市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第11講

対立の章



11 足の麻痺した人が歩く 2章 1〜12節

1 さて、イエスが再びカペナウムに戻って来られた時、数日後には、在宅しておられることが知れわたってしまったので、 2 多くの人々がやって来て、もはや戸口の前も余地がないほどになった。そこで、イエスは彼らに御言を語られた。 3 すると、人々がひとりのからだの麻痺した人を四人の人に運ばせて、イエスのもとに連れてきた。 4 ところが、群衆のためにイエスに近寄ることができないので、イエスがおられるあたりの屋根をはがして穴をあけ、からだの麻痺した人を寝かせたまま、その床を下におろした。 5 イエスは彼らの信仰を見て、からだの麻痺した人に言われた、「子よ、あなたの罪は赦されている」。 6 ところが、そこに数人の律法学者が座っていて、心の中でこう批判した、 7 「なぜこの人はこんなことを言うのか。彼は神をけがしている。神おひとりのほかに誰が罪を赦すことができようか」。 8 するとただちに、イエスはご自分の霊によって、彼らが内心このように批判しているのを見抜いて、彼らに言われた、「あなたがたはどうして心の中でそのような批判をするのか。 9 からだの麻痺した人に、あなたの罪は赦されている、と言うのと、立ち上がって床を取り上げて歩け、と言うのとどちらがたやすいか。 10 だが、人の子は地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るようになるために」と言って、からだの麻痺した人にむかって言われた、 11 「あなたに言う、起き上がって床を取り上げ、自分の家に帰りなさい」。 12 すると、その人はみなが見ている面前で、起き上がり、ただちに床を取り上げ、外へ出て行ったので、全員が驚嘆し、「こんなことは今まで見たこともない」と言って、神をほめたたえた。

御言(みことば)と信仰

 第一章でイエスの登場とガリラヤでの宣教開始を描いたマルコの筆は、第二章に入ると早々にイエスと宗教家たちとの対立と論争の場面を描く。二章一節から三章六節までに、律法学者たちとの論争物語が五つまとめられている。これはマルコ自身がまとめたものであるのか、それともマルコ以前にある程度まとめられて伝承されていたものであるのかは決定できない。いずれにせよ、マルコが早々にこの論争物語の一群を置いたのは、マルコがイエスの宣教の質を示すためには当時の律法宗教との違いを明確にすることが重要であると考えていることを示している。パウロの場合に典型的に見られるように、初期の教団はユダヤ律法主義と激しく戦いながら福音を宣べ伝えていたという背景を考えると、パウロと一緒に福音のために働いた時期もあるマルコがこの点を重視した理由も理解できる。しかし、これはひとりユダヤ律法主義の問題であるだけではない。それに代表される人間の側の功績に立つ宗教一般についても言えることである。イエスが宣べ伝えられた「神の支配」は、人間の宗教的営みとは全く異なる別の次元、別の道である。まずこの違いが明らかにされなければならない。

