市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第45講

45 イエスに従う  8章 34節〜9章1節

 34 それからイエスは、弟子たちと一緒に群衆を呼び寄せ、彼らに語られた。「誰でもわたしについて来ようと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい。 35 自分の命を救おうと願う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。 36 人は全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか。 37 人は自分の命の代価として何を差しだすことができようか。 38 この反逆する罪深い時代において、わたしとわたしの言葉とを恥じて拒む者は、人の子もまた、父の栄光の中に聖なる御使いと共に来る時、その人を恥じて拒む」。 1 そしてまた、彼らに言われた、「よく言っておくが、ここに立っている者たちのうちに、神の国が力をもって来るのを見るまで、死を味わない者がいる」。

十字架を背負って

「誰でもわたしについて来ようと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい」。(三四節)

 弟子たちにご自分の受難の秘密を明かされたイエスは、弟子たちにも苦難の道を歩む覚悟を求められる。ここに集められた五つの言葉(三六節と三七節を一つと数えて)は、その中の三つ(三四、三五、三八節)までが語録資料にあるもので、マタイとルカでは違った関連で用いられていることから見て、もともと独立のロギオン(伝承されたイエスの言葉)であったと考えられる。おそらくイエスがさまざまな機会に語られた言葉を、苦しみを受け殺される人の子という秘密とそのような方に従う弟子に関わるものとして、マルコがここに集めたのであろう。マルコはこれらの言葉を一つにまとめてこの位置に置くことによって、福音と信仰についてきわめて重要な使信を語っているのである。それは最後に触れることにして、その前に個々の御言葉を見よう。

 イエスは弟子を召される時、いつも「わたしに従って来なさい」と言っておられた。今地上の歩みの最後の時期を迎えるにあたって、イエスご自身に関する秘密が明らかにされると同時に、弟子としてイエスに「従う」とはどういうことを意味するのか、初めてその内容が明白な言葉で語り出される。
 弟子たちはいつもイエスと共にいて、その言葉の権威と力ある業に圧倒され、イエスをメシアであると信じるまでになっていた。彼らがイエスにどこまでもついて行こうとしたのは、メシアとしてのイエスがイスラエルを回復される事業に参加して、その栄光に与りたいと願ったからであった。このような弟子たちのメシア理解は、前段でみたようにペトロがイエスから厳しく叱責された後も続いており、彼らはエルサレムにお入りになればイエスのメシア的支配がただちに実現するものと期待していたようである。ヤコブとヨハネが「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願った(マルコ一〇・三五〜三七)のは、このような期待の表現であったと考えられる。ルカが伝えるところによると、弟子たちは復活されたイエスに対しても、イエスがイスラエルを回復される時のことを尋ねている(使徒行伝一・六)。
 そのような理解と期待をもってイエスについて行こうと願っている弟子たちに対して、イエスは全く別の道を指し示される。イエスはこの世を代表する支配者から投げ捨てられ殺されるのである。そのようなイエスについて行こうと願う者は、自分の理解や期待や願望を捨て、そうじて自分自身を否定し、自分そのものを捨てなければ、イエスに従って行くことはできないのである。そして、「自分を捨て」とか「自分を否定して」という生き方が、「十字架を背負って」という句で表現される。
 イエスがこの句を口にされたことを否定して、これをイエスの十字架の処刑を知っている教団が「自分を捨てる」ことの説明として加えたのであるとの説もある。しかし、当時のパレスチナではローマ人による十字架刑は決してめずらしくなかったのであるから、イエスがこの表現を用いられたことを否定する必要はない。この句は(「十字架につけられる」ではなくて)「自分の十字架を背負う」という表現が用いられていることが示しているように、十字架上の殉教死を指しているのではなく、むしろ死刑囚が自分がつけられる十字架の木を担って、同胞の敵意と侮蔑の中を歩んでいく姿を指しているのである。ルカの並行箇所(九・二三)がこの句に「日々」を加えているのも、このような理解からであろう。「イエスに従う」とは、イエスと同じく、このような「自分の十字架を背負う」生涯に入ることである。このような生涯を受け入れる覚悟のない者は、イエスについて行くことはできない。そのことをイエスは「塔を完成できなかった人」の譬と「遠くの敵と和睦する王」の譬で語っておられる(ルカ一四・二五〜三三)。

失って得る命

「自分の命を救おうと願う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである」。(三五節)

