市川喜一著作集 > 第2巻 キリスト信仰の諸相 > 第14講

終章 いのちの御霊

はじめに

 聖書は霊の書です。霊の世界、霊の次元のことを啓示する書です。霊なる神が選ばれた民の中に働かれた記録であり、その働きを受けた民の歩みを物語る書です。その結果、聖書は歴史の書でもあります。霊なる神はイスラエルの歴史の中に、イエスの出来事の中に、そして、福音によって呼び集められた民の中に、救いの働きを進めてこられました。本章では、死すべきわたしたちに永遠のいのちを与えてくださる神の御霊の働きという視点から、聖書を受け止めてみたいと思います。

いのちを与える御霊

イスラエルの歴史における御霊

 旧約聖書はイスラエルの民の歴史を記録していますが、その中には祭儀や法律、詩歌や文学、預言や思想など、多彩な分野の文書が含まれています。しかし、そのすべての源泉は神の霊の働きです。
 アブラハムを初めとする族長たちは、移動する天幕で見えない霊なる神を礼拝し、その語りかけを受け、導きと約束の言葉を受けました。エジプトで奴隷となっていた民を、神はモーセに現れ、モーセを通して驚くべき力を振るい、エジプトの地から導き出し、シナイで契約を結び、ご自分の民とされます。燃える柴や雲の柱・火の柱が象徴しますように、これはすべて臨在される神の霊の働きです。約束の地カナンに入った民を、神の霊に霊感された士師たちを通して裁き、直接統治されます。
 イスラエルの民が周囲の民と同じように王国となり、神殿を建てるようになったとき、神は選ばれた預言者に霊感を与え、預言者を通して民に裁きと約束の言葉を語りかけられます。王は本来神の支配を地上で代行する者であり、神殿は神の臨在の場であります。その王が契約に背き王国が滅びたとき、神殿は破壊され、神の臨在のしるしである「シェキナー」は去ります。王国の歴史は、神の霊と人間の制度的支配との間の格闘の歴史です。
 捕囚期と捕囚後の預言者たちは、捕囚という苦難を通して啓示を受け、神の霊が神殿や預言者というような特別の場や器だけに宿るのではなく、神の民すべての中に宿り、その霊の働きによって民が生きるようになる時代が来ることを預言します。イザヤは、天と地の創造者である神が、心砕けた者の中に住まわれることを語ります(イザヤ五七・一五)。エゼキエルは、神の霊が人の心の中に宿るようになることを預言し(エゼキエル三六・二五〜二七)、枯骨の谷の幻(エゼキエル三七章)によって死せる者が神の霊によって生かされる時の到来を見ます。そして、ヨエルは終わ りの日に神の霊が「すべての人に」注がれることを叫びます(ヨエル三・一〜二)。 こうして、旧約聖書は神の霊の働きによって生み出され、すべての人が神の霊によって生かされる時の到来を待望するに至ります。

霊の人イエス

 そのようなイスラエルの中に、「時満ちて」イエスが出現されます。イエスはヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになったとき、「天が裂けて」神の御霊がご自分に降ってくるのを体験されます(マルコ一・一〇)。「天が裂けて」とは新しい時代、待望されていた終わりの時の開幕を象徴します。神の霊によって地上の歴史が形成される時代が到来したのです。
 イエスは神の霊に満ちて、宣教の働きを開始されました(ルカ四・一四)。イエスが悪霊を追い出し、病気を癒やされたのは、神の霊の働きでした(マタイ一二・二八)。イエスが「神の支配」を宣べ伝えられた言葉、すなわち、罪人に対する父の圧倒的な恩恵の支配を告知された言葉は、聖霊が語り出される言葉でした(ヨハネ三・三四)。
 イエスの出現は、地上に神の霊の働きが現れる時代が到来したことを告げるものでした。イエスの中には神の霊という火が燃えていました。しかし、それはまだイエス一人に止まっていました。イエスは、御霊の火がすべての人に燃え広がるのを見ることを切に願われましたが、そうなるためにはイエス御自身が苦しみのバプテスマを受けなければなりませんでした(ルカ一二・四九〜五〇)。イエスは、すべての人のために罪の贖いの業を成し遂げて栄光を受けた後はじめて、御自分のもとに来る者に御霊を与えることができるのです(ヨハネ七・三七〜三九)。復活によって栄光をお受けになったイエスが、信じる者に御霊を注がれる業を、マルコは「聖霊のバプテスマ」と呼びました(マルコ一・八)。ルカは、信じて求める者に聖霊が与えられることを「父の約束」と呼びました(ルカ一一・一三、二四・四九)。ヨハネは、イエスが地上を去られた後に与えられる聖霊を、「別の同伴者《パラクレートス》」と呼びました(ヨハネ一四・一六)。呼び方は違いますが、福音書はみな、イエスが来られたのは神の御霊が注がれるための道備えだとしています。

