T 神の信に生きる
第一講 神の信
信仰のコペルニクス転換
道徳の根底には宗教、信仰がなければならないというのは真理であります。道徳というのは人間を造るための教育でありますが、それは人間の力の及ばないところであり、わたしたちを造った方の力によらなければなりません。わたしたちが神という名で呼んでいる方は、わたしたちをこのように人間として存在させている方を指しています。その方の前にわたしたちは責任を取るべき存在であります。この方とのつながりがわたしたちの根本問題であります。それを忘れて他の事にいくら工夫を凝らしても、自分の根底たる方との関わりが正しくない限りどうしようもありません。「天よ耳を傾けよ、わたしは語る。地よわたしの口の言葉を聴け。わたしの教えは雨のように降り注ぎ、わたしの言葉は露のように滴るであろう。若草の上に降る小雨のように、青麦の上に下る夕立のようにわたしは主の名を述べよう。われわれの神に栄光を帰せよ。主は岩であってその御業は全く、その道はみな正しい。主は信実なる神であって偽りなく、義であって聖である」。(申命記三二章一〜四節)
申命記はモーセが亡くなる前にイスラエルの民を集めて自分に与えられた神の啓示と律法の言葉を改めて伝えた文書であり、モーセの遺言という性格のものです。三節でモーセは「わたしは主の名を述べよう」と言っています。主の名とはモーセに啓示された神の本質であります。彼は「主は岩である」と象徴的な表現でその名を述べています。「岩である」ことの内容は「御業は全くその道はみな正しい。主は信実なる神であって、偽りなく義であって聖である」と言っています。「信実なる神」と訳されているところは「エムナーの神」と書かれていて、「エムナー」は「エメス」という言葉でも表現され、「アーメン」と同族の語です。これらに一番近い日本語は「誠実」であると思います。詩篇には「まことの神」と表されています。このまこと、誠実というものを、わたしは「信実」または「信」という一字で表現して使っています。神の信というのは、神ご自身が誠実そのものでいますということを表現しているのです。神をまこととする
いつか旧約講義のときにふれましたように、預言者がその民イスラエルに対して呼びかける時、いつも自分たちの契約の主であるヤハウェを信じなさいと呼びかけました。その中の一つがイザヤがエフライム戦争の直前に、恐れおののくイスラエルの王と民に対して勧めた言葉です。それは「あなたがたは自分たちの主ヤハウェをアーメンとしないならば、アーメンとされない」というものです(イザヤ七・九)。神を信ずるとは神をまこととすること、神をアーメンたる方だと受け止め、それに自分の存在をかけていく、そういう生き方をすることです。「アーメン」という言葉の元の意味は「堅い、動かない」という意味です。わたしたちが神をその言葉どおりの堅い方、動かざる方、つまり岩としないならば、あなたがたは岩のように堅くされることはない、木の葉のように吹きさられて滅びるだけだと言ったのです。神のまことを象徴するのは動かざる大きな岩の姿であります。もしわたしたちが自分の人生と存在を不動の土台の上に建てようとするならば、神の信実を土台にしなければなりません。その外のものをあてにしている限り、風の前の木の葉のように、いつも移り変わって無に帰してしまうような無常の世界にしかおれません。時の流れの一切の変化を貫いて変わらざるものは何か、それは神の信実だけであります。イザヤはそういう表現でイスラエルの民に、神をまこととするように呼びかけたのでした。「わたしはわが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしを贖われました。あなたは空しい偶像に心を寄せるものを憎まれます。しかしわたしは主に信頼し、あなたのいつくしみを喜び楽しみます」。(詩篇 三一篇五〜七節 協会訳)
わが魂を御手に委ねるというのは、自分の全存在を御手に委ねるという意味です。わたしを贖って御自分のものとして下さった方は誠実そのものの方であるから、いまわたしの見えるところがどのような苦境であれ、この全存在と全生涯を安心してお委ねしますということです。神はひとたび選ばれたイスラエルを決して見捨て給うことがありません。イスラエルがあのように神の御子を殺して、その罪のためにあのような悲惨な歩みをしなければならないとしても、神の信実は変わることがないのです。イスラエルは必ず救われるのです。神の信実というのは何千年という歴史を貫いて変わることがありません。わたしたちの思いを越えた誠実さです。イスラエルはこの方の信実に頼って歩んできました。「あなたのいつくしみはわたしの目の前にあり、わたしはあなたのまことによって歩みました」。(詩篇 二六篇三節 協会訳)
神の信によって生きてきたとこの詩人は告白しています。この生き方がわたしたちのいう信仰なのです。自分の意志の強さで生きるのではないのです。神の信実によって生きるのです。これが信仰生活です。例えば、聖霊を与えると言われたならば、時と場合によりその形はわたしたちの思いをはるかに超えたものになるでしょうが、神は必ず与えて下さいます。必ず与えて下さるものだったら、まだ体験していなくても、もういただいたものとして感謝しておればよいのです。この神の信実だけに基づいて行為するのが信仰です。山を動かす信仰
イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に動き出して海の中に入れと言い、その言ったことは必ず成ると心に疑わないで信じるなら、そのとおりになるであろう」。 (マルコ福音書 一一章二二〜二三節)
これはイエスが最後にエルサレムにお入りになって神殿を清め給うた頃のお話です。イエスが空腹を覚えていちじくの木のところに来られた時、実がなかったのでその木にはいつまでも実がないようにと言われましたところ、翌朝その木が枯れていました。これは、そのとき大いに驚いた弟子たちに向かって言われたイエスのお言葉です。これが神を信じるということの中身だということです。マルコ福音書一一章二二節の「神の信をもて」という言葉について、詳しくは拙著『マルコ福音書講解U』29頁以下の「絶信の信」の項を参照してください。
使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増して下さい」と言った。そこで主が言われた、「もしからし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」。(ルカ福音書 一七章五〜六節)