 イエスご自身が自分の命を失うことを通して真実の命にいたる道を歩んでおられる。イエスはご自分の身に成就すべきこの命の秘義を「あからさまに」語り出されたばかりである(三一節)。「失うことによってそれを保つ」という命の世界の逆説ないし秘義は、ルカ一七・三三やヨハネ一二・二五(一粒の麦)で一般的な形で伝えられているが、ここでは「わたしのため」、すなわちイエスの弟子として、苦しみを受け殺される「人の子」イエスに従うことによって自分の命を失うという関連で取り上げられている。
 自分の力で獲得できるものによって自分の命を保ち豊かにしようとする者は、結局はその命を失うことになる。人間が自分で獲得できるものは、死を超えて人を生かすことはできないからである。命とは自分自身である。自分で自分を救おうとする者は、自分で自分を持ち上げようとするのと同じく、不可能なことを無益に試みているのである。それに対して、イエスに従う者として「自分の命を失う」者、すなわちイエスのために自分を捨て、自分を否定する者は、イエスがそうであったように、自分を神に投げ出しているのである。そのように神に自分を投げ入れる者は、神から真実の命を受ける、あるいは神に真実の命を見いだすことになる。神は命そのもの、また永遠の命であるからである。このように、イエスはご自身が歩んでおられる命の道の逆説を弟子たちに語り、その道を共に歩むように招かれるのである。
 ところが、この御言葉は迫害を受けている初代教団の状況において、緊迫した具体的な問題となり先鋭化する。すなわち、イエスの名を告白する信仰のゆえに受ける迫害の中で、イエスの名を否定して自分の安全を図り、自分の命を救おうとする者は、一時的に命を永らえても、結局神なき絶望の中に滅びることになる。それに対して、イエスを主またキリストと告白し、その信仰のゆえに苦しみを受け、命を失うことがあっても、その人は神から永遠の生命をもって報われる、という内容の御言葉として、迫害の中で信仰の決断を迫る言葉となる。イエスはご自身が苦しみを受けるように、弟子たちにもこの世からの迫害が来ることは避けられないと予見し、くりかえし警告し覚悟を促しておられた。そのような予測の中で語られた言葉として、この御言葉は、次の三八節の御言葉と共に、迫害の中での信仰告白を求める意味をも担うことになる。マルコはこのような状況で聞く言葉として、「また福音のために」という句を加えたのである(マタイとルカの並行箇所にはこの句はない)。「わたしのために」ということは、初代の迫害の状況では具体的にはイエス・キリストの福音を告白することを意味したからである。

全世界をもうけても

「人は全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか。人は自分の命の代価として何を差しだすことができようか」。(三六〜三七節)

 これは本来一つの諺とか格言であったのかもしれない。たしかにこの言葉は、信仰とは無関係に用いても、どこでも通用する内容である。しかし、現在の連関の中に置かれることによって、この言葉は新しい意味を担うことになる。万人が認める諺が、ここでイエスが用いられると、前節と次節で語られる福音の真理、すなわち自分の命を失うことによって真実の命にいたるという信仰の道を励ます力強い言葉となる。
 人はこの世で自分の命を保ち拡張し栄えようとし、そのためにできるだけ多くのものを自分に獲得しようとする。それに成功して全世界を獲得したとしても、それを所有する自分自身がなくなれば、何の意味があろうか。その時、失われる命を買い戻すために、人は何を差しだすことができようか。全世界を差し出しても、命を買い戻すことはできないのである。このように、一般に理解されている諺としては、ここでの「自分の命」というのはこの世の命のことである。けれども、イエスがここで語られている命とは、人がイエスのため、また福音のために失うことによって、神から与えられる真実の命のことである。それを得ることができないのであれば、たとえ全世界を獲得するほどこの世での命が栄えたとしても、何の意味があろうか。この方向で自分を追求するかぎり、その命はやがて必ず朽ち果て滅んでしまうのである。
 「人は自分の命を失うことによってその命を救う」というイエスの言葉は、その二つの命が同じ命であるかぎり、解きがたい矛盾である。けれども、イエス復活後、信じる者たちはキリストから賜る聖霊によって新しい命の世界を体験し、自分を失うことによって神から与えられる命は、地上の生まれながらの命とは別種の命であることを知った。ヨハネ福音書はその命を「ゾーエー」と呼んで、生まれながらの命である「プシュケー」と区別した(一二・二五)。その新しい命が生まれながらの古い命と決定的に違う点は、それが復活に至る命であることである。このような復活にいたる命に生きる場で聞くとき、「全世界をもうけても」の御言葉はさらに強く終末的な声を響かせる。「人は全世界を獲得しても、自分が死者の中からの復活に達しなければ、その人生に何の意味があろうか。何がなくても、何を失っても、最後に命を失っても、死者からの復活に達するならば、その人生は勝利の人生ではないか」。

人の子が来るとき

「この反逆する罪深い時代において、わたしとわたしの言葉とを恥じて拒む者は、人の子もまた、父の栄光の中に聖なる御使いと共に来る時、その人を恥じて拒む」。(三八節)