霊なるキリスト

 イエスは十字架につけられて殺されましたが、三日目に復活されました。人々が十字架につけて殺したイエスを、神が復活させたのです。イエスの復活は神の霊の働きです(ローマ一・四、八・一一)。イエスが復活されたことは、復活されたイエスに出会った弟子たちが命がけで証言しました。これも聖霊の働きです。聖霊体験とは、何よりもまず、イエスの復活者としての栄光を啓示される体験です。そして、聖霊は十字架につけられたイエスを復活者キリストと証言させる力であり(使徒一・八)、イエスを主《キュリオス》と告白させる力なのです(コリントT一二・三)。
 主《キュリオス》イエス・キリストを宣べ伝える宣教にも様々な傾向とかタイプがあります。その中で、使徒パウロのキリスト宣教は、保存されている書簡によってその内容が明確にたどれるだけでなく、その後の福音の展開を決定づける最も典型的なものですから、ここでは新約聖書のキリスト宣教の代表として、パウロのキリスト宣教の内容を取り上げます。
 パウロは、ユダヤ人にはつまずきであり、ギリシャ人には愚かであっても、ただ「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えると言っています(コリントT一・二三、二・二)。それは、イエスが十字架につけられて処刑されたという歴史的な出来事を語り伝えることではありません。ここで言う「キリスト」は、復活して今も生きて働きたもう霊なる存在です。「主は霊である」のです(コリントU三・一七)。
 「十字架につけられたままのキリスト」(直訳)とは、その霊なる主キリストが現在わたしたちのための死を負っている姿で現れ、宣べ伝えられているということです。このキリストに自分の存在を投げ入れ、この方を主と告白する者には、約束されていた聖霊が与えられるのです(ガラテヤ三・一〜二)。これが福音です。
 こうして、「十字架につけられたキリスト」を信じ、このキリストに結ばれることによって(パウロの表現では「キリストにあって」)受ける聖霊こそ、わたしたちにとって新しい命、永遠の命なのです。キリストにあって与えられる御霊こそが、死すべき人間の中に始まる永遠の命であることを、パウロは次のように言っています。

「神の御霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく御霊の支配下にいます。キリストの御霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、御霊は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその御霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。(ローマ八・九〜一一)

 この箇所でパウロが言う《ト・プニューマ》はすべて神・キリストに属するものですから、「御霊」という訳に統一しました。一〇節の「《ト・プニューマ》は義によって命となっています」という句も、わたしたち人間に元からある霊が死から命に変わるのではなく、新しく与えられた御霊がわたしたちにとって命となっていると理解すべきでしょう。
 ここでキリストに属する者の内に宿っているとされる御霊は、「神の御霊」、「キリストの御霊」、「キリスト」、「イエスを死者の中から復活させた方の御霊」と呼ばれています。ここで「キリスト」が「御霊」と同格に並んでいることが注目されます。これは、内にいます御霊はキリストに他ならないこと、換言すれば、パウロの言うキリストは御霊のキリスト、霊なるキリストであることを示しています。
 生まれながらの自然の人間は、パウロにおいては「肉」と呼ばれています。肉なる人間は生まれながらの自然の体の中に生きています。そして、この体は「罪によって」、すなわち神から離れているゆえに、死に定められています。生まれながらの人間は、この死に定められた体を超える命を知りません。その命は体の死と共に滅びます。ところが、キリストにあって賜る御霊は、わたしたちの内にあって、「義によって」、すなわち神との結びつきによって、わたしたちの命となってくださっているのです。死すべき自然の人間の中に、上から別種の命が与えられ、死すべき体の内に生きているのです。
 この命は、死に定められた体をも「生かす」命です。「生かす」《ゾーオポイエイン》という動詞は、死んでいるものに命を与える、すなわち「復活させる」と同じ意味の動詞です。「生きる」が人間を主語にする自動詞であるのに対して、「生かす」は神だけを主語にする他動詞です。わたしたちの内に生きたもう霊なるキリストは、わたしたちの死すべき体を復活させて霊の体とし、この体の死を超えて生きるようにさせる命なのです。これが「永遠の命」です。
 この消息を、パウロは次の短い一句に凝縮して述べています。

