市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第4講

4 荒野の試み  1章 12〜13節

12 それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。 13 イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンに試みられた。彼は獣と共におられ、御使たちが彼に仕えた。

楽園回復

 イエスはヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった時、聖霊を受けて「主の僕」としての使命を果たすべく召され、同時に神の子として神の直接の啓示と交わりに与られたのであるが、その出来事とイエスが公に宣教活動を始められるまでの間にどのようなことがあったのか、マルコはわずか二節の短い記述で伝えている。しかも、様々な解釈を許す謎めいた表現で述べている。
 このように謎めいた記述を理解するには、聖書独特の用語法に習熟していなければならない。「荒野」、「四十日」、「サタン」、「獣」、「御使」、これらはみな聖書特有の意味内容をもった用語である。マルコ(あるいはマルコ以前の伝承)は、この時期のイエスの内面に起こった霊的現実を、このような聖書特有の用語で描写しているのであるから、われわれもその用語法にしたがって読まなければならない。
 まず、イエスに啓示と使命を与えたその御霊が、イエスを荒野に「追いやった」という表現が目を引く。「追いやる」と訳した動詞《エクバレイン》は、厳密には「追い出す」という意味である。御霊は神との交わりの現実に導き入れるために、御霊を受けた者をあらゆる人間的交わりから追い出して、人里離れた荒野に連れて行く。イエスも実際にヨルダン川に連なるどこかの荒野に、御霊の抵抗しがたい力に促されて入って行かれたのである。それは、一切の人間関係から追い出されて、直接霊なる神と対面し、ただ神からのみ語りかけられ、神との交わりの中におられたという霊的現実を指し示している。
 聖書において「荒野」は預言者がそこから来る場所であり、メシアもそこから来る(イザヤ四〇・三)。また、「荒野」は神の終末的な栄光が顕現する場所である(イザヤ三五章、イザヤ四三・一九〜二一)。それで、先駆者である預言者ヨハネは荒野に現れて、「来るべき者」のために道備えをしたのであった。今イエスは荒野にいて、神の栄光を拝し、神からの啓示を受けて、そこから「神から遣わされた者」として世に現れることになるのである。
 イエスは「四十日のあいだ」荒野におられた。「四十」は苦難と試練の時をさす象徴的数字である。大洪水は四十日四十夜続いた。イスラエルは四十年荒野にさまよった。モーセは四十日四十夜シナイ山で断食した。イスラエルは四十年のあいだペリシテ人に渡されていた。エリヤは四十日四十夜荒野を渡ってホレブ山についた。イエスにとって神の啓示に与る場としての荒野は、同時にサタンに試みられ、サタンと苦闘する試練の場でもあった。
 「サタン」とは神に敵対する霊である。神が霊的現実であると同様、サタンも霊的現実である。神との関わりが現実的でないところでは、サタンも現実的な問題にならない。神との関わりがリアルになると、それを妨げる敵対者の力も現実的になってくる。イエスは聖霊を受けて神との交わりの霊的現実に入られたのであるが、それは同時にサタンの力と現実に直面される場となるのである。子としての交わりと神の国の現実は、サタンの力を克服することによってのみ実現する。イエスの場合、聖霊による神との交わりが最終的・決定的なものであっただけに、サタンとの戦いも最終的・決定的なものであった。

神に敵対する霊の実在と働きが人間存在と共に古いものであることは、聖書冒頭のアダムの記事が語っている。まだ「サタン」という名は用いられていないし、蛇がアダムに語りかけるという神話的表現をとっているが、人を神から背かせた張本人として登場している。旧約聖書では「サタン」という名はまれで、「ヨブ記」というごく後期の文書に出てくるのが代表的な事例である。しかし、新約時代のユダヤ教においては、「ベリアル」とか「マステマ」という名と共に、神に敵対する諸霊の頭として「サタン」という名が用いられるようになってくる。そして、すでに旧約正典の預言書(イザヤ一四・一二以下)にあるように、神に造られた天使ルシファーがその高ぶりの故に神に反逆し、天から追放されて、人を神に背かせる者となったと考えられていた。

