨を送って、地上の生き物をすべて絶やされたのです。そのときに神の前に正しく歩んだノアとその一族、および神が指定された動物だけが箱船の中に入れられて救われました。水が引いた後でノアが神を礼拝した時、神は空に虹を見せて、約束の言葉を与えられました。「わたしはもう二度と大水によって地上の生き物を滅ぼすことはしない」と。だからイスラエルの民にとっては、今人間が水によって覆い尽くされずに、乾いた土地に生きていられるのは、神の約束が実現しているからだと自覚したのです。そのしるしとして雨の後には虹が出るのであって、これは神の約束の確かさのしるしだと理解したのです。このように神の言葉の永遠性に出会った魂は、虹を見てもそこに神の永遠を見ることができたのです。
 旧約聖書を物語としてずっと読んできますと、その物語の背後にいつも、神がイスラエルの民に対してあらかじめ約束の言葉を与えてそれを実現されるという構造があることが分かります。ときにはイスラエルは約束に対して不信実な態度をとりました。パウロが言っていますように、イスラエルの民の一部の人が神の言葉に対して不信実であったからといって、神の信実は無になるのだろうか。決してそういうことではないのです。受け取る側が神の信実を崇めないとしても、神は信実であって、神の言葉はやはり貫いていくのです。こういう神のなされ方を見るのが、旧約の歴史を学ぶ大事な点であると思います。
 神はイスラエルに与えた約束を成就され、その成就によって自分の約束が信実であることをイスラエルに確証されるわけです。そして、イスラエルがこうして神の信実を知ったという土台の上に、さらに大きな約束を与えられます。約束と成就は重層的構造をとっています。たとえば、子供のできないアブラハム夫妻にやがて子供が与えられるという約束が与えられます。その約束は一年後に成就してイサクが生まれるのです。では神の約束はもう必要でなくなったのかというと、そうではないのです。その約束の成就によって、神はアブラハムに与えた「おまえの子孫はあの空の星のように多くなって、おまえの子孫によって地上の諸々の民は祝福を受ける」という大きな約束の保証をしておられます。
 わたしたちの人生は限られています。イスラエルの歴史も限られています。その限られた範囲内で神は約束を与え、それを成就しながら、その限られた範囲を超える大きな約束を保証していかれるのです。だからイスラエルの歴史を見ると、与えられた約束は実現しています。しかしその実現した約束は常にさらに大きな約束の保証になっているのです。 イスラエルの民は、パレスチナの土地に定住しているという歴史的な現実自体も、神の約束の成就だと自覚していました。わたしたち日本人がこの日本列島に生きていることは自然のことだと思っています。しかしイスラエルは違うのです。自分たちが今このパレスチナの地に生きていることは、神が先祖に与えてくださった約束が神のみ力によって成就したからこそ、われわれは今ここに住んでおられるのだと自覚したのです。
 聖書を読みますと、「乳と密の流れる地を与える」という約束が、イスラエルの民にとってどれほど大きな希望であったかが実感できるようにいきいきと物語られています。それはたいていはイスラエルの民がパレスチナの地に住んでから後に書かれた文章なのです。このように、この地を与えると先祖に約束された約束は、今われわれに成就している。この神がやがてダビデの子孫からイスラエルを栄光の地位に引き上げるメシヤを送ることを約束してくださっている。彼らにとってメシヤの到来は未来でありました。しかしその未来を約束する言葉は、すでに実現している神の約束によって保証されているのです。
 このように、約束が成就することがより大きな約束の保証になるという、約束の重層的な構造の中で、イスラエルの歴史全体は、やがてイスラエルの歴史の終局において神が最終的な決定的なわざをなし遂げて、イスラエルの民と全世界を救ってくださり、神の栄光を最終的に現してくださるという約束の言葉を聴き続けてきたのです。かれらはその約束の言葉が変わらないものであることをその歴史を通して知っています。これがイスラエルの歴史の意味でありました。(本書199頁の補講二「救済史の構造」を参照)