「終わりのアダムは命を与える霊となった」。(コリントT一五・四五)

 「終わりのアダム」というのはキリストのことです。創世記の初めに出てくる「最初の人アダム」が、生まれながらの人間を代表するように、キリストは終わりの時に創造される新しい人間を代表する者として「終わりのアダム」と呼ばれるのです。最初の人アダムは、地の塵で造られた体に命の息を吹き入れられて、「命のある生き物《プシケー》」になったと記されています。ここで生まれながらの人間が生きている命は《プシケー》と呼ばれています。それに対して、終わりのアダムであるキリストはその十字架の死と復活によって、信じる者に御霊を与える方(聖霊によってバプテスマする方)となり、それによって信じる者の内に御霊として生きる方となられたのです。この内なる御霊こそ、「生かす御霊、《ゾーオポイエイン》する御霊」、「いのちの御霊」、すなわち死に定められた人間に「命《ゾーエー》を与える御霊」なのです。

永遠の命

 こうしてキリストにあって上より賜る命は、人間が生まれながらに生きている自然の命《プシケー》と区別するために、「永遠の命」と呼ばれています。パウロでは「永遠の命」という表現はごく僅かしか使われていませんし、そこでの「永遠の命」は将来の賜物として語られています(ローマ五・二一、六・二二〜二三)。
 ユダヤ教(とくに当時のファリサイ派ユダヤ教)の基本的な問いは、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいか」(マルコ一〇・一七参照)という問いです。「受け継ぐ」という語が示していますように、ここでの「永遠の命」とは、来るべきアイオーン(時代)での命を指しています。来るべき時代の命を受け継ぐためには、この時代において何をすればよいのか、という問いです。この問いに対するユダヤ教の答えは、律法を遵守することです。ユダヤ教における「永遠の命」は、将来の事柄です。パウロが「永遠の命」という表現を用いるときには、なおこのような将来の面が残されているようです。
 ところが一方パウロは、先に見たように、キリストにあっては御霊によって新しい命がすでに来ているという現実を明確に語り出しています。パウロの福音がユダヤ教と根本的に違うところは、永遠の命を受け継ぐために必要なことは、律法を遵守することではなく、イエス・キリストを信じることだと主張するだけでなく、その命が御霊によって現在すでに来ていると宣言することです。パウロはその命を《ゾーエー》と呼んで、現在の事柄として繰り返し語っています。
 パウロの福音におけるこの面を受け継いで強調するのがヨハネ福音書です。ヨハネは、生まれながらの自然の命《プシケー》と、上から賜る新しい命《ゾーエー》を明確に区別して、《ゾーエー》を「永遠の命」と呼び、それが現在の事柄であることを強調してやみません。ヨハネ福音書は、まず「永遠の命」は御霊によって与えられるものであることを、イエスとニコデモとの「対話」という形で語っています(ヨハネ福音書三章)。
 ニコデモとの対話において、「神の国に入る」という本来は終末的な問題が、「永遠の命を得る」ために「新たに生まれる」という現在のいのちの問題に変えられています(三〜五節)。神の国に入るための道として律法遵守の道しか知らないユダヤ教指導者にとって、神の国に入るためには新しく生まれなければならないというイエスの言葉(実はヨハネ教団の証言)は、まったく意表外の理解しがたい言葉です。ニコデモは「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と、的外れな答えをしています。それに対してイエスは、「新しく(この語は「上より」という意味もあります)生まれる」ということは、「御霊から生まれる」ことだと教えられます(五〜八節)。
 ヨハネ(とその教団)は、世(とくにユダヤ教世界)に向かって、自分たちが「知っていることを語り、見たことを証ししている」のです(一一節)。彼らはイエスを信じることによって御霊を受け、御霊によって生まれた現実に生きているのです。それが永遠の命であることを知っているのです。そして、この永遠の命を得る道として、パウロと同じように、十字架につけられたキリストを信じる道を提示するのです(一四〜一五節)。イエスの十字架の死は、永遠の命を与えるためになされた神の愛の業であることが告知されるのです(一六節)。
 イエスを信じる者は、すでに死から命に移っており、いま永遠の命を持っているのです(ヨハネ三・三六、五・二四、六・四七など)。「永遠の」というのは、この体がいつまでも死なないという意味ではありません。御霊によって与えられる命が、この死に定められた自然の命《プシケー》とは別の種類の命であることを指し示しているのです。そして、その「永遠の」という姿は、パウロと同じように、その命が終わりの日に復活の体をもって現れるという形で完成します。ヨハネも永遠の命が現在のことであることを強調すると同時に、その命は終わりの日の復活に至る質の命であることを付け加えざるをえないのです(ヨハネ六・四〇、六・五四)。