 このサタンとの戦いにイエスが勝利されたことを、マルコは「彼は獣と共におられ、御使いたちが彼に仕えた」という一文で語っている。訳出してないが、この文の前にある《カイ》(そして)という接続詞は、先行する「サタンに試みられた」の結果となる次の場面を導き入れるものであろう。「獣と共にいる」とは、いつも野獣の襲撃の危険にさらされているという意味ではない。聖書においては、人が獣と共にいるのは終末的平和の象徴である。もともと、アダムはパラダイスにおいてすべての獣に名を与え、共にいたのであった。アダムの背神の罪のために地が呪われるようになってからは、人はごくわずかの手なづけた獣の他は共にいることができなくなり、獣の襲撃を恐れなければならない者になった。しかし、終わりの時に、神が地に救いの業を成し遂げ、人の罪がぬぐいさられる時、すべてのものの平和が実現し、人は獣と共にいることができるようになる。その終末的平和の光景を預言者イザヤはすでに見ていた。

おおかみは小羊と共にやどり、
ひょうは小やぎと共に伏し、
子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、
小さいわらべに導かれ、
雌牛と熊とは食い物を共にし、
牛の子と熊の子は共に伏し、
乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、
乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、
そこなうことなく、やぶることがない。
水が海をおおっているように、
主を知る知識が地に満ちるからである。(イザヤ一一・六〜九)

 マルコが「獣が共にいた」というのは、この預言がイエスにおいて成就したことを語っているのである。
 さらに、「御使いたちが彼に仕えた」とあるのも、これと並行して神と人との交わりの回復を象徴する光景である。ここで「彼に仕える」と訳されている動詞は、正確には「彼の食事に仕える、給仕する」という意味である。当時のユダヤ教の聖書解釈によれば、アダムはパラダイスにおいて天使たちの食物によって生活したとされている。マルコは触れていないが、マタイとルカによると、イエスは荒野での四十日の間断食されたのであった。その間のサタンとの激しい戦いに打ち勝たれたイエスに、天使たちが食物を備えて仕えたというのである。これも、人間の終末的栄光を指し示す象徴的光景である。
 このように、聖書の用語法に従って読むと、荒野の試みに関するマルコの短い記事は、イエスをアダムとの対比で描いていることが浮かび上がってくる。アダムがパラダイスで失ったものをイエスが荒野で回復されたのである。このことに関する最上の注解は、おそらくミルトンの「パラダイス・ロスト(楽園喪失)」と「パラダイス・リゲインド(楽園回復)」であろう。

神の子の啓示

 さて、イエスは神からお受けになった啓示と使命をめぐって荒野でサタンに試みられ、激しい戦いの末勝利されたのであるが、その内容についてはマルコは何も伝えていない。神の子イエスの霊的体験の深みをわれわれが推測したり描写することは到底できないのであるが、共観福音書に伝えられているイエスご自身のお言葉から許される限り、この時の霊の次元における出来事を考察してみよう。
 先の段落の講解で見たように、イエスはヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになったとき聖霊をお受けになり、「主の僕」としての召命を受けると同時に、神の子としての啓示にあずかられたのであった。この時の聖霊による啓示は一瞬のものではなく、同じ聖霊がイエスを荒野に追いやって、そこで啓示を深め、イエスも身をもって確認されたと考えられる。このように見ると、荒野はイエスにとって啓示の時であったと言える。
 その啓示の第一は、神が聖霊により直接イエスに「あなたはわたしの子」と語りかけられたことである。すなわち、聖霊による直接の交わりの中で、神は御自身を「父」として顕されたのであった。このことは、イエスが生涯「アッバ(父よ)!」と祈られたことによって裏書きされている。
 さらにイエスはこう言っておられる

「わたしの父からすべてのことがわたしに引き渡されている。父のほかに子を知る者はなく、また、子のほかに父を知る者はない。そして、子が示してあげようとのぞむ者のほかに、父を知る者はない」。(マタイ一一・二七私訳)

