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87 ピラトの法廷  15章 1〜15節

 1 夜が明けるとすぐに、祭司長たちは長老や律法学者たちと一緒に、全最高法院で議決をして、イエスを縛って引き出し、ピラトに引き渡した。 2 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王か」。イエスは答えて言われた、「そう言うのはあなたの方だ」。 3 すると祭司長たちはイエスのことを多くの罪状をあげて訴えた。 4 そこでピラトは再びイエスに尋ねて言った、「何も答えないのか。見よ、あなたに対してこんなに多くの訴えがされているではないか」。 5 ところが、イエスはもう何も答えようとされなかったので、ピラトは驚いた。  6 さて、ピラトは祭の度ごとに、民衆が願い出る囚人を一人釈放することにしていた。 7 ところで、暴動のさい人殺しをして捕らえられていた暴徒の中に、バラバと呼ばれている男がいた。 8 群衆が押し寄せてきて、ピラトがいつもしてきたようにしてもらいたいと要求し始めたので、 9 ピラトは彼らに答えて言った、「ユダヤ人の王を釈放してほしいのか」。 10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは妬みによることを、ピラトはよく知っていたからである」。 11 ところが、祭司長たちはバラバの方を釈放してもらうように、群衆を扇動した。 12 そこで、ピラトは再び群衆に答えて言った、「それでは、おまえたちがユダヤ人の王と呼んでいるこの人を、どうして欲しいのか」。 13 ところが、群衆は「十字架につけよ」と繰り返し叫んだ。 14 ピラトは彼らに言った、「彼はどんな悪事を働いたというのか」。ところが、群衆はますます激しく「十字架につけよ」と叫んだ。 15 そこでピラトは、群衆を満足させようと思ってバラバを釈放し、イエスを鞭打った後、十字架につけるために引き渡した。

ピラトに引き渡す

 夜が明けるとすぐに、祭司長たちは長老や律法学者たちと一緒に、全最高法院で議決をして、イエスを縛って引き出し、ピラトに引き渡した(一節)。

夜中に行われた審問は、大祭司カイアファによる予審であった。正式の法廷は夜間に開くことはできなかったのである。すでに議員全員が集められていた。その審問の場で全議員はイエスが神を汚す言葉を語るのをその耳で聞いた。夜が明けるとすぐに、全最高法院は正式の法廷を開き、ただちに判決を下した。この節で「全最高法院」が改めて言及されているのは、これが正式の法廷であることを強調している。
ここで「議決をして」と訳した語は、「相談した後」(新共同訳)とも訳すことができるが、ここでは相談の結果としての決定に重点が置かれているので、「議決」としておく。最高法院の判断としてはすでに死刑が決定しているが(一四章六四節)、この決定を夜が明けてからの正式の法廷で形式的にも確定すると共に、当時の最高法院には死刑を執行する権限がなかったので、死刑執行権をもつローマ総督に引き渡してイエスを処刑することをも含めて、「議決」したと見ることができる。
当時の最高法院に死刑執行権がなかったことは、ヨハネ福音書(一八・三一)がこう証言している。「ピラトが、『あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け』と言うと、ユダヤ人たちは、『わたしたちには、人を死刑にする権限がありません』と言った」。この証言については議論があるが、決定的な反証はない。もし最高法院に死刑執行権があるのであれば、イエスをピラトに引き渡した理由が理解できなくなる。たしかに同じ属州シリア内でも、ガリラヤなどの地域の領主たちは裁判権も死刑執行権も持っていた(ヘロデは洗礼者ヨハネを処刑している)が、ローマ総督の直轄地であるユダヤは事情が違ったようである。ユダヤが六年に総督直轄領になって以来、ユダヤ教の法によって下された死刑判決をローマ固有の法に基づいて検閲し、その上で執行する権限がローマ当局側に留保されていたとされる(ローゼ)。
ユダヤ総督府の所在地はカイサリアであるが、全国のユダヤ人が集まる過越などの大祭には、総督ピラトは都の治安維持のためエルサレムに滞在した。この機会をとらえてイエスを直ちに処刑するため、最高法院の全議員がピラトの官邸に出向いて、イエスを引き渡し、処刑を訴え出た。
 ピラトの人物像を描くには資料が少なすぎるが、ユダヤ教側の資料(おもにヨセフスとフィロン)から見るかぎり、彼の統治は強権を用いた暴虐な行為が多かったようである。ピラトはローマの騎士階級のポンティウス家の出身で、ティベリウス帝の一二年(紀元二六年)に、帝の腹心で反ユダヤ主義者のセヤヌスの後押しで、ユダヤの第五代総督に任命され、三六年に失脚するまで十年にわたって総督としてユダヤを統治した。その間、皇帝礼拝に用いられた皇帝の肖像をつけた軍旗をもたせて軍団をエルサレムに進駐させたり、皇帝礼拝を象徴するひしゃくや杖を刻んだ貨幣を発行したり、水道の建設のために神殿の財宝を使用したりして、ユダヤ人の宗教感情を刺激し、彼らの憤激を引き起こしている。そして、反抗する者たちを無慈悲に虐殺さえしている(ルカ一三・一参照)。(フィロンによると)ヘロデ・アグリッパは皇帝カリグラへの手紙の中でパレスチナにおけるピラトの横暴について、「買収、暴行、略奪、虐待、挑発、裁判なしの処刑、恣意的な残虐行為」は日常茶飯事であったと書いている。最後にゲリジム山の神殿財宝に関する事件でサマリヤ人を殺害したことで訴えられ失脚する。
 すこし後の六〇年代に爆発するユダヤ人の反ローマ武力闘争は、ローマ帝国の属州統治が比較的寛容であったにもかかわらず、歴代総督の強権と強欲による横暴とユダヤ人の宗教感情を無視した愚行の結果であるとされるが、ピラトの統治もその典型として、ユダヤ人側から見るかぎり暴虐に満ちたものであったようである。反面、十年という比較的長期間にわたって総督の地位を保った事実は、彼の政治家として巧妙さを示している。

