市川喜一著作集 > 第2巻 キリスト信仰の諸相 > 第10講

第三部 愛の諸相

     第三講 愛はすべてに勝つ

            ― 新約聖書における《アガペー》 ―

ヨハネにおける愛

降下する愛

 前二講(「愛の諸相」第一講と第二講)で、イエス御自身の「神の国」宣教と、使徒パウロによる福音宣教において、宣教の核心となっている「恩恵の支配」から出発して、恩恵の支配の出来事とは実はその背後にある神の愛の顕現であり、神的な愛が地上で人々の間に実現する場を形成し、その実現を促す原動力であることを見てきました。
 ところが、新約聖書の最後の高峰であるヨハネにおいては、「恵み」とか「恩恵」は消えて、「愛」が直接表舞台に登場します。ヨハネ文書(ヨハネ福音書とヨハネの手紙)において、「恵み」という語が出てくるのは福音書序文の四回と、第二の手紙の挨拶で一回だけです。福音書と手紙の本体では一回も出てきません。ヨハネ文書では「恵み」に代わって「愛」が繰り返し出てきます。「愛」とか「愛する」(《アガペー》とその関連語)が出てくるのは、他の新約聖書文書に比べてヨハネ文書が圧倒的に目立ちます。パウロが「恩恵の使徒」であったとすれば、ヨハネは「愛の使徒」であると言うことになります。
 《アガペー》の語群(動詞形、名詞形、形容詞形)の総計は、ヨハネ文書(福音書と手紙)が一〇六回、パウロ書簡(パウロの名による書簡を含む)が一三六回、共観福音書と使徒言行録合せて三七回、その他四一回となっています。文書の量に対する割合からすると、ヨハネ文書が多いことが分かります。パウロも愛の神学を基礎づけた使徒として重要です。しかし、パウロにおいては「恵み」が前面に出ているのに対して、ヨハネにおいては「愛」だけに集中していることから、パウロを「恩恵の使徒」、ヨハネを「愛の使徒」と呼んでよいでしょう。
 ヨハネは救いの出来事を神の愛の出来事として描きます。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。(ヨハネ三・一六)

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。(ヨハネT四・九〜一〇)

 ヨハネにおいては、イエスは世界が造られる前から神と共にいました「独り子」であり「御子」です。イエスが地上に歩まれたのは、神が御子を遣わされた結果なのです。イエスという地上の人物は、永遠にいます神の御子が「肉体をとって」わたしたち人間の間に現れた姿です。十字架の死に至るイエスの生涯は、神が世を愛し、わたしたちの救いのために御子を「与えてくださった」出来事なのです。このイエスを神から遣わされた方と信じることが、神の愛を受け容れることであり、神が与えてくださる永遠の命に与ること、すなわち救いなのです。
 このように、十字架にいたるイエスの生涯、いや、イエスが世に現れたこと自体が、永遠に神と共にいます御子が世に来られた出来事であり、神の愛の顕現そのものなのです。ヨハネにおいては、「世」《コスモス》は神に敵対することで、神の栄光と命から落ちた死と闇の領域です。御子が神の光の領域から「世」に来られたということは、御子が上から死と闇の領域へと「下って」来られたということです。ここに愛があるというのですから、ヨハネにおいては「愛」とは基本的に降下する愛、すなわち、上なる方が下にいる者のところに下ってきて、下にいる者を救い上げるという方向性をもった愛なのです。
 ヨハネも、わたしたちが主を愛するとか神を愛するという、上に向かう愛に触れる場合が僅かながらありますが、その大部分はそういう愛がないことを非難する場合(ヨハネ五・四二、八・四二)か、神またはイエスを愛するとはその掟を守ることだという規定であって(ヨハネ一四・二三〜二四、ヨハネT五・三)、わたしたちが神を愛したとは述べていません。共観福音書とは異なり、ヨハネ福音書のイエスはもはや、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というイスラエルの「シェマ」を、最も重要な戒めとして引用されません。ヨハネが見ている愛は、基本的には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださった」という方向です。
 「愛」を意味するギリシャ語には、《アガペー》(動詞形は《アガパオー》)の他に、《エロース》(動詞形は《エラオー》)と《フィリア》(動詞形は《フィレオー》)があります。ギリシャ語世界で愛を語るのによく用いられていた語群は《エロース》と《フィリア》の語群であって、《アガペー》の語群はあまり用いられていなかったようです。それで、ヘブライ語聖書で愛を表現するのにいつも用いられている《アハバー》(動詞形は《アーヘーブ》)をギリシャ語に訳すときに、七十人訳聖書はもっぱら《アガペー》語群を用いたのです。それは、それまであまり用いられていなかったので、ギリシャ語世界とは異なる旧約聖書独自の愛の質を担わせるのに好都合だったからと考えられます。新約文書の著者たちが愛を指すのにもっぱら《アガペー》を用いたのは、七十人訳の伝統を受け継いだ当然の結果ですし、さらに、《エロース》とか《フィリア》のようにギリシャ語世界でよく用いられているために、ヘレニズム世界固有の内容をぎっしりと詰め込まれている語よりも、キリストによって新たに啓示された神の愛、降下する愛の質を盛るのに好都合であったからだと見られます。《フィレオー》(愛する)はなお少し用いられていますが(新約聖書全体で《アガパオー》の一四三回に対して計二五回)、《エロース》の語群はまったく用いられていません。
 ヨハネ福音書では、イエスがラザロを愛されたという場合(一一・三、三六)とか、ペトロが復活の主に「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と三回言う場合(二一・一五〜一七)などに、《フィレオー》が用いられています。しかし、イエスがペトロに「あなたはわたしを愛するか」と訊ねられる場合に《アガパオー》と《フィレオー》の両方が用いられていますし、他の箇所における用法の比較からも、両者を厳密に区別することは無理でしょう。