 イエスはカファルナウムに住み、そこからガリラヤの諸地方に宣教に出かけられた。このことは、カファルナウムに「戻って来られた」とか「在宅しておられる」という表現が示している(一節)。一節から二節の書き方は、宣教の旅から戻って来られたイエスは静かな時を欲しておられたのに、戻っておられることがすぐに知れわたって、それができなくなったという状況を示唆している。カファルナウムの人々は、イエスが早朝町を出て行かれた時、みんなでイエスを捜し求めた人たちであった(一・三七)。彼らは病人を癒し悪霊を追い出されるイエスを必要としたのであった。再びそのような力ある業を求めて集まってきた人々に、イエスは「御言(みことば)を語られた」。彼らが真に必要とするものを与えようとされるのである。
ここの「御言(みことば)」は定冠詞つき単数形の「ロゴス」であるが、これは初代教会の宣教においては福音を指す専門語であった。十字架され復活したイエス・キリストを宣べ伝える福音の言葉こそ、世界に対する神の究極の語りかけの「ロゴス」(単数)であり、これを信じて受け入れることが人間の救いとなる。イエスはここで十字架とか復活を語っておられるのではないが、神の恩恵の支配を語られるイエスの言葉は、福音と同じく、それを聴いて受け入れる者をただちに生命の次元に導き入れる質の言葉である。このような意味で、マルコはイエスの言葉を「御言(みことば)」と表現する。「御言(みことば)」を語ることこそ、イエスの本来の使命であった。
 すると、そこにひとりの「からだの麻痺した人」が運びこまれてきた(三〜四節)。どのような種類の病気であるのか(中風とは限らない)、詳しいことはわからないが、全然歩くことも起き上がることもできないほど足が麻痺した人であることは明らかである。イエスがおられる家は戸口まで群衆が押し迫っていて近寄ることもできないので、この人を連れてきた友人たちは、外から屋根に上り、屋根の一部を剥がして(当時のパレスチナの家屋の屋根は、材木の梁に木の枝を編んだものと粘土の覆いをのせ、毎年雨期に入る前に修理をする簡単なものであった)、その人を担架のようにして運んできた床のまま部屋の中へ吊り降ろした。まことに非常識で突飛な行動である。しかし、その病人はどうしてもイエスのもとに行きたかった。自分の状況は人間の力ではどうしようもないことを彼は知っていた。そして自分を救う神の力は今イエスを通じて世に来ていることを信じていた。この信仰がイエスを慕わせ、どうしてもイエスのもとへ行かせようとする。彼を運ぶ四人の人たちも、この人の信仰に同化され、なんとかして彼をイエスのもとに運んでやりたいと願う。彼らの行動はこの信仰から自然に発するものであって、いかに非常識で突飛に見えても、彼らにとってはそうせざるをえないのである。信仰は世間の常識・道徳・宗教という「壁を破って」行動する。
 イエスはその非常識で突飛な行動の中に彼らの信仰を見ておられる(五節)。聖書は信仰の内面の心理を説明しない。やむにやまれず外に現れる行動によって信仰を描く。イエスは彼らの、とくにそのからだの麻痺した人の「信仰を見て」こう言われる、「子よ、あなたの罪は赦されている」。
 病気の癒しを求めてイエスのもとに来た者にとって意外な言葉である。神の言(ことば)は人間の願いにとってまことに意外である。それは、天が地よりも高いように、神の道は人間の道よりも高く、神の思いは人間の思いよりも高いからである(イザヤ五五・九)。人間は地のことを求める。眼前の切実な必要を神に訴える。しかし、その全存在をもってする訴えが信仰として神に受け入れられる時、神は天のものを与えられる。
 ここで、神が与えられる天のものが「罪が赦されている」という一言に凝縮されている。神はこの人を信仰の故に無条件で受け入れておられる。道徳・宗教の規範からすれば、どのように不完全で破れ果てたものであっても、砕かれた心から発する全存在的な信仰によって、その規範に対する違反とは全く無関係に神はこの人を御自身に属する者、神の子として扱われる。神との交わりという天のものが与えられる。人間の罪を圧倒する神の恩恵の支配が到来しているのである。
 イエスはこのからだの麻痺した人に、「子よ」と呼びかけられる。これは当時ラビ(ユダヤ教の教師)が弟子に呼びかける時の用語であるが、このような赦しの言葉と共にイエスが用いられる時は、父の慈愛をもって人間を迎え入れてくださる神の温かい呼びかけが響いている。
 イエスは「あなたの罪は赦されている」と受動形を用いておられる。この受動形はイエスが神の業を語られる時に好んで用いられた特色ある表現法である(J・エレミアス)。これは能動形で言うと「神はあなたの罪を赦しておられる」となる。「神があなたがたを慰めてくださるのだ」ということを、イエスは「あなたがたは慰められるであろう」と表現される。動作の主語である神は隠され、その業だけが語られる。このような語り方は当時の黙示文書によく用いられていたのであるが、これは畏敬の念から神名の発音を避けたというユダヤ教の傾向からは説明できない。むしろ神秘に満ちた神の終末の業を、ヴェールに包んで描写するのに適切な表現法として用いられたようである。ところがイエスはこのような受動形による表現を終末時の黙示的出来事だけでなく、現在の神の恵みの業についても用いておられる。マルコ福音書のこの箇所もその典型的な場合の一つであり、イエスが宣べ伝えられた「神の支配」の到来を一言で示す重要な箇所である。

