序章 キリスト信仰の原点
わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、
それも十字架につけられたキリスト以外、
何も知るまいと心に決めていた。
(コリントの信徒への手紙T 二章二節)
十字架につけられたキリスト
原点に立ち帰る
人生は複雑です。様々な種類の問題が起こって、信仰者としてどう対応してよいか分からなくなるときがあります。それだけでなく、信仰そのものについても、一見矛盾するような面があることに直面して戸惑うことがあります。わたしたちの信仰の拠り所である聖書にしても、最近は学問的な分析が進んで、実に複雑な様相を見せております。わたしたちは信仰と人生の複雑な問題に直面して動揺したり、個々の問題の対応に追われて疲れ果てたりして、信仰に生きる力と歓びを見失ってしまうことがあります。そのような時には原点に立ち帰ることが重要です。わたしたちの信仰生活がそこから出発した原点に立ち戻って、そこに改めてすべてを委ね、そこからすべてを見直すことが解決の道、力を取り戻す道です。わたしは最近このことを自戒として痛感していますので、今回はわたしたちの信仰の原点についてお話しようと思います。「キリスト」の十字架
ところで、パウロが「十字架につけられたキリスト」と言うとき、この「キリスト」は個人名ではありません。福音は「キリスト」という名の歴史上の一人物が十字架につけられて処刑されたということを宣べ伝えているのではないのです。その人物がどれほど立派な人物で、その十字架刑がいかに理不尽なものであっても、その出来事が人を救うのでありません。人々のために尽くした立派な人物で理不尽に処刑された人は多くいます。イエスもそのような人物の中の一人です。ただ、イエスの場合は神から「油を注がれて」イスラエルに遣わされたメシア(ギリシャ語ではキリスト)であり、復活によって万民の主(キュリオス)として神の右に上げられた方の十字架であるという点が、他の場合と根本的に違うわけです。「キリスト」とは、復活によって万民の救済者、新しい人類の頭となられた方の称号です。その復活者キリストが十字架につけられた方として宣べ伝えられているのです。十字架の言葉
この「十字架につけられたキリスト」は、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」です(コリントT一・二三)。救済者メシア到来の約束を受けていたユダヤ人にとって、メシアとは神の民の敵をその栄光の力で滅ぼす人物であって、敵によって処刑されるような者はメシアではありえません。「十字架につけられたキリスト(メシア)」というのは、ユダヤ人には全く考えられないことです。また、神からの救済者の約束を受けていない異邦人は、人間の知識と経験の範囲内で救済とか幸福を追求します。そのような異邦人の代表として、知恵を追い求めるギリシャ人があげられています。ところが、人間が理解できる知恵の中に、復活とか十字架は占める場所がありません。それは知恵とは反対のまったく愚かな話です。宗教に地上の利益だけを追い求める日本人には、このようなことがなぜ問題になるのかさえ理解できません。しかし、この「十字架につけられたキリスト」こそ人を救う神の力であり、人を命に導く神の知恵なのです。わたしたちの罪のために
複数形の罪と単数形の罪
では、なぜキリストがわたしのために死ななければならなかったのでしょうか。この問いに対して福音は明確に答えています。「キリストは、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだ」のです(コリントT一五・三)。この言葉は共同体が福音を告白する定式の中の文ですから「わたしたち」となっていますが、「わたしとあなた」の一対一の関係で聴く「十字架の言葉」においては、「わたし」の罪のために、となります。キリストは「わたしの罪のために」死なれたのです。「わたしの罪」は、神の子キリストがそのために死ななければ解決できない深刻な問題なのです。では、「罪」とは何でしょうか。そのことをまず、罪について語っている新約聖書の言葉遣いを手がかりにして調べてみましょう。人を支配する力としての罪
ところが、罪が単数形で用いられている文では、罪が主語で人は目的語になっています。罪が人を支配したり、人に報酬を与えたりするのです。このような用法から、パウロはもはや罪をたんに規範に対するもろもろの違反行為とは見ていなかったことが分かります。パウロにとって罪とは人間を支配する一つの力なのです。人間を神から引き離し、死に至らせる支配力なのです。また、そのような力に支配されている人間の全体的なあり方なのです。パウロはこのような罪の本質を身をもって体験し、把握した人物です。この罪の理解が、ここに見たような表現になって現れてくるのです。この罪の本質をパウロは、霊的理解力の弱いわたしたちのために、奴隷のたとえを用いて説明しています(ローマ六・一六〜二三)。人間は生まれながらのままでは「罪の奴隷」なのです。罪の力に支配されていて、神に背くあり方しかできないので、死にいたらざるをえない存在なのです。罪という主人が、生涯仕えた奴隷に支払う報酬は死である、というのです。罪の支配力からの解放
