市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第13講

13 断食についての論争  2章 18〜22節

18 ところで、ヨハネの弟子たちとパリサイ派の人たちとは断食する習わしであった。そこで彼らはイエスのところに来て言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちは断食しているのに、あなたの弟子たちが断食しないのは何故か」。 19 するとイエスは彼らに言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる所で、断食することはできないではないか。花婿が一緒にいる限り、彼らは断食はできない。 20 しかし彼らから花婿が取り去られる日が来る。その日には彼らも断食をする。 21 だれも、まださらしてない新しい布を、古い着物に縫いつけはしない。そんなことをすると、新しい継ぎ布が古い布を引き裂き、破れはさらにひどくなる。 22 まただれも、新しい葡萄酒を古い皮袋に入れはしない。そんなことをすると、葡萄酒が皮袋を引き裂き、葡萄酒も皮袋もだめになってしまう。新しい葡萄酒は新しい皮袋にいれるべきである」。

ユダヤ教における断食

 ところで、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人たちとは断食する習わしであった。

 「断食」は宗教的祭儀の一部として、また懺悔・痛恨の表現として古代の諸民族の間で広く行われていた習慣であった。イスラエルの中でも早くから断食は行われていたようである。サウルとヨナタンが死んだ時の人々の断食や、ダビデが重病の子のためにした断食など、すでに捕囚前にも少数ながら事例が報告されている。しかし、断食がすべての国民が守るべき宗教行事として規定され、イスラエルの宗教生活の中で盛んに行われるようになるのは捕囚後の時代である。正典中の律法で命令されている断食は大贖罪日の断食(レビ一六・二九〜三四 「身を悩ます」は断食のこと)だけであるが、捕囚後にエルサレム包囲が開始された日(十月十日)、エルサレム陥落の日(四月九日)、神殿破壊の日(五月七日)、ゲダリヤ殺害の日(七月二日)の四回が加えられ、国民的懺悔の日として断食が守られた(ゼカリヤ八・一九参照)。
 捕囚後のイスラエル宗教は、律法の編纂とその研究・解釈も進み、律法順守の生活を重視する傾向を強くしていくのであるが、その過程で断食も神に喜ばれる敬虔の業として重要な地位を占めるようになっていく。とくに律法の研鑽と実践とに熱心なファリサイ派の人たちは、モーセが律法を受けるためにシナイ山に登ったといわれる週の第五日(木曜日)と下山したといわれる第二日(月曜日)の週二回の断食を守り、それを律法に忠実な生活として誇っていた(ルカ福音書一八・一二)。イエスの時代のユダヤ教の主流はファリサイ派の人たちであるが、彼らを批判してさらに厳格な律法順守を標榜したエッセネ派も当然断食の規定を守っていたであろうし、神の終末的審判が迫っていると叫んで独自のバプテスマ運動を展開したヨハネの信奉者たちも断食を守っていた。当時のユダヤ教の各派はその主張するところは異なっていても、律法に対する忠誠と熱意はみな共通であった。そのような背景の中で見る時、イエスの弟子たちだけが断食をしなかったのはきわめて特異なことであった。それは神聖な律法に対する裏切りを疑わせるに十分な態度であった。彼らはイエスに詰め寄った。

婚宴の日の到来

 「ヨハネの弟子たちとファリサイ人の弟子たちは断食しているのに、あなたの弟子たちが断食しないのは何故か」。

 これは詰問である。イスラエルの人々に律法を守らないようにさせる異端の教師を問い詰めようとする刃物である。イエスの答え方によっては律法を汚す異端者として告発しようとするものである。それに対してイエスは、誰も反論できないような鋭い問いを突き付けて答えられる。そして、その答えはイエスがおられる終末の場を見事に指し示している。

 するとイエスは彼らに言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる所で、断食することはできないではないか」。