互いに愛し合いなさい

 神から遣わされて、光と命の領域から死と暗闇の世界に下ってこられた御子であるイエスは、神の命の質である愛を、その愛を全然知らない世にもたらされたのでした。それで、イエスがこの世の者たちに求められることは、まず第一に、イエスを神から遣わされた方と信じることによって、神の愛を受け入れることでした。ヨハネ福音書のイエスは初めから終わりまで、ただイエスを信じることだけを世に求めておられます。他の業はいっさい必要ないのです。

そこで彼らが、「神の業(複数形)を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業(単数形)である」。 (ヨハネ六・二八〜二九)

 イエスを信じる者は、信じることによって、死から命の領域に移っているのです(ヨハネ五・二四)。永遠の命をすでに得ているのです(ヨハネ三・三六)。イエスを信じることが救いなのです。そして、イエスを信じて従うようになった者たちには、イエスを通して受けた愛をもって互いに愛することだけが求められます。ヨハネは弟子たちに対するイエスの教えを、最後の夜になされた「遺訓」という形でまとめています(ヨハネ福音書一三〜一七章)が、その中でイエスは、後に残される弟子たちに、互いに愛し合うことだけを求めておられます。その他のことは何も求められていません。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。(ヨハネ一三・三四〜三五)

 最後の夜の「遺訓」には、この「新しい掟」だけでなく、もう一つ重要なことが語られています。それは、「別の助け主」、すなわち聖霊を送るという約束です。イエスが地上を去り父のみもとに帰られた後、この世に残される弟子たちに聖霊が遣わされて、いつまでも弟子たちと共にいてくださるという約束です(ヨハネ一四・一六)。この約束は、イエス御自身が弟子たちのところに戻ってくるという約束(ヨハネ一四・一八)と重なっていて、復活されたイエスが聖霊という形で弟子たちと共にいてくださり、霊なるイエスが弟子たちの内に生きてくださるようになるという約束を形成しています。
 最後の夜の遺訓の中では約束という形をとっていますが、復活後の時代においては、これは弟子たちが現に生きている現実の告白です。御霊という別の形でわたしたちと共に、また、わたしたちの内にいつまでも生きていてくださるイエスによって、わたしたちはイエスが愛されたように愛する力を得ることができるのです。この御霊の場が、イエスの求められた「互いに愛し合う」愛を可能にするのです。「新しい掟」はモーセ律法のように外からわたしたちの行為を規制する律法ではなく、御霊によって内から成就される法です。
 わたしたちの救いのためにイエスを世に遣わされたという神の愛の出来事は、わたしたちが互いに愛し合うようになるためであるという関係は、ヨハネの手紙においてさらに明確に述べられています。最初に引用したイエスの派遣と十字架の出来事が神の愛の顕現であることを述べる文章は、互いに愛し合うことを求める段落の中央に、互いに愛し合う根拠として組み込まれているのです。その箇所(ヨハネT四・七〜一二)を読んでみましょう。ヨハネは手紙の中でこう呼びかけます。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」。(七〜八節)