復活の約束

 主イエスが出現されて、「時は満ちた」と宣言されたときに、その「時」というのはまさにイスラエルの歴史全体が待ち望んでいた最終の神のわざがなされる時であったのです。神の約束がことごとく最終的に実現する時であったのです。だから、その時がついにきたという主イエスの宣言は、イスラエルの民にとってはまことに大きな意味をもった宣言でありましたが、それを理解した人はほとんどなかったのです。しかしイエスはご自分の存在が聖書のすべてを成就するためにあるということを深く受け止めておられました。
 人間は誰でも死を避けたいと思います。しかし主イエスは十字架の死が、神のみ旨によって定められた自分の道であるから、それをお受け入れになったのです。そしてまた、死人の中から復活するというようなことは誰もまだ経験したことがありません。けれども、聖書に記されているから、自分の身にそれが起こらざるをえないのだと受け止められたのです。主は地上のご生涯の中ですでに、人々に捨てられ、苦しみを受けて死ななければならないこと、そして三日目に復活するということを語っておられました。これは旧約の歴史の中で確証されてきた神の言葉の確かさを、主イエスご自身がしっかりと受け止めておられ、それを成就する者としてこの地上に来られたからであります。
 主が現実に十字架におかかりになり、そして三日目に復活されたとき、その出来事はまさにイスラエルに対して与えられていた神の約束が成就したものだと宣べ伝えられました。福音のいちばん根本的な告白は、パウロがコリント人への第一の手紙一五章の初めで引用していますように、「キリストが聖書に書いてあるとおり、われらの罪のために死なれたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目に復活されたこと」であります。「聖書に書いてあるとおり」なのです。イスラエルの歴史の中で神が語り続けてこられたこと、やがてこういうことが起こると約束してこられたこと、それがついにキリストの十字架の死と復活によって実現したのです。そして、キリストの復活が実現したときに、それがキリストを信じてキリストに属する者が同じように死人のうちから復活するということの約束になっているのです。イエスは初穂として復活されたのです。だから福音は神の最終的な約束なのです。人類に対する最終的な約束であります。
 十字架によって罪を赦すことは、すでに神の側で起こった事実でありますが、わたしたちの人生にとっては、最終的に終わりの裁きにおいて罪がことごとく赦されるという約束の面ももっています。復活に至ってはことごとく約束であります。わたしたちはまだこの朽つべき身体の中にいます。しかし、わたしたちもキリストに属する者である以上、キリストが復活されたと同じ姿で死人の中から復活するのです。これが約束であります。
 わたしは聖書全体をとおして神がわたしたちに語ってくださっている言葉を聴くことが大切だということを繰り返して申しましたが、わたしにとって最近この聖書全体が語りかける言葉は何かというと、「わたしはおまえを死人の中から復活させる」というこの神の約束の言葉なのです。聖書全体がそれを語っているのです。これは全人類に対して神が最終的に語っている約束の言葉なのです。
 このような言葉をこれほど明確に聖書が語っているのに、どうして人間は聴くことができないのでしょうか。不思議でなりません。主イエスが地上におられたときにしばしば、「聴く耳のある者は聴け」と言われました。このときのイエスの心には、どうしてあなたがたには聴こえないのかという嘆きが深かかったのではないかと思います。皆聖書を信じると言いながら、その聖書が最終的に語っているこの言葉がどうして聴こえてこないのでしょうか。その原因はただひとつ、御霊の導きを受けていないからなのです。

御霊の保証

 「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。 その霊によってわたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかししてくださる。もし子であれば 相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」。(ローマ八・一四〜一七)

 今回は神の子としての人生を語ってきましたが、この神の子として生きる人生の最大の特色は、神の相続人としての自覚をもって生きているということです。神の資産を、神の栄光を受け継ぐ者なのです。キリストはすでにその栄光をお受けになりました。死人のうちから復活することによって神の栄光に入られました。わたしたちもまた同じ栄光、資産を受け継ぐ共同の相続人です。どうしてこのように聖書全体が明確に語っている約束を受け取ることができないのかというと、それは神の子でないからです。子でないから相続人であることが自覚できないのです。すなわち御霊によって導かれていないからなのです。 イエスの時代もそうでした。同じ聖書を読んでいながら、サドカイ人たちは死人の復活などありえないと主張していました。それに対して主は「あなたがたは聖書も神の力も知らないからだ」と言われました。すなわち聖書全体の語りかけが何であるか、彼らは自分たちの勝手な神学に捉われて、読みそこなっているのです。それだけではなく、神の力も知らないのです。神が御霊によって現実に人間の中に働かれるということを味わったことがないので、復活を信じることができないのです。
 イエスは聖書全体から、神は最終的に死人を生かしてくださるという約束を聴いておられるから、あのようにご自分で復活を予言することができたのです。同時にそれ以上に、御霊によって生きておられるから、聖書の中にサドカイ人たちが気づきもしなかった神の復活の約束を聴いておられたのです。
 この「子であるならば相続人である」という言葉と、それともうひとつ「わたしたちのうちに賜っている聖霊が神の国を継ぐことの保証である」という表現がパウロの手紙にしばしば出てきます。御霊によって導かれているときに、たしかにわたしたちの中には約束の言葉に共鳴して受け取らせるものがありますから、神の約束を本当に信じることができるようになります。その意味で、聖霊はわたしたちが相続人であるということを保証する資格証明のようなものです。
 この資産の内容は復活のキリストと同じ姿に変えられることです。これは今読みましたところから明かですし、ローマ書八章二九節やピリピ書三章二一節で、パウロは繰り返して、それがわれわれの受け継ぐべき資産であることをうたっています。