いのちを導く御霊

「外なる人」と「内なる人」

 こうして、キリストにある者には、生まれながらの古い人間のただ中に、御霊によって生まれた新しい別種の命が生き始めます。キリストにある者には一種の二重性が生じます。この二重性をパウロは、「古い人」と「新しい人」とか、「外なる人」と「内なる人」と呼んで表現しています。これは二人の人ではなく、一人の人の中にある二つの質の命です。パウロはふつう生まれながらの人間の本性を「肉」と呼んで、「肉」と「御霊」の対立を語りますが、それぞれの命の質を生きる人間の二重の姿を「外なる人」と「内なる人」と呼んで表現していると見ることができます。

「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。(コリントU 四・一六)

 生まれながらの自然の命に生きる「外なる人」は、この世の労苦や病気や患難に疲れ果て、寄る年波に衰えていき、ついには死に至らざるをえません。その中にあって、御霊の命に生きる「内なる人」は日々新たにされて、ますます力強くなっていくというのです。なんと心強いことでしょうか。この「内なる人」の命である永遠の命、御霊による命を、強めて日々新たにしていくのは、この命を与える御霊そのものなのです。命を与える御霊は、同時にその命を導き、育み、強める御霊でもあるのです。

「神の御霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。(ローマ八・一八)

 「神の子」というのは、神と同じ質の命に生きる者のことです。「神の子」は、神の命の質をもつ御霊によって生まれ、その御霊に導かれて生きているのです。では、その御霊に導かれるとき、人間にはどのような姿が現れてくるのでしょうか。
 パウロは書簡で御霊の働きないし現れを詳しく論じています(コリントT一二〜一四章)。そこでは御霊の現れとして病気を癒やす力、奇跡を行う力、預言や異言など、人を驚かすような御霊の働きが上げられています。しかし、それらはキリストの体であるエクレシアを建て上げるために、一部の人に与えられた一時的な「賜物」《カリスマ》であるとされます。それに対して、信仰と希望と愛が永続的な御霊の現れであるとされます(コリントT一三・一三)。
 この信仰と愛と希望は、三ツ星のようにパウロの手紙の中に繰り返し現れます。古来、人間の徳を三つとか四つにまとめて上げる倫理説が見られますが、この信仰と愛と希望の三ツ星は、御霊に導かれて生きる者に現れる「徳」の中から、パウロがたまたま選び出して組み合わせたものではありません。御霊がその働きを現実の人間に現わすとき、必然的に信仰と愛と希望という姿を取るのです。それは、人間が神との関わりという垂直軸、隣人との関わりという水平軸、時間の中の存在であるという時間軸という三つの軸の交点に存在する者だからです。この三つの軸の交点に存在する人間の中に御霊が宿るとき、神との関わりにおいては信仰という姿で現れ、隣人との関わりにおいては愛という姿で現れ、時間軸においては希望という姿で現れるのです。
 ところで、パウロが言う御霊が与えてくださる命とは、ヨハネが言う永遠の命に他なりません。それで、パウロが御霊の現れとして語る信仰と愛と希望は、永遠の命が現実の人間の中に生きる姿に他ならないということになります。パウロは永遠の命を終末的な意味で僅かの箇所で用いているにすぎませんが、ヨハネは永遠の命を福音の主題にして、信じる者は現にそれを持っていることを強調しています。ところが、ヨハネはその命が現実の人間に現れる姿を、パウロのように詳しく語っていません。それで、わたしたちはともすれば、永遠の命についてはその働きとか現れの具体的な姿を理解することなく、漠然と死後も生き続ける命というような理解で済ませていることが多いようです。以下、人間存在の三つの軸における御霊の現れを簡単に見ていきますが、それは永遠の命が現実の人生の中に現れる姿、「内なる人」の姿でもあるのです。

