市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第64講

64 自然と人間

被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるのです。

(ローマの信徒への手紙 八章二一節)


 最近、南方熊楠に関する書物を読み、明治期の日本が生んだ型破りの巨人の学問と思想に驚嘆しました。中でも神社合祀反対運動に示された生態論(エコロジー)の視点の先見性に感服しました。一片の法令によって神社の合祀を強制し、廃止された神社の森を伐採することは、自然の生態系を破壊し、ひいては人間の生活を破壊するに至るとして、彼は猛反対したのです。
 南方の思想は、民俗学から心理学にいたる人間の具体的な生活についての正確な知識と、粘菌から天文にいたる自然科学的博識が、真言密教の宇宙観の土台の上に統合されて成立しているようです。その生態論的視点とか西欧の科学や哲学と東洋思想の融合の提唱は、現代に対する預言者的な使信となっています。
 もともと日本人は自然との一体感の中で生きてきました。日本文化ほど人間と自然の共生を深く感じとっている文化は他にないと思われます。南方の思想も、この点できわめて日本的と言えるのでしょう。
 それに対して、西欧の近代思想は自然を人間に対立する客体として扱ってきました。そのような自然観が科学技術を発達させて、人間の生活を豊かにしたことも事実です。しかし、その豊かさが生態系を破壊するような営みの中でしか維持できない段階まできた現代では、立ち止まって、被造物世界が共に苦しんでいる呻きを聴き取らなければなりません。自然は今の時代に人間と苦悩を共にする仲間なのです。
 翻って現代のキリスト教思想を見ますと、近代西欧の科学的思考に深く影響されて、人間を自然と対立するものとし、被造世界と対面する特別の立場にあるものとしてきました。もしわれわれが、「この世から救われよ」という言葉を、聖書が人間に「被造物世界から救われよ」と呼びかけているのだと理解するのであれば、それは誤解です。聖書は人間に「被造物世界と共に」今の悪しき時代から救われる希望を約束しているのです。自然はわれわれ人間と一緒になって救われるべき仲間なのです。現代の生態論的危機は、わたしたちに改めて、人間と自然の関係、救済の宇宙論的意義を考えさせます。

                              (一九九五年五号)