市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第21講

80 ユダの裏切り  14章 10〜11節

 10 さて、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引き渡すために彼らのところに出かけて行った。 11 彼らはそれを聞いて喜び、彼に銀貨を与えることを約束した。そこで、ユダはイエスを引き渡そうと、機会をうかがっていた。

イスカリオテのユダ

 イエスが自分の選んだ十二弟子の一人に裏切られ、命を狙うユダヤ教当局に引き渡されたという事実は、復活後イエスをキリストとして宣べ伝えた弟子団にとって、大きな衝撃であり負担であったにちがいない。彼らが自分たちにとって負担になるような話を作り出すことはありえないから、このユダの裏切りの事実は動かない。しかし、ユダという人物、彼の行為と最後など、その詳細については謎が多くて、分からないという他はない。ここでは、ユダの裏切りという事実をマルコがどのように受け止め、取り扱っているかが重要である。
 まず、弟子集団の中におけるユダの人物像について見よう。ユダには「イスカリオテの」という説明がついているが、この語の意味について多くの説が出されていて、それぞれに理由があるが困難もあって、決定は難しい。まず、もっとも一般的な説明は、この語を「イシュ(人)+ケリオテ」と見て、「ケリオテ(出身)の人」という意味であるとする説である(ヨハネ一二・四などのD写本の読み)。そうだとすると、ケリオテはパレスチナ南部の地名と推定されるので、十二弟子の中でユダだけがガリラヤではなく南のユダヤの出身者ということになる。「スカル(出身)の人」と解すれば、ユダはサマリア人ということになる。また、「シカリオス(暗殺者)」と解して、彼をゼーロータイ出身と見る説もある。これはユダの裏切りの動機の説明と関連している。さらに、アラム語の「偽り者」の意味の語と解して、初期のアラム語を話す信徒の集団でイエスの裏切り者につけられた蔑称であるとする説もある。

裏切りの動機

 ユダがイエスを裏切った動機については、さらに謎が多い。マルコのこの箇所では、イエスを引き渡そうというユダの申し出に対して、祭司長たちが金を与えることを約束したことになっている。そうであれば、ユダの裏切りは金が目当てであったとは限らないことになる。ユダは何か他の動機でイエスを裏切った可能性も残る。しかしマタイ(二六・一四〜一六)は、ユダがまず「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言ったので、祭司長たちは銀貨三十枚を支払うことを約束した、と変えている。すなわち、ユダの裏切りは金目当てであったと、明確に述べている。ルカ(二二・一〜六)は、まずユダの中にサタンが入って裏切りを決意させ、ユダのイエス引渡しの相談に対して祭司長たちが金を与えることを約束したと、マルコの順序に従っている。いずれにせよ、福音書記者はみな金のことに触れているので、ユダは金欲しさに師を裏切った卑劣な男であるとの印象を与える結果になっている。
 しかし、それではあまりに単純で説得力がないので、ユダの裏切りの動機についてさまざまの推測がなされることになる。たとえば、ユダはイエスに対する失望から裏切ったとする説がある。ユダは熱心党的な思想の人物で、イエスこそイスラエルを回復するために神から遣わされたメシアであると期待して、すべてを投げ出してイエスの運動に身を投じたのに、イエスは民衆の期待を裏切って立ち上がろうとしない。イエスの姿勢に失望したユダはイエスを軽蔑するようになり、金と引き換えにイエスを敵に引き渡したというのである。あるいは、ユダにはイエスを裏切るつもりはなく、イエスを苦境に追い込めば、イエスはその大いなる力をふるって民衆のために立ち上がるかもしれないと期待したのであるが、こと志しに反しイエスは十字架刑になってしまったので、ユダは自分の行為を悔やみ自殺したとする説もある。さらに、ユダの行為は裏切りではなく、彼の不用意な行動からイエスの居場所が敵に悟られたにすぎないのであるが、彼の失策は教団の伝承の過程で裏切り行為とされるようになったという説まで、さまざまである。いずれも推測にすぎないわけで、ユダの裏切りの動機は人間の魂の深い暗黒の中に閉ざされている。ルカ(二二・三)やヨハネ(一三・二)が言うように、「悪魔がユダに入った」としか説明のしようがないことがらである。
 ユダが祭司長たちに密告した内容についても、さまざまな推測が行われている。イエスが内輪の弟子たちだけに与え、外部にもらすことを厳しく禁じておられた秘密の教え、とくにイエスの神的身分に関する発言を、イエスを告発する材料としてユダは密告したのではないかとも考える者もある(たとえばA・シュヴァイツァー)。しかし、イエスの裁判の報告からすると、この説の根拠は弱いと見られる。ここでは、マルコが示唆し、ルカ(二二・六)が明確に述べているように、群衆のいないところで、ひそかにイエスを捕らえることができる場所と機会を内通したと見てよいであろう。