85 大祭司の審問 14章 53〜65節
53 それから、人々はイエスを大祭司のところに連れて行った。すると、祭司長、長老、律法学者たちがみな集まってきた。 54 ペテロは遠くからイエスについて行き、大祭司の屋敷の中庭まで入り込み、下役たちにまじって座り、火にあたっていた。
55 さて、祭司長たちと全最高法院はイエスを死刑にするために、イエスに不利な証言を捜したが、見つからなかった。 56 多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言が一致しなかったからである。57 すると、ある人たちが立ち上がり、イエスに不利な偽証をしてこう言った、 58 「わたしたちはこの男が、『わたしは手で造ったこの神殿を打ち壊し、手で造られない別の神殿を三日で建てる』と言うのを聞きました」。 59 しかし、彼らの証言も同じように一致しなかった。
60 そこで、大祭司が立ち上がって、真ん中に進み出て、イエスに問いただして言った、「何も答えないのか。この者たちがおまえを告発しているのはなぜか」。61 ところが、イエスは黙っているだけで何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに問いただして言った、「おまえは誉むべき方の子、メシアなのか」。62 イエスは言われた、「わたしである。あなたがたは人の子が神の右に座し、天の雲と共に来るのを見ることになる」。 63 大祭司は衣を裂いて言った、「どうして、これ以上の証人が必要であろうか。 64 あなたがたはこの神を汚す言葉を聞いた。あなたがたはどう判断するか」。すると、彼らは全員、イエスを死刑に相当すると判決した。
65 それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで打ちたたき、「誰か当ててみよ」と言ったりしはじめた。また、下役の者たちはイエスを受け取って、平手うちをした。
最高法院
ここから逮捕されたイエスの訴訟手続きが始まる。イエスの裁判については、法制史的問題、すなわち属州統治に関するローマの法制とある程度の自治権を持っていたユダヤの最高法院の権限や裁判手続き、とくに両者の関係など、複雑な問題がいまだに学者の間で議論されており未解決の問題が残っている。その上、イエスの裁判に関する福音書の記事は、裁判の公式記録とかそれに基づく報告ではなく、あくまでイエスに関する教団の信仰伝承を素材として福音を宣べ伝えるために書かれた物語である。このような事情から、イエスの裁判の過程を正確に復元することは不可能である。この講解の目的は歴史的事実の正確な記述ではなく、この裁判の物語の中に福音を聴き取ることであるから、歴史的な問題に触れることは必要最小限度にとどめて、福音の理解という本題に集中したいと思う。「それから、人々はイエスを大祭司のところに連れて行った。すると、祭司長、長老、律法学者たちがみな集まってきた」(五三節)。
逮捕されたイエスをまず大祭司のところに連れていったのは、先に見たように逮捕にあたってローマの軍隊が出動していたとしても、大祭司側からの要請によるものであるし、また、結局ローマの法廷に訴えるとしても、ユダヤ最高法院にも裁判の権限はあるのだから、その権限によってイエスをまずユダヤ律法による裁判にかけ、死に値する異端者と断定してユダヤの民に告知する必要があったからである。「ペトロは遠くからイエスについて行き、大祭司の屋敷の中庭まで入り込み、下役たちにまじって座り、火にあたっていた」。(五四節)
この一節は本来、次のペトロの否認を語る物語に属するものであるが、それをこの予審法廷の物語と結び合わせるために、マルコによってここに入れられたのであろう。イエスの逮捕にさいして、ペトロはイエスを見捨てて逃げ去ってしまうのであるが、やはりイエスがどうなるのかを見届けたくて、見つからないように「遠くから」ついて行き、大祭司の屋敷の中庭まで入り込む。ヨハネ福音書(一八・一五以下)は、ペトロが中庭にまで入れたのは大祭司の知合いであった別の弟子の手引によると伝えている。告発
「さて、祭司長たちと全最高法院はイエスを死刑にするために、イエスに不利な証言を捜したが、見つからなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言が一致しなかったからである」。(五五〜五六節)