 マルコ福音書では、ここで初めて「人の子が父の栄光の中に聖なる御使いと共に来る時」のことが出てくる。この時のことについては、さらに黙示録的な終末予言(一三・二六〜二七)と最高法院での最後の証言(一四・六二)において明白に語られることになる(詳細はその箇所の講解で扱う)。終りの日に人の子が到来あるいは顕現するという発言は、イエスの「人の子」に関する発言の中で最も重要なグループを形成している。
 イエスの時代のユダヤ教には、神が最終的な救いの業を成し遂げてくださる時が近いという終末的な期待が熱く燃えていた。そのような期待の一つの形として、先に述べたようにイスラエルを再びダビデ王国のような栄光に回復する「ダビデの子」としてのメシアが待望されていたが、同時にもう一つ別の形の終末待望があった。それは、ダニエル書をはじめ第四エズラ書やエノク書というような、当時広く流布していた黙示文書に表されているもので、そこでは天から現われる「人の子」ないし「人」によって最終的な神の支配が顕現するとされていた。イエスはご自分が「ダビデの子」としてのメシアであることは厳しく拒まれたが、この「人の子」が現われる時のことについては、当時の人々の待望を当然の前提として、黙示文書的な用語で語っておられる(とくにルカ一七・二二〜三七)。
 ところで、イエスが終りの日における神の支配の顕現について語られる時、「わたしが来る時」というように一人称で語られることはなく、いつも「人の子が来る時」というように誰か別の第三者が来るような形で語っておられる。それで、イエスはご自分とは別の「人の子」の到来を期待しておられたのだという学説が出てくることになる。けれども、ここのイエスの言葉は、来るべき「人の子」とイエスご自身との深い結びつきを示唆している。たしかに、イエスはまだ「わたしがその人の子である」と明白な言葉では語っておられない。しかし、今地上のイエスとその言葉に対してどのような態度を取るかによって、終りの日に「人の子」とどのような関わりに入るのかが決められるというのである。そうであれば、イエスと「人の子」は別の人格ではありえない。この言葉を語られたイエスは、地上では投げ捨てられ殺されるご自分を、栄光の中に顕れるべき「人の子」と同一視しておられたことになる。これは「人の子の奥義」に属することであって、この言葉は弟子たちにとってはまだ謎であったことであろう。
 イエスとその言葉を「恥じる」という表現については、同じ事柄についてルカ一二・八〜九に伝承されている御言葉がその意味を明らかにする。これは、「ホモロゲオー」すなわち「(仲間であると)言い表わす」とか「告白する」の反対で、「(知っている者を)知らないと言う」とか「否認する」ことである。それでこの私訳では「恥じて拒む」とした。まさにペトロがイエスの裁判の時に取った態度である(マルコ一四・七二)。今この地上でイエスとの関わりを否定する者は、「人の子」が栄光の中に顕れる時、「人の子」と何の関わりも持ち得ない者である。そして、(マルコは触れていないが、ルカ一二・八が明言しているように)地上のイエスを告白する者は、「人の子」が栄光の中に顕れる時、「人の子」に属する者として受け入れられ、その栄光に与るのである。
 これは、イエスの人格とわたしたちの終末信仰について、きわめて重要な意義をもつ御言葉である。わたしたちにとって、終末が将来どのような形で到来するのかを議論したり知ることではなく、今イエスとその言葉に対してどのような態度を取るか、すなわちこの地上の生涯においてどれだけ忠実にイエスに従うかが、決定的な意義を持つのである。
 今は「反逆する罪深い時代」である。神がイエスによって最終的な業を成し遂げようとされているこの時に、そのイエスを殺そうとする態度に、この時代の神への反逆と根源的な罪があらわになっている。このようなイエスへの憎しみと迫害の中にある初代の教団にとって、この御言葉は文字どおり自分の命をかける言葉であった。イエスを憎み罵倒する群衆の面前や、神の支配を認めようとしない人間の法廷で、今イエスを告白するか否認するかが来るべき栄光に与るか否かを決めるのである。多くの信徒が文字どおり命をかけてこの御言葉に従ったのである。彼らにとって、終末信仰とは現在の命をかけた事柄なのである。そしてこの事は、「この時代」だけでなく、イエスに反抗する「この世」に生きるすべての者にとって同じである。

死を味わない者

「よく言っておくが、ここに立っている者たちのうちに、神の国が力をもって来るのを見るまで、死を味わない者がいる」。(九章一節)

