74 患難の日 13章 14〜23節
14 「ところで、『荒す忌むべきもの』が立ってはならぬ所に立つのを見たら(読む者は悟るように)、その時には、ユダヤにいる者は山地に逃れよ。 15 屋上にいる者は下に降りるな。また、中のものを持ち出そうとして家に入るな。 16 畑にいる者は、上着を取りに家に戻るな。 17 それらの日に身重である女と乳を飲ませている女は不幸なことだ。 18 このことが冬に起こらないように祈りなさい。 19 それらの日には、神が万物を造られた創造の初めから今にいたるまでなく、また、これからも決してないような患難が起こるからである。 20 もし主がその日の数を短くしてくださらなかったら、誰ひとりとして救われる者はないであろう。しかし、選ばれた民のために、主はその日の数を短くしてくださっているのである。
21 そのとき誰かが、『見よ、メシアはここにいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、信じてはならない。 22 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや奇跡を行い、できれば選民をも惑わそうとするからである。 23 だから、あなたがたは気をつけていなさい。あなたがたにはすべてのことを前もって言っておく」。
「荒らす忌むべきもの」
前段でしたように、ここでもまずこの福音書が書かれた時代の状況に身を置いて読んでみよう。前段でも見たように、この福音書が書かれ信徒たちに読まれるようになった時代には、パレスチナの地はユダヤ戦争の渦中にあって騒然としていた。この戦争は六六年に始まるのであるが、その前後にエルサレムの教会はヨルダン川東岸の古い町ペラに脱出している。教団はすでにイエスの預言によってエルサレム神殿の破滅が避けられないことを知っていたのであるが、いよいよ事態が迫ってローマの軍勢がパレスチナに押し寄せてきた時、霊感を受けて教会の中で語る預言者たちに促されて、脱出を決行したと考えられる。すぐに逃れよ
「その時には、ユダヤにいる者は山地に逃れよ。屋上にいる者は下に降りるな。また、中のものを持ち出そうとして家に入るな。畑にいる者は、上着を取りに家に戻るな。それらの日に身重である女と乳を飲ませている女は不幸なことだ。このことが冬に起こらないように祈りなさい」。(一四〜一八節)
ユダヤにいる者は戦場になるユダヤの地を逃れて山地に隠れよ。それは一刻の猶予も許されない事態である。屋上にいる者は避難に必要なものを取りに室内に降りてはならない。屋上からすぐに外に逃れよ(たいていの家には外階段がついていた)。畑にいる時は必要でなかった防寒用の上着を取りに家に戻るな。畑からすぐ山地に逃れよ。そんな時に身重である女とか乳を飲ませている女は不幸だと言うほかはない。もしそれが冬に起こると、大雨のためにワジ(涸れ谷)が渡れなくなり、飢えをしのぐ食べ物を山野に見つけることができず、逃避行はますます悲惨になるであろう。この事態はもはや避けることはできないが、せめて冬に起こらないように神のあわれみを祈り求めよ、というのである。ここに語られている苦難はきわめて具体的である。ここではユダヤ戦争の悲惨な結末が予言されていることが分かる。しかし、この苦難はたんにユダヤ民族の歴史的苦難であるだけでなく、地上における終末的苦難の最終局面であるという意義もあることが続いて語られる。「それらの日には、神が万物を造られた創造の初めから今にいたるまでなく、また、これからも決してないような患難が起こるからである」。(一九節)
ここで語られているエルサレム陥落と神殿破壊にともなう神の民の苦難は、「創造の初めから今にいたるまでなく、また、これからも決してないような患難」、すなわち歴史の中で最大でかつ最後の患難だというのである。これこそ、黙示文書が語っていた終りの日に先立つ終末的苦難である。この苦難の直前に書いているマルコは、「もし主がその日の数を短くしてくださらなかったら、誰ひとりとして救われる者はないであろう」と、その苦難の激しさの予感におののきつつも、「しかし、選ばれた民のために、主はその日の数を短くしてくださっているのである」と、すぐその後に来るはずの救済の時、栄光の時を待ち望むように信徒を励ますのである。ここで「選ばれた民」とは、直接にはこの患難に遭遇するイスラエルの民を指しているのであるが、それと同時に、この世界終末の患難の時代を迎えることになる教団全体を視野に入れて語られていると考えられる(二〇節)。「そのとき誰かが、『見よ、メシアはここにいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや奇跡を行い、できれば選民をも惑わそうとするからである」。(二一〜二二節)
「だから、あなたがたは気をつけていなさい。あなたがたにはすべてのことを前もって言っておく」。(二三節)
報復の日
さて、七十年にエルサレムが陥落して神殿が破壊され、この予言が成就したのであるが、その後で書かれたマタイ福音書とルカ福音書の並行記事を見ると、この出来事についての両者の扱い方が違うことに気づく。「(それは)書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。・・・・この地には大きな苦しみがあり、この民(ユダヤ人)には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」。(二一・二二〜二四)。
ルカはこの出来事の数十年後に、おもに異邦人に向かって書いている。ルカは、エルサレム陥落にともなうユダヤ人の苦難が世界的な最終の苦難であり、その後すぐにキリストの栄光の来臨があるとはもはや考えられなくなった時代に書いているのである。エルサレムの陥落とユダヤ人の離散はすでに数十年前の歴史になっており、それはもはやパルーシア前の終末的苦難ではなく、かたくなに不信仰を続けてきたユダヤ人に対する神の報復の日、神の怒りが下った出来事であるとされる。