 イスラエルでは結婚して子をもうけることは男子の神聖な義務であった。婚礼は重視され、招かれた者が婚礼に出席するためには、ラビが律法の教授を中断することも許されていた。飲食し、歌い、踊る華やかな婚宴は一夜だけでなく一週間も続いた。その間、婚礼の客は経札をつける義務や週二回の断食を守る義務から解放されていた。花婿と一緒に過ごす喜ばしい婚宴の席で、婚礼の客が断食することなど、どうしてできようか。
 イエスは弟子たちが断食しない理由として、彼らは今花婿と一緒にいるのだから、と言っておられるのである。これは重大な宣言である。神が終わりの日に救いの業を成し遂げて民との交わりを回復される時のことを、イエスはたびたび婚礼の譬をもって語っておられる(マタイ二二・一〜一四他)のであるが、ここではっきりと、今や花婿が到着し、喜びの婚礼が始まっているのだ、と宣言されているのである。今やその終わりの時が来たのである。「来るべき者」が来たのである。イスラエルの歴史が目指していた日、予言が待ち望んでいた時、律法が予表していた本体がついに到来したのである。これは神が人と共にいてくださる大いなる喜びの日である。地上の婚礼でも人を断食の律法から解放するではないか。まして永遠の花婿であるイエスと一緒に生きる所で、どうして断食をすることができようか。
 マタイ福音書では、この質問はヨハネの弟子たちがしたことになっている(マタイ九・一四〜一七)。ヨハネの弟子たちが断食をしたのは律法への熱心さからだけでなく、ヨハネの宣教内容と彼の厳しい禁欲的態度から見て、終わりの日が迫っている今、この世を否定して終わりの日の栄光だけを待ち望むべきであるという禁欲主義的な面もあったものと推測される。イエスも初めはヨハネとバプテスマ運動を共にされたのであるが、同じ終末的切迫の場にいながら、イエスの福音はヨハネの禁欲的終末信仰とは根本的に異なった次元のものになっていた。ヨハネはまだ待望の次元にいるが、イエスの福音には成就の喜びがある。その違いが断食に対する態度の違いになって表れてきているのである。人々は、ヨハネが来て食べることも飲むこともしないと、「あれは悪霊につかれているのだ」と言い、イエスが食べたり飲んだりされるのを見ると、「あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」と言った(マタイ一一・一八〜一九)。彼らはヨハネの終末告知の真剣さを理解せず、またイエスの福音の喜びを受け取ることもしないで、ただ二人の表面に表れた生活態度の違いだけを見て嘲笑したのである。
 続いてイエスは「花婿が一緒にいる限り、彼らは断食はできない。しかし彼らから花婿が取り去られる日が来る。その日には彼らも断食をする」と言っておられる。これは特別の状況ではイエスの弟子たちも断食をすることがあるという但し書きであるから、括弧に入れて後で別に扱うほうがこの段落の主旨は明瞭になる。ここではあくまで、イエスの弟子たちが断食しないことが問題になっている。イエスは婚礼の客の譬で、弟子たちが断食しない理由が救いの到来の喜びであることを指し示された後、それに続けて、日常生活の中で親しまれている二つの格言を用いて、御自身の中に来ている終末的事態が旧い律法の枠を遥かに超えるものであることを語られる。

 「だれも、まださらしてない新しい布を、古い着物に縫いつけはしない。そんなことをすると、新しい継ぎ布が古い布を引き裂き、破れはさらにひどくなる。まただれも、新しい葡萄酒を古い皮袋に入れはしない。そんなことをすると、葡萄酒が皮袋を引き裂き、葡萄酒も皮袋もだめになってしまう。新しい葡萄酒は新しい皮袋にいれるべきである」。

 まださらしていない新しい布は硬くて縮みやすいので、それを継ぎ布として古い着物に縫いつけると、永年風雨にさらされて脆くなっている古い布を縫い目で引き裂き、かえって破れが大きくなる。これは誰もが日常経験することであって、新しい布を古い布に縫いつけるな、ということは生活の知恵から生まれた格言であった。
 また、新しい葡萄酒はまだ発酵を続けておりガスを出している。そのような葡萄酒を弾力を失い硬化している古い皮袋に入れると、ガスの圧力で皮袋が破裂することがある。新しい葡萄酒は弾力性がある新しい皮袋に入れなければならない。これも水や葡萄酒を羊の皮で造った袋に入れて遊牧した民の生活から生まれた知恵であり格言である。
 イエスはこの二つの譬ないし格言によって、御自身の中に来ている御霊の事態がもはやイスラエルの律法という古い枠に入れることができないものであることを示唆しておられるのである。イエスが与えてくださる新しい生命に生きる者たちは、その生命にふさわしい新しい形の中で生きるであろう。もはやイスラエルの律法という古い器の中にはいない。古い律法の枠に縛られてはいない。これは使徒パウロが、「わたしたちは律法から解放されているので、もはや文字という古い次元ではなく、御霊の新しい次元で仕えているのである」(ロマ七・六)と言って、命懸けで主張したことであった。イエスの弟子たちが断食をしないのは、そのことの証の一つである。