 互いに愛し合うようにという呼びかけは、神が愛であることを根拠にしています。そして、その神の愛がどういうものかが、独り子であるイエスの派遣と十字架の出来事によってわたしたちに示されたことが語られます。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。(九〜一〇節)

 こうしてイエスの出来事に示された神の愛を根拠にして、互いに愛し合うことが改めて求められます。

「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。(一一節)

 この言葉は、「父が慈愛深い方であるから、あなたがたも慈愛深い者であれ」と言われたイエスのお言葉を思い起こさせます。ヨハネはイエスの言葉を引用しませんが、神の愛を受けて、愛の場に生きる者として、自分の言葉で同じことを語るのです。そして、神の瞑想や神秘的体験ではなく、互いに愛し合うことだけが、神と人との関わり、すなわち真の宗教の完成であることを、次のような言葉で表明します。

「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」。(一二節)

「壁の中の愛」?

 ところで、ヨハネは、互いに愛し合うことを求めるときはいつも「愛する者たち」と言って、信徒の群に呼びかけています。またヨハネは、隣人に対する愛や、敵への愛に関するイエスの言葉に触れることもありません。それで、ヨハネが「互いに」愛し合うようにと言うとき、イエスを信じる者たちの群の中における愛、「兄弟」と呼ばれる人たちの間の愛だけを考えているのであって(ヨハネT四・二〇〜五・二)、外の人々に対する愛は視野に入っていないのではないか、ヨハネの愛は「壁の中の愛」ではないかという問題が提起されます。
 たしかにヨハネのいう愛は「兄弟愛」に集中しています。そうなった理由には次のような事情があると考えられます。一つは、手紙が書かれたときの教会の事情です。ヨハネの教団に分裂の危機があり(ヨハネT二・一九)、一部には兄弟が憎み合い(ヨハネT二・九)、互いに受け入れようとしない傾向があった(ヨハネV一〇節)ようです。このような教団の危機を克服するために、指導者である「長老」ヨハネは何よりもまず、神の愛を根拠にして、兄弟がお互いに愛し合うことを求めなければならなかったのです。
 具体的な状況に迫られて書かれた手紙だけでなく、福音書についても言える、もう一つのさらに基本的な事情は、ヨハネの思考が厳格な二元論的枠組みの中で動いているという事情です。ヨハネは世界を命と光の領域と死と闇の領域の二つに峻別し、二つの領域は行き来できない別の世界となっています。ただ、光の領域から闇の領域である「世」に下ってこられた御子イエスを信じることによって、人は死の領域から命の領域に移ることができるのです。愛《アガペー》は命の領域を構成する原理であって、死の領域にはありません。イエスを信じて死から命に移ることによって初めて互いに愛し合うことができるのです。(ヨハネから見た)あちら側には愛はありえないのです。それで、ヨハネの愛はこちら側だけの愛、すなわち神から生まれた者たちの間だけの愛となります。
 こちら側では隣人はすべて兄弟であり、敵はいなくなります。兄弟愛がすべてを含むことになります。こちら側では、あちら側での価値、すなわち人間的な物差しで測った価値はすべて無意味になります。ただ彼が神から生まれた者であるというだけで、あらゆる人間的な差別を超えて同じように愛することが求められるのです。こうして、ヨハネが求める兄弟愛は、一見「壁の中の愛」に見えますが、実はイエスが求められた敵を愛する愛と同質の、無条件絶対の愛であることが分かります。ヨハネは無条件の愛が兄弟愛として成立する場を提示しているのです。

神は愛である

 イエスにおける神の愛を根拠にして互いに愛し合うことを求めた段落(ヨハネT四・七〜一二)の直後に、つぎのような言葉が続きます。

「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります」。(一三節)

 これが、無条件絶対の愛が兄弟愛として成立する場です。神はイエスを信じる者に、復活されたイエスを通して御霊を与えてくださいました。この御霊こそ、わたしたちが死から命へ移ったことの実質であり、愛《アガペー》を可能にする力なのです。神の霊とは、神の命の質である愛の霊です。この文に続いて、ヨハネは遡って神の霊が与えられる信仰の場を確認します。

「わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります」。(一四〜一五節)