あなたが言う

 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王か」。イエスは答えて言われた、「そう言うのはあなたの方だ」。(二節)

ピラトがイエスに対してなした尋問の主旨は、「あなたがユダヤ人の王か」という一つの問に要約されている。大祭司らがピラトに訴え出た訴因は何も報告されていないが、ピラトの尋問の主旨から見て、イエスはメシアを自称し、ローマに対する反逆を扇動する者であるとして訴えたことは十分推察できる。ルカ福音書(二三・二)はピラトへの訴えの内容をこう伝えている。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」。
 すでに見てきたように、当時のユダヤ人の間には「ゼーロータイ」(熱心党)の運動がかなり浸透していた。彼らは律法順守の熱意から、異教徒ローマの支配を拒んだのである。彼らの反ローマ運動は、具体的には皇帝への納税拒否という形をとった。ローマ皇帝に税を納めることは、その支配を認めることであって、「わたしの他に何者をも神としてはならない」という第一戒に背くことだとしたのである。そのようなゼーロータイ運動の指導者の中には、自分を神から油を注がれて王とされたメシアだと称して、ローマ皇帝ではなく自分への服従を民衆に要求する者も現れたのである。
 最高法院はイエスを神を汚す者という宗教的な理由で死刑に定めたのであるが、ローマの支配者たちはユダヤ人の律法問題(宗教問題)に関心がないことは分かっていたので、ピラトの法廷に訴え出るときには、反ローマ運動の扇動という政治的理由で訴えて処刑を求めたのである。彼らはさきに、イエスから皇帝への納税を否定する言葉を引き出そうとして失敗している(マルコ一二・一三〜一七)。また、イエスをキリストとして宣べ伝えた教団伝承の影響を差し引けば、福音書においてもイエスが自分をメシアだと主張されたことを示唆する事実はない。彼らがイエスをゼーロータイの頭目として訴えたのはまったく根拠のない讒言(ざんげん)であり、イエスの処刑を得るための策略であることは明らかである。
 訴えを受けたピラトはイエスを尋問する。「あなたがユダヤ人の王か」というピラトの問には意外さと驚きが感じられる。さらに、先に見たピラトの人物像からすれば、軽蔑の感情が込められていると見てよいであろう。縛られてピラトの前に立つのは三十才代の普通のユダヤ人、彼に届いている情報によれば、ガリラヤの寒村の大工の息子で、最近僅かの数の弟子を連れてガリラヤの村々に新しい教えを説いて回り、貧しい民衆の帰依を得ていたというが、昨夜はローマ守備軍に対して何の抵抗もせず、弟子達からも見捨てられて逮捕されたという。このような人物がユダヤ人の王であると自称して、大規模な反乱を企てるとはとても考えられない。驚きと軽蔑をもってピラトはイエスに尋ねる、「あなたがユダヤ人の王か」。
 ピラトの問に対してイエスは言われる、「そう言うのはあなたの方だ」。このイエスの答のギリシア語原文《シュ・レゲイス》を直訳すると、「あなたが言う」だけである。この答については解釈が分かれている。これを「あなたの言うとおりである」と、イエスがピラトの問を肯定されたと理解する解釈がある。しかし、「あなたが言う」という文を問に対する肯定の応答と理解するのは無理がある。なによりもイエスの宣教の内容全体からして、イエスが自分を「ユダヤ人の王」とされたと見ることは困難である。