花婿が取り去られる日

 さて、先に括弧に入れた但し書きはどのように理解すべきであろうか。そこで「彼らから花婿が取り去られる日が来る。その日には彼らも断食する」と言われているのは、どのような日であろうか。イエスの弟子が断食をすることがあるとすれば、それは何のためか。
 この但し書きは、再び断食をするようになった初期の教団が、自分たちの断食を根拠づけるために挿入したものであるという学説がある。たしかに初期の教団の一部では断食が行われていた。それは使徒行伝(一三・二〜三、一四・二三)にも報告されているし、山上の説教でのイエスの断食に関する教え(マタイ六・一六〜一八)は、弟子たちが断食することを前提にしていることからもうかがえる。初期の教団はユダヤ教徒が多かったこと、とくに指導的な立場の人はみなユダヤ教徒であったこと、初期においてはユダヤ教徒でキリストを信じた者たちはユダヤ教の礼拝の習慣を守っていたことなどの事情を考えると、初期の教団で断食が行われていたことは十分に推測することができる。
 ところが異邦人(非ユダヤ教徒)がキリストを信じて教団に入ってくるようになると、彼らにもユダヤ教の律法を守らせるべきかどうかが大問題になった。パウロたちの活躍によって、この問題は一応、異邦人にユダヤ教の律法は課すべきでないという原則で解決したのであるが、断食は神に喜ばれる敬虔な業として推奨され、異邦人キリスト教徒の間でも徐々に広まっていったと考えられる。一口に使徒時代の教団と言っても、その中には様々な流れと傾向があり、断食もどの方面で、どの程度に行われたのか一律に決めることはできない。たとえばマタイ福音書を成立させたと考えられるシリヤの教団ではユダヤ教徒が多く、断食は信仰生活の当然の一部として行われていたのであろう。各地で程度の差はあったであろうが、時とともに断食の習慣が広まっていったことは、二世紀初めに書かれたとされる「十二使徒の教訓(ディダケー)」に、「あなたがたの断食を偽善者のそれのようにしてはならない。彼らは週の第二日と第五日に断食するのだから、あなたがたは第四日と金曜日とに断食しなさい」(八・一)と書かれており、信徒が断食をすることが当然とされていたことからもうかがわれる。
 しかし、もしこの但し書きが初期の教団が断食を行っていたことを根拠づけるためのものであるならば、この但し書きは「婚礼の客は、花婿が一緒にいる所で、断食することはできないではないか」と言われたイエスの鋭い答えを無効にしてしまう。たしかに「花婿が取り去られる」という表現は、その動詞が無理矢理暴力的に取り去ることを意味することからしても、イエスの十字架の死を指すと理解するのが自然である。だからイエスが死なれた後では信徒は断食するべきであるというのであれば、「花婿が一緒にいる限り」というのはイエスが地上で弟子たちと一緒に生活された時期だけを指すことになり、十字架・復活以後再臨までの教団は花婿と一緒にはいないことになる。それでは「婚礼の客は、花婿が一緒にいる所で断食することはない」と言われたイエスの言葉は現在のわれわれには無関係のものとなる。
 だいたい、この断食に関する論争は、現在の多くの学説も認めているように、初期のキリスト教団とヨハネの教団やユダヤ教団との間の論争を背景にしているものである。そのことは、ここでイエスの教えが直接問題になっているのではなく、弟子団の間の論争、すなわち「イエスの弟子たち」が「ヨハネの弟子たち」や「ファリサイ人の弟子たち」と違って断食をしないことが問題になっていることからもうかがわれる。ここでは、初期のキリスト教団が「断食しない」ことがイエスの言葉によって根拠づけられ、対立する諸教団に向けられているのである。その言葉によってキリスト教団は自分を「花婿と一緒にいる婚礼の客」としているのである。まだ待望の世界にいるヨハネの弟子たちやユダヤ教団とは異なり、キリストを信じる者たちは今すでに花婿と一緒にいるのである。目に見えるイエスと一緒にいるわけではないが、霊において復活の主イエスと一緒にいるのである。婚礼の時が来ている。神と人との永遠の契りが結ばれ、いのちの交わりが成就している。この喜びの場でどうして断食ができようか、という主張がなされているのである。
 そうであるならば、「花婿が取り去られる日が来る。その日には彼らも断食をする」とはどういうことか、改めて問われなければならない。「花婿が取り去られる」というのはイエスの十字架の死を指している。このイエスの十字架に直面する時、われわれは断食する。イエスの十字架はわたしの死である。わたしはキリストと共に十字架につけられて死んだ。この自分の死の告白が断食である。初代の教団でイースターの前とバプテスマの前に断食が行われたが、これは両者ともキリストの十字架の死を覚え、身に受けることを告白する行為であった。旧約で神が求められた断食は大贖罪日の断食だけであったが、キリストの十字架に自己の死を認める者はこの断食の律法を成就するのである。キリストを信じその十字架に合わせられる者こそ、真に自己を否定する者、すなわちまことの断食をする者であるからである。十字架の場において初めて断食は真実に断食となる。
 断食は本来自己否定の表現である。真実の自己否定がないところで、ただ律法の規定だから断食して自己否定の形だけをとるのは偽善である。人間は自分の力で自己を否定することはできないので、断食は実質のない表面的な行為、すなわち偽善に陥りやすい。十字架のない所での断食は、自己の敬虔を人の前に誇示するファリサイ人の偽善に陥ってしまう。すでに預言者はイスラエルの断食の偽善を責めていた(イザヤ五八・六〜一二)が、イエスも断食については人の前に見せびらかす偽善を責め、隠れた事を見られる神の前に断食すること、すなわち内面の自己否定を求めておられる(マタイ六・一六〜一八)。
 このように、イエスの弟子たちはすでに花婿と一緒にいる喜びのゆえに、律法の行為としてはもはや断食をすることはないのであるが、その内面においては十字架による徹底的な自己否定(断食)を秘めている。復活の主キリストと共に生きる喜びは、十字架に合わせられて自己が死んでいる場においてのみ実現する。断食に関するこの段落は、福音のこの奥義を指し示しているのである。
 花婿と一緒にいるので断食することがないイエスの弟子たちも、場合によっては祈りに集中するために断食をすることがある。この種の断食については機会を改めて触れることにする。