 証人たちを通して聴いたイエスの言葉を信じ、イエスが神から遣わされた御子であることを信じて公に言い表す者は、だれでも御霊を受けて、「神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります」という現実に入るのです。その現実の中で、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じました。神は愛です」(一六節a)と告白します(この節の動詞「知る」と「信じる」は共に完了形です)。イエスを神の子と信じて御霊を受け、御霊の場で神が愛であることを知ることが、ヨハネの霊的体験の頂点をなします。そして、神が愛であることを知って、神の愛にとどまり、神の愛をもって互いに愛し合う生き方を貫く者が「愛にとどまる人」であり、その人こそ神の内にとどまる人なのです。

「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」。(ヨハネT四・一六b)

 ヨハネはこの短い段落(ヨハネT四・一三〜一六)で、「神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださる」という表現を三回繰り返しています。人が「神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださる」ことは、人間にとって究極の境地です。あらゆる宗教はその境地に至るための努力と言ってよいでしょう。ヨハネは「愛にとどまる人」こそ、その境地に入る人だと言い切っています。ここに、新約聖書の福音が世に示す神に至る道があります。これは人類の宗教史上まったく革新的な宣言です。人間は至高の存在とよい関わりを保ち、その存在との交わりに入るために、実に様々な工夫と努力を重ねてきました。祭儀や供え物の繰り返し、祈りや瞑想の訓練、戒律を守る生活、神秘体験のための修練などです。しかし今や、そのようなことは一切触れられません。ただイエスを神の子と信じて聖霊を受け、御霊によって神の愛を知り、その「愛にとどまる」ことによって、「神の内にとどまり、神がその人の内にとどまってくださる」という境地に入ることができるのです。

最も大いなるものは愛

信仰と希望と愛

 今回「愛の諸相」の三講によって、(共観福音書の)イエス、パウロ、ヨハネという新約聖書の主要人物によって、愛がどのように扱われているのかを見てきました。そして、三者を貫く共通の構造があることを見出しました。その構造は、次のイエスの言葉に最も簡潔に表現されています。

「あなたがたの父が慈愛深いのだから、あなたがたも慈愛深い者でありなさい」。(ルカ福音書六章三六節私訳)

 イエスは神の霊によって父との交わりに生き、取税人や遊女を無条件で受け入れる恩恵の支配を告知し、父の無条件絶対の愛を世に示し、その絶対の愛によって敵をも愛するように教えられました。パウロはイエス・キリストの十字架の場で注がれる聖霊によって神の愛を体験し、聖霊の実としての愛に生きるように勧めました。そして、今回見ましたように、ヨハネはイエスの出来事そのものに神の愛を見て、その愛を受けて、互いに愛するように説きました。このように、三者は共通して、神の愛が人間の救済の源泉であることを示し、その事実を根拠にして、そこに示された質の愛に生きるように求めています。これが、新約聖書の使信の核心です。もし新約聖書全体を要約する一句を上げよと求められるならば、わたしは躊躇せずここに引用したイエスのお言葉を上げたいと思います。
 ところで、愛は信仰と希望と並んでキリスト信仰がもたらすもっとも尊い宝とされています。仏教では仏・法・僧を「三宝」と言いますが、キリスト信仰の三宝は「信仰と愛と希望」です。この三つが並んで名を上げられている箇所は、パウロ書簡の僅かの箇所に限られますが(テサロニケT一・三、五・八、コリントT一三・一三)、事柄自体は新約聖書全体を満たしていると言ってよいでしょう。それは、この三つはキリストにあって受けた御霊が人間存在の三つの次元あるいは軸に現れる姿に他ならないからです。人間は神との関わりの次元という垂直軸と、人との関わりの次元という水平軸と、時間の流れの中にあるという時間軸という三つの軸が交差する点に存在するものです。人が御霊によって新しい命に生き始めるとき、そのいのちの源泉である御霊は、神との関わりの垂直軸においては、父に対する子の信頼として現れ、隣人との関わりという水平軸においては敵をも愛する絶対愛として現れ、過去から未来へ流れる時間軸においては、将来の復活の希望として現れるのです。それで、御霊による新しい生を語る新約聖書は、その全体で信仰と愛と希望を語ることになるのです。
 愛と希望と並べて御霊の現れとして上げられる「信仰」は、「信仰によって救われる」というときの「信仰」より狭い意味の信仰です。広い意味では、信仰とはイエスをキリストと信じて言い表すことであり、その信仰によって人は恵みの現実に入り、救いを得るのです。その結果、御霊によって子とされた現実に生き、父への信頼に生きるようになります(ローマ八・一五)。この父への信頼の生を、狭い意味での「信仰」と呼んでいるのです(マタイ六・三〇〜三一)。あるいはさらに狭い意味で、全能の神への信頼から生まれる、奇跡を働く霊的能力を「信仰」と呼ぶこともあります(コリントT一二・九、一三・二)。