 この言葉の解釈の鍵は、《シュ(あなた)》という人称代名詞が使われていることである。ギリシア語の動詞は語尾変化だけで動作の主語を示すので、普通は主語の人称代名詞は用いられない。わざわざ主語の人称代名詞を用いるのは、その動作をする者を強調したいときだけである。それで、ここで《シュ》が用いられているのは、それを言う者が他の者ではなくあなただという意味で、「あなたが」が強調されていることになる。イエスはこう言っておられるのである、「それを言うのはあなただ」。
 イエスがユダヤ人の王であると言い張るのは、イエスご自身ではなく、イエスをピラトに訴えたユダヤ人たちであり、それを受けてイエスをローマへの反逆者として処刑しようとしているピラトの方である。イエスはすでにご自身の受難が神の定めによるものであることを受け入れておられる。そして、いまピラトがイエスの処刑を実行する立場にある神の道具であることも認めておられる。ローマに対する反逆者を意味する「ユダヤ人の王」という称号を、ピラトが処刑の理由として言い張ること、いやそう言い張らざるをえないことも見抜いておられる。それで、ピラトの「あなたがユダヤ人の王なのか」という問に対して、「わたしがユダヤ人の王であると言うのは、わたしではなく、あなたの方だ」とだけ言って、後はいっさい沈黙を通される。この一言に、イエスがいかに透徹した目で全事態を把握しておられるかが示されている。
 ここの《シュ・レゲイス》をこのように理解すべきことは、ヨハネ福音書によって支持される。この言葉は、イエスがピラトの法廷で発せられたただ一つの言葉として重要視され、大切に伝承されたのであろう。マルコとそれに従うマタイ、ルカの共観福音書はそれをそのまま伝えているが、すでに初代の教団においてこの言葉の意味の理解が困難に感じられていたのであろうか、ヨハネ福音書の著者は彼独自の解釈を施した上でこの言葉を用いている。
 ヨハネ福音書(一八・二八〜三八)では、「お前がユダヤ人の王なのか」というピラトの問に、イエスは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と問い返される(三四節)。ここでまず《シュ・レゲイス》は「あなたが言うのか」という確認の問として用いられている。そして、イエスの「わたしの国はこの世には属していない」という宣言に対して、ピラトが再度「それでは、やはり王なのか」と問いかけたのに対して、イエスは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と答えられる(三七節)。ここで明らかに、「あなたが言う」は「わたしが王であると、あなたが言う」という構文で用いられている。ヨハネ福音書は伝承された《シュ・レゲイス》の一言を、われわれがここでとった解釈と同じ解釈で用いているのである。
 なお、マタイ福音書(二六・六四)とルカ福音書(二二・七〇)が、最高法院において大祭司の「お前はメシアか」の問に対して、イエスが「あなたが言う」という言葉で答えられたとしている記事は、ピラトの法廷におけるイエスの答え方に影響されて形成された可能性がある。最高法院の審問とピラトの法廷の記事に類似があることは学者によって指摘されているが、これは最高法院の記事がピラトの法廷の伝承から影響を受けた結果と見るべきであろう。ピラトの裁判は公開であるから、イエスのこの「あなたが言う」の一語は一般によく知られ、きわめて重要な主の言葉として大切に伝えられていたはずである。それに対して最高法院の場面は弟子たちが直接目撃したのではないのであるから、その核心部分は出席者の証言に基づくものであっても、その語り方は他からの影響によって自由に形成される余地が多いからである。