御霊による信仰

 パウロは「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と言った後、こう続けています。

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」。(ローマ八・一五〜一六)

 御霊はまず、神に向かって「アッバ、父よ」と祈らせることによって、わたしたちの生き方を転換させる力です。「アッバ」というアラム語は、息子が父親に「お父さま!」と呼びかけるときの用語です。イエスはいつもこの呼びかけで祈り、弟子たちにそのように祈るように教えられました。それで、福音がギリシャ語を用いる世界に宣べ伝えられたときも、「アッバ」というアラム語がそのまま祈りの言葉として用いられたのです。
 「アッバ」というアラム語の呼びかけは、教えられれば真似して祈ることができます。しかし、イエスが「アッバ」と祈られた祈りは、御霊によらなければ祈れないのです。イエスはこの祈りによって御自分の存在を完全に父に委ねて生きておられました。その生き方の自然な表現として、あの「空の鳥を見よ、野の花を見よ」(マタイ六・二五〜三四)という言葉が出てくるのです。また、イエスはこの御霊の祈りによって父の懐に深く入って、父と一つになっておられたからこそ、嵐に翻弄される小舟の中で眠り、死刑を求める法廷で岩のように泰然としておられたのです。それがイエスにおける「信仰」です。わたしたちは口先で「アッバ」という祈りを唱えても、このような境地に入ることはできません。わたしたちは人生の現実の中で思い煩い、恐れ、不安に翻弄される「信仰のない者」です。御霊によって祈るときはじめて、自分の存在を全く父に委ねる「お父さま!」の祈りができるようになり、幾分かイエスの信仰の境地に与ることができるようになるのです。
 わたしたちの「外なる人」も祈ります。しかし、人間は本性的に自己中心ですから、その祈りは自分が名誉を受け、自分が支配できる範囲が広がり、自分の欲するところが実現するようにという祈りになります。それに対して、御霊による「内なる人」の祈りは、方向が逆になり、父の名があがめられること、父の支配が到来すること、父の意志が行われることだけを求め、自分が無となる場が現成します。肉から出る宗教とか信仰と、御霊から出る信仰は、このように方向が逆となり、相反する質のものになります。
 わたしたちの信仰はキリストとの関わりにおけるわたしたちの在り方です。ふつう信仰というと、わたしたちがキリストを信じることだと理解されています。わたしたちが信じる主体であって、キリストは信じる対象です。御霊による信仰においては、この関係は逆転します。キリストにおいて現された神の真実がわたしたちを支えてくださるのです。キリストがわたしたちを信じてくださるのです。御霊の場においては、キリスト信仰成立の基盤はわたしたちの信仰ではなく、キリストにおける神の信実なのです。御霊の場においては、信仰は信交となります。すなわち、外にいますキリストを信じて仰ぐのではなく、「わたしはキリストの内に、キリストはわたしの内に」というキリストとの交わり、キリストに合わせられている現実となります。