罪を赦す権威

 「ところが、そこに数人の律法学者が座っていて、心の中でこう批判した」。その律法学者はたまたまそこに居合わせたのではない。ガリラヤで多くの奇跡をなし、大勢の群衆を引き付け、彼らに新しい教えを与えているイエスを、エルサレムの宗教当局はマークしており、ヨハネの時そうしたように(ヨハネ一・一九以下)、イエスの言動を監視するために律法学者を送りこんでいたと考えられる(ルカ五・一七)。彼らはイエスがおられる所は、個人の家でも(二・六)、食事の席でも(二・一六)、畑の中を歩いておられる時でも(二・二三〜二四)、会堂でも(三・六)、いつも影のようにつきまとっている。イエスはいつも彼らの面前で業をなし、律法を超える「神の支配」の到来を宣べ伝え、彼らが汚れた罪人と軽蔑してやまない人々と食事を共にされたのである。
 彼らは心の中でこう批判した、「なぜ、この人はこんなことを言うのか。彼は神をけがしている。神おひとりのほかに誰が罪を赦すことができようか」。「神だけが罪を赦すことができる」という彼らの主張は正しい。いま見たように、イエスも受動形を用いて神が罪を赦す方であることを語っておられる。しかし、彼らが「だから、人間は神でない以上、地上のいかなる人間も罪の赦しを与えることはできない。あえてそれをする者は神の大権を冒す者、すなわち神をけがす者である」とする時、彼らは自分たちの教条の落し穴に落ち込んでいるのである。預言者も神が人間の罪を完全に赦される時が来ることを予言しているではないか(エレミヤ三一・三一〜三四)。ところが、彼らは神の超越性を強調するあまりであろうか、地上の人間の中にそのような終末的な事態が実現するとは信じられなくなっていたようである。彼らの待ち望んでいる「メシア」も、イスラエルの民を異教の権力から解放することはしても、罪を赦すという権能は期待されていなかった。だから、ナザレの大工の子イエスが「あなたの罪は赦されている」と宣言する時、神だけが終末時に直接行使される「罪の赦し」の大権を冒す行為にしか見えなかったのである。それは結局イエスが誰であるかがわからないからである。
 イエスは内なる霊の働きにより彼らの思いを見抜き、逆に問いをもって迫られる、「からだの麻痺した人に、あなたの罪は赦されている、と言うのと、立ち上がって床を取り上げて歩け、と言うのとどちらがたやすいか」。事の本質からすれば、病人を癒し奇跡を行うことは霊能力を持った人間にできることであるが、罪を赦すことは人間にはできないこと、不可能事である。だから、麻痺した人を歩かせるほうがやさしいという答えが期待されているのであれば、イエスが続いて「罪を赦す権威をもっていることをあなたがたが知るようになるために」と言って、病人を癒されることは、意味をもたなくなる。
 しかし逆に、罪を赦すことはすぐ目に見える結果で検証されないことであるから、それは長年からだが麻痺していて歩けない人を歩けるようにすることよりもやさしいことである。だから、難しいほうをやって見せて、易しいほうを行う力をもっていることを証明しようとされたのであるとすると(一般にこう理解されている)、そのような罪の赦しはもはや真剣なもの、終末的な次元のものではありえない。霊能者が行う奇跡以下のもの、人間の観念の世界のものになる。
 イエスはこの問いをもって、律法学者の「人間は罪を赦すことはできない」という批判を逆手にとって彼らを行き詰まりに追い込み、御自身の中に新しい時代への突破口が開いていることを示されるのである。イエスは彼らにこう迫っておられるのである、「あなたがたは、神のほか誰も罪を赦すことはできない、すなわち地上の人間は誰もその権威をもっていない、と言う。そのとおりである。ではあなたがたに尋ねるが、今目の前にいるこのからだの麻痺した人に、立ち上がって歩け、と言うことはそれよりも易しいことか。あなたがたはそれができるか。できないであろう。どちらも同じく人間にはできないことである。そうであるならば、もしわたしがこの人を歩かせたならば、人間を超える権威がここに働いていることをあなたがたは知らなければならない。その人間を超える権威がこの人の罪が赦されていることを宣言するのである」。
 イエスはこの人間を超える権威が御自身の中に来ていることを、謎に満ちた「人の子」という称号を用いて示唆される。「人の子は地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るようになるために」と言って、麻痺した人を歩くことができるようにされる。ところで、「人の子」というのは、アラム語の語法では単にひとりの人を指すのであるから、ここでイエスは「地上のひとりの人間が罪を赦す権威を持っていること」を示そうとされたのであるが、この物語が初代教団の中で伝承されていく過程で、イエスがしばしば用いられた黙示録的な「人の子」称号が遡ってここにも適用されたのである、という説が近来有力である。もしそうだとすれば、教団による「人の子」称号のここへの適用は事態を最も的確に理解したものと言わなければならない。ここでは、たしかに地上のひとりの人間であるイエスの中に、ダニエル書やエノク書が描く終末的・天的存在者が到来していることが示唆されているのである。律法学者らはそれを見ることができず、イエスを神の大権を冒す者と批判するのである。 