 すると祭司長たちはイエスのことを多くの罪状をあげて訴えた。そこでピラトは再びイエスに尋ねて言った、「何も答えないのか。見よ、あなたに対してこんなに多くの訴えがされているではないか」。ところが、イエスはもう何も答えようとされなかったので、ピラトは驚いた。(三〜五節)

 イエスをピラトの法廷に訴え出た祭司長たちは、イエスの宣教活動の些細な言動を捉えて、イエスがいかに民衆の反ローマ感情を扇動する危険な人物であるかを言いたてる。それに対してイエスはもはや一言も答えようとはされない。普通訴えられた者は自分の無罪を主張して、訴えの一つ一つに反論するものである。ところが、イエスはいっさい反論されず、黙ってピラトの前に立っておられる。この尋常でない被告の態度にピラトは驚く。それだけでなく、おそらくピラトは、自分を死に追い込もうとする激流の中で、このように泰然と黙すことができる人物の威厳と神秘に打たれて、畏怖を覚えたのであろう。
 ピラトの法廷でイエスが語られたのは、「あなたが言う」の一言だけである。福音書はこの法廷の場面を物語るときも、さきの最高法院の場面と同じく、イエスの沈黙を印象づけようとする。福音書記者マルコは、二つの法廷でのイエスの沈黙にイザヤ書五三章の「主の僕」の姿を見ていたのであろう。そこでは彼についてこう書かれている。

 「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」。(イザヤ五三・七)

バラバの釈放

 さて、ピラトは祭の度ごとに、民衆が願い出る囚人を一人釈放することにしていた(六節)。

このような慣行はローマ側の資料にもユダヤ教側の資料にもないので、歴史的事実であったかどうか疑問視されている。しかし、六年にユダヤがローマ総督直轄領になったとき、最高法院から死刑執行権が取り上げられた代償にこのような特赦の権利が与えられた可能性がある。あるいは、三一年にピラトの後盾であり反ユダヤ主義者のセヤヌスが失脚するのであるが、その前後の時期ピラトは自分の地位を護るためにユダヤ人の歓心を買う必要を感じていたので、このような特赦を与えていた可能性もある。

 ところで、暴動のさい人殺しをして捕らえられていた暴徒の中に、バラバと呼ばれている男がいた。(七節)

 ここで「暴徒」と訳した語《スタシアステース》は、《スタシス》(暴動)を扇動したり参加したりする者のことである。本来「追い剥ぎ強盗」の類を指す《レーステース》もゼーロータイ運動家を指すのに用いられている(マルコ一五・二七、なお詳しくは一四章四八節の講解を参照)が、《スタシアステース》には強盗の意味はなく、「革命家」の意味が強い。当時はゼーロータイ運動の高まりの中で、反ローマ暴動が頻発していた。その運動はしばしばテロ活動も伴っていたので、「革命家」は「人殺し」として逮捕され処刑されることも多かったのである。
 「バラバ」という名前は「バル・アッバ」(師父の子)の意味であって、彼は著名な学者の子であったと推察される。おそらくこれは本名ではなく、指導的革命家に民衆から敬愛の念をこめて与えられたニック・ネームであろう。彼の本名は分からないが、マタイ福音書のある写本で「イエス・バラバ」と呼んでいるものがあり、新共同訳はこの写本を採用してこう訳している。「そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか』」(マタイ二七・一六〜一七)。イエスという名は当時のユダヤ人の間では珍しい名ではなかった。この訳によって、どちらのイエスを選ぶかが問題点となり、この場面の劇的性格が強調される。ナザレのイエスが宣べ伝えた恩恵の支配としての霊的・終末的神の支配か、バラバ・イエスが指導した武力闘争によって異教徒支配を覆し神の支配を実現しようとする路線か、どちらを選ぶかの選択がピラトによってイスラエルに突きつけられているのである。イスラエルはバラバを選ぶことによって破滅への道を突き進むことになる。