御霊による愛

 人間は社会的存在です。まったく一人では人間として生きることはできません。社会の中で、他の人と共に生きることによってはじめて人間として生きることができるのです。それで、社会や隣人とどう関わるかという倫理の問題が、人間の基本的な問題となります。この隣人関係という倫理の問題で、御霊の人イエスはどう言っておられるのでしょうか。
 この問題でもっとも印象深いイエスの発言は、「敵を愛しなさい」という言葉です。イエスも当時のユダヤ教律法学者と同じように、心を尽くして主なる神を愛することと並んで、「自分を愛するように隣人を愛する」ことをもっとも基本的な戒めとしておられます。「隣人」とはふつう自分と同じ民族とか宗教とか、同じ立場の仲間、同じ価値でつながる仲間を指しています。ところが、イエスはこの「隣人」に敵をも含ませたことが、一般の戒めや倫理と根本的に違うところです。このような違いはどこから来るのでしょうか。
 ユダヤ教でなくても、世界のどの民族も、人間にとって愛することがもっとも大切であり、幸せであり、あらゆる人間関係の核であることを知っています。社会の道徳も法律もすべて、人間が愛し合って生きることができるようになるための場を用意するものです。ところが、生まれながらの人間の愛は、どうしてこんなに脆く壊れやすいのでしょうか。男女の愛、友人の愛、兄弟の愛、そして親子の愛でさえ、時と共に移ろいゆき、冷め、事情によっては容易に裏切り、敵意にさえ変わってしまいます。それは、人間の本性が自己中心であり、自分によくしてくれる相手しか愛せないからです。もし、敵をも愛することができるならば、愛は相手の態度や価値に左右されない絶対的な次元を持つことになるでしょう。
 では、敵をも愛する愛はどうして可能になるのでしょうか。イエスは「父が慈愛深いのだから、あなたがたも慈愛深い者となりなさい」(ルカ六・三六)と言われました。父の無条件の愛を受けて、絶対の恩恵の場に生きるとき、イエスと同じ無条件の愛に生きることができるようになるのです。その間の消息を、パウロは聖霊によるものとして詳しく展開していますので、愛についてパウロが語るところを聴いてみましょう。
 パウロは愛を戒めとか教訓としては語っていません。パウロにおいては、愛は御霊が上からもたらしてくださる別種の力です。肉、すなわち人間の本性からは《アガペー》と呼ばれる敵をも愛する愛は出てきません。《アガペー》は御霊の働きとして人間の内に宿り、御霊に導かれて生きる人間の中に根付いていくのです。
 聖霊は「十字架につけられたキリスト」を通して与えられます。自分のために死んでくださった神の子キリストを信じることによってだけ、聖霊の働きの場に入ることができます。その御霊はまず何よりも、キリストの死がわたしに対する神の愛の現れであることを示し、その神の愛をわたしたちの心に注ぎ込んでくださるのです(ローマ五・五〜八)。
 こうして、キリストの十字架に現された神の愛は、聖霊によってわたしたちの中に宿り、働き、その姿を現していくのです。その働きを、パウロは実に簡潔に、見事に描いています(コリントT一三・四〜七)。
 まず「愛は寛容である」と言われます。愛は相手がどのような者であっても受け入れる広い心であるということです。次に「愛は情け深い」と言われます。これはイエスが「慈愛深い者となれ」と言われたのと同じ意味です。さらに、愛の働きが具体的に描かれた後、最後に「愛はすべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを担う」(私訳)と結ばれます。この最初と最後の表現は、御霊の働きとしての愛が無条件の愛、相手の在り方に無関係という意味で「絶対」の愛であることをよく描いています。
 中間の部分では、愛の働きは八つの否定形の動詞で描かれます。否定されている「ねたみ」とか「高ぶり」などはみな、人間の本性に巣くう性質であって、それが人間の愛を崩壊させるのです。それらの性質は、人間が自分の力で克服することができないものです。御霊の愛がはじめてそのような「肉の働き」を駆逐し、愛を確かな土台の上に据えるのです。こうして、御霊の愛は人間の愛を否定するのではなく、本性的な愛の破れを包み担うことで、愛を確かなものにする神の恵みの力なのです。