ここで使徒たちは「わたしたちの信仰を増して下さい」と言っています。使徒たちは信仰というのは自分の意志と力の問題で、もっと強くされたいと思っていたようです。それに対してイエスの答えは意表を衝くものでした。からし種というのは最も小さいものの譬ですが、どんなに小さくてもそれが本物の信仰であるなら、桑の木に向かって海に植われと言えばそうなると言っています。信仰というのは量の問題ではなく質の問題だということです。あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜をする僕があるとする。その僕が畑から帰ってきたとき、彼に「すぐ来て食卓につきなさい」と言うだろうか。かえって「夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで飲み食いをするがよい」と言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも命じられたことを皆してしまったとき、「わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」と言いなさい。 (ルカ福音書 一七章七〜一〇節)
僕というのは主人から命じられたことをしたとしても何ら主人に対して恩を売ったことにならない。当然のことである。だから僕が仕えたからと言って主人は僕に感謝する立場ではなく、むしろ僕のほうが主人に対して、僕としてなすべきことをしているに過ぎない無益な僕であると自覚すべき立場です。自分の意志の強さによって行うのではなく、主人の言葉だから行うのであって自分のほうには何も誇るところがない。ここがこの譬の要点ではないかと思います。信仰というのはそういうものです。神の言葉だから行えばそれでよいのです。何故行うのか、それはその言葉を発した方が信実だからです。少しでもその方が偽りを言う方だったら、自分の人生をその方の言葉に任せていくことは危なくてできません。何故一回きりの人生を、時には生命をかけて神の言葉にかけていくのか。それは絶対に間違いのない信実なる方の言葉だからです。だからわたしたちは安心してその言葉にかけてその言葉どおりに生きていくのです。神の信実の顕現
わたしたちは信仰生活というのは自分の意志の力でやっているんだと思っていました。ところが神様の信実がわたしを動かしているんだということに気づいたとき、わたしの信仰生活の土台は永遠の岩のような神の信実の上に乗ることになりましたので、とても楽になりました。何も力まなくても、頑張らなくても、じっと神様の言葉を聞いていればよいのです。ひとたびその言葉を聞けばその言葉が直ちに真理であります。「未だ」ということはありますが、それはわれわれの目には「未だ〜でない」ということであって、神の世界では既に成っているのです。わたしたちが地上にいる限り復活は未だです。けれども神がそう語っておられるなら、それは確実なる事実です。その事実を保証するのは何か。わたしの理解ではない、わたしの確信でもない、神の信実だけであります。ときにはわたしの心はぐらつきます。とてもそんなことはまともな人生の内容にはなりえないのではないかという心配がよぎります。しかし神がキリストにおいて明確に語り給うたことであるなら、絶対に事実であります。神はキリストをこの終わりの時にこの世界に送ることによって、ご自分の信実を証明されたのです。「わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである」。(ローマ人への手紙 一五章八〜九節)
「わたしたちがあなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり』と同時に『否』となったのではない。そうではなく、『しかり』がイエスにおいて実現されたのである。なぜなら、神の約束はことごとく彼において『しかり』となったからである。だから、わたしたちは彼によって『アーメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである。あなたがたと共にわたしたちをキリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは神である。神はまた、わたしたちに証印を押し、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜ったのである」。(コリント人への第二の手紙 一章一八〜二二節)
キリストという方において神の約束がしかりとなったとありますが、この「しかり」という言葉がヘブライ語で「アーメン」なのです。だからわたしたちが神に向かってアーメンと唱えるとき、それは「神よ、あなたはまことに信実な方です。あなたの言葉はそのまま事実です」ということを告白し讃美しているのです。だからこのアーメンという言葉ほどわたしたちの信仰の姿を一言で示している言葉はほかにありません。まさにわたしたちの信仰というのはアーメンによって生きる生涯です。神に対するアーメンです。神をしかりとするのです。神をしかりとする態度に対して、神は必ず聖霊という保証を与えて、その神を信ずるという在り方が決して頭の中の問題でなく、生命の現実になるものだということを保証して下さるのです。その御霊がますますわたしたちをしてアーメン、しかりを言わせる原動力になってくるのです。「たといわたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることができないのである」。(テモテへの第二の手紙 二章一三節)
わたしたち人間ほど不信実で嘘つきはいません。誠実であろうとしてもできないという弱さがあるのです。だから人生においてたいていは人間の不信実につき当たって落胆したり悲しい思いをしたりするものです。わたしも昔、信頼していた人に裏切られて行き場がなくなって、神の前に己れを投げ出して祈っているうちに、そうだ、このように助けを求めて祈っている神がもし偽りであるならもう人間は生きていけないのだ、神の信実が最後の拠り所なんだというところにまで追いやられました。その体験が神の信実を見出す一つのきっかけになったのです。人間は不信実だけれども、神とキリストは常に信実です。神は自分を偽ることができない方です。それは神の本質に反することだからです。