 群衆が押し寄せてきて、ピラトがいつもしてきたようにしてもらいたいと要求し始めたので、ピラトは彼らに答えて言った、「ユダヤ人の王を釈放してほしいのか」。(八〜九節)

マルコではピラトは群衆の要求に応えてイエスの釈放を提案しているが、マタイ、ルカ、ヨハネではピラトの方から進んでイエスの釈放を提案している。いずれの場合も、福音書はピラトがイエスの釈放を積極的に提案した様子を伝えている。このような書き方は、キリスト信仰はローマの支配に反するものではないことをアピールしようとする教団の護教的動機から出た側面もあるが、この場合ピラトは実際にイエスを釈放しようとしたのだと考えられる。その理由としては、ピラトのように横暴な支配者が、自分が軽蔑しているユダヤ人の法廷からの要求をすんなりと執行するような操り人形になりたくない、むしろ普段なにかと対立している最高法院にこの機会に一矢を報いたいという動機が考えられる。さらに具体的な理由として、ピラトが置かれている状況も考えられる。ローマにおける彼の有力な保護者であるセヤヌスが失脚する(三一年)前後の時期、ピラトは地位を保持するために細心の注意を払わなければならない立場にあった。軽率に死刑を執行して、後でその正当性を問題にされて皇帝や上級の法廷に訴えられたり、民衆を刺激して暴動を誘発し責任を問われるようなことになれば、総督の地位を失い、ひいては政治生命も失いかねない。事実数年後、ピラトは数人のサマリヤ人を殺害したとシリア総督府に訴えられ失脚する(三六年)。
イエスの裁判でピラトは窮地に追い込まれる。この時期にイエスに無罪判決を出して、最高法院が正式に下した死刑判決の執行を拒否すれば、対立は決定的となり自分の地位を脅かすような結果になりかねない。他方、反ローマ暴動の証拠は何もないイエスを処刑すれば、後でその正当性を問題にされたり、イエスを支持する民衆の暴動を誘発しかねない。しかもイエスは何ひとつ反論しないので、有罪にせよ無罪にせよ判決を下す手がかりがない。この窮地を脱するために、ピラトは祭の時の特赦を利用する。狡猾な政治家ピラトは、最高法院の死刑判決を拒否しないで、しかも民衆の満足を得る逃げ道を見つける。この時点ではピラトは民衆がイエスの釈放を望んでいると考えていたのであろう。

 祭司長たちがイエスを引き渡したのは妬みによることを、ピラトはよく知っていたからである。(一〇節)

ピラトがイエスの釈放を提案した動機を、福音書記者はこのように説明する。第三者がピラトの内面を正確に知ることはできないのであるから、これは教団の理解を示していると見てよい。すなわち、教団は、祭司長たちがイエスをピラトに引き渡したのは妬みによると理解していたのである。祭司長や律法学者がイエスを殺そうとしたのは、イエスが律法問題で根本的に彼らと対立したので、イスラエルを背教に導く異端の教師として弾劾したからであることを、教団は知らないわけではない(たとえばマルコ三・六)。しかし、ユダヤ教側と対立を深めていった初期のキリスト教団は、彼らのイエスに対する殺意を人間の中にある最もサタン的な心情である「妬み」に帰すようになる。その方が律法問題を十分理解できない異邦人には分かりやすいという面もある。
すべての紛争や殺意は妬みから発すという理解は、カインのアベル殺しから始まって旧約聖書に連綿と続いている。捕囚期には、天使が神に背いて堕落しサタンになったのも妬みによるという理解に至っている。この伝統を受け継いで使徒たちの手紙でも、嫉妬がいつもサタン的な罪として悪徳表に含まれ、聖霊による愛によって克服すべきことが求められている。このような教団の伝統は、一世紀の終わりころにローマのクレメンスが書いた手紙によく現れている。彼は嫉妬によって「死は世に入ってきた」と言い、アベルから始めてダビデに至るまで、嫉妬によって苦しみを受けた事例をあげ、さらにペトロやパウロの殉教まで嫉妬によるものとしている。
このような伝統の中にいる教団が、イエスの受難も祭司長たちユダヤ教指導者の嫉妬によるとしたのは自然なことである。嫉妬は人間に本性的な自己主張と表裏一体である。自分の価値を主張してやまない人間本性は、自分よりも優れていたり恵まれている他者を認めることはできない。そのような他者を憎み、その存在さえ抹殺したいと願う。これはまさに人間本性の中に深く染み込んだサタン的心情である。自分たちの宗教に反対するイエスの中に、神の権威と祝福の現実を感じたユダヤ教指導者たちは、理屈ぬきに嫉妬の情に駆られ、イエスを殺すために策略をめぐらし、ピラトに引き渡したのである。