復活の約束と地上の人生

 復活はわたしたちにとって将来の約束ですが、この約束を受けている者として、また同時に御霊によってその約束の確かなことを保証されて生きているわたしたちは、現在この地上の人生においてどのような変化が出てくるのか、そのことをここで少し考えてみたいと思います。
 わたしたちがこの地上の人生を生きるときに、この生まれながらの自然の生命によっていることは言うまでもないことですが、この生命は心と身体とが分かち難く結びついています。この生命はわたしたちの身体の存在と決して無関係に生きることはできないのです。わたしたちは母親の胎内に発生したときに始まって、生まれてだんだんと成長して青年、壮年と活動に満ちた時期を送り、だんだんと老衰してやがて死んでいきます。この身体はそのように時の流れの中で、誕生から死へと流れていきます。この時の流れの中で、わたしたちは生命を宿し、その生命をもってこの身体の中での人生を生きていくのです。先にも申しましたように、この生命はそれ自身決して悪であるわけではないのです。神が造られて、われわれに与えてくださった善きものであります。だからこの生命を尊び、それがよりよく生きるように努力すること、それが人間にとって最高の善であるということは当然であります。シュヴァイツアーが「生への畏敬」を倫理の根本だと主張したのは、確かにキリスト教的な思想の表現であります。その生というのは人間の存在そのものでありますから、その神から賜っている存在そのものを畏れ敬って、それがよりよく充実した存在になり得るように、よりよく生きるように配慮し努力すること、これが人間のなすべき究極のことであります。
 ところがもし自然の生命自体、それだけが人生の目的であるならば、そこには解き難い矛盾があることに気づかざるをえません。もしその生命を立派に生かすことだけが目的であるならば、この生は必ず滅びる生命ですから、その滅びる生命に尽くすことだけが人間の唯一の価値であるとするならば、その努力はすべて生命が滅びることによって無に帰してしまうのです。確かに人間の地上の生命は尊いものだということは事実です。その生命を敬ってそれに最善を尽くすことが人倫の根本だということも分かります。同時に、それが究極のものになればなるほど、それが死滅することによって一切が無意味になってしまうという矛盾も際立ってくるのです。
 ですから賢い人は、「人生は不可解なり」と言って滝壷に飛び込んでしまうのです。地上の生を超える永遠の価値とか意義をもつのでなければ、ただこの生を生かすための努力は一切無意味に帰してしまうということを、人間はよく知っていたのです。だからこの自分の有限の存在を超えて、変わらざる、永遠なる価値をもつものを何か求めないではおれないのです。それは芸術だったり学問だったり事業だったり建造物だったり名声だったり、もっと誰でもできる簡単な方法として子孫を残すという形だったりします。そうして何とかして自分の有限の存在を超えるものを残したいという願いをもって生きているのです。たしかに芸術や事業や作品や子孫は自分の死後に残ります。けれども自分の存在そのものの永遠性は保証されないのです。やはりつきつめていくと、人間はそれを保証されないと、たとえ自分のそとに作品を残すことができたとしても、なお魂の中には満ち足りないものが残るのです。自然の生命自体がそれをよく知っています。
 わたしたちは今まで、キリストを信じて神の御霊を受けることが人間にとって救いだと言ってきました。この神の御霊はこの自然の生命に対してどのような働きをするのか、どのような関わり方をしてくださるのか。先にも言いましたように、自然の生命もまた神から与えられたものですし、神がキリストにおいて与えてくださる御霊もまた神からの生命でありますから、この神の生命は自然の生命を包み込むようにして、滅ぶべき自然の生命を慈しみ、それをよりこの地上で与えられている限りの期間において、よりよく生かすために助けてくださる、そういう方向で働いてくださる方なのです。