キリストが死なれたのは、実に人をこのような罪の支配力から解放するためなのです。わたしたちは、このキリストに合わせられることによって罪の支配力から解放されて、もはや死に支配されることのない新しい命に生きることができるようになるのです。この間の消息はローマ書六章三〜一一節で、バプテスマを象徴として用いて詳しく語られています。バプテスマとはキリストの死にあずかることです(三節)。「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(四節)。罪の支配力は私たちの五体の中に深く組み込まれていますから、その力から解放されるためには、わたしたちが死ぬほかはないのです。「死んだ者は罪から解放される」のです(この段落の「罪」はすべて単数形)。聖書に書いてあるとおり
血によるあがない
ところで、このようなキリストの死に合わせられて救われるという理解は、パウロの独創的な個人的思想ではありません。それは「聖書に書いてあるとおり」に起こったことなのです。たしかに、パウロは聖霊によって、キリストの十字架・復活の事態を身をもって体験し、それを誰よりも的確な言葉で表現しました。わたしたちは自分の聖霊によるキリスト体験とその意義を、パウロの言葉に導かれて正しく自覚することができるのです。その意味でパウロの手紙はわたしたちの信仰の拠り所です。しかし、キリストの死による人間の救済という事柄自体は、すでに聖書(旧約聖書)に書かれているのです。キリストにあるあがない
福音はイエス・キリストの十字架と復活の出来事を聖書の成就として宣べ伝えます。旧約聖書が予言し約束していたこと、歴史的な出来事や祭儀制度を型として指し示していたことが、いまやキリストの十字架の死と復活によって最終的に実現したのだと宣言します。キリストの十字架は、聖書が語っていた「あがない」の成就だというのです。聖書が語っていた二つの型の「あがない」が、この一つの出来事によって同時に成就したというのです。ヘブル書は、旧約の祭儀制度において動物の血を用いて行われていた罪のあがないは影であって、キリストが十字架の上で流された血によってあがないの本体が成就したのであることを詳しく論じています。しかし、パウロはローマ書において、キリストの十字架を祭儀制度の罪のあがないとして語っているところ(三・二五)もありますが、先に見たように、おもに罪の支配力からの解放として語っています。祭儀制度上のあがないにも予型としての重要な意味はありますが、第二イザヤが予言しパウロが告白したように、わたしたちの霊的現実の描写としては支配力からの解放という面がより根源的です。キリストの出来事は、昔イスラエルがエジプトの支配から解放されたことの終末的な成就なのです。キリストと共に神に生きる
「エン・クリストー」の現実
ところが、もしわたしたちがこのキリストの外にいて、キリストがわたしの罪を身代りとして引き受けてくださったのだから、わたしにはもう罪の責任もないし、その結果からも免れていると考えるならば、それは大きな思い違いです。先に見たように、わたしたちがキリストに合わせられることによって初めて、キリストの死がわたしの死となり、わたしは罪の支配から解放されるのです。キリストに合わせられて自分が死ぬのでなければ、罪の支配から解放されて復活の生命に生きることはできません。信仰とは、キリストがわたしの罪を身代りに引き受けてくださったと外から客観的に認めることではなく、「十字架の言葉」をひれ伏して聴き、わたしのために死なれたキリストに自分の全存在を投げ込んで、キリストに合わせられる者になることです(バプテスマはこのことの告白行為です)。そのようなあり方には必ず神の御霊が注がれて、霊なる復活者キリストとの交わりにあることが実感されるようになります。このように、キリストに合わせられているあり方を、パウロは「エン・クリストー」と言っているのです。これは、直訳すれば「キリストにあって」となりますが、新共同訳では「キリストに結ばれて」となっています。この「エン・クリストー」の場において初めて、「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」と受け取ることができ(コリントU五・一四)、自分も死んで、「命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からわたしを解放した」と告白できるのです(ローマ八・二)。神に生きる
キリストに合わせられ、キリストと共に死んだ者は、キリストと共に生きます。キリストに合わせられて自分が死んだ時、死者の中から復活されたキリストの生命に生きることが始まります。もはや死が支配することのない生命に生きることになります。これが「永遠の生命」です。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマ六・二三)。「永遠の」というのは、この生命がいつまでも続くと言う時間の長さではなく、死に支配されず、復活に至らざるをえない生命の質のことです。たしかに、わたしは死ぬべき体の中に生きております。しかし、この体の中で生きている「わたし」は、キリストと共に生きているのです。死者の中から復活されたキリストと一緒に生きているのです。この体は朽ち果てるように定められています。しかし、「わたし」はキリストが死者の中から復活されたように、必ず朽ちることのない「霊の体」を着て復活することを知っています(ローマ六・五、コリントT一五・五三)。この「必ず」は内にいます御霊が確信させてくださるのです。キリストに合わせられて自分が死んだところに働く神の御霊が、将来の復活を現在の生きる力にしてくださるのです。これがキリストに結ばれて生きる者の希望です。ローマ書八章は、このように「キリストにあって神に生きる」者の姿です。その全体が、聖霊によって導き入れられる現実です。ローマ書八章の豊かな生命の世界は、すべて聖霊の働きの展開であり、それは「十字架につけられたキリスト」の場に成立する世界なのです。