 ところが、祭司長たちはバラバの方を釈放してもらうように、群衆を扇動した。(一一節)

公開の裁判の場で祭司長たちはどのようにして「群衆を扇動した」のであろうか。イエスの処刑を最も熱心に求めていたのは祭司長たちであるから、真っ先にバラバの釈放を求める大声を上げたのであろうか。彼らは何らかの形でイエスではなくバラバの方を釈放するように要求する動きのイニシァティヴをとったのであろう。群衆は直ちに祭司長たちに追随してバラバの釈放を求めるようになる。
群衆がバラバの釈放とイエスの十字架刑を求めた(次節)のは祭司長たちの扇動によるとしたのは、教団の説明である。たしかに祭司長たちの扇動も事実であろう。しかし、群衆がかくも容易に祭司長たちに追随してバラバの釈放を求めるようになった背景が重要である。
バラバは先に見たように民衆の間で評判の高い反ローマ運動の指導者であった。群衆が容易に祭司長たちと一緒になって叫んだ事実は、群衆の中にもバラバの釈放を求める動機が十分にあったことを示している。群衆はバラバを自分たちの指導者として尊敬していたのである。ナザレのイエスよりもバラバの方に深い共感を抱いていたのである。このことは、当時ゼーロータイの運動がいかに深くイスラエルの民の中に浸透していたかを物語っている。
福音書はイエスの宣教活動が民衆の中に大きな反響を呼び、病人を含む大勢の人々がイエスのもとに集まってきた様子を描いている。たしかに、それは事実である。しかし、時代の大勢はゼーロータイが主張する方向に動いていた。神の民イスラエルは、律法を順守するためには力をもってローマの支配を覆さなければならないという気風が、民衆の間に浸透していた。とくに青年は「熱心党員」として積極的に活動した。民衆がゼーロータイ運動の方向にますます傾いていったことは、三十数年後には全国民を巻き込んで反ローマ武装鋒起が勃発した事実が雄弁に物語っている。イエスの活動と死には、時代のゼーロータイ的傾向が色濃く影を落としている。
このような流れの中で、イエスの霊的な「神の国」運動に従う者は少数派であった。イエスは大勢を見抜いておられた。イスラエルが結局イエスの「神の国」の呼びかけに応えることなく、自分の力でローマの支配を覆そうとする方向に走ることを見抜いておられた。その行き着く所は破滅である。イエスがエルサレムと神殿の崩壊を予言されたのも、この時代の大勢を見抜いた預言者的洞察の結果である。
群衆がバラバの釈放を求めたのは、このような時代のしるしであると見ることができる。

十字架につけよ

 そこで、ピラトは再び群衆に答えて言った、「それでは、おまえたちがユダヤ人の王と呼んでいるこの人を、どうして欲しいのか」。ところが、群衆は「十字架につけよ」と繰り返し叫んだ。(一二〜一三節)