祭司長たちははじめからイエスを死刑にしょうという意図をもってこの裁判を進めている。緊急の夜中の裁判であるにもかかわらず、イエスを告発する証人を予め捜して集めておいた。ここで「全最高法院」というという用語で、これが議員全員が集まった法廷であることがわざわざ説明されているが、これは夜間の予審法廷であるにもかかわらず、この場でイエスがなされる証言がイスラエルの正式の代表の面前で、したがって全イスラエルに対して行われたものであることを強調するマルコの説明句である。そもそも、この法廷が予審であるか、判決を言い渡す正式の法廷であるかの別は福音にとってはどちらでもよい問題であって、イエスの証言が全イスラエルを代表する最高法院という公式の場でなされたこと、それによってイエスが死に定められたことが重要なのである。そこで、ある人たちが立ち上がり、イエスに不利な偽証をしてこう言った、「わたしたちはこの男が、『わたしは手で造ったこの神殿を打ち壊し、手で造られない別の神殿を三日で建てる』と言うのを聞きました」(五七〜五八節)。
最高法院にとって、とくに中枢を占める祭司長たちにとって許せないのは、神殿に対するイエスの言動である。各地からの巡礼が大勢集まる過越祭の直前、エルサレムに入って神殿で暴力を振るい、祭儀に必要な動物を売る者を追い出し、神殿の崩壊を予言するような言辞を弄する人物を生かしておくことができなかった(一一章一八節参照)。エゴー・エイミ
「そこで、大祭司が立ち上がって、真ん中に進み出て、イエスに問いただして言った、『何も答えないのか。この者たちがおまえを告発しているのはなぜか』」。(六〇節)
最高法院の法廷では、ふつう被告が中央に立ち、大祭司は正面に着座して裁判を行う。呼び集めておいた証人の告発がみな失敗に終ったのであるから、本来ならばここで被告は釈放され、証人が偽証で裁かれなければならない。しかし、イエスを釈放することはできない。いまや大祭司は自ら告発人となるべく異例の行動に出る。彼は裁判長席から立ち上がり、被告として中央に立つイエスのところまで進み出て真正面から向かいあう。大祭司は全イスラエルを代表する人物である。いまイスラエルはこの大祭司の人格において公式にイエスと向いあっている。いったいイエスとは誰なのか。イエスをどのような者として扱うのか。いまイスラエルは公式に決めなければならない。イスラエルの運命を決定するもっとも重大な瞬間である。ところが、イエスは黙っているだけで何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに問いただして言った、「おまえは誉むべき方の子、メシアなのか」。(六一節)
大祭司の策略に対してイエスは沈黙をもって答えられる。この法廷ではイエスは初めからずっと黙っておられる。イエスは民衆の前でその教えをすべて公に語ってこられた。その教えを知っている者たちが、イエスを死に定めようと決意して開いている法廷である。彼らが定めた死が自分に対する神の定めであると、イエスは受け止めておられる。ゲツセマネの祈りにおいて、神の裁きの杯を受けることについて、イエスの心は決着している(一四・四一)。いまイエスは黙ってその定めを受け入れられる。この沈黙のイエスの姿を描くとき、福音書記者は直接引用はしていないが、「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(イザヤ五三・七)という、「主の僕」に関する予言が成就していることを語ろうとしたのであろう。「わたしである。あなたがたは人の子が神の右に座し、天の雲と共に来るのを見ることになる」。(六二節)
イエスの口から驚くべき言葉が発せられる、「わたしである」。ギリシア語で書かれている福音書では、《エゴー・エイミ》となっている。英語でいえば、「アイ・アム」に相当するギリシア語である。これは決して、(英語の「イエス・アイ・アム」のような)質問に答えるさいに述語補語を略した短い応答形ではない。このギリシア語表現の背後には、イスラエルの歴史の中で用いられてきた実に重い啓示表現がある。死刑の判決
大祭司は衣を裂いて言った、「どうして、これ以上の証人が必要であろうか。あなたがたはこの神を汚す言葉を聞いた。あなたがたはどう判断するか」。すると、彼らは全員、イエスを死刑に相当すると判決した。(六三〜六四節)