これは、息子だけに秘伝を伝える父親をたとえとして、子として父から受けている啓示を人々に伝える使命を述べられたものである。当時の社会では、息子だけが父親から家業に必要な知識や技能を教えられたのであった。だから、その父親の知識や技能や秘伝を知る者は、息子本人と息子がそれを伝えてやろうと望む者のほかにはないわけである。そのように、イエスは子としての直接の交わりの中で、神の本質や御旨の認識を与えられ、それを伝えることを委ねられていると語っておられるのである。
 このように、イエスは子として直接父から与えられた啓示を世に伝えることを使命とされたのであるが、マルコ福音書で見るかぎり、イエスはご自分を神の子であると主張されたことはない。ご自身を指す称号としては、黙示文書に出てくる「人の子」という称号だけを用いておられる(この謎に満ちた「人の子」という称号については、後で該当する箇所で詳しく論じることになる)。イエスご自身は神の子であることを口にされず、周囲の人々もそれを悟ることがなかった時、霊の世界の住人たちはそれを知っていた。悪霊たちの頭であるサタンは、「もしあなたが神の子であるならば」と言って、イエスを試みている(マタイ四・三、四・六)。イエスに直面したとき悪霊は、「あなたが誰であるのか、わたしは知っている。あなたは神の聖者だ」と叫んでいる(マルコ一・二四)。
 ところが、イエスは悪霊たちにそれを語ることを厳しく禁じておられる。また、弟子たちが「あなたこそ神の子キリストです」と告白したときも、その後高い山でイエスが変容されるのを拝し、「これはわたしの子である。彼に聴け」という天からの声を聞くにいたった時も、イエスは誰にも語るなと命じておられる(マルコ八・三〇、九・九)。このように、イエスは神の子でありながら、地上での働きの間はその事実を世に隠そうとされたのは何故か。これは福音書研究の大きな課題となった問題であり(いわゆる「メシアの秘密」の問題)、後で詳しく触れなければならないが、ここでは、この時イエスが受けられた「主の僕」としての使命を全うするためには、人々から栄光の称号を受け、その称号のゆえに宗教的・神学的論争を引き起こすことは妨げになるとして、厳しく退けられたのではないか、という理解を示唆するにとどめる。

聖書を成就する者

 イエスの御生涯をもっとも強く決定したのは、バプテスマのとき聖霊によってお受けになった神の言葉であるが、それは聖書の中にある一群の「主の僕」預言の冒頭の一節であった。イエスはこの「主の僕」預言を成就する者としての使命を自覚し、それを妨げようとするサタンの激しい試みの中で、「主の僕」の道がイザヤ書五三章に予言されているように苦難の道であり、多くの人のための死に至る道であることを見つめ、その道を受け入れられたのであった。
 マタイとルカはサタンの三つの試みを伝えている。すなわち、荒野で石をパンに変えること、神殿の頂上から飛び降りること、そして世界の国々が見える高い山で栄光と権力を得るためにサタンを拝むことである。この三つの試みに共通している点は、イエスに苦難の道を捨てさせ、力と栄光の道を選ばせようとする誘惑、すなわち、「主の僕」としての道ではなく、力をもって立つ政治的メシアの道を歩ませようとする誘惑であった、という点である。マタイとルカはこの誘惑を荒野での試みにまとめているが、この誘惑はイエスの御生涯の最後までつきまとうのであって、イエスは御自身の働きの全期間を「わたしの試みのあいだ」と呼んでおられる(ルカ二二・二八)。天からのしるしを求めるファリサイ人たちの声に、イエスを王として立てようとする民衆の声に、そして、十字架の道を行こうとされるイエスを諌める弟子の声に、イエスはサタンのこの誘惑を見られたのであった。この誘惑の声に対しては、それが弟子ペトロからであろうと、「サタンよ、退け」と厳しく対決されたのであった。
 イエスがバプテスマの時に受け荒野で確認された使命、すなわちイザヤ書五三章を中心とする「主の僕」の預言を成就する者としての使命が、いかに深くイエスの生涯を決定しているかは、イエスが御自身について語られる言葉の端々に「主の僕」預言の響きが聞かれることが多いこと、とくに最後の晩餐で語られたイエスの言葉が明白にイザヤ書五三章から出ていることからもうかがわれる。
 イエスは荒野で「主の僕」としての召命を自覚されたとき、同時に御自身が聖書(旧約聖書)全体を成就・実現する者であることを自覚されたと考えられる。故郷ナザレの会堂でイザヤの預言を朗読して、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ四・二一)と第一声をあげられて以来、イエスはいつも事あるごとに「これは聖書が成就するためである」と語られた。ゲッセマネでは「わたしが父に願って、天の使いたちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書の言葉はどうして成就されようか」と言って、捕らえにきた者たちの手に御自身をお委ねになったのである(マタイ二六・五三〜五六)。ルカはこのことを、復活されたイエスが弟子たちに語られた言葉によって要約している。イエスはこう言っておられる。