「人の子」称号はイエスと福音書を理解する鍵となる重要な称号である。別の機会に詳しく触れることになる。

来るべき方

 こう言って、イエスはからだの麻痺した人に「あなたに言う、起き上がって床を取り上げ、自分の家に帰りなさい」と命じられる。「すると、その人はみなが見ている面前で、起き上がり、ただちに床を取り上げ、外へ出て行った」。からだが麻痺して長年寝たままで、おそらく足は骨と皮だけのように痩せ細って、立ち上がることもできなかったこの人が、イエスの言葉を聞いて、その言葉に従って立ち上がろうとすると、不思議な力が身に注がれて、立ち上がることができた。それだけではない。自分を運んで来た床を、今は自分が取り上げ、それを運んで歩くことができる! まことに驚くべきことが起こった。この出来事は一切の人間的説明を拒否する。われわれもその場にいた人々と共に驚嘆し、ひれ伏すだけである。
 われわれが驚くのは、その麻痺したからだに起こった奇跡的な変化だけではない。そのような働きをするイエスの言葉の質に驚嘆する。こんなにも力のある言葉を人類は今までに聞いたことがあったであろうか。そして、そのような言葉を語るイエスという方に驚嘆する。いったい、この方は誰であろうか。この方が「あなたの罪は赦されている」と言われるのであるから、それは口先の空しい言葉ではなく、聞いた者の全存在をひっくりかえすような出来事が起こっているのである。罪によって断ち切られていた神との交わりが回復され、全く新しい存在にされているのである。
 この出来事を見た人たち全員が驚嘆して、「こんなことは今まで見たこともない」と言って神をほめたたえた、とこの物語は締め括られる。こう言った人たちは、自分の今までの人生でこんな不思議なことは見たこともない、という軽い意味で言ったのであろうが、これを書きとどめたマルコは、この言葉がもっと重い意味で理解されることを願っているのではないかと思われる。すなわち、彼らが見た出来事は人類が今までに見たことのない出来事、全く新しい質の出来事、終わりの日の出来事である、ということをマルコは伝えたいのである。
 預言者たちが「見よ、神は来て、あなたがたを救われる」と言って、終わりの日のことを予言した時、このようなことが起こると語った。

