市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第81講

81 死ぬときはひとりか

死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださるからです。

(詩編 二三編四節)


 「人は死ぬときはひとり」とよく言われます。本当にそうでしょうか。
 死を身体に起こる出来事と観るときは、たしかに死はひとりひとりに起こる自分だけの出来事です。他人の死を体験したり、自分の死を他人に体験してもらうことはできません。しかし、死を体験する身体が「わたし」ではありません。「わたし」とは、身体に起こる死という出来事を不安がったり恐れたりする主体です。
 その「わたし」は長い人生で、家族や友人、今生きている人、すでに亡くなっている人、すべて縁あって関わりをもったすべての人たちとの交わりの中で形成された人格です。死という局面に臨んでも、その「わたし」が変わるわけではありません。今の「わたし」の中に、「わたし」を形成したすべての人たちがいるのです。「わたし」はひとりではなく、それらの人たちと一緒に身体の機能の終焉に直面しているのです。「人は生きたように死ぬ」のです。死は生の一部です。その一局面にすぎません。
 それにもかかわらず、人が死を恐れたり不安に感じるのは、死が未知の体験であり、その彼方の世界とそこでの「わたし」を、今までの経験から知ることができないからです。人はこの死の不安と恐れからの救済を求めて、死にさいしても、死の後も「わたし」と一緒にいてくださる方を、地上の人生において確かにしておきたいと願います。この願いが宗教とか信仰の一つの要素です。
 阿弥陀仏を念じて生きた仏教徒は、阿弥陀仏と一緒に死を迎えます。ヤハウェを信じて契約に忠実に歩んだイスラエルの魂は、「死の陰の谷を歩むとき」、ヤハウェが一緒にいてくださることを知り、恐れを克服します。わたしたちキリストに結ばれて生きてきた者は、死に面してキリストが一緒にいてくださることを知っています。キリストに属する者は死にさいして、「今日、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいる」、「わたしはあなたと一緒にいる」という言葉を聴きます。「死ぬときはひとり」ではないのです。

                              (一九九八年五号)