「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉はこうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩編とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。(ルカ二四・四四)

 「聖書を成就する者」というのは、聖書の教えを実践して、その精神を実現する者という意味ではない。「法華経の行者」というのとは意味が違う。聖書には様々な面があるが、究極的は神の約束の書である。神はイスラエルの全歴史を通して、終わりの時に最終的・決定的な救いの業を成し遂げると約束してこられた。イエスは「主の僕」としての召命をお受けになったとき、この「主の僕」こそ、神がその中に終末的な救いの業を成し遂げられる人物であることを知られたのであった。イエスは神が終末的な約束を成就するための器として選ばれたのである。聖書を成就するのは人ではなく神である。神が選ばれた方の中に働き、究極の約束を実現されるのである。「聖書を成就する者」というのは終末論的概念である。

サタンとの決戦

 このように、荒野はイエスが受けられた啓示と使命をめぐる、イエスとサタンの決戦の場であった。この決戦にイエスが勝利されたことについて、イエスは後に一つの譬で語っておられる。同じ譬がマルコ(三・二七)とルカ(一一・二一〜二二)とに異なった形で伝承されている。ここでは状況描写がより詳しいルカを引用しておく。
 イエスはサタンの力で悪霊どもを追い出していると非難されたのに対して、内輪で分かれて争う家や国は立ち行かないと一蹴し、自分が悪霊を追い出しているのは、すでに自分がサタンの支配を打ち破っているからだと言っておられるのである。この「決闘の譬」とも言うべき譬が指し示しているのは、あの荒野でのサタンに対する勝利であることは明白である。イエスが神の霊によってサタンの力に打ち勝ち、彼の支配を打ち破られたことによって、神の支配が地上に到来したのである。

「わたしが神の指(マタイでは「神の霊」)によって悪霊を追い出しているのなら、神の国(神の支配)はすでにあなたがたのところに来たのである」。(ルカ一一・二〇)

 さらに、イエスがサタンに打ち勝たれた霊的体験を一人称で語っておられるところがある。イエスが宣教に派遣された七十二人の弟子が帰ってきて、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」と報告したとき、イエスはこう言っておられる。

「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。(ルカ一〇・一八〜二〇)

 イエスが「サタンが電光のように天から落ちるのを、わたしは見た」と言われる時、それは荒野でのサタンとの戦いを指しておられると考えられる。イエスが公の宣教に立たれたときには、すでに御自身が「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」を帯びる者として現れておられるからである。さらに、ここでイエスが語っておられる言葉と、マルコが荒野での試みについて伝えている記事の間には、表現は異なるが、内容的な並行関係が認められる。ここではサタンの天からの墜落、毒蛇も害にならないこと、天に名がしるされていることが語られており、マルコの記事ではサタンの挑戦、野獣との共存、天使たちの奉仕が伝えられている。両者の間には伝承史上の関連が推察されるが、確証はない。ただ、霧の中にあるような謎めいたマルコの記事は、ここでのイエスの言葉によって解釈されるとき、イエスによるサタン支配の打破という明確な使信を語るものとなる、と言える。
 マルコはパウロの活動時期以後に福音書を書いたのであるから、キリストを「終わりのアダム」と見る見方(コリント人への第一の手紙一五章、とくに四五節)は知っていたはずである。サタンの誘惑に負けて神に背き、罪と死の支配を引き入れてしまったアダムとの対比で、御霊の力によってサタンとの決戦に打ち勝たれたイエスを描くことにより、マルコはこの方こそ「終わりのアダム」、すなわち終わりの日に創造される新しい人類の頭(代表者)たるべき方であると示唆しているのではなかろうか。このような奥義は論理的・概念的な言葉で語ることはできない。おのずから象徴的・神秘的表現をとらざるをえない。荒野の試みについてのマルコの記事が簡単であるのは、マルコが伝えるべき材料(伝承)を持っていないとか、その内容について理解できないからではなく、「終わりのアダム」の秘義の大きさに圧倒されて、このような簡潔な象徴的表現で、秘義の存在を示唆することしかできなかったからではなかろうか。イエスのバプテスマと荒野の試みという霊的にもっとも重要な内容を語る記事の短さは、「読む者よ、悟れ」と呼びかけているのではなかろうか。わたしにはそう聞こえてならないのである。