「その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。その時、足なえは鹿のように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、砂漠に川が流れるからである」。(イザヤ書三五章五〜六節)

 イエスも「『来るべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」というヨハネの弟子の質問に、「行って、あなたがたが見聞きしたことをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」と答えておられる(マタイ一一・二〜六)。マルコはイエスのこの言葉を伝えていないが、その事実を伝えて、イエスがなされた業が終わりの日の到来を指し示すものであることを語っているのである。盲人は見え(八・二二〜二六、一〇・四六〜五二)、耳しいは聞こえ(七・三一〜三七)、らい病人はきよまり(一・四〇〜四五)、死人は生きかえっている(五・三五〜四三)。このような力ある業は、普通の病気の癒しとは一段と違った扱いで取り上げられている。それは特に終わりの日の到来を示す「しるし」として重要視されているからである。その中の一つ、「足なえは歩き」の実現がこの箇所に報告されているのである。
 ここの病人は普通「中風の人」と訳されている。ギリシア語原語は「麻痺した(人)」である。中風だけでなく、どのような原因であれ、からだが麻痺している人を広く指す語である。これを「中風」と訳すとたんなる病人の癒しの一例になってしまい、終わりの日のしるしとしての意義が薄くなってしまう。マルコはこの出来事を「足なえは歩き」という終末的な出来事として報告しているのであるから、「足なえ」すなわち「足の麻痺した人」として、「からだの麻痺した人」と訳すほうが適切であると考えられる。
 「足なえが歩く」時が来た。それは預言者が予言し、イスラエルが待ち望んできた「救いの時」である。その時は、神が「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」と言われる時である。人間の一切の罪を覆い尽くす神の恩寵の支配が到来する時である。それは神のすべての約束が成就する日、神が人間の救いのためにされた長い準備が完成する日である。「時は満ちた!」。イエスはその時が御自分の中に来ていることを告知されるのである。足なえを歩かせることも、罪の赦しを告げることも、イエスにおいては一つである。それは共に、終わりの日の神のみ業である。
 足なえが歩く場合だけではない。イエスが盲人の目を開き、耳しいを聞こえるようにし、らい病人をきよめ、死人を生きかえらせる時、それはいつも「罪の赦し」と一つである。それらはすべて、神が恩寵により、人間との栄光に満ちた交わりを回復される「終わりの日」、「救いの時」が来ていることを告げ知らせる業であるからである。終わりの日に神がなされる業は、人間が地上で積み上げてきた宗教とはあまりにも違っているので、宗教的に立派な人たちほど、これに躓き、批判し、退けたのである。そして、自分たちの宗教とは全く異なる原理である「罪の赦し」を宣べ伝えるイエスを憎み、迫害し、ついに殺すにいたるのである。イエスは自らの命をかけて「子よ、あなたの罪は赦されている」と語られたことになる。
 「罪の赦し」、それは単なる法廷での無罪判決ではない。それは人間の一切の反逆と背反とを超えて、恩寵の故に、無条件で交わりを与えられる神の行為である。それは終末時の祝福を一言で表現するものである。イエスの復活後世界に宣べ伝えられた「キリストの福音」も、なによりもまず「罪の赦しの福音」であった。罪なき神の子キリストが世の罪を負う神の小羊として死なれた。罪の贖いを成し遂げられた。この十字架の出来事自体が神の言(ことば)である。この終わりの時に、神は御子キリストの十字架によって世界に呼びかけておられるのである、「わたしはあなたがたの罪を赦している。わたしのもとに立ち帰って、わたしとの交わりに入り、わたしの生命を受けなさい」と。