最も大いなるもの

 御霊の現れを語る箇所(コリントT一二〜一四章)において、預言とか異言、知識とか癒やしの力など、御霊の様々な現れを論じた後、パウロはそういう御霊の賜物がいかに豊かにあっても、愛がなければ何の益もないことを強調しています(コリントT一三・一〜三)。そして、御霊による愛がどのように働き現れるのかを簡潔に述べた後(四〜七節)、愛こそが完全で永遠なるものであることを謳います(八〜一三節)。愛に比べると、預言や異言や知識は部分的なもの、一時的なものにすぎません。部分的というのは、預言などの賜物は、キリストの体であるエクレシアの形成のために、すべての者にではなく一部の者だけに与えられる賜物であり、その内容も真理の一部分にすぎないという意味です。また、一時的というのは、エクレシア形成のために、必要な時期に与えられるものであって、いつかは不要となり「廃れる」ものであるという意味です。それに対して、永続的なものを上げて、次のように語ります。

「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」。(一三節)

 この信仰と希望と愛の三つは、同じ聖霊の現れですが、預言とか異言、知識とか霊能などの《カリスマ》(賜物)のように、部分的・一時的ではありません。それはすべての人に必要であり、すべての人に与えられるものであり、神と人との関わりの全体を内容とするという意味で全体的です。そして、いつかは廃れる一時的なものではなく、いつまでも存続する永続的なものです。
 信仰と希望と愛の永続性を謳ったパウロはさらに、「その中でも最も大いなるものは、愛である」と続けています。おそらくパウロは、人間が地上に生きる限り永続する尊い御霊の実「信仰と希望と愛」を賛美して、最後に、キリストにあって万物が神の栄光の中に完成する終末の相に思いが至ったのでしょう。そこではもはや、苦難や欠乏の中で父を信頼するという信仰は必要ではなく、将来栄光に与ることを望む希望は成就されています。そこでは神のいのちの質である愛だけが満ちあふれています。神のいのちであり本質である愛が、キリストにあって、神と人、人と人との間に満ちて、愛による万物の統合が完成されるのです。その栄光の姿を思い、パウロは「最も大いなるものは愛である」と叫んだのでしょう。

一体としての信仰と愛と希望

 終末的栄光の世界から再び、わたしたちが現にいま生活している地上の世界に戻ってきましょう。そこで最も尊い宝である信仰と希望と愛の相互の関係について聖書が言っていることを見ておきたいと思います。
 まず、信仰と愛の関係についてパウロはこう言っています。

「キリスト・イエスにあっては、割礼の有無は問題ではなく、愛において働く信仰こそ大切です」。(ガラテヤ五・六)

 信仰も、神の愛を受けて、その愛が人と人との間の愛として働くという現実において初めて、人生における具体的な力になるのです。愛と切り離された信仰は頭の中の信仰、一つの観念、思いこみにすぎないのです。この言葉は、新約聖書の言う信仰とはけっして一つの思想ではなく、人間の存在を根底から変える霊的な現実であることを指し示しています。
 また、希望と愛の関係についてパウロはこう言っています。

「わたしたちは知っているのです。……希望はわたしたちを欺くことがないことを。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。(ローマ五・三〜五私訳)

 わたしたちはキリストにあって神の栄光にあずかる希望を喜びとして生きています。そして、苦難もそれが希望を生むことを知り、その希望が空しくなることはないと知っているので、苦難をも喜び誇りとしています(ローマ五・一〜五)。希望が空しくなることはないとわたしたちが知っているのは、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。聖霊によって注がれた神の愛が、希望の確かさの根拠なのです。
 信仰と希望の関係について言えば、新約聖書においては信仰と希望はほとんど同意語として扱われる場合があります。典型的な例が「ヘブライ人への手紙」一一章にあります。そこでは信仰が次のように説明されています。

「信仰とは、望んでいる事柄を事実とし、見えないものを確実なものとして生きることである」。(ヘブライ一一・一私訳)

