78 神の信実
神は信実な方です。この方(信実な神)によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
(コリントの信徒への手紙T 一章九節 一部私訳)
この一節にキリスト信仰の内容と根拠が見事に表現されています。キリスト信仰の中身は「神の子、主イエス・キリストとの交わり」であり、それが成り立つ根拠は「神の信実」です。
わたしたちがそれによって救われ、永遠の命に生きることができるようになるキリスト信仰とは、イエス・キリストとの交わりのことです。御霊によって霊なるキリストとの交わりの現実に生きることです。神の子であるキリストとの交わりに生きることによって、わたしたちも神の子としての現実に生きるのです。そして、そのような意味の信仰は、人間の側の努力で達成できるものではありません。
信仰とは、外にいますキリストを高く仰いで、その方に従順に忠実に生きようとする人間の誠意とか確信の問題ではありません。信仰がそのようなものであれば、わたしの信仰はとっくに難破してしまっているでしょう。人間の側の不誠実、動揺、懐疑などにもかかわらず、圧倒的な力でわたしたちを捉える神の恩恵と、その背後にある神の信実が、「キリストとの交わり」という意味のキリスト信仰を可能にするのです。
神の恩恵と愛については、新約聖書は多く語っていますが、神の信実についてはほとんど語られていません。それで、信(ピスティス)といえば、人間の側の信仰とか誠実だけが問題とされます。しかし、キリスト信仰を成り立たせる根拠は、人間の信実ではなく神の信実なのです。神が限りなく信実にいまし、招きの言葉、約束の言葉、恩恵の選び、契約の言葉を違えることなく、かならず実現してくださるという事実に、わたしたちがキリストとの交わりという現実に生き、将来の完成を望むことができる根拠があるのです。
「わたしたちは信実でなくても、彼は常に信実であられる」(テモテU二・一三)。「主は岩、信実の神」(申命記三二・四)。わたしたちは自分のいのちと将来を、自分の信仰にではなく神の信実にかけ、宇宙万物の存在よりも確かな岩、神の信実に置くのです。
(一九九八年二号)