市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第36講

36 ゲネサレトにおける癒し 6章 53〜56節

53 こうして、一行は湖を渡りきってゲネサレの地に着き、舟を繋いだ。 54 一行が舟から上がってくると、人々はすぐイエスと知って、 55 その地方をくまなく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を担架にのせて運び始めた。 56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれる所では、病人を広場に置き、上着のふさにでも触らせていただきたいと願うのであった。そして彼に触った者はみな癒された。

イエスに触れる

 ゲネサレトは湖に隣接して広がるティベリアス北方、カファルナウム西方の肥沃な地域であって、ガリラヤ湖はこの地域の名によって「ゲネサレト湖」とも呼ばれている。イエスの一行が湖を渡ってこの地方に入った時、人々は癒しを求めてイエスのもとに集まってきた。これまでに見てきたように、イエスはすでにご自身の働きの時期が最終的な段階に入っていることを深く自覚しておられる。けれども、ガリラヤの民衆はこれまでと同じように、イエスが自分たちの所におられるかぎり、病気や様々な人生苦からの救いを求めて群がり集まるのである。
 この記事はマルコがイエスの働きを要約して書いた記事であろうが、ここには神の力を宿す方としてのイエスの評判は非常に高まっていて、もはや教えにじっくりと耳を傾けるようなゆとりはなく、また一人ひとり手を置いて祈っていただくのももどかしく、直接イエスに触ることによって癒されたいという民衆の熱気が感じられる。その熱気の中で、イエスに対する信仰が、「上着のふさ」に触りさえすれば癒されるという、物そのものが神的な力を持つかのような様相を示している(出血が続く婦人が触ったのは、マタイおよびルカによれば、イエスの上着のふさであった)。敬虔なイスラエル人にとって「上着のふさ」はただの飾りではなく、神の律法を思い起させるしるしとして上着につけるように命じられているものである(民数記一五・三七〜四一)。しかし、どれほど神聖な意味を持つものであっても、物自体に神の力が宿るわけではない。その物が接触点となって、内面に閉じこめられていた神の力に対する信仰が解き放たれて行動に現れる時、驚くべき神の業が行なわれるのである。イエスに対する信仰がこのような信仰の行為を生み出すのである。彼らは上着のふさに触ったのではなく、イエスに触ったのであり、イエスの中に働く神の力に触れたのである。「彼に触った者はみな癒された」。
 水の上を歩くイエスとの出会いを語る記事において、一瞬時間の覆いが切り裂かれて、永遠の復活者がご自身を現される出来事を書いたマルコは、ただちに地上の現実のイエスの働きの記述に戻る。このことによって、地上のナザレ人イエスが復活者キリストであることが一層深く印象づけられる。