 かなり意訳しましたが、著者が考えている信仰とはこのような内容であることは、以下に著者があげる「信仰」に生きた旧約の聖徒たちの実例からも支持されます。ここでの「信仰」は、わたしたちが希望と呼んでいる生き方に他なりません。これは、聖書が救済史を内容とし、約束と成就という構造をとっているので、聖書的な信仰は希望と重ならざるをえないからです。
 このように、信仰と愛と希望の相互の関係について新約聖書が触れることは断片的にすぎませんが、もともとこの三つは一つの御霊の現れに他ならないのですから、一つを他から切り離すことはできません。この三つは一体としてわたしたちの生の現実を形成するのです。
 なお、愛との関連で触れておかなければならない問題がもう一つあります。それは、新約聖書における知識と愛の対照です。パウロは知識を御霊の賜物の一つとしていますし(コリントT一二・九)、ヨハネは愛と共に「知る」ことを重視しています。ところが、新約聖書には愛を知識と対立するものとして扱う面もあります。たとえば、パウロは、偶像に供えた肉を食べてもよいかどうかという問題が起こったとき、知識を誇る人たちにこう言っています。

「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は建てるのです」。(コリントT 八・一)

 こう言って、この問題では知識によってではなく愛によって行動するように求めています(八・一〜一三)。知識も愛も御霊の賜物ですが、愛から切り離された知識は人を高ぶらせるだけで危険です。知識の場合も、「愛において働く知識こそ大切です」と言わなければならないのでしょう。
 そのさいパウロが語った「知識《グノーシス》は人を高ぶらせるが、愛《アガペー》は建てる」という一句は、その後の幾世紀にもおよぶキリスト教の歴史を暗示しているようです。地中海世界に広く進出したキリスト教は四世紀にわたって、いわゆる「グノーシス派」と「正統派」との間の激しい対立に直面します。その時、霊的な知識《グノーシス》を救いとする「グノーシス派」に対して、「正統派」は教理面だけでなく、愛の実践という面から批判し、愛を原理として教会を形成していきます。グノーシス主義の問題は複雑で、このように単純に割り切れませんが、《グノーシス》の問題がすでにパウロの時代から出ていることが注目されます。

本性的な愛とアガペー

 これまで新約聖書において示された愛の質を見てきました。それはもともとこの世界になかった愛であり、十字架において頂点に達するイエス・キリストの出来事によって、この世に啓示された新しい種類の愛でした。聖書はその愛を《アガペー》と呼びました。
 しかし、この《アガペー》が啓示される前から、わたしたち人間は愛を知り、愛に生きてきました。親は子を愛し、兄弟は互いに愛し、男は女を愛し、女は男を愛してきました。広い意味では、美を愛して芸術を生み、知恵を愛して学に励み、祖国を愛して戦い、永遠を慕い愛して宗教を生み出してきました。わたしたちは、このような愛を様々な名で呼んできましたが、ギリシャ人は《フィリア》と《エロース》と呼んでいました。
 《フィリア》というのは、人が本来自分に属する者に親しみ愛する愛のことです。たとえば、家族や友人を愛する愛によく用いられます。《エロース》は、人が自分の充足を求め、より高い価値を慕う愛を指します。それは、官能の満足を求める性愛から、究極の存在との合一を慕い求める神秘的な愛に至るまで、実に広い範囲の愛を指しています。そして、《フィリア》と《エロース》の二語は、あまり厳密に区別されず、広く人間の本性的な愛を指すのに用いられていたようです。
 呼び方は違い、現れ方に特色があるとしても、ギリシャ人だけでなくすべての人間は、本性的に愛の価値を知り、愛に生き、その民族の言葉を愛のヴォキャブラリーで満たしてきました。では、その中に新しい種類の愛である《アガペー》が到来したとき、それは人間が生まれながらにもっている本性的な愛とどのように関わるのでしょうか。
 《アガペー》には、人間の本性的な愛の放棄・否定を求める面があります。イエスを信じ従おうとする弟子たちに、イエスはこう言われました。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」。(マタイ一〇・三七〜三八)