「エゴー・エイミ」という言葉にしろ、「神の右に座る」という宣言にしろ、それを地上の人間が口にすることは、自分を神と等しい者とする行為であって、それだけで「神を汚す言葉」、すなわち「冒?」の罪を構成する。イエスの言葉を耳にしたとき、大祭司はただちに衣を裂いた。「衣を裂く」という行為は、本来悲嘆の心や神の前に罪を悔いる心を表現するための象徴行為である。この時代には、イスラエルにあってはならぬ大罪に直面したとき、大祭司が行う法的行為になっていたようである。大祭司は衣を裂くことによって、イエスの言葉を涜神の大罪と決めつけたのである。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで打ちたたき、「誰か当ててみよ」と言ったりしはじめた。また、下役の者たちはイエスを受け取って、平手うちをした。(六五節)
判決までは一応形式的には守られてきた法的手続きはここにきて無視され、縛られたままのイエスは私的な暴力に委ねられる。「唾を吐きかける」のは最大の侮辱である。「目隠しをしてこぶしで打ちたたき、『誰か当ててみよ』と言ったり」するのは偽預言者に対する嘲笑である。また「下役の者たち」、すなわち囚人を警備する役目の神殿守衛隊の隊員は囚人の「イエスを受け取って、平手うちをした」りして、次の法廷までの退屈を紛らせる。そのような侮辱や暴力を黙って受けておられるイエスの姿を描くとき、マルコは預言者イザヤによって語られた「主の僕」の予言の成就を見ていたのであろう。イザヤはこう語っている、 「わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(イザヤ五〇・五〜六、他に五三・三〜五)。
この「大祭司の審問」の場面は、受難物語の重要な部分として福音書記者マルコによって構成されたという面がたしかにある。しかし、最高法院の議員の中にもアリマタヤのヨセフ(マルコ一五・四三〜四六)やニコデモのようにイエスの運動に理解を示す者もいたのであるから、この場面を伝える伝承は、すくなくともその核心部分において、法廷に出席していた者の証言に基づく確かなものであると受け取ることができる。
ここに語られているイエスと大祭司の対面は、イスラエルの歴史の中で最も重要で決定的な瞬間である。大祭司は全イスラエルを代表している。彼が「おまえは誉むべき方の子、メシアなのか」と問いかけるとき、イスラエルがこの問いをもってイエスに対面しているのである。それに対してイエスが語る言葉は、イスラエルに対する神の最終的な啓示行為がそこにあることを響かせている。
《エゴー・エイミ》、このギリシア語の背後にある《アニー・フー》(わたしこそ、それである)、イエスがこの言葉を口にされるとき、モーセ以来イスラエルに現れ、語りかけてこられた方ご自身が、今ここに臨在して語っているという場が生じている。これは、当時のイスラエルが「メシア」という称号で考えていたような地上の人物と対面しているのとは次元が違う。イエスのこの宣言の前では、「おまえはメシアなのか」という問いは吹き飛んでいる。
「わたしこそ、それである」。この言葉によってイエスはこう宣言しておられるのである。「わたしがいるところに神がおられる。神は、そこで生き、そこで語り、そこで行為し、そこで愛し、そこで苦しみ、そこで死なれる」。これは世界に対するイエスの究極の自己宣言である。
このイエスをイスラエルは拒み、投げ捨て、殺した。大祭司と最高法院は初めからイエスを生かしておくことのできない人物として命を狙い、逮捕し、裁判にかけ、死に定めた。父祖のゆえに選ばれ、モーセによって律法を授けられ、預言者たちを通して語りかけられてきた民が、このイエスと共に天を戴けない体質になってしまっていたのである。ここにイスラエルの、いや人間の悲劇があり、罪がある。
イエスはこの裁判で死に定められることを知っておられる。そして、殺される自分が神の右に座する者であると宣言される。「しかし、今から後(すなわち、殺された後)、人の子は全能の神の右に座る」。イスラエルがその歴史の最終段階で待ち望むようになっていたあの謎に満ちた人格、終末的な神の支配をもたらすあの「人の子」が、死に定められているわたしにおいて、いまここにいると宣言される。これは「メシア」をはるかに超えている。
いまイスラエルは大祭司の人格においてこのイエスと対面している。そして、このイエスを死に定めることによって、イスラエルは啓示の歴史を閉じることになる。