 人間の本性は神に逆らっており悪であるということは、聖書が明確に語っているところです。しかし自然の生命そのものは神から与えられたものであって、決して悪でも罪でもありません。ただこの自然の生命で生きている人間が、その存在全体としては神に敵対する別の力、聖書はそれをサタンと呼び、パウロは罪といっていますが、そういう底知れぬ暗闇の力に惑わされたり、引きずり回されたりして、人間は自らの欲望のゆえにそれに身を委ねて、自然の生命も罪の力の支配のもとに陥ってしまいます。そのために死という身体的事実が滅びという暗黒でしかありえなくなってしまっているのです。
 ところがもしわたしたちがキリストに結びついて神の御霊を受けて新しくされると、今度はこの神の御霊が与えてくださる知恵と力によってこの人生を生きるようになります。ですから自然の生命もまたこの御霊の導きのもとに本来の生命として発露することができるようになってきます。それができるためには自由が必要だということは前にも申しました。キリストにおける自由の中で、御霊の導きの中で慈しまれた生命は、本当に自由に発現してきます。ですから本当に御霊に導かれている人の人生は創造的で、外からの規則に縛られて型にはまったものではなく、自らの内に溢れる自らの生命の発露となります。芸術家であれば創造的な作品が出てくるでしょう。たとえ芸術家でなくても一人一人が自由に、その人でなければ生きられない人生というものを生きるようになり、人生そのものが作品になってきます。
 けれども神は、わたしたちの存在が神からのものであり、自分自ら存在しているのではないということをはっきりと示すために、わたしたちに時を定めて、「ちりに帰れ」と命じておられます。わたしたちがある限られた年数をこの地上で生きることを許されているということは、神の定めであります。この定めの中で神は、「あなたがたの生命はちりに帰っていくけれども、わたしに属する者はわたしの永遠性にあずかる」としておられるのです。どのような形でかというと、わたしたちの内にきている生命にふさわしい、もはや朽ちることのない身体を与えられるという形で神の永遠性にあずかるのです。それが復活です。この地上の生命は、それにふさわしい有限の時をもった身体の中でやがて終わっていきますが、神から与えられている御霊が宿っている以上、この御霊の生命にふさわしい、もはや朽ちることのない身体、主イエスが復活されたときのあの身体をもって、わたしたちもまた神の栄光にあずかるのです。
 こういう形で、限られた人生を生きるわたしたちに神は助けを与えてくださっています。この助けがあるから、将来の復活の約束がいよいよ確かなものになります。こういう人間の生き方を深く自覚したのがヨハネでありまして、ヨハネ福音書を開きますと、「わたしたちはいま永遠の生命を与えられている」、「御子を信じる者は永遠の生命をもっている」という表現がよく出てきます。わたしたちは他の人たちと同じように病気をしたりしてやがて死んでいく地上の生命をもって生きていることはよく分かっています。けれどもヨハネは常に、御子を信じる者はいま永遠の生命をもっている、今その生命で生きていると断言しています。
 これは御霊がわたしたちの生まれながらの生命を包み込んで、生かしてくださっているときに自ずから生じてくる自覚であります。この自然の生命と御霊の生命との関わり方、これこそ神秘に属することであって、わたしたちはそれを理論的に解明することは不可能でありましょう。しかし聖書はそういう事実を端的に表明しています。特にヨハネ福音書は、永遠の生命にいま生きているという形で表現しています。
 そのヨハネ福音書は、いま永遠の生命をもっているから、復活の約束は不用だとは言っていません。この福音書においても主は繰り返して言っておられます。

 「わたしの父の御心は、子を見て信じる者がみな永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」。(ヨハネ六・四〇)

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の生命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」。(ヨハネ六・五四)

 このように、キリストに属する者の人生は、復活の大いなる約束の下にある人生だと言えます。聖書はすべての人を、このような約束の下に生きる人生に招いているのです。
(天旅 一九九〇年5〜6号)