 《アガペー》に徹して生き抜かれたイエスは、イエスと共に《アガペー》に生きようとする者に、父や母、息子や娘を愛する愛というもっとも本性的な愛さえも、それがイエスに従うことと衝突する場合には、放棄するように求められます。本性的な愛そのものが否定されているのではなく、「わたしよりも愛する」という表現が示唆しているように、イエスに従うことと本性的な愛に従うことが衝突し、二者択一を迫られている場合に、イエスに従うことが求められているのです。イエスが神の絶対愛の顕現である以上、その愛が人間の本性的な相対愛によって制限されることはありえないからです。そして、この衝突のもっとも根元的な形が、神と自己の衝突です。イエスは、「自分の十字架を担って」という言葉で、人間のあらゆる愛の奥底に潜んでいる本性的な自己愛を否定して従うことを求められるのです。
 では、《アガペー》は人間の本性的な愛を否定するだけでしょうか。けっしてそうではありません。イエスが本性的な愛を否定されるのは、それを救い、完成するためであるのです。このお言葉の直後に次の言葉が続きます。

「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。(マタイ一〇・三九)

 本性的な愛は、人間の生まれながらの命の質から出るものです。その命、その愛を維持しようとして、それに固執し神の愛に背を向ける者は、結局その命を失い、その愛を駄目にしてしまいます。地上の命が結局死によって滅びることについては、改めて言うまでもないことです。そして、人間の愛がいかに破れやすく、偽善や嫉妬に満ち、矛盾し、人間を苦しめ、破綻しているかは、自分と周囲を見渡すだけですぐに分かります。友人、恋人、親子、夫婦と人間的な絆が強くなるほど、人間は愛の破綻に苦しんでいます。
 その破れを包み込むのが《アガペー》です。《アガペー》には、人間のあらゆる愛を包み込む面があります。聖霊による《アガペー》の永遠性を賛美する箇所で、《アガペー》の働きを要約したパウロは、その最後でこう謳います。

「愛はすべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを担う」。(コリントT一三・七私訳)

 最初の動詞《ステゲイ》の意味については議論があります。新共同訳も口語訳も共に「忍ぶ」と訳していますが、それでは最後の「耐える」と同じ意味になってしまい、この簡潔な句の力を大いに損ないます。この動詞の原意は「覆う」という意味であって、そこから派生した語群には「覆い」とか「屋根」という語も多くあります。ここでは「覆う」(英語でcover)と理解して「包み込む」としたかったのですが、文のリズムの上から「包む」としました。キッテルの新約聖書神学辞典もこの訳を採っています。最後の動詞《ヒュポメネイ》は、普通「耐える」と訳されますが、これも原意の「下にとどまる」から「担う」と訳しました。英語ではbear に相当します。
 この句で用いられている「すべて」は、全部とか全体という意味ではありません。関わる個々の相手とか状況について、いかなる相手をも、いかなる状況においても、包み、信じ、望み、担うという意味です。相手の価値や立場がどのようなものであっても、敵であっても、また、状況がどのように不利で絶望的であっても、相手を包み込み、信じ抜き、共に喜ぶ将来を望み、苦難・苦悩を自分の側で担うのです。それは人間から出るものではなく、神の霊だけが可能にする愛です。そうすることによって、破れ果てた人間の愛を癒やし、壊れた関わりを建て上げてゆくのです。
 わたしは、パウロが「すべてを」と言っているところを、次のような比喩で表現して愛唱しています。

「愛は、海のように包み、太陽のように信じ、星空のように望み、大地のように担う」。

 海はどのようなものでも大きな懐に包み込んでいます。そのような形のものは包み込めないと拒否しません。太陽は、よい実が生じることを信じて万物に命の光を注いでいます。星は闇夜に輝いて、行くべき方向を指し示しています。大地は万物をその上に担い、どのようなものを載せても重くて嫌だと苦情は言いません。そのように、破れ果てた人間世界で、《アガペー》は包み、信じ、望み、担うのです。
 現実のわたし自身は、本性的な愛の破れの中で苦しみ悶えています。しかし一方、キリストにあって神の無条件絶対の愛を受け、聖霊によってその愛を心に注がれ、存在の根源が愛であることを知り、その愛によって支えられていることを知っています。その愛からわたしを引き離すものはないことを、そして、その愛によって勝ちえて余りあることをパウロと共に賛美しています(ローマ八・三一〜三九)。この愛が現実の破れ果てた生を包み、癒やしてくださることを信じ、愛が完成されることを望み見て、地上を歩んでいます。
 わたしは若い頃、スイスの哲人ヒルティの著作に触れ、彼が自分の墓碑銘に「愛はすべてに打ち勝つ」《アモール・オムニア・ヴィンキット》と刻んだことを読んで、感銘を受けました。わたしの生涯もこの一句に尽きるものとされたいと、切に祈っています。