 祭の時の囚人の釈放は一人だけであるから、バラバを釈放すればイエスを釈放することはできなくなる。では、イエスはどうすればよいのか、とピラトは尋ねる。ピラトはイエスの処刑を求めているのは祭司長たちユダヤ教指導者であって、民衆はイエスを敬愛し釈放を願っていると考えていた。祭司長たちはイエスを「ユダヤ人の王」を自称する者、すなわち皇帝の支配に反抗する者として訴えてきたが、民衆はイエスを尊敬する指導者として仰ぎ、自分たちの王になってほしいと願っていると見ていた。ピラトが民衆をそのように見ていたことは、「おまえたちがユダヤ人の王と呼んでいるこの人」という言い方に示されている。それで、最高法院の正式判決を尊重しながら、民衆の憤激を避けるために、祭の特赦を利用するという逃げ道を考えついたのである。
ところが、群衆はバラバの釈放を求めている。群衆がイエスの釈放を求めるであろうというピラトの予想は外れた。それどころか、バラバの釈放を求める熱意の反面か、群衆はイエスの方を十字架につけるように激しく求めている。
本来十字架につけられるはずのバラバが釈放されて、彼がつけられるはずであった十字架にイエスがかけられる。この事実は、罪のないイエスがわたしたちの罪のために死なれたという十字架の意味を指し示す象徴的な出来事であるとして、教団は重要視した。それは、四福音書がそろって報告していること、しかもバラバに関する記事がピラトの法廷の記事の大きな部分を占めていることからも十分うかがえる。

 ピラトは彼らに言った、「彼はどんな悪事を働いたというのか」。ところが、群衆はますます激しく「十字架につけよ」と叫んだ。(一四節)

群衆もイエスの処刑を求めていることがはっきりしたが、それでもなおピラトはイエスの処刑をためらう。処刑の理由になる「悪事」を明確にして、裁判の正当性を納得させなければならない。そうでないと、後で処刑の正当性を問題にされて苦しい立場に立たされることになりかねない。ピラトが「彼はどんな悪事を働いたというのか」と尋ねたのに対して、群衆は何も具体的な「悪事」を上げることなく、ただ「十字架につけよ」と叫ぶだけであった。
この節の書き方には、イエスには十字架刑に相当するような「悪事」は何もないこと、とくにローマ支配への反抗という非難は根拠がないことをアピールしようとする教団の護教的動機が感じられる。

 そこでピラトは、群衆を満足させようと思ってバラバを釈放し、イエスを鞭打った後、十字架につけるために引き渡した。(一五節)

 ピラトはついに群衆の圧力に屈し、バラバを釈放し、十字架刑に相当する「悪事」を何も見いだすことがないまま、イエスの処刑を決定する。鞭打った後、十字架につけるために守備軍団にイエスを引き渡した。十字架刑に処せられる者は、十字架につけられる前に鞭打たれることになっていたのである。
 ヨハネ福音書(一九・一〜一二)によれば、この鞭打の段階で、ピラトはもう一度イエスを釈放する努力をしている。鞭打たれた後、茨の冠をかぶらされ紫の服を着せられたイエスを群衆の前に引きだし、「見よ、この人だ」と言っている。これは、ピラトがイエスに何の罪も見いだせないことを示して、ピラトとしてはイエスを釈放したいのだということを確証するためだと、福音書は説明している。しかし、ピラトのイエスを釈放しようとする努力も、「もしこの男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」というユダヤ人の脅しによって止めを刺される。「皇帝の友」の称号を失うことが何を意味するかを、ローマの政治家ピラトはよく理解していた。皇帝の庇護を失い、結局は自殺に追い込まれかねないのである。
 こうして、ピラトの法廷は法と良心に基づく裁判ではなく、政治的な力のせめぎ合いの中で決定された理不尽なものであることが描かれる。イエスは「暴虐なさばきによって取り去られた」(協会訳イザヤ五三・八)のである。

