61 いちじくの木を呪う 11章 12〜14節
12 次の日に一行がベタニヤから出かけた時、イエスは空腹になられた。 13 そこで、遠くから葉の茂っているいちじくの木をごらんになって、何か見つかるのではないかと、近づかれた。ところが、その木のところに来てみると、葉ばかりで、何も見つからなかった。いちじくの季節でなかったからである。14 イエスはそれに対し、その木に言われた、「これからいつまでも、おまえから実を食べる者がないように!」。弟子たちはこれを聞いていた。
裁きの象徴
これはイエスがエルサレムでなされた唯一の奇跡であり、イエスが呪われたのはこれ以外にない。実のなる季節でもないのに、イエスがいちじくを求め、実がないからといって、木を呪うのは不思議な話である。古来、この物語は解釈者を悩ませてきた。しかし、枯れたいちじくの木の物語を神殿粛清の物語と組み合わせたマルコの意図からすれば、この物語がどう理解されることを求めているのかは明らかである。マタイ福音書(二一章一八〜二二節)では、イエスがいちじくの木を呪われた記事は一つの段落にまとめられており、イエスが呪われるとただちに枯れたことになっているのに対して、マルコでは木が枯れたのが分かるのは翌朝であり(二〇節)、イエスの呪いの言葉と木が枯れるという出来事の間に、イエスの神殿粛清の激しい行為が置かれている。このことは、マルコがいちじくの木に対する呪いと神殿粛清を関連づけて、両者を一組のこと、あるいは一体のこととして提示しようとしていることを示している。両者とも、イスラエルに対する神の裁きを指し示すイエスの象徴行為である。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか』。園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。 もしそれでもだめなら、 切り倒してください』」。(ルカ一三・六〜九)
時は尽きた。いまイスラエルは神が最後に遣わされた方を殺そうとしている。イエスがいちじくの木に「これからいつまでも、おまえから実を食べる者がないように!」と言われた時、「万軍の主はこう言われる。わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を送り、腐って食べられない、いちじくのようにする」(エレミヤ二九・一七)という預言者の言葉が重なって響いている。