 この御言葉も他の関連で語られたものを、マルコがイエスのために苦しみを受ける弟子に関わるものとして、「そしてまた、彼らに言われた」という定形的な表現をもって、ここに加えたものであろう。ここでは、栄光の時の到来が、「人の子」の到来としてではなく、「神の国が力をもって来る」と表現されている。この御言葉の直接の意味は、今ここに一緒にいる弟子たちの中には迫害の中で殉教の死を味わう者も多くいるであろうが、ある者はその生存中に「神の国」が栄光の中に現われるのを見ることになる、それほど「神の国」の到来は切迫している、ということであり、弟子たちがイスラエルの町々を回り終わらないうちに「人の子」が来ると言われた御言葉(マタイ一〇・二三 これも迫害に関連した言葉である)とほぼ同じことを意味している。
 ところで、イエスが「人の子が栄光の中に現われる」とか「神の国が力をもって来る」とか言われる時、それはご自分の受難の後に続いて到来するはずの将来の栄光の事態を一つのものと見て語っておられるのである。後の教団が復活、昇天、再臨と呼んだ事態が区別されることなく一つのものとして語られている。たしかに、イエスが復活された時、「神の支配」は死にも打ち勝つものであることが現われ、弟子たちは地上のイエスの中に隠されていた「神の国」が「力にあふれて現われるのを見た」のであった。復活されたイエスに出会った弟子たちは、イエスが主またキリストとして立てられ、神の右に座す方となられたことを知った。しかし教団は現実には迫害の中にいる。主イエスの主権はまだ世界に確立されていない。それが確立される時、すなわち主イエスがその栄光と権威をもって世界に臨まれる時はまだ将来である。その時を教団はあらためて「来臨(パルーシア)」とか「顕現(アポカリュプシス)」の時と呼んで(「再臨」は後の呼び方)、その到来を待ち望んだのである。このように、イエスにおいては一つの事態と見られていた将来の栄光の顕現は、教団においては、すでに起こった「復活・昇天」と将来起こるべき「来臨・顕現」とに分かれることになる。そして教団は迫害の中で、聖霊の力強い働きと、「死なない者がいる」というこの御言葉に励まされて、自分たちが生きているあいだに主の「来臨」があるという熱烈な待望に生きることになる。
 初代の信徒たちがこのような信仰に生きていたことは使徒の書簡にも証言されている。パウロは、「主の来臨」の前に「眠りについた(死んだ)人たち」が出たことを意外なこととして驚き嘆いている信徒たちを励ますために手紙を書いており(テサロニケT四・一三〜一八)、その中で「主が来られる日まで生き残るわたしたち」(一五節)と言っている。また他の所で、「わたしたちは皆が眠りにつく(死ぬ)わけではありません。…最後のラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、(地上に生存している)わたしたちは変えられます」とも言っている(コリントT一五・五一〜五二)。このように、聖霊の力強い働きによって復活の主イエスとの生き生きとした交わりに生きる者にとっては、自分が死ぬという事実よりも主が来られるという事実の方がより差し迫ったものになる。その時に自分が「覚めているか眠っているか」はどちらでもよいことになる。主が来られるという事実の前で、自分の生と死は相対化されてしまっている。「死なない者がいる」と言われたイエスの御言葉は、このような形で信じる者たちの中に生き続けたのである。

イエスに従う

 このように、ここに集められた五つの御言葉は、迫害や苦難の中でイエスを信じ告白することにより栄光に与るように励ますという面を持っている。けれども、それに止まるものではない。これらの言葉は一つにまとめられてここに置かれることによって、信仰とは何かという根本的な問題についてのマルコの使信となっている。「イエスを信じる」とは「イエスに従う」ことである。そして、イエスに「従う」とはどういうことか、がここに明白に語られる。前段でイエスはご自分の受難と復活について「あからさまに」語られた。イエスがそのような道を歩まれる以上、イエスに従う者の道もそれと別のものではない。イエスと一緒に歩むことによって、イエスが受けられる苦しみを共に受け、その中で自分を捨て、自分が死ぬのである。このように自分の命を失うことによって、イエスと共に復活に至る命を生きること、これが「イエスに従う」ことである。「イエスを信じる」とはこれ以下のことではない。そして次に続く段落(九・二〜八)で、この道を行かれるイエスの栄光が顕され、それによってイエスに従う者が与るべき栄光が指し示される。
 ここでマルコ福音書が語っている信仰は、実はパウロが「わたしはキリストと共に十字架につけられている。生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのである」とガラテヤ書(二・一九〜二〇)で告白している信仰と同じである。「イエス・キリストを信じる」とか「福音を信じる」とは、実にこのような事態のことである。これは信仰の奥義である。マルコはこれを弟子たちだけでなく、すべて福音を信じる者たちへの言葉とするために、「弟子たちと一緒に群衆を呼び寄せ」という編集句を加えたのであろう。