市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第19講

     十字架の章




78 イエスを殺す計画  14章 1〜2節

 1 さて、過越と除酵の祭が二日後に迫っていた。そこで祭司長たちや律法学者たちは、なんとかひそかにイエスを捕らえて殺そうと計画した。 2 というのも、彼らは「祭の中ではまずい。民衆が騒動を起こすだろうから」と言っていたのである。

受難物語伝承とマルコ

 ここから固有の意味での「受難物語」が始まる。イエスの受難と死は復活と並んで福音(ケリュグマ)の中心の主題であって、福音が宣べ伝えられ、信じる者が集まるところでは、必ず語り伝えられる事柄であった。こうして語り伝えられるイエス受難の物語は、マルコの時代までにかなりまとまった形をとっていたようである。とくにそれが「主の食事」を中心とする信徒の礼拝において用いられたという事情からすると、かなり定型化した形で語り伝えられるようになっていたと考えられる。その物語が書きとどめられて文書にされていた可能性もある。マルコは一四章から一五章にかけて、このようにすでにかなり定型化した「受難物語」を資料として用いているので、断片的な伝承素材を自由に編集して書き上げた一三章までの部分に比べると、この部分は文体や見方に違いが認められる。この違いを強調して、一四章以下を一三章で終る本来のマルコ福音書への付録にすぎないとする説もあるが、これはマルコが用いた資料の性格の違いからくるものであり、福音書全体の統一的な構成を見落とす誤りである。マルコはまさにこの一四章から一五章の「受難物語」において、十字架につけられたイエスがキリストであるという「福音」を明らかに示して、彼の福音書を完成するのである。
 もちろん、マルコは自分の手元にまで伝承されてきた「受難物語」をそのまま用いているのではない。まず、時や場所に関する説明句を入れたり、伝承素材を挿入したりして、自分なりの受難物語を構成している。挿入の一例だけあげると、一四章の二節は一〇節に自然につながり、元の受難物語伝承では続いていたと見られるが、マルコがここにベタニアでの油注ぎの物語を挿入したのである。
 さらに重要なことは、マルコはここで自分の福音理解(神学)を展開するために受難物語を構成しているということである。最高法院におけるイエスの告白(一四・六二)と十字架の前の百卒長の告白(一五・三九)の記事に典型的に見られるように、卑しめられ死の苦しみの中にあるイエスに栄光のキリストを見るという、マルコのキリスト論がこの受難物語において展開されるのである。それまで秘密の中に隠されていた奥義(「メシアの秘密」)が、この受難物語において秘密のベールを取り除かれる。
 マルコの手元にまで伝えられた受難物語伝承はどのような過程を経て形成されたのか、その内容はどのようなものであったのか、マルコはそれをどのように改訂編集したのか、その編集の過程に現れているマルコの神学はどのようなものであるのか、こういう複雑な問題は様式史とか編集史という伝承史的研究に委ねて、ここではマルコが書き残し、いまわれわれの目の前にある受難物語(マルコ福音書一四章〜一五章)に即して、福音の真理に迫りたいと思う。

殺意と陰謀

 「過越と除酵の祭」は、七週の祭と仮庵の祭と並んで、当時のユダヤ教の三大祝祭の一つで、春に始まる一年の最初の月であるニサンの月(われわれの現行暦では三月から四月にあたる)に行われた。この祭には、全国からエルサレムの神殿に巡礼のユダヤ人が集まってきた。
 「過越と除酵の祭」は、もともと遊牧民起源の「ペサハ」と農耕民起源の「種入れぬパンの祭(除酵祭)」が合わせられて、イスラエルの民の出エジプトを記念する祭とされたものである(出エジプト記一二・一〜二〇)。ニサンの月の一四日の午後に神殿で過越の子羊が殺され、その夜に家ごとにその子羊を用いて出エジプトの出来事を記念する過越の食事が行われる。ユダヤ暦では一日は日没から始まるので、この過越の食事はニサンの月の一五日になる。そして、この一五日から二一日までの七日間、発酵させないで焼いたパンを食べる除酵祭が続く。この一連の祭が「過越と除酵の祭」と呼ばれ、ときには単に「過越の祭」とも呼ばれる。
 ヨハネ福音書は、イエスがこれらの巡礼祝祭に参加するために数回エルサレムに上られたことを報告している。おそらくそれが歴史的な事実であろうと考えられる。しかしマルコは、福音にとって決定的な意義をもつ最後のエルサレム行きだけを取り上げて、ガリラヤでの宣教活動とエルサレムでの受難という基本的な枠組みで彼の福音書を構成する。すでに見てきたように、マルコ福音書のイエスはこの過越祭のためのエルサレム行きをご自身の受難の時と見定めて、途上で繰り返し受難と死を予告しておられる。その旅の途上で語られるイエスの言葉は、イエスの受難の救済的意義に触れている。マルコはこの旅の物語をも広い意味の受難物語に含ませて、彼独自の受難物語を書いたと言える。
 ユダヤ教指導者たちのイエスに対する殺意は、すでにイエスのガリラヤでの宣教活動の時期に始まっている(マルコ三・六)。イエスが律法を守ることができない取税人や遊女たちと交わり、彼らに「貧しい者たちは幸いである。神の国はあなたがたのものである」と宣言されるとき、イエスのこの恩恵の支配の告知は、律法学者たちの律法の支配の神学と真正面から対立する。とくに、律法学者たちが特別に重要だとする安息日律法をイエスが公然と無視するような振舞いをされたとき、彼らの批判は殺意へと変わったのである。
 しかし、イエスがガリラヤで熱烈に支持する群衆に囲まれている状況では、彼らもイエスに手を下すことはできなかった。ところが、今やイエスは彼らの支配が直接及ぶエルサレムにいる。しかも、イエスはこのエルサレムでユダヤ教の最も神聖な神殿内で暴力を振るい、神殿の崩壊を予言するような言辞を弄している。もはや一刻も猶予することはできない。なんとかしてイエスがエルサレムにいる間に捕らえて亡きものにしてしまわなければならない。しかし、その彼らが支配する神殿内においても、イエスを支持する群衆が大勢いて(おそらくガリラヤからの巡礼者が多くいたのであろう)、手を出すことはできなかった(マルコ一一・一八)。
 このような状況から見ると、祭司長たちや律法学者たちが「祭の中ではまずい」と考えたのは、「祭の期間中はまずい」という意味ではなく、「イエスが祭の行事の中にいるという状況ではまずい」という意味であろう。祭の期間が過ぎればイエスはエルサレムを去りガリラヤに戻ってしまうであろうから、なんとしてもイエスがエルサレムにいる間に、すなわち祭の期間中に捕らえなければならない。「過越と除酵の祭が二日後に迫っていた」のであるから、この機会を逃さないで、事を急がなければならない。しかし、祭の行事の中では周囲に群衆がいるから、「民衆が騒動を起こす」ことを心配しなければならない。そこで「ひそかに」、すなわち祭の群衆に気づかれることなく、イエスを捕らえて殺そうと計画したのである。原文には「ひそかに」という語句はなく、「計略を用いて」という句が用いられている。しかし、この「計略」の内容を考えると、「ひそかに捕らえて殺そうと計画した」と訳すことによって、この段落の意味をより明確にすることができるであろう。このように、「計略」の中身を「ひそかに捕らえる」ことと理解すれば、ユダの裏切り行為の内容(一一節b)もよく理解できる。