御霊による希望

 聖霊が時間の中に存在する人間の中に宿るとき、御霊は将来の確かな希望となります。その消息をパウロは、「神の御霊に導かれている者は皆、神の子なのです」という現実の帰結として詳しく語っています(ローマ八・一四〜二五)。すなわち、子であれば相続人であり、キリストと共に栄光を受け継ぐ者であるというのです。そして、キリストと共に受け継ぐ資産とは、「体が贖われること」、すなわち、この朽ちる卑しい体に代えて、朽ちることのない栄光の「霊の体」が与えられることです。それが死者の復活です(コリントT一五・四二〜四四)。わたしたちの希望はこの死者の復活に与ることです。
 キリストは死者の中から復活されました。キリストは終わりの時に復活する者たちの「初穂」として復活されたのです(コリントT一五・二〇)。キリストの復活は、キリストに属する者たちの復活を保証しているのです。それだけでなく、わたしたちの内に与えられている御霊も「初穂」と呼ばれています(ローマ八・二三)。御霊はわたしたちが復活に与ることの保証なのです。先に見ましたように、御霊は「イエスを死者の中から復活させた方の御霊」であり、キリストに属する者の内に宿る御霊は、復活に至らせる質の命だからです(ローマ八・一一)。
 「わたしたちは希望へと救われたのです」(ローマ八・二四)。ここは「希望によって救われた」ではなく、「希望へと救われた、すなわち、救いの結果として希望に生きるようになった」と理解すべきです(ローマ五・一〜三参照)。希望というのは、将来こうなってほしいという願望ではありません。将来が現在に突入して、現在の生きる力となっている事態です。来るべき栄光の時代の命である御霊が、現在キリストにある者の中に宿り、現在に生きる力となっているのです。御霊によって生きる者には、復活は現在の中に宿っているのです。御霊が「初穂」と呼ばれるのはこのためです。
 死者の復活に与るというのは、今のわたしたちにとって理解できないこと、納得しがたいことです。それは今は「目に見えないもの」なのです。この「見えないもの」を現実として生きることが「信仰」です(ヘブル一一・一)。この場合の「信仰」は、ここで言う「希望」とほぼ同じことを指しています。
 新約聖書には共観福音書やヨハネ黙示録のように、将来の希望を宇宙の破局とその後に創造される新しい世界という形で描く文書もあります。これは福音の希望をユダヤ教黙示思想の枠組みを用いて表現しようとしたものですから、現在わたしたちが希望を表現するのに、その枠組みに拘束される必要はありません。すでにユダヤ人パウロは、二つのアイオーンという黙示思想の枠組みを突き抜けて、御霊による復活の希望に集中しています。わたしたちも、パウロに従い、御霊の現実としての死者の復活を、わたしたちの希望として明確にしていけばよいのです。

いのちの勝利

 こうして、御霊はわたしたちの中に、生まれながらの命とは別種の命を上からもたらし、その命を導きはぐくむ霊ですから、「いのちの御霊」と呼ばれます。キリストにあって受けるこの「いのちの御霊」の働きが、わたしたちを罪と死の力の支配から解放し(ローマ八・二)、わたしたちの人生に信仰と愛と希望という姿で現れてくるのです。これが「永遠の命」《ゾーエー》の姿です。
 わたしたちの「外なる人」、すなわち生まれながらの人間の命と体は、人生の労苦や病にすり減らされ、歳と共に衰えます。その中で、「内なる人」の命は、わたしたちが御霊に導かれて、御霊に従って歩むかぎり、日々新たにされて、信仰と愛と希望は強められていきます。「外なる人」が衰えた分、それだけ「内なる人」の姿がはっきりとしてきます。キリストにある者の老年は、御霊の命がその姿をいっそう鮮明に現す祝福された時です。
 ローマ書八章は、この御霊による命が、地上の生の苦難と死の現実を貫いて勝利する姿を描いています。繰り返し味わって、共にいのちの勝利を祝い、主イエス・キリストにあってこの勝利を与えてくださる神に賛美を捧げましょう。