だれの責任か

福音書のピラトの法廷の記事は一貫して、ピラトがイエスを釈放しようとしたことを強調している。この傾向はマルコ福音書においてもすでに明白であるが、以後のマタイ、ルカ、ヨハネになるとますます強くなる。ピラトがイエスの無罪を主張したり、釈放しようとしたり、すくなくともイエスの裁判に関わりたくないという態度を示したりすることが、バラバの件は共通であるが、それ以外のさまざまな形で描かれるようになる。
マタイ福音書(二七・一九〜二五)では、ピラトの妻が夢で苦しみ、「あの正しい人に関係しないでください」という伝言を法廷に送ってきたこと、また、群衆の圧力に屈したピラトが水で手を洗って、「この人の血について、わたしには責任がない」と言ったこと、ユダヤ人たちが「その血の責任は、我々と子孫にある」と叫んだことが伝えられている。
 ルカ福音書(二三・五〜一二)は、イエスの活動がおもにガリラヤで行われたこと、およびイエスがガリラヤ人であることを知ったピラトが、イエスをガリラヤの領主であるヘロデの保護に委ねようとして、ちょうどエルサレムに滞在していたヘロデのもとにイエスを送ったことを伝えている。ピラトはイエスの裁判に関わることから逃れようとしたのである。
 ヨハネ福音書(一九・一〜六)では、先に触れたように、最後の鞭打ちの段階でも、ピラトがイエスの無罪を示し、釈放する努力をしたことが語られている。
 このような福音書の記事は、そのような出来事が実際にあったのかという歴史性については批判がある。しかし、これらの記事は、教団の伝承がイエスの裁判に関して、ユダヤ人の責任を重くし、ローマの責任を軽く描こうとする傾向にあったことを雄弁に物語っている。この傾向は、一つには初期の教団とユダヤ教との対立が深刻になってゆく状況が背景にあると考えられる。イエスをキリストと告白する教団は、初期においてはユダヤ教の律法の枠内に留まっていたが、パウロをはじめヘレニズム世界に進出した教団は律法の枠を超えた信仰を宣べ伝え、ユダヤ教側と対立するようになる。この対立は七十年の神殿崩壊以後、ファリサイ派の主導の下でのユダヤ教再建の中で律法順守が強調されるにともない、ますます深刻になり、ついに九十年代のヤムニアの最高法院は、イエスを信じるユダヤ人を異端として会堂から追放するに至る。四福音書はすべてこのような時期に成立したものであり、イエスの十字架刑についてユダヤ教側の責任を重くし、その分ローマ側の責任を軽くする傾向を示すようになったと見ることができる。
 第二の背景として、ローマ帝国が支配するヘレニズム世界に福音を宣べ伝えるにさいして、イエスが反ローマの危険人物でなかったことは総督ピラトも認めているところであり、したがってイエスを信じる者の群れである教団もローマ帝国において有害なものではないことを示そうとする教団の護教的動機が考えられる。
 このような背景から福音書はイエスの処刑についてピラトの責任を軽くしようとする傾向が見られるが、実際はローマ側がイエスの処刑に積極的に動いたという可能性もある。イエスの逮捕にローマの軍団が出動していることや、最高法院からの訴えを受けてからきわめて短時間に判決を下し処刑していることから見て、ローマ側もイエスのもとに集まる民衆が反ローマ暴動に走るのを警戒し、最高法院と密接に連絡をとりながら、イエスの逮捕と裁判を進めたこともありうる。
 他方、イエスの裁判に関するピラトの逃げ腰と弱腰は、講解の中で触れたように、当時ピラトが置かれていた立場が微妙なものであったので、ユダヤ人の歓心を買う必要があったためだと見ることもできる。福音書に描かれているピラトは、他の資料に見られる横暴な権力者としてのピラト像と矛盾することが指摘されているが、当時の状況からすれば、保身を第一に考える狡猾な政治家ピラトがあのような優柔不断の態度を見せたことも歴史的事実であったと理解できる。
 このように、ピラトの法廷が実際にはどのような内容であったのか、その歴史的事実を確定することはできない。従って、イエスの処刑に責任があるのは誰か、という問題に決定的な答えを出すことはできない。わたしたちの前にあるのは、特殊な歴史的状況と動機から生まれた福音書の記事だけである。その福音書がイエス処刑の責任をユダヤ人に求める傾向があるからといって、ユダヤ人をキリストを殺した民として憎んだり、苦しめたりすることは、福音書成立の特殊な歴史的状況と傾向を絶対化することになり、聖書の正しい受け取り方とはいえない。
 イエスご自身は、ユダヤ人から告発され、ローマ人によって処刑されることを神の定めとして受け止め、黙ってそれに従われた。その神の定めは「わたしたちの罪のために」、すなわち、わたしたちを罪の支配から解放するための神の業であって、イエスは十字架の死を受け入れることによって、その神の業を成し遂げられたのである。これが旧新約聖書全体が証言する神の救済の業であり、永遠の啓示の出来事である。イエスの十字架の死をこのように自分のためのものとして受け取ることが、聖書の本来の受け取り方であって、特殊な歴史的成立状況や傾向を絶対化することはしてはならない。